わらべうた




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土方が近藤の妾宅から屯所に戻ると、一通りの片付けが終わったようで静かだった。しかしここを出て油小路へ向かった時の緊張感はいまだに漂っているようにも思えて、土方が戸板の冷たさを感じながら立ち尽くしていると、待ち構えていたように山崎がやってきた。
「お戻りですか。ご指示通り朝番の巡察は取りやめさせて、ほとんどの隊士は自室で休息を取っています」
「そうか、夜番からはいつも通りにさせる」
「はい」
山崎の報告を聞きながら、土方は怪我人が処置を受けている広間へ向かった。十数名の隊士が横になり、医学方の山野や少年小姓たちが世話を焼いている。予想よりも重傷者は少なく済んでいるが、まだ完全に決着していないのだから油断はできない。
土方はその様子を眺めながら腕を組んだ。
「何か知らせは?」
「役人から問い合わせが。油小路の骸の件で…無関係やと突っぱねましたが、えらい怪訝な様子で去っていきました」
「…仕方ない、このままやり過ごせ」
「はい」
伊東は朝廷や土佐、薩摩と関わりがあったため、安易に殺害を認めては面倒になるだろうということで無関係を装うことを決めていた。旧幕府や会津は御陵衛士が新撰組の派生組織であると認識しているためそのうち何らかの伝達があるだろうが、それまでは余計なことはせず口を閉ざすことを隊士たちにも伝えていた。
するとその場にいた英が土方たちに気が付いて声をかけてきた。挨拶もなく状況を説明する。
「怪我人は十二名、重傷は一人。縫合したけれど出血が多いから詳しくは松本法眼か南部先生に任せた方が良い。ほかの軽傷者の膏薬は山野に渡してるから無理をさせず安静にさせて」
「ああ…悪かったな」
「成り行きだから仕方ない」
英は淡々と報告していたけれど機嫌が悪そうだった。挙句、その端正な顔立ちを歪ませて
「でも、歳さんが悪いと思う」
と真正面から文句を言われた。
けれど、昨日からずっと付き合わせて怪我人の処置まで頼ってしまったのだから怒るのは当然だろう。
「…事情を話さなかったのは悪かった。部外者のお前を巻き込んで申し訳ないと思っている」
「部外者だから話さなかったってこと?じゃあ沖田さんも部外者ってこと?」
英の言葉に、土方は少し驚いた。隣にいた山崎は「ハナさん」と嗜めて止めようとしたが、英は構わずに続けた。
「俺は本当に部外者だから詳しい事なんて聞きたくもない。でも、沖田さんは違うでしょう。結局知ることになるのなら、かつての仲間が死ぬかもしれないんだってちゃんと話した方が良かったんじゃないの?蚊帳の外にしないでさ」
「…なにかあったのか?」
「本人に聞いてよ。でも…ひと悶着あって喀血した」
「何…?」
土方は眉間に皺を寄せた。英は「軽いものだから」と補足したが総司は昨夜、ただただ穏やかに眠り続けて朝を迎えたというわけではなく、何らかのきっかけで油小路の件を知ってしまったのだ。
土方は動揺を隠せず、英は大きなため息をついた。まだ何か言いたいことがあるようだったが飲み込んで背中を押す。
「早く行かないと。ずっと…歳さんの帰りを待っているんだから」
「…わかった」
土方は山崎に「頼む」と伝え、二人に背中を向けて総司の部屋に向かった。すべてのことを知ってしまった総司へ何を言えば良いのかはわからなかったが、一刻も早く会うべきだという一心だった。
長い廊下を早足で歩き隊士たちの個室を通り抜けると、総司の部屋の前の縁側で斉藤が正座していた。彼も待ち構えていたのか土方の顔を見るや、「申し訳ありません」と頭を下げて任務の失敗を伝えたが、土方には責めるつもりなど毛頭ない。
「総司は?」
「副長の部屋に」
「わかった…後で話を聞く」
土方は短く話を切り上げて、そのままその先の自室へ向かう。急ぎ足で部屋の前まで来たがふいに足が止まり、躊躇いを感じた。けれど部屋の中で待つ総司は土方が戻ってきたことに気が付いているはずなのだから、ここで考え込んでも仕方ない。
意を決して障子を開けると、総司は
「おかえりなさい」
と穏やかに言った。斉藤のように正座をしていたが、その膝の上には黒猫がゴロゴロと甘えるように転がっていて総司は指先でじゃれあいに付き合っている。英に半ば脅されて駆けつけた土方にとっては意外な光景で、緊張感が削がれたような気がした。
「なんだ、その猫は…」
と思わず訊ねた。
「昨夜からすっかり居ついてしまったんです。何度か外に出しても戻ってきてしまって…まるで長年暮らしている飼い猫みたいでしょう?」
「…猫の毛は身体に障る」
「そうなのかな、あとで英さんに聞いてみますよ。…今はお忙しそうだから」
「そうか…」
総司の些細な言葉ですら婉曲な嫌味のような気がしたが、黒猫が総司の手から離れて土方の足元に纏わりついてしまい、話が途切れる。しかし黒猫は土方の足元を一回りするとあっさりと興味を無くして総司の元へ戻っていった。品定めをされたような気分だった。
土方は猫を挟んで総司の前に座った。総司は猫を相手に一見穏やかな表情を浮かべているが、それが上辺だけのものだということは当然わかっていたが、謝れば良いのか、言い訳をすれば良いのか、土方には判断が付かない。
しばらく互いに黙っていると、総司の方が先に口を開いた。
「昨日はずっと夢を見ていて…とても長い夢で、懐かしい人に会ったんです。芹沢先生や山南さん、君菊さん…でもどんな話をしたのか忘れちゃいました、まあ夢なんてそんなものですよね。辻褄が合わなくって…でも、なんだかとても都合の良い会話をした気がします。…それで目が覚めた時に胸騒ぎがして、部屋を出たらこの猫に会ったんです」
「…」
「この猫はね、以前壬生にいた時にも二回、ふらりと現れたんです。一度目は芹沢さんを斬る日、もう一度は山南さんを大津から連れ戻して介錯をする前です。どちらも私にとっては…あまり良い出来事とは言えません。だから昨夜、この猫を見た時に『また何かあるんだ』と気が付いてしまったんです。…だから皆を問い詰めて事情を聞き出しました。私を見張るように言いつけていたのでしょうけど、斉藤さんは悪くありませんから」
総司は指先で猫の頭を撫でる。猫は心地よさそうに瞳を閉じて総司に寄り添っているように見えた。
芹沢と山南の節目に現れたのなら不吉な猫なのではないか、と土方は怪訝な顔で黒猫に視線をやるが、猫の方は意に介さずおとなしくしている。
そうしていると
「藤堂君はどうなりましたか?」
と、総司が脈絡なくあまりにも淡々と訊ねたので、土方は一瞬答えに窮したが、
「…死んだ」
そう答えるしかなかった。誰が言わずとも総司は先に帰営した原田や永倉の様子から察していたのだろう、あまり表情は変えなかった。
「そうですか…」
「藤堂の顔を知らない新入隊士が斬った。永倉や原田は助けようとしたが…俺の目の前で死んだ」
「…じゃあ、皆が見届けたんですね」
「ああ…」
それが藤堂の救いになったのかどうかは、本人に聞いてみなければわからない。だが死に顔は穏やかなものだったことは、残されたものへの救いにはなるだろうか。けれど、総司はその顔すら見られなかったのだ。
土方は居住まいを正した。
「…お前に話さなかったことは悪かったと思っている。話を伏せたのは、お前が知れば現場に行きたがると思ったからだ。近藤先生と相談の上でお前の身体に障るのを避けるべきだと考えが一致した」
「ええ…そういうことだろうとわかっています。近藤先生の決めたことに異議を唱えるつもりはありませんし、実際私が立ち会ったところで何ができたわけでもありません。いつ喀血するかどうかわからないのに夜襲なんて、足を引っ張るだけでしょう」
「…」
総司は冷静に客観的な返答を続けているが、土方にはいっそのこと怒鳴ってくれる方が気が楽だと思えた。怒りでも悲しみでもない何か深い絶望のようなものが総司の表情や言葉の端々から垣間見えてしまうのだ。
土方は思わず手を伸ばした。けれどその手を目掛けて黒猫が素早く引っ搔こうとしたので引っ込めるしかない。黒猫はまるで総司を守るかのようだ。
そんな黒猫を「こら」と総司は宥めつつ再び膝の上に乗せて、改めて口を開いた。
「…歳三さん、私は謝ってほしいわけじゃないんです。全部、仕方ないことだってわかってます。私だって近藤先生のお命を狙ったのなら御陵衛士を殲滅すべきだと思っていたし、藤堂君一人を優遇できないとわかっていました。斉藤さんに話を聞いた時は蚊帳の外にされてカッとなってしまったけど…皆が私を思いやってくれたんだって、ちゃんと理解しています」
わかっている、理解している…そういいながら総司は目を逸らしていた。この部屋に入ってからずっと総司はずっと黒猫へ視線を落として、土方を見ようとしなかった。いつも人の目を見て話す総司が敢えて避けているのだということはすぐにわかっていた。
「だったら…俺の顔を見てそう言え」
けれど指摘しても尚、総司は躊躇って目を伏せる。饒舌に語っていたのは言葉の盾のようなものだったのか、急所を指摘されると途端に黙り込んでしまう。
土方は続けた。
「怒ればいいだろう。お前は許そうとしなくていい。何も知らせなかった、藤堂を殺した…そう責めればいい」
「…責めたいわけじゃないんです。だって、本当は誰よりも藤堂君を助けたかったのは歳三さんでしょう?彼を追い詰めたのは自分だってわかっているから、だから命だけは助けたかったはずです、そうでしょう?」
「…、俺は…」
(俺にはそんなことを言う資格はない)
藤堂を追い詰めておいて今更そんなことは口にできない。誰かに苦悩を漏らすつもりはなく、仲間を見捨てた冷徹な鬼副長のままで良いと思っていた。だから総司の憤りを受け止めて、今までの過ちを時間をかけて飲み込むつもりだったのに。
夜通し働いたせいで頭がうまく回らず、土方はこめかみに指を添わす。すると総司の膝元にいた黒猫が不意にそこから離れて部屋を出て行った。
すると今度は総司が距離を詰めて、土方の掌に自身の手を伸ばした。
「…歳三さん、覚えていますか?私は…何があっても責めないって言いましたよ」
「総司…」
「それに、藤堂君と最後に会った時に彼は『ありがとう』って言っていたんです。だから不思議と彼への心残りがありません。むしろ仲の良かった永倉さんや原田さんに看取られたのなら藤堂君も本望だったんじゃないかって、そう思うんです…それも都合の良い願望かもしれませんけど」
総司の手のひらと、土方のそれが重なった。冬の一晩を外で過ごしてカサカサに乾いた指先に総司のぬくもりが伝わっていく。
総司は「逝ってしまったんですね」と呟くと、唇を噛み込み上げた感情を飲み込むように黙った。そして続けた。
「…藤堂君を救えなかったのは…誰か一人のせいじゃありません。皆が等しく責任があって、藤堂君が選択を重ねた先にあっただけなんです。だから…私は悲しいだけです。あの元気で、明るくてみんなに好かれて、大切な弟分だった。誰よりも勇敢で真っすぐな…そんな藤堂君がいなくなってしまった…それが悲しいな…」
総司が長い睫を伏せると、堪えていたものが溢れるように一筋の涙をこぼした。
親しかった人への純粋な哀悼と惜別の涙―――それはまるで透き通った美しく貴重なもののように思えて、土方は指先で受け止めた。そうすると不思議と心の靄が少しだけ晴れたような気がした。
(俺はお前のように泣けないが…お前が代わりに泣いてくれるならそれでいい)
そして互いの額を重ねた。
「…お前は大人になったな」
「それ…誰かに言われた気がする…誰だったかな…」
「だが怒っているだろう?」
総司の言葉の端々には憤りを隠せていなかった。土方が問い詰めると、総司は少し拗ねたように口を窄ませた。
「だから…私が怒っているのは、藤堂君を救えなかったことじゃなくて隠し事をされたことなんです。どんなに役立たずでお荷物でも…隠し事だけはしないでください。少し時間はかかるかもしれませんが、どんなことがあっても受け止めますからちゃんと話してください」
「…ああ、わかった」
「本当にわかってますか?約束してください」
「約束する」
「本当かなぁ…」
土方があっさりと口にしたので、総司は疑わしいようだったがそのまま抱きしめるとしばらくは身を任せた。
総司に焚きしめられた香の匂いのせいかそれまで全く感じなかった睡魔に襲われる。
(疲れた…)
いつか、伊東と対立するだろうと分かっていた。遂にその日が来て、何もかもが終わって…犠牲も多かった分、決して快い気分ではないが少しだけ肩の荷が下りたような気持ちだった。
(ようやくお前のもとに戻れた)
「…寝てください。お疲れでしょう?」
「まだ、話したいことがあるんじゃないのか…?」
「……それはまた今度」
総司がまだ何か話したそうにしていたのはわかっていたが、疲労が募ったのか土方は聞き出せないまま目を閉じた。
そして夢も見ずに眠った。








解説
なし

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