わらべうた




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日が暮れ、夜番の隊士たちが屯所を出立した頃、土方が総司の部屋を訪ねると姿がなかった。静まった部屋の空気は冷え切っていたので長らく不在しているのだとわかる。普段は夕食を終えて休む時間なので不思議に思いつつ、そのまま隣室の斉藤を訪ねたが彼もいなかった。
(まったく…病人と怪我人がほいほい歩き回って…)
油小路の件が決着しようやく落ち着いたが、医学方とともに怪我人の治療に奔走していた英から
『病人と怪我人だっていう自覚がなくて困る』
と責められた。総司は少し調子が良いと暇を持て余してすぐに出歩き、斉藤は『痛くない』と言い張って目を盗んで素振りを続けている。英は似た者同士の我儘な患者に手を焼き、ついには堪忍袋の緒が切れそうだったので、土方は彼の愚痴を受け止め『言い聞かせる』と約束したのでその手前、二人を探さないわけにはいかなかった。
(言うことを聞かないガキか…)
よほどこのほど入隊した少年たちの方が扱いやすい。
やれやれと思いながら、屯所を探し回っていると島田から「沖田先生は道場にいらっしゃいますが…」と何やら奥歯に物が挟まような言い方をされた。
「なんだ?」
「その…人払いを頼まれまして」
「総司に?」
「いえ、近藤局長です」
「…」
こんな寒い夜の道場で、人払いまでして二人で稽古をしているのか。
(それに付き合うかっちゃんもかっちゃんだが…)
病人を相手に…と怪訝に思いつつ土方は剣術に目がない師弟に半ば呆れながら、道場へ向かった。冬の夜は昼間の温もりをすぐに消し去ってしまうので早く切り上げるように声をかけなければならない。
西本願寺の屯所から移築した道場は新築の屯所と比べると年季が入っていて足音を忍ばせても軋むのだが、踏み入れる前に先客に気が付いた。
「…何をしている?」
斉藤が道場の入り口近くで膝を折って静かに座っていた。土方に気が付いても首を横に振るだけで答えようとしなかったが、土方がそれ以上先に進もうとするのを止めた。
(一体何事だ…?)
斉藤は神妙な表情のまま口を閉じている。土方は深い意図を感じながらも訊ねることはできず、仕方なく斉藤の隣に腰を下ろし道場の様子を窺うために耳を澄ませることにした。



総司と近藤は稽古着に着替えて正座をして向かい合っていた。道場は数本の蝋燭を灯しているので互いの顔ははっきりとわかるくらい明るい。
「…こうしてお前と二人きりで稽古するのは随分久しぶりだな」
近藤が懐かしそうに目を細めたので、総司も微笑んで返した。
「はい。きっと私が子供の頃以来です」
「そうだな…お前が試衛館に入門したあと食客が増えてすぐに大所帯になったからなぁ。お前は俺が思った以上に早く成長してあっという間に師範代に上り詰めた…今や剣技においてお前の上には誰もいないだろう」
「…でも、私にとって師匠は近藤先生だけです」
「お前にそう言ってもらえるのは誇らしいな」
互いに世辞はなく、心からの信頼と尊敬があった。こうして改めて近藤という師匠を前にするとどこか身体に力が入り、緊張感と高揚感で胸が高鳴る…それは例え免許皆伝まで上り詰め剣士としての名声を得ても、いつまでも変わらないのだ。
「…さあ、やろうか」
「はい」
二人はゆっくり立ち上がり、竹刀を構えた。床板の冷たさはまるで氷のようだったが気にならないほど集中していた。
合図もなく二人の視線が重なった時…総司が踏み込むとまず近藤はそれを真正面から受け止めた。その衝撃で大きく撓った竹刀が弾かれて身体が突き飛ばされるように後退する…けれどそれはどこか懐かしい感覚だった。
(先生は昔から動かなかった)
どんなに強く打ち込まれても、その大きく恵まれた体格と体幹で上手く受け流してしまう。宗次郎と呼ばれた頃、どれだけ打ち込んでも動かない石像のような近藤を見上げていた。それはたとえ目線の高さが同じになって、腕を磨いても…その巨木のような強さは得られそうもない。
「ヤァっ!!」
ならばと総司が矛先を変えて横から払うと近藤は素早く避けて薙ぎ払い、逆に踏み込んで
「ふん!」
と総司の死角に竹刀を向けた。総司はギリギリのところで躱して距離を取ったが、小手先だけの技術では近藤に敵わないのだと改めて思い知らされるようだった。総司に比べれば実戦の経験が少ないはずなのに、近藤の一手一手には気迫がある。
(だったら…)
総司は得意の突きの構えを見せて踏み込むと、初めて近藤は身構えて鋭い眼を向け総司の竹刀を受け止める。一、二、三…数えられないと評判の三段突きだが、近藤の竹刀は易々と捉えて最後の突きを避けて総司の背後に回ると、そのまま背中越しにパァンと強く打たれてしまった。
「くっ…!」
いつもなら耐えられる衝撃だったが、堪えきれずに片膝をついてしまう。
あらかじめ、近藤には『実戦のつもりで』と頼んでいたが、思った以上に容赦がない。総司は軽く咳き込みながら竹刀を杖にして立ち上がった。そして再び近藤に向かって突きを放つが、今度は一度目で叩きつけられてしまい、総司は身を翻しつつ転ぶのを堪えた。
「…はぁ…ハァ…」
「なんだ…これくらいで息切れか?もうやめるか?」
「いえ…まだ、お願いします…!」
身体の痛みを抱えながら総司は竹刀をもう一度構えて、踏み込んだ。
「やぁ!やぁ!やぁ!!」
その後何度打ち込んでも、近藤は撓むことなく姿勢を崩すことできない。けれど総司は竹刀を下ろすという発想すら失われ、体力の限界を超えても「まだまだ!」と立ち上がり無心に打ち込み続けた。時折、咳き込んでままならないこともあったが、それでも近藤が許してくれる限りは竹刀を離さなかった。
次第に足取りは覚束なく、竹刀をまともに振りあげることもできなくなっていく。基本の型が崩れ、竹刀すら重く感じるようになり何度も眩暈を覚えた。すると身体は息切れをして苦しくなる一方で、だんだんと自分の心が静かに波打つ物を感じなくなっていることに気が付いた。
あれほど熱意を持って取り組んでいたのに、まるで風のない湖畔のように心が粟立つこともない。
(ああ…僕はもう…)
行き止まりに辿り着いてしまったのか?もうこの竹刀を離すしかないのか?
「…もうここまでにしよう」
そんな総司に気が付いたのか、近藤はようやく竹刀を下ろした。総司も異論なく
「ありがとうございました」
と深々と頭を下げた。すると近藤がすでにふらつく総司の腕を取り、ゆっくりと座らせた。冷たい床板に熱が奪われていくなか、総司は声を震わせた。寒いわけではない。肩で大きく息をしなければならないほどに火照り、喉が火傷したように掠れる。
「…先生、私は…」
「いや、俺に言わせてくれ。お前はいままで沢山、いろんなものを背負い込んできたはずだ。だから、これは俺がお前に言うべきことだ」
言葉を遮った近藤は慈しむように総司を見ると、腕から肩を軽く叩き(大丈夫だ)と安心させるように頷いて最後には総司の頭を軽く撫でた。そして言葉を選び、躊躇いながらも優しく口にした。
「…お前はもう、ここまでだ」
「先生…」
「今までよくやってくれた。お前が俺のために散々尽くしてくれたことは十分知っている…だからこそ、俺はお前が苦しむ姿を見たくない。さっきみたいに自分を痛めつけるように、悲しそうに竹刀を振るう姿はもうごめんだ。…お前もそれがわかっただろう?」
総司は頷いた。
最初から近藤に引導を渡してもらうつもりで稽古を頼み、また近藤もそれを理解して付き合ってくれたように思う。そして自分なりに必死に師匠相手に竹刀を振るったが…身体はまだ剣術を欲していても、心に何も熱を感じていないとわかった。自分の限界をとっくに悟り、これが潮時だと頭で理解できていたからだ。
(僕はこれ以上続けたら、正真正銘の役立たずになる)
いくら蚊帳の外にされて、役立たずだからと置いて行かれても…足枷になるのだけは駄目だ。だからせめて無様な姿になる前に今が身を引く時なのだろう。
もちろんそれが悲しくないわけではなく、込み上げるものがあって総司は俯いた。そんな総司を慰めるように近藤は頭を撫で続けて語りかけた。
「…総司、決して自分を責めるな。剣術をやめざるを得なかったのは病のせいで…引導を渡したのも俺だ。お前は俺に言われて、仕方なく剣を置く。な、そうだな?…だから…もう…」
近藤の声が次第に細くなって感情を堪えるように震えていく。総司が顔をあげると、そこには大粒の涙を流す近藤の姿があった。
近藤自身もこうやって総司に引導を渡すことを望んでいなかったはずだ。一時は流派を譲るとまで考えるほどの一番弟子として育て上げたのに、こうして弱っていく姿を見るのは忍びなくて、だから一緒に受け止めて背負ってくれようとしているのだ。
(先生が師匠で良かった…)
総司は心底そう思いながら口を開いた。 
「…先生、私は油小路の時にお役に立てなかった時から…ずっと引き際を考えていました。病で任務もまともに遂行できないくせに中途半端に上の立場に居座っていては、若い隊士が戸惑うでしょう。でも彼らの手本にならねばと思う反面、踏ん切りがつきませんでした。さっき竹刀を下ろした時も…まだできるんじゃないかって、少しだけ頭の片隅で考えてしまいました」
「総司…」
「でも先生が泣いてくださった。自分を惜しいと思って泣いてくれる人がいる…それが誰よりも尊敬する先生であることが、私にとって…とても、誇らしくて、幸せです」
そう言いながら、総司も堪えきれずに涙を流した。哀しくもあり、悔しくもあり、嬉しくもある…すべてが混ざり合った名前のない感情がとめどなく涙という形で頬を伝って流れていく。
もう二度と剣術と向き合うことはないだろう。少年の頃のように無垢な気持ちで、剥き出しの心で、無鉄砲に駆けだす日はきっと来ない。それは自分の半生を捨ててしまうのと同じで、まるで自分の身体の半分以上を捥がれるような痛みを伴ったが、それでもいつかこの日が来るとわかっていた。
諦めなければならない日が来る。
手放さなければならない日が来る。
「私は…剣を置いて、療養に専念します」
「…ああ。ご苦労だった」
総司は近藤に引き寄せられ、その温かな胸の中でまた泣いた。吐血してからずっと堪えてきた感情がとめどなく溢れていくようで、近藤とともに散々泣き暮れた。そしてもう涙が枯れるという頃に土方がやってきて
「二人とも、もう泣くな」
と優しく二人の肩に触れて慰めた。










解説
なし

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