わらべうた




793


総司は土方に背負われて、夜道を歩いていた。
当然土方の手は塞がっているので、足元を照らす提灯を持つ役目は総司が担いつつ、無言のまま土方の肩越しにゆらゆら揺れる淡い光をぼんやりと眺めていた。泣き腫らしたせいかいつもより視界がぼやけている気がした。
近藤とともに道場で泣き暮れた後、激しい稽古のせいか気が抜けたのか、全身の力が入らずに立ち上がることさえままならず土方に身を委ねた。近藤には休むように言われたが、どうしてもすぐ土方に二人きりで話をしておきたくて懇願して別宅に向かうことになった。本当は御陵衛士の夜襲の危険があるため夜道を歩くべきではない…そのため近藤は条件として隊士を同行させるように厳命したので、二人の少し後方に相馬と野村が付き添っている。
「なんだか…悪いことをしましたねぇ…こんな寒い夜に」
「いいだろう、別に。局長命令だ」
「そういう理不尽な命令は反感を買いますよ。…後でお小遣いでもあげてください」
「考えておく」
土方は総司の提案を突っぱねるかと思いきや、素直に受け入れた。仄かな明かりを頼りに彼の横顔から様子を窺うと、少し思いつめた様子で口を閉ざし物思いに耽っていた。
「あの、言い訳をするつもりじゃないんですけど…ちゃんと土方さんには話そうって思っていたんです。でも…」
「近藤先生はお前の師匠だし、順当な順番だ。…話はあとで聞く」
「…それもそうですね」
せっかく相馬と野村に迷惑をかけてまで静かな別宅で話をしようとしているのだから、急がなくても良いだろう。
(なんだか肩の荷が下りた気分だ…)
総司は土方の背中に顔を埋めてそのぬくもりを感じながら、ゆっくり息を吐いた。
労咳だとわかってから数か月。剣術を続けたいと駄々をこね、事実を隠し、周囲を悲しませてまで貫いた『日常』をようやく手放して…なんだか安心している自分がいた。散々、泣いて気が済んだのかもしれない。
そうしていると別宅が見えてきて、なかに敵の気配がないとわかると土方は相馬と野村を屯所へ引き返らせた。律儀な相馬は「見張りを」と申し出たが、空気を呼んだ野村が腕を引き「帰るぞ」と強引に去っていく。
総司は土方に担がれたまま、御陵衛士に襲撃されて以来久しぶりに別宅に足を踏み入れた。あちこちの建具が新しくなっているせいか、漂う慣れた匂いが変わっていて別の家かと錯覚してしまう。
「…畳の匂いがする…」
「新しい畳に入れ替えて、さほど時間が経っていないからな。…とにかく休んでいろ」
土方は部屋に総司を下ろすと、早速提灯の炎を火鉢に移し、気だるげに壁に体を預ける総司のもとへ寄せた。そして甲斐甲斐しく綿入れを総司の肩に掛けて「茶でも入れるか?」と訊ねたが、総司は
「隣にいてください」
と答えた。土方は頷いて総司の隣に腰を下ろした。
まだ頼りない火種だけの火鉢は冷たいままだが、二人はその前に並んで時折手をかざした。しばらくは無言のまま、どう切り出すべきかと思ったが、総司は
「…身を退くべきかもしれない、と初めて思ったのはここで斉藤さんに襲撃された時です」
ときっかけを口にした。そして自然と部屋を見まわしていた。
あの激闘がまるでなかったように建具が新しくなったせいかもうずいぶんと昔のような気がするが、たった半月前の出来事だ。総司は鮮明にその時のことを覚えていた。
「漠然とまだそれまでと同じように動けると思っていたんです。不思議なほど…一線を退くべきだとは思わなかった、まだやれると思っていましたし、だからこそ療養を拒んだんです。…でも本気の斉藤さんと斬りあって、自分の認識の甘さを実感しました。土壇場で自分が思ったとおりに体は動かないし、喀血でかなり消耗する…泰助と銀之助がいたからどうにか気力だけは持ちこたえられましたが、そうでなければあっさりと打ち負かされていた」
「…」
「それに、最後に銃に頼ってしまったこともずっと蟠りのように心に残っていました。納得していたつもりだったけど、自分の積み上げてきたものが否定されたような気がして…時代が移り変わろうとしているのに、私はやはり銃を受け入れられていなかった。…だからもう戦場には立てないし、盾にすらなれないのだとわかりました」
土方は口を挟むことなく、総司の話に耳を傾けていた。
「それから屯所に戻って…隊士たちの稽古を眺めていると、早くそこに戻りたいという焦りはなかったんです。私のやるべきことは彼らと共に第一線で働くことではなく、残りの時間でどうやったら新撰組のために役立てるか、それを考えるべきじゃないのか…そんなふうに自然と考えていました」
「…だから小姓たちの稽古を引き受けたのか?」
「たぶん、そうです。彼らの初々しさに触れてなんだか救われたような気がしました。自分の役目があるんだって。…でもそう思う一方で、わざわざ形にしなくても良いんじゃないかって思っていました。地位が惜しかったわけじゃありませんが…はっきりとした形で自分の居場所がなくなるのが怖かった…」
自分で自分を役立たずだと認めることはできなかった。それは幼少のころから刻まれた口減らしの感覚のせいかもしれない。役立たずは置いてもらえない、食わしてもらえない―――誰にもそんなことを言われたことはないのに、そういう風に自分を追い詰めていたせいで、大人になっても居場所を求めてしまったのだ。
火鉢の炭がほんのり温まり始める。そうすると心も解れていくような錯覚になって、それまで閊えていたものが簡単に吐き出せた。
「…でも、油小路の件ではっきりしました。私は…もうお役には立てない、引き際を考えるべきだって。これ以上出しゃばるのは迷惑だって」
「そんなことは言ってない」
「言わなくたって同じです」
土方は眉間に皺を寄せたが、総司は怒っているわけではなかった。油小路の場に連れてはいけなかったのは事実だろうし、それを責めるつもりはない。
総司は土方の手を握った。彼の冷たい指先が重なって、少しだけ暖かくなった。
「歳三さん。私はちゃんと納得しているんです。それに近藤先生に引導を渡してもらって…もう頑張らなくていいって、こんな役立たずでも惜しいと思ってもらえたことで十分満たされました」
「…本当か?」
「本当です。嘘をついているように見えますか?」
総司が顔を覗かせると、土方は複雑そうな表情のまま目を伏せた。
「…おみつさんに頼まれていた」
「姉上に?」
「ああ。もし限界が来たと思ったら近藤先生から引導を渡してやってくれと。その伝言をかっちゃんに伝えたわけじゃなかったが…そうすればお前は納得するはずだと言っていた」
「はは、姉上はよくわかってる。離れて暮らしている時間の方がずっと長いのに…不思議だな」
血縁というものが為せることなのか、と総司は苦笑するが、土方は総司の肩を引き寄せて抱きしめた。まるで羽交い締めのように強い抱擁から土方の感情が伝わってくるようだった。
「…なんだか、歳三さんの方が哀しそうですね」
師匠とともに納得して、受け入れた総司よりもそれを聞かされる土方の方がまるで痛みを感じているかのように見えた。
炭が燃えて、小さくパチパチと弾ける音を鳴らし始める。土方は抱きしめた腕を少しだけ緩めつつも、感情を堪えつつ口を開いた。
「…お前が療養を決断して、安心する気持ちはある。だが…お前が可哀想でならない。生き甲斐だった剣を置かざるを得ない…労咳が憎い…」
「…歳三さん…」
「俺は何を言えば良いのかわからない。どんな言葉を尽くしても、おまえの気持ちに寄り添えると思えない」
土方がこれほどまでに弱音を吐くのを聞くのは、総司ですら初めてだった。けれど近藤がそうであったように土方もいつかこの日が来るのを覚悟しながら、ずっと言葉を探していたのかもしれない。そう思うと愛しくて総司は抱きしめ返した。
「…気の利いた励ましなんて要りません。歳三さんの気持ちは言葉にしなくったってわかってます。だからお願いです…私をずっと傍に置いてください。私を離さないで、貴方が行くのなら地獄の果てまで連れて行ってください」
「総司…」
以前、土方は自分自身が近藤や総司と同じ道を歩いているわけではないと言っていた。非道で非情なことに平気で手を染める…そんな自分が歩む道は、立派な武士道などではないから誰も連れて行けないのだと。
けれど、いまはその道連れにしてほしいと思う。離れたくないと思うから。
総司は土方の背中に回した両手で、彼の頰に触れた。そして彼の一番近い所で誓う。
「…何もかもを失っても…貴方を想うことが生きる意味だということだけは、手放したくありません」
土方は総司の言葉に少し唖然としながら、それまでの強張った表情を解いた。そして額を重ねて
「お前はいつも突然大胆なことを言う」
「そうですか?」
「明日になって、撤回すると言うなよ」
「言いませんよ」
総司が微笑んだ口元に、土方は自らの唇を寄せた。冷たい感触が次第に温もり、互いの温度が同じになっていく。
「…寒くないか?」
火鉢は十分その役目を果たし、手を翳さなくとも温かくなっている。けれど総司は離れがたくて
「まだ寒いです」
と言って口付けを求めた。土方はそれを優しい笑みで受け止めた。


















解説
なし

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