わらべうた




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激動の十一月が終わろうとする頃。
「その猫、すっかり居着いちゃいましたね」
総司の傍らで寛ぐ黒猫を見て、山野は少し呆れたようにため息をついた。総司の部下としてではなく医学方として顔を出した彼は定刻の薬を持ってきたのだが、先客がいたのだ。
総司は指先で猫の顎をさする。
「山野君、猫は嫌いですか?」
「…嫌いではありませんが、猫の毛は先生のお身体に障りそうだし…黒猫は縁起が悪いと言うではありませんか」 
「猫だって好きで黒く生まれたわけじゃあるまいし、きっと迷信ですよ。それに気まぐれにこうやって遊びに来るだけで、本人は飼われるつもりはないみたいですよ」
「はぁ…先生がそうおっしゃるなら…」
猫はごろごろと横になったかと思うと、山野を見るや走り去って行った。賢い猫なので自分を邪険に扱おうとする雰囲気を察して敵だとでも思ったのかもしれない。土方に会った時も『鬼副長だ』と賢明な判断で逃げ去ったのだろう。
山野はいなくなった猫を視線で追いつつ、「名前はつけているんですか?」と何気なく尋ねた。
「いえ…飼い猫にするつもりはないし、『猫』で十分でしょう?」
「…何だか先生が可愛がっているのか、そうじゃないのかわからないです」
「そうかなぁ」
山野が苦笑したので総司もつられて笑った。そしてようやく彼が持ってきた苦い薬を受け取って流し込み、口直しの干菓子で苦みを和らげる。
「隊の様子はどうですか?」
総司は訊ねた。
用事がない限り個室から出ることなく過ごすので、時折道場から活気のある声が聞こえてくるだけであまり様子が伝わって来ない。それに組長以上の個室は隊士たちが集まる広間からは離れているのだ。
山野は穏やかに答えた。
「変わりないです。油小路の件はやはりどこか気がかりでしたが…ちゃんと埋葬して、御陵衛士からの報復もないので落ち着いています。それから一番隊は島田先輩が率いてきちんと任務を果たしてますよ。まあ時々、新人の相馬や野村が小競り合いをして困らせることはありますが…」
「はは、やっぱり気が合わないのかなぁ」
「でも先生はきっと良い相棒になるとおっしゃったと伺いましたが?」
「そのうちね」
山野は「そうですかねぇ」とあまり信じていない様子だった。
真面目で賢い相馬と、破天荒だが勘のいい野村。本人たちがどう思っているのかわからないが、いざとなれば手を携えて力を発揮してくれるだろうと期待している。
(自分がそこにいなくても、任せられる…)
こんな穏やかな気持ちでいられるのは、やはり自分の能力に見切りをつけられたからだろうか。
総司が温かい茶を飲んでいると、聞き慣れた大きな足音が聞こえてきた。
「山野、ここだったか。そろそろ巡察の時間だぞ」
「先輩」
顔を出した島田は総司の前に正座して「いってまいります」と頭を下げた。一番隊を総司の代わりに率いている伍長の島田は任務へ向かう前と終えた後に毎回律儀に報告に来てくれる。それはあくまで自分は仮に一番隊を率いているだけだという自負と気遣いなのだろう。
(相変わらず部下に恵まれているなぁ)
山南の采配に感謝しつつ、総司は島田に視線を向けた。
「島田さん、お願いがあるんですが」
「なんでしょう?なんでもおっしゃってください!」
島田は胸を張って目を輝かせる。
「私の代わりに別の人が一番隊組長になっても、これまで通り伍長として支えてほしいんです」
「…は?」
「先生?」
島田は思わぬことに目を丸くし、山野は聞き間違いかと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。そんな彼らに総司は微笑んだ。
「そのうち近藤先生からお話があると思いますけど…私は近々一線を退きます。一番隊の組長には正式に別の誰かが就くことになるでしょう。それでも変わらずに新撰組のためにこれまで通り務めてほしいんです」
島田は口をぽかんと開いた。彼は入隊以来ずっと総司の傍で支え、一番隊の兄貴分として後輩の面倒を見ながら伍長以上の出世を望まずに支えてきてくれている。島田にとってそれが変わらない日常であったために総司が言っていることをいまいち理解できていないようで、困惑していた。
しかし隣にいた山野はすぐに「そんな!」と悲痛な声を上げた。
「先生、どうしてですか!僕たちは先生がたとえ床に伏していても…先生の部下です!ほかの方の下に付くつもりはありません!」
「…でも、いつまでも一番隊の組長が不在では格好がつきません。一番隊は新撰組の精鋭部隊で、局長の親衛隊ですよ」
「それでも先生が良いです!先生じゃないと務まりません!皆、そう言うに決まっています!」
いつも冷静で大人びている山野がまるで子供のように駄々をこね、その愛くるしい瞳から大きな涙を流し、総司に縋りつく。「どうして」「どうして」と喚く山野の髪を、総司は少し困りながら慈しむように優しく撫でた。
「…もし運よく病が治って、一から剣の腕を鍛えなおして…そうしたら戻りますよ」
「先生…」
そんな都合の良い未来が、どれほどの幸運を必要とし、どれほど遠い先にあるのか。医学方の山野ならよくわかっていただろうしそれが総司の慰めでしかないと理解できただろう。
何も言えず、それでも受け入れられずに首を横に振る山野に、島田が
「もうそれくらいにしておけ」
と声をかけて山野の肩を引いた。島田自身も目に涙を滲ませて、悔しそうに唇をかみしめている。島田も本当は山野が懇願する気持ちをよくわかっているはずだ。
彼らの悲嘆を目にして総司は胸が痛くなったが、それでも彼らと同じように泣いて悲しんだところで感情を引き摺るだけだ。
「山野君、有難う」
総司はできるだけ微笑んで彼らの気持ちを受け入れた。山野は涙が止まらずに手の甲で必死に拭うが間に合わず、島田に手拭いを渡される。
島田は大きく息を吐いて、改めて居住まいを正す。
「先生、自分は…先生の一番の部下であることを自負してきました。たとえほかの方が組長を務められても…それは変わりません。先生とともに働いた誇りを胸にこれからも一番隊伍長として邁進します。それでも宜しいですか?」
「…勿論です。私が隊を離れても島田さんはとても頼りがいのある伍長です。新しい組長も同じように支えてあげてください」
「僕だって…!」
山野は目を腫らしながら声をあげた。
「僕だって、これからも一番隊の隊士です!先生の大切な一番隊のために働きます…!」
「はは…医学方との両立は大変ですよ」
「受けて立ちます!」
山野が涙しながらも威勢よく自分の胸を叩くちぐはぐな姿を見て、総司と島田はなんだか笑えてしまった。山野はようやく涙を引っ込める。もちろん赤くはれた眼はそのままだったが、随分と場が和んだ。
「…それで、新しい組長はどなたがなさるのでしょうか?」
「ああ…それは…」


斉藤が近藤から呼び出しを受けて向かうと、土方も同席していた。重要な話だと内心身構えて彼らの前に膝を折る。ちらりと表情を窺うと険しい表情というわけではなかったが、明るい話でもないようで早速、近藤が切り出した。
「斉藤君、君に頼みがあるんだが」
「はい」
「御陵衛士に行かせたせいで、君を煩わせるのは申し訳ないのだが…今後、公に『斉藤一』と名乗るのは難しいのではないかと思うんだ」
「…」
斉藤は内心いずれそういう話になるだろうと思っていたので動揺はなかったが、土方が口を開いた。
「油小路の前に御陵衛士の『斉藤一』は死んだことになっているし、たとえ死んでいなくとも御陵衛士だったお前が堂々と新撰組に戻って任務を果たすのはややこしい。面倒だが、表向きにはこれを機に改名してほしいと思っている」
「構いません。元を正せば『斉藤一』も本名ではありません」
「そうなのか?」
斉藤の過去について詳しい事情を知らない近藤は目を丸くしたが、土方は表情を変えなかった。以前、総司に話をしたことがあったし、道場で世話を焼いていた弓削が訪ねてきたときには『山口』と呼んでいたのだから察しがついていただろう。
「名についてはお前に任せる」
「…でしたら、『山口二郎』とでも。姓の『山口』なら呼ばれ慣れています」
「一の次で、二か?君らしいな」
近藤はその大きな口で噴き出して笑った。何度も名前を変えて来た斉藤は呼ばれる機会のない下の名前がどうなろうともあまり興味がなかったので、安易に二郎としたのだ。
土方は「わかった」と頷いた。
「あくまで表向きや隊士の前では『山口』とするが、内輪では『斉藤』でも構わないな?」
「はい」
あまりに淡々と話が進んでしまいもう話は終わりかと「では」と切り上げようとしたが
「待て」
と、土方は斉藤を引き止めた後、近藤へ視線を向けた。どうやらこれからが本題らしいと斉藤は改めて姿勢を正した。
近藤は穏やかな表情で口を開く。
「斉藤君、脇腹の具合はどうだ?」
「…かすり傷と言っても過言ではありません。少し違和感がありますが、道場で慣らせば問題ありませんし、南部先生にもお墨付きを頂いています」
英は『まだ完治していない』と文句を言ったが、彼の師匠である南部は『傷は塞がった』として稽古や普段の任務については許可を出した。斉藤自身も脇腹の痛みは気にならず、支障はない。
近藤は「それは良かった」と頷いて話を続けた。
「君の傷は治って、名前も変える。これからも心機一転、新撰組で励んでもらいたいが、いかんせん御陵衛士が脱退した時に編成を変えて、君の配下だった三番隊の隊士は各組に分かれて配属されている。半年が経って慣れ親しんだところで、また戻すのは隊士たちの不興を買うだろう」
「はい」
「それで、君には一番隊を率いてもらいたいと思っている」
それまで顔色一つ変えずに話を受け入れていた斉藤だったが、流石に表情が変わった。それは想像すらしていない配置だったのだ。
「沖田さんは…」
「総司は一線を退くことになった。自分の意思で決めたことだ」
「…」
土方の話で斉藤は言葉を失う。床に臥し喀血する総司を見ていつかその日が来るとわかっていても、それがこんな近い話だとは思わなかったのだ。
近藤は斉藤を見据えた。
「斉藤君…総司は是非君に、一番隊を率いてほしいと言っていた。むしろ君になら任せられると総司の方から頼んで来たんだ。…どうか引き受けてやってくれないか?」








解説
なし

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