わらべうた




800


冬の朝、桶に張っていた水が薄く凍っていた。
総司が分厚い綿入れを着込んで両手の平を合わせて擦りながらはーっと息を吐くと、空気に漂った白い煙はゆらゆら揺れながら消えていった。周囲は冷え込んでいるが、
「七百!」
「ヤァー!」
目の前の少年たちはまるで真夏の外稽古のようにこめかみから玉のような汗を流し、袖捲りして竹刀を振り続けていた。早朝ということもあり天然理心流の太く重たい木刀ではなく軽い竹刀での素振りを容認しているが、それでも目標の千回以上振り下ろせば腕の感覚がなくなっているだろう。
「相変わらずの鬼稽古だな」
呆れたようにやってきたのは原田だった。彼は少年小姓たちを眺めながら、
「朝っぱらから素振りなんて、平隊士でも根を上げるぜ」
と大袈裟に肩をすくめる。
「この年頃は基本を疎かにしがちですから」
「そりゃそうだけど、基本はつまらねえよな」
「そんなこと言って。あ、原田さんも加わります?」
「勘弁しろよ、これから朝番だぞ」
原田は「死ぬなよー」と少年たちを冷やかして去っていく。
(もういつもの調子みたいだ)
普段から原田は飄々として分け隔てなく明るいが、一時、藤堂の死で塞ぎ込んだ。感情豊かで前向きな原田のかつてない落胆とただならぬ悲壮感のある顔つきは誰よりも顕著で、彼のショックが窺い知れた。このまま隊を辞めるなどと言いかねない…と永倉が心配していたほどだ。
しかし、いつまでも悲嘆に暮れるのは彼の性分ではなく、どうにか気持ちに折り合いをつけて今の様子に至ったのだろう。以前ほどの明るさではないにせよ、気軽な会話を交わすことができて総司は少し安堵した。
そして八百を数える頃、今度は山野がやってきた。かつての直属の部下としてではなく、医学方の顔をして苦い薬を携えていた。総司は思わず眉間に皺を寄せるが、それは山野も同じた。
「おはようございます…先生、熱心なのは宜しいことですが、もう少し暖かい格好をなさってください」
「寒くはないですよ」
「先生、寒くはないではなく、暖かい格好です」
山野は細かな指摘をしつつ、勝手知ったる患者の部屋から羽織をもう一枚持ってきて総司の肩にかけ、そして薬と温かい白湯を差し出した。有無を言わさず薬を飲ませ、「熱はないですね」と額に触れた。近くで見た彼の表情の方が疲れている気がして
「医学方との兼務は大変でしょう?」
と訊ねると彼は苦笑しながら頷いた。
「はい。医療の勉学はたぶん剣術より僕に向いていないです。でも組長と医学方に加えて監察の面倒も見ている山崎先生に比べたら、僕なんて…」
「確かに山崎さんは何でも器用にこなすけど、比べる必要はないでしょう。山野君は山野君らしく熱心で前向きに取り組んでいるし…まあ、面倒をかけている私の言えることじゃないですけどね」
「…先生にそう言っていただけたら、もっと頑張れます」
「あれ?無理をして頑張ってほしくないから言ったんだけどなぁ」
意図が伝わっていない、と総司は首を傾げたが、山野の表情は明るい。
「でも本当に僕のことは御心配なさらないでください。今回の紀州の警護からも外されて、時間があるんです。この機会に書物を読み込んで寝不足になっているだけですから」
「なら良いんですけど。…そういえば、斉藤さんは今回の任務、手こずっているんですか?」
紀州藩士警護の件は三浦の希望により最小の人数で回すことになったため、詳しい状況を知る者は少ない。特に斉藤は休みなく三浦に就くことになったようで、屯所には帰って来ないのだ。
「どうでしょう。僕の耳にはあまり話が入って来ないのですが…でも島田先輩によると、三浦殿はあまり新撰組を信用されていないみたいで隊士たちを邪険に扱うようですが、斉藤先生のことは認めているようだとおっしゃっていました」
「へぇ、どうやって懐柔したのかなぁ」
ハハ、と笑っていると少年小姓たちの素振りが終盤に差し掛かり九百五十回に達しようとしていた。見えてきたゴールに希望を見出した彼らの目は少しだけ輝いている。足元はふらつき、型は崩れかけているけれど彼らは諦めずに回数を重ね続ける。
総司はその様子を微笑ましく見ていた。早朝、朝餉前の彼らの素振りを眺めていると、試衛館にいた頃の自分を思い出すとともにいまの自分の役目を実感することができるのだ。
(僕はこの子達のためにもう少し元気でいたいな)
そう思わせてくれる有難い存在だ。彼らの励む姿が総司を支えている。
するとその様子をじっと見ていた山野が
「…僕も、明日から素振りに参加させていただいても宜しいでしょうか?」
と申し出た。先ほどまで忙しくて大変だという話をしたばかりだったのに、と総司は笑う。
「山野君、熱心なのは結構ですけどいい加減、忙しすぎて倒れますよ」
「良いんです、最近は身体が鈍っているから気分転換になります。…それに、僕だって先生に稽古をみてもらいたいです…」
山野のはまるで放って置かれた子供が拗ねているような言い草だった。最近は平隊士の稽古は覗いて助言するだけで指導というほどのことはしない。それ故に小姓たちを羨ましく思ったのだろう。
「…じゃあ、無理をしない約束ですよ。お互いにね」
「はい!」
「――九百九十九! 千回ィ!!」
ちょうど目標の千回まで達し、小姓たちはその場にバタバタと倒れ、尻もちをつき、座り込む。総司はぱんぱん、と手を叩いた。
「お疲れ様。じゃあ、朝餉の支度だ」
無慈悲に次の仕事を宣告する総司に対し、少年たちが内心(鬼…!)と思ったのはその表情でわかった。けれど総司自身、試衛館にいた頃は皆が目を覚ます前に千回の素振りを熟し、その後は下働きとして近藤の養母で試衛館を仕切っていたふでの手伝いをしていたのだからそう変わらないだろう。
身体を引きずって去っていく彼らを総司は山野とともに穏やかな目で見送ったのだった。


「手加減してやれ」
総司の部屋にやってきた土方は開口一番にそう言った。
「手加減?」
「小姓たちのことだ。朝から疲れ果てて午後には使い物にならない」
「私は幼いときは毎日、そうやって鍛えましたけど…」
「試衛館と新撰組を同じにするな」
総司はいまいち腑に落ちなかったが、確かに土方の言う通り医穏やかな田舎道場と緊張感ある屯所での生活では環境が違うので気が抜けないだろう。
「わかりました。じゃあ八百回にしようかな」
「まったく…剣術馬鹿は手加減を知らないな。五百にしておけ、お前だって疲れるだろう」
「私は大丈夫です」
強情な総司に土方はやれやれとため息をついた。
「…それで、見込みはありそうか?」
「見込み?彼らですか?まだ仮隊士ですよね」
「そうも言ってられない。…会津によると長州や薩摩、芸州の兵が都へ集結している。江戸からも幕臣たちが上京して戦に備えているという話だ。そうなれば俺たちだって一つの兵団として出陣する」
「…そうですか…」
戦の足音が近づいている。
土方からそう聞かされても実感はない。毎日の日々は変わらず静かに過ぎて行き、総司の耳にはいつも静かな日常しか聞こえず、この部屋から見える景色にも限界がある。
けれど戦とはそういうものなのかもしれない。気が付いた時には後ろにいて、もう目の前は崖に追い詰められているような。
「…三人ともとても熱心です。特に市村鉄之助君は肝が据わっていて勘が良い。泰助は天然理心流の基本がちゃんと身についているし、銀之助は賢い。みんなそれぞれ個性が違います。…ただ、戦場ではどうか、わかりませんが」
「そうか…銃を覚えさせようと思うが」
「良いと思います。若ければ若いほど、こだわりはないし難なく順応するでしょう」
「そうだな」
土方は話を切り上げると、突然総司の隣で横になった。
「…疲れているんですか?」
「ちょっとな」
「自分の部屋で寝たらどうですか」
「部屋だと落ち着かない、ここが良い」
仕事を目の前にすると手をつけなければならないと思い、忙しく感じてしまう。そんな土方の心情を察し、総司は微睡む土方の隣で外に目をやった。
(また雪が降ってる…)
今年は良く雪が降る。触れればすぐに消えるようなその淡い刹那を自分に重ねながら、総司はぼんやりと眺めていた。












解説
なし

拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ