わらべうた




802


線香二本分が過ぎた頃、低い天井の上から鼾が聞こえてきた。それが三浦のものだとわかり、(終わったか)と斉藤は梅戸に一階を任せて二階への階段を上ると、まさにその部屋から朝比奈が出てきた。袖を通して軽く帯で結んだだけのな無造作な格好に、白い首筋から鎖骨にかけて長く艶やかな髪が汗ばんで張り付いている。その横顔には怠惰な疲労感が浮かんでいたが同時に隠しようのない色気が滲んでいた。
「あ…」
気配を消していたため、朝比奈は斉藤に気が付いていなかったようだ。斉藤の顔を見るやサッと襟元を正しながら、生気を取り戻し微笑んで見せた。
「すみません、お待たせしましたか?」
「いや…」
「先生はもうお休みになられました。まだしばらくは外出を控えてくださるように約束してくださいましたのでご安心ください」
「…わかった」
淀みなく話す朝比奈はそれを仕事だと割り切っているようだったので、敢えて礼は言わなかった。代わりに
「茶が美味かった」
と言うと、朝比奈は少しぽかんとしたあとに「ああ」と自分の差し入れのことだと思い至ったようだ。
「喜んでいただけて良かったです。私もその茶葉が気に入っていて、飲むとよく眠れるんです。少し値は張りますけどね…」
斉藤は朝比奈とともに隣室に踏み入れると、彼は突然話を切り上げて斉藤の腕を掴んだ。
「なんだ?」
「山口先生は私を見ても、目の色を変えないのですね」
「…どういう意味だ?」
「たいてい、私の顔を見ると男であろうと女であろうと色めき立ちます。幼少の頃からそうでしたし、歳を重ねれば重ねるほど人の目を集める…この顔のことは十分自覚していて、そのような感情を向けられることには慣れています。…でも山口先生のような方は初めてです」
「…」
「先生は、私にまったく興味がない。一度も、いえ一瞬たりとも私をそういう目で見ないのですね」
朝比奈は腕を引き寄せなっがら頭一つ背の高い斉藤を見上げている。先ほどまでの行為の残り香を纏う朝比奈に上目遣いで見つめられれば、男でも女でも否応なく欲望を駆り立てられるのだろう。
けれど斉藤にはその気持ちはない。朝比奈に焚きつけられても何の感慨もなく「離せ」と彼の手を解いてため息をついた。
「…その通りだ。そういう意味では興味がない。三浦殿と寝ようと何をしようと互いの合意があるのなら好きにすればいいと思っている」
「それは…先生にすでにそういうお相手がいらっしゃるのでしょうか?」
「答える必要はない」
「そうですか…残念です」
「…残念?」
朝比奈は今度は満面の笑みを浮かべて、なんでもないと言わんばかりに首を横に振った。
「では部屋に戻ります。目が覚めた時に隣にいないとまた三浦先生に叱られますから」
朝比奈は話を切り上げて部屋を去ってしまった。斉藤は彼の言葉の真意が気になったが、今更引き止めて訊ねるのも億劫だと思った。
(…こうやっていいように振り回されるのは英と同じだ)
彼らに血縁があるのかどうかはどうでも良いが、きっと英は今頃何度もくしゃみをしているだろう。
そんなことを思いながら、斉藤も休むことにした。


翌日の陽も昇らぬ早朝。
斉藤は高鼾をかく三浦の警護を一時的に島田に任せ、旅籠を出て向かいの宿に足を踏み入れた。そこは一番隊の交代要員が控える拠点で、屯所から戻ってきた大石からの報告を聞いた。
「…素性はわからない、か…」
「紀州藩の重臣が朝比奈姓を名乗っていますが、その血縁というわけではないようです。これ以上のことはおそらくわかりません」
「そうか…なら、もう良い。海援隊と陸援隊の動きを探ってくれ」
「はい」
大石は笠を目深に被り、蓑を着て出ていく。不本意な形で異動になった大石だが、監察方としては上出来な働きぶりだ。
(あの目立つ見た目で情報がないなら、藩士というわけではないのかもしれない)
あの上品な顔立ちで物腰柔らかく丁寧に振舞えば紀州藩士と名乗っても疑われず、何かと便利だろう。それにすでに幕府さえ存在しないのだから咎める理由はない。
(考えすぎか…)
こめかみのあたりを摩りながら瞼を閉じていると
「山口先生」
と小声で声をかけてくる者がいた。
「…お前は…」
「野村です、野村利三郎」
野村、という名前は憶えていた。総司が気にかけている新入隊士だ。
隊士たちが仮眠をとっているなか、野村の眼はぱっちりと開いている。
「…寝ないのか?」
「ハハ、枕が変わると眠れません。ちょっと神経質なところがあるんですよねぇ」
冬場の外の見張りは身体に堪えるはずだが、野村はあっけらかんとしていてとても神経質そうには見えない。何か言い訳をして話をしたかったのだろう。
「なんだ?もう戻るところだ」
「少しだけ聞きたいことがあるんです。…ちょっと聞こえちまったんですけど、あの朝比奈って人、素性がわからないんですよね?」
「ああ、それがどうした?」
「いやぁ…なんか、どっかで見たことがある気がして…でも思い出せなくて、喉に小骨が刺さったような感じがあって…」
野村は眉間に皺を寄せて「うーん」と唸る。どうやらまだ答えが出ていないらしい。
「…英と混同しているんじゃないのか?」
「いえ、新撰組に入隊する前の話です。俺は大げんかして故郷を出て…あちこち漫遊してて…むしろこっちで英先生と初めて会った時に『見たことのある顔だなぁ』なんて思ったくらいで」
野村はこれまでの道程を振り返っているようだがいまいち思い出せないらしい。斉藤からすれば朝比奈ほどの美貌を見たら印象に残っていそうだが、野村には興味がなかったのだろう。
「…思い出したら、教えてくれ」
もう朝陽が高く昇ろうとしている。この間に三浦が目を覚まし、斉藤が見張りを抜け出していることに気がつかれたら面倒だ。
斉藤が気に留めつつ戻ろうと旅籠を出た途端、ハッと右手に視線を向けた。それはほとんど無意識で野生の勘に近いものだったが、斉藤の視線の先で確かに影が動く。
斉藤は抜刀して駆けだした。その勢いに驚いて野村も追ってきたが斉藤の速さにはついて来られなかったようで、ほとんど単独でその影を追いかける。しかし離れすぎていたせいかあっという間に狭い路地に影は消えていき、朝市の人込みもあって追いつくどころかその姿を見ることさえ叶わなかった。
「…」
斉藤は刀を仕舞い、追跡を諦める。そうしているとやっと野村がやってきた。
「敵ですか?」
「いや…わからない。視線を感じただけだ」
「海援隊か陸援隊ですかね」
「…違うとは言い切れないな」
斉藤は深いため息をついた。
「宿を変えるべきだな」
敵に三浦の居所が知られた可能性があることを考えるとそうせざるを得ない。そうなると三浦の説得から始まり、最適な宿探し、身を隠しながらの移動…何もかも骨が折れる。
それをよく知っている野村はうんざりした表情を浮かべながら「仕方ねぇっすねぇ」と頭を掻いた。
二人で踵を返して宿へ向かう。すると野村が
「あ!」
と突然大きな声を上げた。
「なんだ、大きな声を上げるな」
「すいません。でも、そうだ…思い出したんですよ、朝比奈殿のこと!」
野村はすっきりしたように満面の笑みを浮かべた。
「どこで会った?」
「紀州です。雰囲気が全然違うからわからなかったなぁ…あんなに小奇麗な感じじゃなかったんですよ。だから思い出せなかったんだな」
野村は合点が行き納得して「そうかそうか」と頷いた。数日間悩み続けようやく思い出した達成感に浸るのは仕方ないが、斉藤はもどかしく感じ「それで」と先を促すと、野村はあっけらかんと言った。
「数年前、俺が買いました」
「…は?」
「出会ったのは道端で、夜鷹のようなことをしていましたね。物乞いのような汚い恰好でしたけど、美貌だから買ってやろうと思って。でも女かと思ったら男で吃驚しました。…じゃあそれから三浦殿に拾われて侍者に…ってことですかね。随分出世したなぁ…」
野村は単純に記憶を反芻しているだけだが、斉藤は今まで朝比奈に感じていた異物感のようなものをようやく理解できたような気がした。
(あれは野心家の眼差しだ)
人に低く見られ蔑まれる底辺から成り上がった…丁寧な物腰と穏やかな眼差しの裏にはしたたかな計算と他人への不信感が隠れている。そんな彼だからこそ三浦を篭絡できたのかもしれないし、それは悪い事ではない。誰にも迷惑を掛けずに自分の武器を行使しているだけなのだ。
(なるほど、英とは逆だ)
斉藤が知っている英という人間は、自分の華やかな顔面を厭いつつも、賢さは隠さず相手の顔色を窺うことなくはっきりと物を言う。
(だから違うと思ったのか…)
「先生?」
「…その話は黙っておけ。朝比奈にとって隠したい過去かもしれないからな」
「そうっすね。まあ、あっちは俺を見ても何の反応もなかったし、きっと覚えてないでしょうけど」
野村は自嘲しながらも「これで眠れる」と少し浮足立って宿へ戻っていった。










解説
なし

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