わらべうた




803


四軒目へ移動となると、三浦も怒りを通り越して呆れ始め、
「お前たちのなかに内通者でもいるのではないのか?もしくは無能なのか?」
と愚痴るにとどまった。朝比奈が憂さ晴らしに付き合ったおかげかもしれないが、確かに三浦が言う通り不都合なことばかり起きすぎている。
斉藤は二階から周囲を見渡した。早朝に不審者を発見したため明るいうちに移動することになったが、昼間の人通りは多く目立ちはしなかっただろう。それにこのあたりは夜になると静かで潜伏には適している。
(だが…ここに来るのは不本意だ…)
斉藤は何とも言えない気持ちだった。
この天満屋という旅籠は油小路に面している。このまま南へ四本通りを過ぎれば半月ほど前には新撰組と御陵衛士の衝突が起こり、伊東大蔵や藤堂平助らが殺されその遺体が無残に放置されていた。
斉藤は神や仏の類を信じていないが、それでも悪い予感がした…しかしここは前の屯所であった西本願寺に近く土地勘がある。それに新撰組が懇意にして信用出来る旅籠は早々見つからないので諦めるしかないだろう。
斉藤は周囲に怪しい影がないのを確認して障子を閉めた。陽の光が遮られ薄暗くなると三浦が顔を顰めたが、油小路だけでなく一本向こうは西本願寺前の大通りに面しているので仕方ない。
すると席を外していた朝比奈が戻ってきた。
「先生、女将にお世話になるご挨拶をしてまいりました」
「うむ…ここは悪くない。できれば長く世話になりたいものだな」
三浦は嫌味っぽく斉藤へ視線を遣るが、朝比奈は「そうですね」と穏やかに微笑んだ。
三浦は「書を読むから邪魔するな」と言い残して隣の部屋に移る。幾分か機嫌が良いのは今までで一番広く綺麗な旅籠であることと朝比奈のおかげだろうか。斉藤はそのまま部屋に残って島田が階段に陣取り、後の隊士は交替で外を見張っている。隊士たちも四軒目ともなれば要領を得て慣れてきているが、同時に不気味な敵の気配も近い。斉藤はくれぐれも油断するなと言いつけていた。
同じく部屋に残っていた朝比奈が
「山口先生、朝餉を召し上がっていないでしょう?宜しければこちら…お口に合うかわかりませんが、御一緒にいかがですか?」
と、握り飯を二つ差し出した。
「いや…」
「毒なんて入ってませんよ」
「…疑っていない」
「ハハハ」
斉藤が逡巡したのを見て、朝比奈は茶化した。
顔というものは整いすぎているとその変化が分かりづらくどこまで本気なのか…斉藤でさえ察しづらい。斉藤は握り飯に手を伸ばし、もう一つは朝比奈が口にした。
「…以前はこの近くの西本願寺を拠点にされていたそうですね」
「ああ」
「ではこの辺りは馴染みがあって皆さんよくご存じですね。心強いです」
「そうだな」
起伏のない斉藤の返答に対して朝比奈は笑みを絶やさなかった。
野村の一夜限りの記憶だけで朝比奈が陰間の夜鷹だったことを信じるわけではないが、彼の所作や滲み出る色香は確かに育ちの良い紀州藩士ではありえないだろう。彼が握り飯を食らう姿でさえ、細くしなやかな指先と形の良い唇が米粒を弄んでいるようにしか見えなかった。
朝比奈は握り飯を食べ終えると、
「ああ…そういえば、先ほど外出した時にわかったことがあるんです」
「なんだ?」
「ええ。私の顔を見て『先生』と声をかけてくる女がいて…どうやらこの近辺に私にそっくりな医者がいるそうですね」
朝比奈がさらりと英の話題を持ち出したので、斉藤は内心驚いた。しかしよく考えればこの辺りはもともとは新撰組のテリトリーで英も何度か出入りしていたので、朝比奈が答えに行きつくのは当然の結果なのかもしれない。
「新撰組の皆さんが驚かれていた理由がわかりました。そんなにその医者に似ていますか?」
「…そうだな。親戚かと思う程度だが…」
斉藤は敢えて『瓜二つ』だとは言わなかった。必要以上に英へ興味を持たれるのは面倒なことになると思ったからだ。
しかし朝比奈は続けた。
「ですが詳しく聞くと、その者はもともと評判の陰間だったという噂があるとか。名は違うようですが…」
「…よくは知らない」
「そうですか。…しかし、陰間と似ていると思われるのは…正直、気分が良くないですね」
朝比奈は相変わらず微笑んでいたけれど、その表情が表面的な作り物だということは斉藤にはすぐにわかった。朝比奈は自分の過去と重なる英の存在に苛立ちを感じているのかもしれない…その瞳の奥には嫌悪と憎悪が満ちていた。



知らせはすぐに大石を通じて土方に元へ届いた。
「…大石、すぐに南部診療所へ向かい英にはしばらく往診を控えるように伝えてこい。理由は身の危険があるとでも言って濁しておけ」
「わかりました」
大石はすぐに出ていき、部屋には暇を潰しに来ていた総司がいた。
「英さんのこと、気づかれてしまったんですね」
「ああ。陰間と似ていると言われて嬉しくはないだろう。強引な真似をするとは限らないが用心に越したことはない」
「そうですね。英さんに危害が及んでは申し訳ないですから」
総司は膝元で転がる猫をあやしながら
「天満屋なら近いですね」
と何となく外を見る。目と鼻の先というほどではないが慣れ親しんだ場所だ。すると土方はすかさず「顔を出すなよ」と釘を刺した。
「…もちろん、わかってますよ」
「どうだか。お前のことだからふらふら様子を見に行きそうだ」
「そんなことしませんって。…それより、いつまでも見張りばかりに徹していては物事は解決しませんよ」
「お前も言うようになったな」
土方はふっと鼻で笑い、頷いた。手にしていた小筆を持て余しながら続けた。
「陸奥の居所を探らせているが、他にも徒党を組む連中のなかに十津川郷士の中井庄五郎という男の名前が上がっている。この男は若く血気盛んで、坂本龍馬を信奉していたらしく暗殺されたことを随分憤っているらしい」
「十津川郷士…ですか」
「ああ。一時、暗殺犯として十津川郷士の名前が上がっていたこともあった。根も葉もない噂話だが、不名誉を払拭するために犯人探しに躍起になっているそうだ。おそらく中井は尊王攘夷の志士とも親交があるから陸奥の話に乗ったんだろう」
「…中井…中井…」
何となく身に覚えがある気がして総司は指先で猫の頭を撫でながら考え込む。すると土方はその答えを知っていた。
「一年前、お前と会っている」
「ああ、そうだ…四条大橋で斬りあいになった時にいた志士ですね」
総司は曖昧だった記憶が、土方のおかげではっきりとした。
あれは伊東の招きで斉藤や永倉が居続けをして謹慎している頃だった。総司が率いる一番隊が四条大橋付近で泥酔する志士たちに遭遇した。声をかけた途端抜刀され仕方なく応じたが予想以上に腕が立ち、数人に軽傷を負わせただけで捕縛に到らなかったことがあった。彼らは自らを十津川郷士の者だと胸を張って叫んでいた。
「そうだ。だからある意味新撰組への怨恨もある」
「…あの中井という男は自ら名乗って斬りかかってきました。泥酔状態であの腕前ですから、正気だと厄介ですね」
「…斉藤に伝えておくか」
「そうした方が良いです」
決して気楽な任務ではないのはわかっていたが、想像以上に相手が手強い。総司は自分が関われないもどかしさを感じていたが、同時にそれが『一線を退く』という意味だとわかっていた。
(やっぱり…ちょっと寂しいな)
土方にそんな気持ちを悟られたくなくて総司は表情には出さなかったが、傍らにいた黒猫はまるで慰めるように総司の指先をぺろりと舐めた。
すると、ちょうど二条城から戻った近藤がやってきて「ここにいた」と土方の顔を見た。
「どうした?」
「ああ…実は江戸から親藩や幕臣たちが上京して、二条城やその周辺に溢れかえっている」
「へぇ、心強いですね」
総司は味方兵の増員を単純に喜んだが、近藤は難しい表情のまま腰を下ろして首を横に振った。
「確かに、兵が増えるのは薩摩や長州への圧力になるが…皆が公方様のために命を投げ出す覚悟で上京したわけではないんだ。大政奉還を果たした公方様の行動を容認できず、徳川への裏切りだと不満を溜め今こそ暗殺すべきだと堂々と宣言する者もいる」
「…なるほど、江戸にいた幕臣ならそう思うかもしれねぇな。水戸は御三家のなかでも格が低く、将軍もこれまで一人も出さなかった」
「ああ、やたらと非難を浴びやすい。会津公はご心配され、今は片時も公方様のお傍を離れずにお守りするとおっしゃっていた」
「会津の家訓か…」
土方は呟く。それは感嘆でもあり、不憫でもあり、何とも言えない感情が籠ってしまう。近藤も同じで
「とにかく俺もできる限り会津公をお支えするつもりだ。歳、隊のことは任せる」
と気忙しい様子で自分の部屋に帰っていった。一旦帰営しただけで再び留守にするのだろう。土方はため息をついた。
「三浦殿のことは近藤先生には伝えない方がいいな」
「…そうですね」
あれこれと複雑な時勢のなかでは、三浦の警護など小事に過ぎない。
総司は黒猫が目を閉じて穏やかに眠っていることに気が付いた。小さく温かなぬくもりに触れ癒されながらも、どうしようもない焦燥感だけは募っていった。









解説
なし

拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ