わらべうた




805


「伊庭八郎先生ですか?!」
別宅に移動して早々、泰助は興奮を隠しきれない様子で伊庭の前で背筋を伸ばして正座していた。伊庭は茶を飲みながら泰助に微笑む。
「へぇ、俺のことを知っているんだ?」
「勿論です!剣を初めて僅か数年で『小天狗』『麒麟児』と言われるまで上り詰め、血筋も剣の腕前も申し分ない次の跡取りになられたと!それに美丈夫で惚れぬおなごはいないとか!!まさかこうしてお会いできるなんて…しかも稽古をつけてくださったなんて感激です!明日銀や鉄に自慢しますッ!」
瞳を輝かせてやや早口で熱弁をふるう泰助に土方は飽きれたが、伊庭はそんな賛辞には慣れているのだろう、涼しい顔で受け止めていた。
「なんだか大袈裟だなぁ。俺はただの旗本の幕臣で、歳さんの悪友で、ちょっと腕が立つだけなのにな」
「御謙遜を!お会いできただけで光栄です!」
「君、歳さんの小姓なんだって?その齢で苦労してるね」
「おい」
泰助は憧れの有名人に会えて舞い上がっていたが、土方は騒がしさに辟易し「席を外せ」とさっさと退出させた。
すると伊庭は早速、
「不用心が過ぎますよ」
と遠慮なく説教を始めた。
「歳さん、今は大政奉還が為って薩摩や長州、土佐が今か今かと戦を待ちわびているんです。幕臣たちだって戦支度を始めてます。それなのに若い小姓一人を連れて夜道を歩くなんて不用心でしょう」
「お前だってこんな夜に一人で訪ねて来ただろう」
「俺はこっちでは顔を知られていません」
伊庭の言い分は尤もではあったが、だからと言って突然斬りかかってくるのはやりすぎだろうと土方は苦笑した。
「…まあ、お前のおかげで泰助も勉強になっただろう」
「あの子は江戸の子ですよね?」
「ああ、試衛館所縁の者だ」
土方が井上源三郎の甥だと伝えると、物覚えの良い伊庭は「少し似てますね」と頷いた。
「…それより、いつこっちに来たんだ?」
「つい先日ですよ。江戸から上京して二条城に詰めるって話だったんですが、もう各地から集まった藩士や幕臣でいっぱいで…ひとまず近くに寄宿してます」
近藤の話の通り、二条城は混乱しているらしい。しかしそのおかげで伊庭が自由に行動することができたのだろう。
「それで実際のところはどうなんだ。…戦は起きるのか?」
直属の遊撃隊のひとりとして近藤とは違う話があるはずだ。しかし伊庭は難しい顔をして腕を組む。
「…江戸からは洋式軍隊が五千から一万上京する予定です。聞いた話によると旗本や歩兵が五千、会津が三千、桑名が千五百…対する薩摩は二千、長州は千と言われていますから数の上では圧倒できるでしょう。軍艦も数隻こちらへ向かっています。ただ…上様がどのようにお考えなのか伝わらず、混乱しています」
伊庭の口から具体的な数字があがり、やはり彼は遊撃隊の一人として現実的に戦場に立つのだろうと土方は思う。
「幕臣のなかでさえ公方様のお命を狙う輩がいると聞いたが」
「…そういう苛立ちはありますね」
伊庭は否定はしなかった。兵数は勝っていてもその頂に立つ者が揺れ動けばあっさりと敗北することもあるだろう。家茂公が病死された時の混乱を思い出せば想像に難くない。伊庭は少し黙り込んだが、土方は
「お前の考えは?」
と促した。こうしてわざわざ人目を忍んで別宅を訪ねてきたのだから、本音を打ち明けたいはずだと思ったのだ。
伊庭はその涼しい目元を伏せ指先を弄びながら、慎重に言葉を選んだ。
「…西国は上様の辞官納地を求めています。上様は辞官…内大臣の座を辞することは自らも望んだであると受諾される見通しです。ただ、納地については幕臣たちが収まりません。西国は徳川の所領のうち半分、二百万石の返上を求めているそうですが、実際の石高自体が二百万石程度しかない。つまりはすべてを没収されることになる…俸禄を失い、家臣たちが暴動を起こすのは目に見えているので、条件を呑めば必ず戦が起こります。だから俺は前線で戦うだけです」
「公方様は戦をする気がないと聞いた。俺は頭領を変えて西国との戦に臨むべきだという考えも理解できるが」
「俺には理解できません」
伊庭は即答したことが土方には意外だった。
土方は何も慶喜公を殺せと言っているわけではなく、合理的に考えて求心力を持つ別の者が立つべきだと述べただけだ。そしてそんなことは理性的で賢い伊庭はわかっていると思ったのだ。
「及び腰の公方様をお支えするのか?」
「…歳さん。これは嫌味ではありませんが…俺は生粋の幕臣です。生まれた時から直に徳川の恩恵に授かり生きて来たんです。その俺が、主君を変えるべきだとか、別の御方を選ぶべきだとか…そんなことを論じて口にする立場ではありません。上様がどのような御方でも忠義を尽くします。上様のために命を賭けて働き、たとえ不要であると捨てられてもこれまでのご恩に報いるべく、己のために戦います」
迷いのない言葉に確固たる意志があった。
伊庭は飄々としているようで実は誰よりも頑固であり、剣術に興味がないと投げ出した時でさえ幕臣としての誇りを忘れてはいなかったのだろう。この頑固さは近藤に通じるところがあるが、彼らの違いはやはり生まれからくるものなのだろう。伊庭は徳川へ命を賭けるべき家に生まれたのだ。たとえ考えが異なっていても口に出すことはなく、逃げ出せない場所にいるのだ。
(俺とは違うな)
徳川のためというよりも、近藤のため。近藤が徳川以外に仕えるのなら自分もそうする…不忠義な志は伊庭にはとても言えないが、彼とは歩んできた過程が違う。いくら意気投合しても交わらない考え方だろう。
少しだけ互いに沈黙したが、伊庭がすぐに口元を緩めた。
「…こんな話、昔はありえないと笑い飛ばせていたんですけどね。あまりにも現実的で困っちまう。でも、これは本音です」
「そうか…俺はお前ほど強くはないな」
「何を言っているんですか、鬼副長」
伊庭は笑い飛ばし、土方もつられて笑った。伊庭と話をすると気が緩み、
「…俺は時々、総司を連れて遠くに行きたくなる」
とつい漏らしてしまった。もちろん伊庭の耳に届き、彼は急に神妙な顔をした。
「…具合、そんなに悪いんですか…?」
「いや…最近、ようやく一線を退くと決めた。今は療養に専念しているおかげで病状は落ち着いているが…俺が勝手に、時々無性に可哀そうになるだけだ」
あんなに熱心に生き甲斐として身に着けた剣を置かざるを得なかった。総司は近藤と号泣して以来、未練を口にすることはないがそう簡単な決断ではなく、痛みとして引き摺っているだろう。
そしてその気持ちは若い頃から天才と持て囃された伊庭にはよく理解できる。
「…俺は、ここに来るまで沖田さんに何と声を掛けようかと考えていました。きっとこの家で療養されているものだと思っていたので、会えなくて拍子抜けですが…でも、その反面少し安心しました。まだ良い言葉が見つかりません」
「皆同じだ。俺でさえも…どう励ませば良いのかわからない。だが、あいつは絶望しているわけじゃない。最近は泰助のように若い隊士に稽古をつけるのを楽しんでいる。お前が話し相手になればきっとそれだけで喜ぶだろう」
「…そうですか、じゃあ顔を出そうかな」
伊庭は少し安心したように微笑んだ。



三浦の要請で警護の人数を増やすこととなり、斉藤の負担は減ることとなった。
「一度しっかりお休みになってください」
新入隊士の相馬が気を遣い、隊士たちが控える一階の一室を開けたおかげで斉藤は久しぶりに体を休めることができた。
(真上は三浦の部屋か…)
二階の部屋からは轟音のような鼾が聞こえてきた。
中井の件を伝えて以来、三浦は正気で居られなくなったようで昼間から酒に逃げ、とにかく酔っていた。世話をする朝比奈は大変そうだが、傲慢な我儘を慰めるよりも酔っぱらいを介抱する方が楽なはずだ。
(このところは周囲が静かになった…)
一軒目から三軒目まで何かと騒がしく、何度も宿を変える羽目になったがこの数日はそれがなく平穏に時間が過ぎている。新撰組の物物しい警備に気が付き諦めて撤退…となれば良いのだが、監察方からそのような知らせはなく、陸奥や中井の居場所もいまだにわからないままだ。
斉藤は髪をかき上げながら、息を吐いた。
(早く帰りたい)
不自由な警護任務がこれほど過酷に感じるとは思わなかった。
「斉藤先生」
襖の向こうから斉藤を呼ぶ声が聞こえて「入れ」と答える。すると案の定、梅戸がいた。
「山口だ」
「あっ!そうでした」
頭を掻いて謝す梅戸はいっそわざとなのかと思うほど反省しない。
「あのぅ起こしてしまいましたか?」
「ちょうど起きたところだ。…それで?」
「はい。朝比奈殿ですが…何度か外出し、後を追ったものの不審なところは何もありません。三浦殿の言いつけ通りに酒や肴を買い求め、どこにも寄ることなくここに戻っています」
「…そうか」
斉藤はあぐらをかき、思案する。梅戸の目には朝比奈は従順な侍者に見えるのだろう。
すると梅戸は珍しく声を潜めながら
「まさか、朝比奈殿が内通者の類ではないかとお疑いですか?」
と訊ねてきた。
斉藤ははっきりと朝比奈が内通者や間者の類だと思ったわけではない。しかし彼は三浦を利用して陰間から成り上がり、主人に忠実な態度を見せながらも『強い人が好き』だとあっさり手のひらを返し、同じ顔の英の存在を本心から嫌悪している…ここにいる誰よりも異質であることは間違いない。
「疑うのは当然だろう。移動して早々に三浦の所在地が敵に知られている気配もあった。…あくまで一番隊に情報を漏らす者がいなければの話だが」
「ハハ、御冗談を」
「冗談のつもりはない」
「えっ」
梅戸は少し青ざめつつ、「も、戻ります!」と無駄口を叩くのを切り上げた。梅戸もあの端正な顔に篭絡されて見えるべきものが見えなくなっているのかもしれない。
早朝に起きるつもりだったが、まだ日が昇らないうちに目が覚めてしまったので、斉藤は着替えを済ませて二階に戻ることにした。足音を潜め、階段を昇るとその先で島田が仁王立ちのまま腕を組んでいて、斉藤に気が付くと軽く頭を下げた。
「様子は?」
「よくお休みになられています」
「朝比奈は?」
「そのう…ご一緒です」
島田は急に視線を泳がせて言い淀む。詳細を聞かなくとも斉藤には状況を理解できたので「交代だ」と言って休ませることにした。









解説
なし

拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ