わらべうた




806


翌朝、土方は伊庭を伴って近藤の妾宅を訪ねた。
「御無沙汰をしております」
伊庭は恭しく頭を下げた。旗本に昇進して以来の顔合わせだったのだが、当然近藤は
「仰々しい挨拶は必要ない」
と懐かしい友人を歓迎し、妾の孝も娘のお勇とともに顔を出した。伊庭と孝の間には身請けの際にひと悶着あったもののすでに解消されており穏やかな再会となった。
しかし最初は大人しかったお勇は次第に機嫌を損ねてぐずるようになり、早々に孝とともに退出したがそれでも泣き声は妾宅中に響き渡る。
「元気な赤子ですね」
伊庭は目を細める。彼が子供を相手にしている姿はあまり見たことがなかったが、総司ほどではないにせよ手慣れていた。一方近藤の相変わらずの嫌われっぷりに土方は苦笑するしかない。
「まだ懐いていないみたいだな」
「ああ。やはりこの顔が恐ろしいらしい」
近藤は努めて妾宅に戻ってお勇との時間を大切にしているがまだまだ手を焼いているようで、残念そうにため息をつく。するとそこへ
「勇先生」
と若い隊士が顔を出した。しかし伊庭の顔を見るや「お客様でしたか」と恐縮して身を退こうとするが、近藤が招き入れる。
「せっかくだから紹介しよう。伊庭君、彼は私の従弟で隊士の宮川信吉だ。時折私の代わりにお孝やお勇の面倒を見てくれている。…信吉、こちらは心形刀流伊庭道場の伊庭八郎君だ」
「お、お初にお目にかかります、宮川信吉と申します」
信吉も伊庭の名前は良く知っていたようで驚きつつ、深々と挨拶する。信吉は近藤の叔母の子で天然理心流の門弟であり総司の一つ年下だ。腕は立つものの大人しい性格で、近藤の血縁であるが偉ぶることなく勤めている。近藤も身内であることや彼の気質をよく知っているので、信頼して何かと仕事を任せていた。
「初めまして。…近藤先生に少し似ていらっしゃいますね。口元とか」
「よく言われます」
信吉は苦笑して頷く。そして近藤へ視線を向けた。
「勇先生、これから天満屋の応援に向かいます」
「うむ、励んできてくれ。斉藤君に宜しくな」
信吉は再び頭を下げて姿を消し、そのまま妾宅を出ていく。伊庭は笑った。
「近藤先生のご親戚は皆、口が大きくていらっしゃるのですか?」
「ハハ、そうだな。父方の血だろうな。お勇が俺に似ないのを祈っているよ」
「女子は父親に似るものですよ」
「困るな。お孝に似た方が将来安泰だぞ」
「確かに」
伊庭が遠慮なく茶化し、近藤はたじたじだ。お互いの立場は変わってもここに流れているのは試衛館の空気に違いなく、伊庭も絆されてリラックスしているようだった。しかし四方山話に興じるためにわざわざ足を運んだわけではない。
「…それで二条城の様子は?」
近藤が切り出し、伊庭は再び土方に話したことと同じことを口にした。近藤自身も会津公の元へ通い状況はそれなりに把握しているが、遊撃隊の一員として身を置く伊庭とでは入ってくる情報が違う。近藤の表情は次第に真摯なものへ変わっていった。なかでも伊庭が江戸の状況を話すと眉間に皺を寄せた。
「江戸では、薩摩が素行の悪い浪人をあちこちに放って治安を悪化させているようです。押し込み強盗、放火…とにかく市中では薩摩憎しの声が上がって、戦をすべきだという機運が高まっています。上京した幕臣たちもその声に後押しされていまこそ上様を据え変えて開戦をすべきだという声すらあります。…しかしそれこそが薩摩狙いでしょう、乗ってしまっては敵の思う壺です」
「その通りだ。…確かに公方様のお考えは図りかねるところはある。しかし公方様以外に誰が陣頭指揮を取られると言うのだろか。またその座を巡って争いが起きるのだとしたら…いや、今更その座に就きたいと考える者はいないだろう。きっと聡くいらっしゃる公方様はきっと遠くを見通していらっしゃる…そう信じて待つしかない。会津公もそのようにおっしゃっていた」
「忠義に篤い会津公がそのようにお考えでしたら安心です。…それに、兵数や軍艦を考えると徳川がとても負けるような戦とは思えません、きっと薩摩や長州と戦になっても勝てるでしょう」
「そうだな」
伊庭の力強い言葉に近藤は深く頷いたが、傍で黙って聞いていた土方はそれが伊庭の優しさだと感じていた。兵数で勝っていても二度目の長州征討は負けたに等しい戦だった。簡単に『勝てる』とは言えない戦だが、近藤を鼓舞するためにも口にしたのだろう。
忙しい近藤は早速黒谷へ向かうと言うので、近い再会を約束して伊庭と土方は妾宅を出た。
冬の冷たい風が頬を撫でる。江戸にいた時よりも大人びた伊庭の横顔を見ていると時の流れを感じざるを得ないが、同じことを伊庭も考えているだろう。
「…ところで、先ほど天満屋がどうとかおっしゃっていましたけど、斉藤さんはそちらに?」
「ああ。今は紀州藩士の警護任務を取り仕切っている」
「へぇ、紀州ですか…」
伊庭には思うところがあったようで、少し考え込む。
「どうした?」
「…紀州藩主の茂承公は先代の家茂公が将軍職を継がれることに伴って紀州藩主になられ、ご関係としてはご養父とご養子です。ですが、お二人は齢が近く大変親しい間柄だったそうで、茂承公は二度目の長州征討で御先手総督を務められています。家茂公が薨去されたのち、一度は茂承公に将軍推挙のお話があったそうですが固く御辞退され、慶喜公に決まりました。それ以来、御三家ですが紀州は少し距離を置くようになった…そんな話を小耳に挟みました」
「…御三家ですら徳川本家を見放すかもしれないって?」
「わかりませんが…最前線で負け戦を経験し、家茂公を亡くされ、すぐに慶喜公へ仕えるお気持ちが振るわないのは仕方ないでしょう。それにいろは丸の件で財政的にもひっ迫しているはずですから、表舞台には出たくないはずです」
「…」
御三家だとか親藩、譜代…かつての常識であった世の中の形はいままさに変化しようとしているのかもしれない。土方にとっては他人事のように思えるが、徳川のなかで生まれその一端を担ってきた伊庭からすればこの世情の混乱に途方もない無力感を覚えるのだろう。
しかし気丈な伊庭はそんな素振りを見せずに、
「斉藤さんにお会いできないのは残念ですが、まあお会いしても嫌な顔をされますからね」
と笑い飛ばした。


同じ頃、朝夕問わず酒を口にするようになった三浦が思いがけぬことを言い出した。
「友人を招く」
寝不足のせいで目が虚ろで声も枯れ、常に酔っている状態の三浦が正気とは思えず、斉藤は
「正気ですか?」
と率直に訊ねた。
「正気だ。そうだな、関と三宅あたりが良い。…朝比奈、文を出せ。藩邸に詰めているはずだ」
「先生…」
「なんだ、不満か?私に付き合うのは飽いたのか?」
朝比奈は困った顔をして斉藤に視線を送る。客人を招く危険は朝比奈も理解しているようだ。斉藤は引き続きはっきりと
「人を招くのは危険です」
と進言すると、三浦の表情が変わった。
「危険だからお前たちがいるのだろうッ?!不自由を強いているのだ、これくらいの融通を利かせろ!」
三浦はどれだけ傲慢であってもこれほど声を荒げることはなかった。感情の起伏の大きさは酒の手助けもあるのだろうが、斉藤は「ですが」と食い下がった。しかし三浦は譲らない。
「要求を飲めぬならこの宿から出ていく!」
「殺されます」
「ああ、そうかもな。だが私が殺されて困るのは新撰組だ。お前たちが紀州の顔に泥を塗ることになるだろう!」
「…」
三浦は剣幕を鋭くして迫り半ば脅迫したが、斉藤は(その通りだ)と内心思った。幕臣の近藤は新撰組の威信をかけて紀州の体面を守ろうとしているのだから、三浦が死ぬと困るのは当人でも紀州でもなく、新撰組だ。
しかしこれは斉藤の独断では決められない。
「…上司と相談させてください」
「明後日だ。それ以上は待てぬ」
「承知しました」
斉藤が素直に頭を下げたことで満足したのだろう、三浦は「ふん」と鼻息荒く部屋を出ていき、自室の扱いをしている隣室に戻った。
「申し訳ありません」
「…仕事の一環だ」
朝比奈の謝罪を聞き入れつつ、斉藤は後ろに控えていた島田に隣室の見張りにつくように指示し、相馬には屯所に戻り土方の許可を得るように伝えた。三浦のあの剣幕では客人を招くことになるだろう。
「関と三宅…というのは?」
「先生と同じ周旋方の関甚之助殿と三宅精一殿です。日頃から親しくされていらっしゃいます」
「…陸奥や中井と繋がりがある、ということは?」
「ありません。…お疑いですか?」
「…」
朝比奈の問いかけに斉藤は答えなかった。
すると隣室から「酒だ!」とまた怒鳴り声がして、朝比奈は嘆息する。
「…酒を調達してまいります」
「共に行こう」
「そんな、山口先生の手を煩わせるような…」
「三浦殿は俺の顔を見たくはないだろう。…気分転換だ」
目の前でこっ酷く怒鳴られる光景を見ていた朝比奈は「そうですね」と斉藤の適当な言い訳を受け入れた。斉藤は島田へ目配せをして警護を任せ、朝比奈とともに宿を出た。
足元から冷えるような寒さと冷たい風が流れている。朝比奈は迷いなく南へ向かって歩き始めた。
「酒はいつも同じところで買い求めるのか?」
「はい。先生の郷である伊予の酒を売っている店があります。あのようにご機嫌損ねているときには必ずこの酒をご用意しています」
「…三浦殿との付き合いは長いのか?」
「ええ…私を拾っていただいてから二年ほどでしょうか」
「お前を買ったのか?」
「そうです」
斉藤は半ばカマをかけるつもりで安易な質問をしたのだが、朝比奈はあっさりと認めて微笑んだ。むしろやっと聞いたかと言わんばかりの余裕があった。
「あの方にお聞きになったのでしょう?確か…野村殿でしたか」
「…覚えていたのか?」
「はい。威勢よく快活な方で…私を憐れに思って買ってくださったのですが、男だと知ってとても驚いていらっしゃったのをよく覚えています。まさかこのようなところでまたお会いするとは夢にも思わず…」
朝比奈はまるで隠していたつもりはなく、淡々と雑談のような気軽さで話し続ける。
「三浦先生と出会ったのはその半年後くらいです。道端でいつものように身体を売っていたところこの見目を大変気に入られたのか、有り金すべてで買い上げ、身なりを整えて囲い、不自由ない暮らしを与えてくださいました。いまでは従者の真似事までさせていただいています」
「…恩があるのか」
「恩…」
饒舌だった朝比奈が言い淀んだ。足を止め、その長い睫を伏せたので斉藤も立ち止った。
「恩…というほどの感情はありません。確かに暮らしは豊かになり食事も満足にでき、感謝しています。…でも私がやっていることは結局陰間と変わらないでしょう?その点はある意味、三浦先生は私にとって『客』です」
「…もっと恵まれた暮らしができるなら、別の『客』でも構わないということか?」
「そうですね。…軽蔑しますか?」
「…いや」
朝比奈は「良かった」とまるで高級な芸妓のように端正な笑みを見せて再び歩き出した。
彼の生き方について、斉藤が咎める理由はなかった。三浦が不憫とも思わず、朝比奈が哀れだとも思わなかった。











解説
なし

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