わらべうた




807


冬の曇り空が続くなか、不意に晴れ間が訪れた。
縁側に出た総司が久しぶりの陽の光を浴びて背を伸ばしながら、「今日は良いことがありそうだ」と呟くとそれを聞いていた山野も頷いた。
「良いことといえば紀州藩士の警護の件、警備人数を増やしても良いと許可が出たそうで一番隊の皆は随分楽になったと言っていましたよ」
「そうですか。このご時世ですから、警備の人数が多いことに越したことはありませんよね」
「はい。…先生、お加減が宜しいなら風呂でも焚きましょうか?身体を温めると血の巡りが良く、病に効くそうですよ」
「そうだなあ…」
総司が思案していると、俄かに玄関の方が騒がしくなった。そちらに視線を向けて「お客さんかな」と山野とともに首を傾げているとその足音がだんだんと近づいてくる。そしてその客人の顔を見た途端、総司は
「ほら、やっぱり良い事があった」
と笑った。山野は慌てて頭を下げたが、彼は軽く手を振って答える。
「お久しぶりです、沖田さん」
「伊庭君…お元気そうで何よりです」
「…はい」
土方とともに伊庭がやってきたのだ。
目を細めて微笑む伊庭は総司を見てほんの一瞬だけ何か逡巡したように言葉に詰まったが、すぐに周囲を見渡して
「噂には聞いていましたが、立派な屯所ですね。こりゃ大名屋敷にも引けを取らないですよ。あーあ、すっかり追い抜かされちまったようで、大出世した皆さんに接すれば良いのか…気の弱い俺は尻込みしちまうな」
「誰が気が弱いだって?お前の態度は相変わらずだろう」
「いくら御出世しても歳さんには諂う気持ちにはなれませんね。日頃の行いをよく知っているからかな」
伊庭の軽口を土方は鼻で笑い、そのまま客間に案内する。総司は山野に茶を持ってくるように頼み、伊庭との再会を喜んだ。
「いつこちらへ?伊庭君はお忙しいから会えないだろうと思っていたんです。今日はお時間があるんですか?」
「ええ、昨日、歳さんの別宅にお邪魔しまして先ほどまで近藤先生の妾宅に。夜には戻るつもりですが今は戻っても仕方ありませんし…」
「多くの兵が集まっているんですよね?」
「そうなんです。落ち着かないし、気苦労が絶えないのでもうここに住んじゃおうかな。空き部屋あります?」
伊庭が冗談を口にすると、総司もつられて笑った。それから土方から伊庭が別宅にやってきた経緯を聞き、さらに気分は高揚した。
「それは泰助も驚いたでしょうね。今朝方、銀之助や鉄之助と何やら騒いでいたのはその件だったのか」
「ハハ、若い隊士の刺激になれば幸いです。…ところで、その…」
「何か?」
「…具合はいかがですか?」
伊庭らしくなく、急にトーンを変えて少し言葉を選ぶように切り出した。彼の複雑な表情を見てこの屯所を訪れた時、あるいはその前から長く葛藤していたのだろうと総司は思った。
伊庭とは生まれや育ちは違い、共通点と言えるものは若い頃から剣術に励み名声を得てきた者同士ということくらいだ。早くから天才を呼ばれてきた者であるからこそ共感し、彼の察しの良さに何度も助けられてきた。
そんな彼がこんなに迷い、話を切り出すことすら躊躇われる姿は初めて見た気がした。
総司は穏やかに笑った。
「…心配をかけてすみません。自分では案外元気だと思っているんですが、周りの皆は静養しろとうるさいんです」
「当たり前だろう。まったく、隙を見つけてはウロウロしやがって…山野に面倒をかけるなよ」
土方がため息をつきながら総司を叱ると、伊庭は少し緊張がほぐれたように微笑んだ。
「そうですか…正直、もっと悪くなっているのではないかと思っていたので安心しました。まあ、お元気そうで、とは言えませんが」
「ハハ、伊庭君は正直ですね」
伊庭と総司が笑いあっていると、そこへ「失礼します」と相馬が顔を出した。彼は少し焦った様子だった。
「ご歓談中に申し訳ございません。…土方副長、急ぎご相談させていただきたいことがございます」
「わかった。…少し席を外す」
相馬は一番隊の一員として天満屋に詰めているはずだなので何かあったのだろう。状況を察した土方は相馬とともに客間を出ていく。すると伊庭が神妙な顔で総司に近寄って、何も言わずに手を握った。そして感触を確かめるように何度も何度も指先でなぞった。
彼の整った顔立ちが、寂しげに歪んでいた。
「…伊庭君?」
「本当は誰かに、嘘だと…言って欲しかったです。病なんて…労咳なんて俺を心配させて揶揄うための嘘だったなら良いのにと、ここに来るまで心のどこかで思っていました。でも…こんなに痩せてしまって、本当に病に掛かってしまったんですね。…悔しいです」
総司は伊庭が声を震わせ心から落胆しているのを感じた。いままで周囲からは励まされ、慰められるばかりだったが、伊庭のように率直な気持ちを聞き、やはり彼とは響きあうものがあると思った。そのせいだろうか、再会してすぐに本音を漏らしてしまう。
「…私も悔しいです。万が一病が治っても以前のようには剣を持てないでしょうし、もう高みを目指すことはできません。これが天命なのか何の巡りあわせなのか…時々、どうしようもなく苦しくも感じます」
「当然です。…あなたには天賦の才があるのだから、この道を極めるべきだった。でも、人が羨む才能があるからと言って…天は残酷すぎます」
伊庭の悲しみのような憤りのような感情に触れ、総司は慰められる。病になるまで周りの人間がこれほどまでに自分への期待を向けていてくれることに気が付いていなかった。だからいつまでも不安で、役立たずにはなりたくないと思っていたのだろう。
(僕の心はもう満たされている)
そのせいか、もう涙は出なかった。
「…この世情ではいつ戦が起きるかわからないですから私だって、伊庭君だって明日をも知れぬ命です。だからお互いに悔いのないように生きなければならない。…私の分までとは言いませんが、どうか皆んなの力になってください。伊庭君の活躍を心から願ってますから」
「ハ…ハハ、何ができるのかわかりませんが…なんだか俺の方が励まされました」
伊庭はようやく総司の手を放し、いつもの調子で「感情的になりました」と少し恥ずかしそうに笑った。
「でも一つだけ言わせてください。…いや、もう一度言わせてください。あなたは、あなたらしく生きるべきです。そして、そのあなたらしく生きることが歳さんの傍で生きることなら、そうするべきです。…そのことを忘れないでください」
総司は途端に、浪士組出立の前、伊庭に言われた言葉を思い出す。試衛館に残って伊庭とともに近藤たちの帰りを待つ…その選択肢を拒むことを伝えると、伊庭はそう言って見送ってくれたのだ。
総司は頷いて「ありがとう」と言った。彼が現状を肯定してくれていると思うと、安堵できたのだ。


別室に移動した土方は相馬からの報告を聞いて腕を組みなおした。
「三浦殿の要求を突っぱねることはできそうにないか?」
「…難しいかと思われます。この頃は常に酒を嗜まれ、正常なご判断をされていらっしゃらないご様子です。朝比奈殿のお言葉にも耳を貸さずに…」
「そうか…」
斉藤が宴の許可を求めてきたからには、そうなのだろうと思いつつ、しかし気が進まなかった。
(居所が広まれば広まるほど、陸奥たちに知られてしまう可能性が高まる)
この不安定な時勢に、いくら紀州とはいえども信用はできない。それに友人である紀州の藩士を招くということは、単純に警護すべき人数が増えるということだ。
だが、了承せずに三浦が激高し勝手な振る舞いをした挙げ句、もし身の危険があれば…新撰組や近藤の責任になってしまうだろう。この時期に厄介ごとは増やしたくはない。
土方は仕方なく頷いた。
「…わかった。ただし、要求した二人だけを許可する。当然女も呼ぶな」
「承知いたしました」
「局長に相談して当日は警護の隊士を増やす。宴は明後日にしてくれ」
「はい、山口先生にお伝えいたします」
相馬は頭を下げるとそのまま急いで天満屋に引き返していった。










解説
なし

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