わらべうた




809


覚えているのは、まるで害獣でも見るように見下した父の顔と、その隣で弟が虐げられる光景を見て恍惚に浸る異常な兄の姿だった。
随分と口が上手い兄は、父に取り入って訴えたようだ。
『あのように美しい顔はおかしい』
『似ていない』
『弟ではない』
父の疑いは母に向いたがそもそもが冤罪である母の訴えなど聞き入れられるものではなく、抗うことを止めた母は
『わたくしは妖を産んだのかもしれない』
と言い出して、狂った。
そして与えられるべきものを取り上げられ、生きるはずだった場所を離れざるを得なかった。残ったのは男なのに女のような顔と、身体と、幼い妹だけ。
『お前だけは…』
お前だけは幸せになってほしい。
そんなほんの少しの願いさえ人攫いによって手放さざるを得なかった時、張り詰めていた糸が切れた音がした。
神に、仏に、見放された。憎むべきはこの美しすぎる顔だけか。
(もうどうでもいい…ここは地獄だ)
生きても地獄、死んでも地獄。…ならば、せめてこの世界と別れるまでは好き勝手に生きてみよう。それがただ泥濘ばかりの道だとしても、その先の岬まで歩き続けよう。
どうせ最後は崖に落ちて―――何事もなく消えるだけだ。手を差し伸べてくれるのは地獄の番人だけだろうから。


朝比奈が目を覚ました時すでに部屋には明るい陽が差し込み、主人である三浦は着替えを済ませていた。
「あっ…申し訳ありません…!」
朝比奈はすっかり寝過ごしたようで慌てて体を起こすと、「良い」と三浦は気にしていない様子だった。
「それよりも随分と魘されていたが」
「私が…ですか?」
身に覚えはなかったが、確かに身体中が汗ばんでいて声は掠れて身体が強張っていた。
(あんな話をしたせいで…)
そもそも自分の過去の記憶は曖昧だ。陰間として衣食住が定まらず長く過ごしたせいか断片的な記憶でしかなく、憎悪や悲嘆といった感情は覚えていても上手く自分の過去を話すことができない。それなのに斉藤に「妹がいる」と漏らしてしまったせいで、長らく語るのを避けていたことを掘り起こしてしまった。
三浦は黙り込んだ朝比奈に近寄ると、その分厚い手で頬に触れた。
「私はお前に無理をさせているようだな」
今日は酒が抜けて随分と三浦の機嫌が良く、周りを見る余裕があるようだ。朝比奈は内心安堵しながら、首を横に振った。
「…まさか。先生にそのようなご心配をおかけして申し訳ありません。少し疲れていただけです」
「そうか…無理はするな」
高圧的で傍若無人な振る舞いを見せるが、本来は人見知りが激しいだけで悪い人間ではない。尊大な言動は他人との距離を測るためのもので、いったん身内となれば別人のように優しい性格だ。
「…先生、どうして私を拾ってくださったのですか?」
「なんだ藪から棒に…」
「いえ…改めて、お聞きしたくて」
「…」
悪夢を見たせいか、三浦との出会いが頭の中で反芻していた。
暗い夜道、千鳥足で酔った三浦が夜鷹の真似事をしていた朝比奈を見つけ、その顔を見るや懐から財布を取り出して
『金なら全部やる』
と強引に手を引いて連れ帰った。家で待っていた奥方はもちろん良い顔をしなかったが三浦はそれでも朝比奈を家に留め置き、身を奇麗にして整えた後、気まぐれのように寝所を訪ねてきた。
三浦は「うむ」と腕を組み難しい顔をして考える。そして朝比奈が
「私が美しかったからですか?」
と訊ねると少し黙った後に
「…そうだな」
と頷いた。朝比奈は「そうですか」と微笑んだが
(またこの顔か)
と心のなかでどうしようもない無力感に苛まれていた。
陽の光は眩しいのに、今朝は冷え込んでいた。今更、汗ばんだ身体が冷えたような気がして、朝比奈はぎゅっと襟元を引き寄せた。



宴を夜に控え、斉藤は見張りを野村と応援の宮川に任せて島田と相馬を呼んだ。
「この宿に移るまでのすべての見張りの当番を書き出してくれ」
「…すべてですか?」
突然の命令に島田は面食らったが、相馬は「わかりました」と頷いた。
すべてと言っても天満屋に来る以前は、直接三浦の警護を務めていたのは斉藤だけであとは宿の入り口や外の見張りを務めていた。相馬は矢立を手にして隊士たちの名をすらすらと書いていく。
「…最初は場所を宿内部、外部と分け、さらに隊士をこのように組み分けして三交代で行いました。しかしその後三軒移動しましたので移動作業のために組み合わせを変えることもありましたし、渋り腹や風邪など個人的な理由で適宜交替していました」
「一人ひとりの行動を知りたい。覚えているか?」
「はい」
相馬は即答し、記憶をたどりながら詳細を書き出していく。傍らで島田は「よく覚えているなぁ」と感心しつつ助言しながら二人は書き連ねていった。
「…天満屋に移動してからは三浦殿の許可を得て応援の者が入ることになり、人数が増えますが」
「頼む」
「承知しました」
相馬は引き続き書き進め、結局は今朝までの勤務体制のすべてを完成させてしまった。斉藤は相馬が賢いとはわかっていたが、これほどまでに記憶力が良いとは思わず素直に感嘆した。それに彼は自分以外の周囲にもよく気を配り観察しているのだ。
「…よく覚えているものだな」
「いえ…お役に立てば幸いです」
相馬は少し照れ臭そうにしつつ書き出したものを眺めながら、しかしこれが何に利用されるのかはあまり理解していなかった。
斉藤は全体を俯瞰して眺める。やはり一番隊の隊士たちは優秀で斉藤の指示がなくとも自力で組をまとめていて、突発的な出来事が起こったとしても均等な負担になるように計画的に上手くやりくりしていた。
「島田、三浦殿と朝比奈が同衾した日にちを覚えているか?」
「えっ?あ、は、はぁ…えぇっと…」
島田は相馬以上に理解が追いついていないようで、いったいなぜそんなことを尋ねるのかと言わんばかりの表情だった。しかし相馬ほどではないが伍長として責任のある島田は記憶を反芻しながら、日にちに丸印をつけていく。
「…これくらいでしょうか?」
「そうだな」
島田と斉藤の記憶は同じで、相馬も頷いたので間違いないだろう。
斉藤は再び腕を組んで、ずらりと並んだ隊士たちの名を確認していく。島田と相馬は顔を見合わせて困惑していたが、
「…ここ」
斉藤は一箇所を指さした。
「この宿に移って三日目、許可を得て応援が入った日だ。俺はこの部屋で半日休んだあと夜になって島田と交替したはずだが、お前の名前がない」
「ああ…その日は応援に来た船津という隊士が部屋前の見張りを務めていたのですが、急な渋り腹で替わってほしいと言われまして四半刻ほど交替しました。山口先生と顔を合わせたのはその時です」
「渋り腹…」
「…まあ、渋り腹というよりもお二人の房事に中てられたというのが本音ではないかと。顔を真っ赤にして何やら居た堪れない様子でしたので、その後は主に一階や外周りに配置しています」
「…」
島田の言う通り船津の割り当てを見ていくと、その後は宿の内部や外に限られて二階に上がってはいない様子だ。そして梅戸が朝比奈と怪しい人物が話し込む姿を見た…という日は外回りの任務に就いていて話し込むタイミングがあり、状況に即していると言えるだろう。
斉藤は休んだ半日以外は島田に任せることはあっても常に三浦の隣室で警護にあたっていた。そのたった半日の間に朝比奈と平隊士が誰の視界にも入らずに接せられる時間があった。
(たったこれだけで疑いをかけるべきではない)
何の証拠もない…それはわかっているが、船津以外の誰にもその機会はなかったのだ。
「…いま、船津はどこに?」
「確か屯所に戻っているはずです。今夜の宴には他の応援の隊士とともに合流する手はずです」
てきぱきと答える相馬に斉藤は鋭い眼差しを向けた。
「この件は誰にも漏らすな。そしてもし、船津が怪しい動きをしたらすぐに身柄を抑えろ」
「…承知しました」
相馬は深刻な顔で答え、島田も頷いた。
斉藤は二人を任務に戻して自分も二階へと戻る。外部からの敵襲どころか内部さえ疑わなければならない状況に辟易とし、足取りは重い。するとちょうど宴の段取りを任せていた宮川と朝比奈が話し込んでいるところだった。
「あ、お疲れ様です、山口先生。勇先生から宴の肴をお預かりしています」
『勇先生』と親しげに呼ぶ宮川は近藤の年の離れた従弟だ。大人しいが、近藤の身内であることに自惚れず退屈な警護任務の応援にやってきている。
「…そうか」
「近藤局長から日々窮屈な思いをしている分、今宵は楽しい宴になりますようにと御伝言を頂きました。三浦先生は大変喜んでおられます」
斉藤はそれが近藤の社交辞令であると同時に『必ず無事に終わらせろ』と指示されているような気がしたが、朝比奈は周囲も見とれるような微笑みを振りまいている。昨夜のやり取りなど綺麗さっぱり忘れたような素振りだ。
宮川が顔を赤らめ、野村も鼻の下を伸ばしていたが、斉藤にはその瞳の奥に隠れる昏さが見え隠れしているような気がして目が離せなかった。









解説
なし

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