わらべうた




810


いつもと違う視線を感じたのは、天満屋に移って三日目のことだった。
酒に酔い、朝比奈を強引に褥に引き摺り込んだ三浦は自分が満足するとすぐに意識を失う様に深く眠った。朝比奈は気だるげに重たい身体を起こして衣服に袖を通しながら、乱れた髪をかき上げ何となく部屋の向こう…見張りの者が立っているであろう場所に視線を向けた途端、ガタガタと物音が聞こえた。
「…」
朝比奈は帯さえ巻かずずるずると衣を引きずりながらそちらへ向かい、ゆっくりと襖を開けたところ見覚えのない若者が顔を真っ赤にして腰を抜かしていた。
「あ…あの…」
彼は言葉を紡ぐどころか、朝比奈を直視するのも憚られるらしい。
(そういえば今夜から応援が来ると耳にした…)
だとしたらこの若者は今日から応援に来た隊士で、三浦と朝比奈の情事など知る由もなく、気を利かせて去ることもできずに始まりから終わりまでここにいたのだろう。
(最中に感じていた視線はこの者だったのか…)
きっと中の様子が気になってこの襖を少しだけ開けて覗いていたに違いなく、彼の真っ赤になった顔には居た堪れなさと不埒な興奮が顕れていた。
「…も、申し訳ございません…」
若者は深々と頭を下げた。朝比奈が問い詰める前に自供する素直さとうぶな反応を見せた彼を見下ろしながら、朝比奈は(使える)と思い彼の腕を強引につかんで立ち上がらせた。
「…私に興味がありますか?」
「えっ?!」
朝比奈は返答を待たずに彼を部屋に連れ込んだ。三浦の鼾が響く中、若者が「そんなつもりでは」と動揺するのでその唇を塞いで、深く口づける。戸惑った反応を見せていた若者はたったそれだけで篭絡され、その場に力なくずるずると座り込んだ。
「…お名前は?」
「ふ…船津…」
「船津殿は私と三浦先生の房事をご覧になったのですか?」
「…それは…」
船津が言いよどむ間に、朝比奈は彼を押し倒して跨った。
「では…秘密を共有しましょう」
朝比奈は再び衣を脱ぎ捨てた。まだ身体のなかにある熱が発散されずに溜まっていたので都合が良かった。
最初、船津には動揺と迷いがあった。彼は任務中でいまは誰かがここに来るとも限らない状況であり見つかればきっと大事になるだろう。しかし朝比奈から逃れて去るべきだと思う理性はあっという間に崩れていき、朝比奈の思うままに『秘密を共有』することになったのだ。

それから、朝比奈は船津が宿の外の見張り役として独りになるタイミングを狙って声をかけた。
「船津さん」
「あ…」
素早く物陰に連れ込んで、彼の首に腕を回して深く甘く口づける。船津は顔を赤らめつつ眉を顰めた。
「…っ、困ります…」
「困ってないでしょう?それに…もうその気じゃないですか」
朝比奈が上目遣いで微笑むと、船津は恍惚の表情を浮かべた。
そしてそれを何度か繰り返しているとこの後ろめたい行為が喜びへ変わり船津は朝比奈が何をしても拒まなくなった。背徳というものは媚薬のようなものだと知っていた朝比奈は
「これを」
と最中にこっそり書付を渡した。朝比奈は梅戸が尾行していることにが気が付いていたので、自由に外出はできない。船津は「これは?」と訊ねたが詳細は答えなかった。
「今までのことを…三浦先生や隊士の皆さんに暴露されたくないでしょう?」
と半ば脅した。船津は躊躇っていたが、すでに朝比奈の手中に落とされ思考は停まっている。易々と引き受けて、非番の日には朝比奈の指示通り書付を届けた。
朝比奈はそんな船津のことを愚かだとは思わなかった。むしろこの『顔』に翻弄されてしまった哀れな被害者だと言えるだろう…そう思った時にふと母が言った『妖を産んだ』という言葉が蘇り、その通りかもしれないと思った。父も兄も、三浦も船津も…妖に惑わされてしまったのではないか。
(私は化け物か…)
都合よく周りの者をかき回して、他人事のように嘲笑っている。
朝比奈が「はは」と自嘲しながら階段を昇っていると、目の前に斉藤が現れたので表情を引き締めた。
「そろそろ客人を迎えに行く刻限か?」
「…ああ、そうですね、そろそろ行ってまいります」
「念のため島田と野村と一緒に遣わすが、構わないか?」
「勿論です、大変心強いです」
朝比奈は軽く頭を下げたが、視線を感じて「何か?」と訊ねた。斉藤は少し沈黙した。そして
「引き返すなら、今のうちだ」
「…」
凛とした声と眼差しが、朝比奈を射抜く。読み取れない表情の裏側ですべてを知っているようで。
(初めて会った時は…気に入らなかった)
大抵の男なら手玉に取る自信があったのに、斉藤は朝比奈の顔を見て少し驚いただけでそれ以外は心の揺らぎは全くなかった。三浦との関係が同意の上だと知ると「好きにすればいい」と涼しい顔で関心がなく、そんな反応が新鮮で幾度となく嗾けたが、何度も何度もかわされて一瞬も隙がない。憐れな過去を話しても動揺も同情もせず聞くだけで、最後には温情をかけることなく『お前よりも美しい者を知っている』と断言され、結局朝比奈は振り向かせられずにお手上げだった。
(こんな人に好かれるなんて、たまったものじゃない)
水と油のように決して混じり合わない。斉藤は朝比奈にとって最も遠い場所にいる人間だった。
(でも…だからこそ、知りたいと、理解してみたいと思うのだろう…)
縁遠いとわかると同時に芽生えたのは…おそらく羨望だったのだ。
「…引き返すなんてとんでもない。三浦先生を怒らせてしまいますから」
「そうか…」
「では先生にご挨拶をしてまいります」
朝比奈は斉藤の傍を通り過ぎて三浦の部屋へ向かった。斉藤の視線を背中に感じていたが引き返すつもりなどなかった。


日が暮れようとしている頃、総司は土方とともに別宅に来ていた。いまだに建具を入れ替えたあとの違和感は残っているが、それでもここが心落ち着ける場所であることに違いはない。
「今夜が例の宴でしたっけ?」
総司が厚手の綿入れを着込んで火鉢の前で休んでいると、土方は炭を弄りながら「ああ」と頷いた。
「屯所の方に詰めていた方がいいんじゃないですか?」
「ここの方が天満屋に近い。斉藤と大石には俺がここにいることを知らせているから問題ないだろう」
「…つつがなく宴が終わると良いですね」
総司は何となく天満屋の方向へ視線を向けた。詳細は聞いていないが、一番隊の隊士たちだけでなく応援も数名加えて物物しく警備に当たるそうだ。
「そうだ、例の短銃…山野君に頼んで斉藤さんに貸しているんですが、構わないですよね?」
総司が訊ねると、土方は眉間に皺を寄せた。
「お前の護身用に渡したんだが…」
「それはわかってますけど、なんだか嫌な予感がして。…ほら、私の嫌な予感は当たるでしょう?」
「…そうだったな」
良い予感はさほど感じたことがないが、悪い予感はいつも当たる。土方もそれを知っていたので、責めはしなかった。
「でもまあ…斉藤さんに渡したところで使わないと思います」
「使わないとわかっていたのに渡したのか?」
「それでも…無意味なことじゃないと思ったんです」
理屈っぽい土方はあまり腑に落ちていなかったが、総司にも具体的な理由はなかったのでそれ以上は話さずに掌を火鉢に近づけて温めた。
「今夜も…寒くなりそうですね」
「ああ」
十二月七日の夜を迎えようとしていた。







解説
なし

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