わらべうた




815


二条城には薩長への敵愾心が十分すぎるほどに満ち、城内は日に日に戦の匂いが漂うように物物しい。しかしその頂に立つ者はその空気を敢えて無視し涼しい顔のまま成り行きを眺めていた。もどかしさは日々募る。
『お傍で御守りする』…その言葉通り片時も傍を離れない会津公は
「今すぐに戦を」
「薩摩兵など捻りつぶせます!」
昂る幕臣や諸藩たちとの板挟みとなっていた。大樹公はそれを良いとも悪いとも口にせずただ時間の経過を待っている…会津公の傍に控える浅羽にはそれがとても長く感じられた。
「殿、新撰組から例の紀州藩士警護の件で報告が参りました」
「浅羽…無事に終わったか?」
「いえ、土佐の海援隊、陸援隊の数名に襲撃され、激しい戦闘になったようです。三浦殿はかすり傷程度で数名捕縛したとのことですが新撰組は負傷者が多く出ているようです。しばらくは事態が収まるだろうと紀州からも手を引くように言付かりました」
「そうか…」
浅羽の報告に対し、会津公の返答は鈍い。目元にはうっすらクマが浮かんでいた。
「殿、少しお休みになられてはいかがでしょうか…?」
「そうはいかぬ、上様には傍に侍るようにと命令されている」
「しかし…」
いくらなんでも昼夜問わずというわけではないだろうが、融通の利かない性格のせいか篤過ぎる忠誠心のせいか…浅羽には根を詰めているように見えた。
(ひとまず何か適当な理由を作って休息を取って頂かねば…)
そう思った時、大樹公の部屋から板倉老中が退出した。酷く険しい表情を浮かべ会津公に目配せして去っていくと、「肥後守!」と大樹公が呼ぶ声が聞こえた。
会津公は入れ替わるように中に入り、浅羽は嫌な予感がして躊躇いながらも聞き耳を立てた。しかし密談だったためすべてが聞こえてくるわけではなく、ただ一言だけ大樹公が
「私の名前が無いようだ」
と発したのだけ耳に入る。大樹公は怒りでもなく、憤りでもなく…どこか呆れたような言い方をしたので重大なことだとは思わなかったが、しばらくして部屋を出てきた会津公は青ざめていた。
「殿?」
「…何でもない。上様のご許可は頂いた、休む」
「承知しました…」
とても近づける雰囲気ではなく、浅羽はその場に留まり会津公の落胆した背中を見送ることしかできなかった。


総司が少年たちの稽古を見守っていると、原田が「やってるな」と声をかけてきた。
「巡察帰りですか?」
「ああ。いつも通り一周してきた。昨晩は大変だったらしいな、紀州のお偉いさんが無事で何よりだが、斉藤でさえ苦戦したんだな」
「思った以上に負傷者が多く出たみたいです」
「へぇ…」
原田は総司の隣に膝を折り、しばらく黙って少年たちの素振りを眺めていた。本来お喋りな彼がこれほど沈黙し覇気のない様子なのは見たことがない。
「あの…」
「これからどうなるんだろうな」
総司の言葉に敢えて被せるように、原田は口を開いた。
「徳川は政権を返上しちまって、これからは帝と薩摩の時代だって評判だぜ。世の中、そんな簡単にひっくり返っちまうのかな…」
「…近藤先生は、帝や薩摩が中心となっても徳川には兵力や領地では敵うはずがないとおっしゃっていました。たとえ戦となっても勝てるだろうと」
それ故に新しい政権が発足したとしても徳川が担うことになるはずだと近藤は信じている。
しかし原田の表情は晴れない。
「戦か…結局、分かり合えないんだよな」
「…」
「じゃあなんで平助は死んだんだろう…どうせ互いに戦になるなら正々堂々、御陵衛士のあいつと闘いたかったな…」
「それは…」
「俺はもちろん徳川のために戦うつもりだが…正直、気が向かない。…なんだか、奮い立つ熱いものがないんだよな」
「…原田さん…」
総司は言葉が出てこなかった。
原田の遠い眼差しは、亡くした藤堂を面影を追っているように見えた。まるで世間の歯車の一部のように消えていった喪失感は原田の中で燻り続けている。
屋根の雪が溶けて、冷たい水となって滴り落ちている。ボトボトという何気ない音が妙に大きく聞こえた。
原田は再び素振りを続ける少年たちに視線を向けたので、総司は「あの子」と後方で誰よりも汗をかきながら竹刀を振る鉄之助を指差した。
「市村鉄之助です。藤堂君に似ていると思いません?」
「…平助に?」
原田は目を凝らして首を傾げるが、似ているのは顔形でも体格でも剣筋でもない。
「兄だけ合格する予定だったのを私が土方さんにお願いして入隊させたんです。あの真っ直ぐな眼差しが、魁先生に似ている気がして…きっと見込みがあるだろうと」
「…まあ目ェだけはな」
原田は苦笑するが、同時に
「試衛館にいた時、平助もああやって無我夢中に振り回してたよな」
懐かしい光景を思い出し、表情が柔らかくなった。
過去は過去でしかなく戻れるものでもない。失ったものを取り返すこともできず、理不尽さを感じることもある。しかし過去は今を支える原動力でもある…それを総司はよく知っていた。
「戦になるのかどうか、わかりませんが…あの子たちがちゃんとした大人になるまでは力を貸したいと思うんです」
「…なんかお前、隠居した爺さんみたいだな」
「ハハハ、そうかも」
「…じゃあ俺ももう少し頑張らねぇとな。なんといっても養わなきゃならねぇ嫁さんと息子がいるんだからな」
「その意気です」
原田は膝を叩き立ち上がると「報告に行ってくる」と本調子ではないにせよ前向きな表情で去っていった。


その夜、近藤が「付き合え」と言うので、土方は将棋盤に並べた駒を手慰みに弄りながら、酒を舐めるように口にして彼の話に耳を傾けた。
諸藩が集う二条城はいまにも爆発して薩摩との戦に向かおうかという機運が高まっているが、当の大樹公自身がその気がないようだ。
「俺だって大樹公のお考えをお聞かせいただけるまで辛抱するつもりだったさ。だが、大樹公は前の戦でもあっさりと休戦に持ち込んでしまわれた。そもそも戦をするお気持ちがないのだ」
「そうかもな」
「だが、いまは出陣してしまえば状況は変わるのに、何かと理由をつけて弱腰だ。だから薩摩なんかに舐められる!」
酒のせいか、いつもは敬意を払うべき大樹公に対して本音が溢れていた。顔を真っ赤にしてくだを巻くのを見ると本心ではよほど腹に据えかねているらしい。
「せめてこの国を治めるなら先頭に立って皆の指揮をだな…!」
「一橋様は朝敵になりたくないのさ」
土方はずっと話半分で「そうだな」「お前の言うとおりだ」と頷いて相手をしていたが、あまりに熱弁する近藤を遮って止めた。幼馴染が明日には「失言だった」と落ち込みそうだとわかっていたからだ。
土方は自軍の王将に触れた。
「一橋様の父君は言わずもがな斉昭公だが、母君は有栖川宮家の娘だ。つまり、ご自分には帝の血が流れている…一橋様があくまで尊王を貫くのは決して朝敵になるつもりがないからだ。薩摩が帝を抱き込んでいる限り、一橋公は戦などしないし帝に弓引く行為はできないだろう」
「し、しかしこのままどうするおつもりで」
「近藤先生、二条城の血気盛んな様子にあてられたのかもしれねぇが、徳川がいま何か起こす必要があるか?…伊庭が前に言っていただろう?薩摩の思う壺だと」
土方は敵陣に金将、銀将を配する。歩兵は減らし守りは薄い。飛車や桂馬といった駒も遠くに置かれている。
「大政奉還後の舵取りはいまだに徳川が担っている。今後の政については朝廷で日々話し合われているようだが、参加している藩が何も反徳川ばかりと言うわけではあるまい…徳川を新政府に加えようとする尾張や越前、土佐がいる。そして二条城には国中から兵が集い今か今かと戦支度を整えていて…この状態で僅か四千の兵しかいない薩摩が一橋様を排除した新政府など宣言できるか?…徳川への憎しみが上回らない限り、そんな愚かな選択はしないはずだ」
「…それは、そうだが」
「一橋様はそれを見越してあえて動かないのだろう。焦ってあちこち動き回るより、何も口にせず不穏である方が相手は動揺する」
土方はそれ以上駒を動かさなかった。つまり何もするべきことなどないのだ。
(人望は無いようだが…俺はそれほど無能な将だとは思わない)
ただ有能すぎて先を見通すため、目前の考えが伝わっていないのだろう。一橋家には領地も兵もいない…信頼していた部下たちも暗殺され孤立している。そんな将軍がこれからどんな舵取りをするのかはわからないが、伊庭は『幕臣なら論ずるべきではない』と言っていたのでその通りだろう。
近藤は黙って俯いてしまったので、土方は
「そろそろ水でも飲め」
と湯飲みを勧めた。さらに総司が顔を出し、「飲み過ぎですよ」と笑ったのだった。











解説
なし


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