わらべうた




816


慶応三年十二月九日、薄明。
「山崎監察」
監察から離れ組長へ格上げし、個室を与えられてもなお易々と熟睡できない日々が続くなか、部屋の外から小声で呼ばれ山崎はパッと目を覚ました。
「…なんや?」
「失礼します。…ご一緒していただけませんか」
訪問者は大石だった。普段から無表情で抑揚のない話し方をするが、今朝の彼は少し焦っているような様子だったので只事ではないだろう。
「わかった、すぐに行く」
山崎は大石に合わせて潜入用の木綿の衣服に手早く着替え、裏口から屯所を出る。大石に「これを」と土の付いた大根やカブが入った竹籠を渡されたので朝市にやってくる農民を装うらしい。手拭いで顔を隠し、凍るように冷たい地面を歩く。
「…何があったんや?」
「御所の様子が物物しいのです」
「物物しい?」
「兵の数が…異常で」
「…」
山崎は眉間に皺を寄せた。
御所では徳川が政権を返上して以来、薩摩と手を組んだ公家が帝を抱き込み、諸藩とともに会議を繰り返していた。薩摩や長州のように徳川を排除した政権を目論む藩と、広大な領地と兵力を持つ徳川を無碍にすべきではないと主張する雄藩の間で溝が埋まらず、政が滞っているためにいまだに徳川が政権の長として異国との交渉を行う状態が続いているはずだ。
「局長と副長に報告すべきか悩みましたが…判断ができませんでした」
「そうか」
大石は個人的な印象では確信が持てず、山崎を頼ったようだ。
まだ寝静まっている大通りを念のため避けて細道を歩き、丸太町から御所へと近づく。すると遠目からでも下立売御門の前に松明がめらめらと揺れ、兵が銃や槍を携えて警備をしている姿が目に入った。
「…もう少し、北へ行ってみよか」
山崎は大石とともに北上するが、次の蛤御門、中立売御門、乾御門…同じように厳重な警備がなされていた。
「薩摩、芸州…越前と土佐か?」
身を隠しながら北側の今出川御門まで足を延ばしたところで朝陽も随分明るく差し込んでくるようになった。旗や兵装に印される家紋を見る限り、大藩が各御門を警備しているに過ぎないのかもしれないが、その威圧的で戦支度のような兵装と兵の数を見す限り、各門の警備というよりは接収しているとも見えた。
(せやけど、越前と土佐は徳川の味方では…?)
山崎は少し考え込むが、組織の末端に過ぎない自分には考えたところで正答にありつけるとは思えない。
「局長と副長に報告した方が宜しいでしょうか?」
「…そうやな。昨晩局長は深酒をされたそうやから、まずは副長に判断を仰げ」
「承知しました」
「俺はもう少し様子を見てから戻る」
山崎は大石を先に帰営させ、さらに西へ歩き御所を一周したがすべての御門の前で同じ光景が広がっていた。その頃には人通りが増え始め、御所の変化について人々がコソコソと噂話をしていた。
「なんや昨晩から騒がしなぁ」
「あれは薩摩はん?」
「いやや、戦でも始める気ぃやろか…」
庶民でも気が付いてしまう物物しさなのだろう。山崎は悪い予感がしてこめかみのあたりがキリキリと痛む…すると不意に目の前に女が現れた。身なりは質素で中年小太りの柔和な笑みを浮かべた女子だ。
「そのお大根、売ってくれへんやろか?」
「…あ、ああ。喜んで」
(そう言えば俺は大根売りやった)
すっかり忘れていた山崎はすぐに表情を作って、適当に「三文や」と言うと女は困って「二文にならへんやろか?」と頼んできた。山崎としては本業ではないのでいくらでも構わなかったのだが、女は訊ねてもいないのに事情を話し始めた。
「うちの隣の家に瘡毒の若い男がおってな。面倒見る者もおらんでしゃあのう面倒みてあげてるんや、知らぬふりで死んだら気分悪いやろ?大根をすったものやったら食べやすいか思てな」
「はあ、それで手の持ってるのんは三文のようだが?」
山崎は目ざとく女が三文を握っていたのを知っていた。払えない額ではないのに出し渋る…女はにやけた表情のまま笑った。
「ハハ、金は沢山持ってるみたいでな。…誰が喜んで瘡毒の面倒なんてみるかいな。手間賃もろうても悪ないやろう」
「…まあ、確かに」
山崎の手に三文入ろうが、女の手に一文入ろうがどちらでも良いことだ。しかし下心を隠し偽りの親切心で世話を焼きながら小金を懐に入れる女の態度には酷く不快なものを感じた。
話しが長くなりそうだったので山崎は二文を受け取って大根を売った。そしてついでにカブも渡して
「こらあんたにやなしに、その若い男に。…一文まけたったんやさかい文句はあらへんやろう」
「…へえへえ、どうも」
女は山崎の態度に少し気分を害したようだが、カブを受け取って戻っていった。山崎はもう関わりたくないと思いつつ彼女が戻っていった古い長屋を視線で追うと、女は手前の扉を開けて
「大根、買うてきたで」
と声をかけた後、自分の長屋らしきところへ入っていった。女の話は同情を引いて値切るための嘘ではなく、一応は本当の話らしい。
(…こんなつまらないことを気に掛ける時やない)
山崎はため息をついて、再び御所へ視線を向けた。きっと女の話に付き合ってしまったのは現実逃避だったのだろう…そんなことを思った。


前夜の八日、夕方から翌朝にかけて開かれた朝議にて、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉らの蟄居赦免と還俗、九州に落ち延びた三条実美ら五卿の赦免などが決まった。そして待機していた薩摩、越前、芸州、土佐らが御所の九つの門を封鎖し、親徳川の公家の参内を禁止した。
「御所へ幕臣や会津、桑名の兵が向かいましたが、とても近づけませんでした。御門へ向けて戦を仕掛ければ我々が朝敵となりますから」
大石の報告を聞いた土方は、二日酔いの近藤を叩き起こして山崎が帰営したあとに改めて話を聞いた。そうしていると浅羽が昨晩から今朝にかけての出来事を知らせにやって来た。
「長州の官位復帰に公家らの赦免…」
近藤はわなわなと震える。この数年の間に成し遂げた討幕派の追放がまるで無かったことになって元通りだ。失望を隠しきれなかった。
「…それどころか、上様の辞官納地も決まりました。新政府への参画も許されず」
「なんと…!上様は一大名として天子様をお支えしたいとおっしゃった、何も特別な待遇など求めてはおらぬのに…!土佐の容堂公は…徳川排除を反対されていたのでは…?!」
「残念ですが折れざるを得なかったのでしょう。尾張も越前も…」
近藤は浅羽に詰め寄るが、いつも精悍な表情を崩さない彼でさえ動揺を隠せていなかった。
実際に土佐の容堂公は徳川への恩に報いるべく、薩摩と岩倉卿の手腕を陰険だと断じ幼い帝を擁し政権を盗む行為だと非難したが、結局は多数の可決によって口を閉ざさざるを得なくなってしまったのだ。
つまり一夜にして徳川は新政府から追放された、クーデターだった。
「謀反、というよりも政変か。…薩摩も思い切ったことをする」
土方は動揺する近藤と浅羽を前にふんと鼻で笑った。昨晩までは薩摩が徳川の兵力を無視した行動を取るはずがないと考えていたが、どうやら期待を裏切れたようだ。
「歳、そう悠長に構えている場合か?」
「…上様はなんと?」
「それが…越前守様のご報告に『そうか』とおっしゃったきり…特に変わりなく」
「な、何故…何故そのように冷めていらっしゃるのか!上様の元には多くの臣下が、守るべき民がいるはずではないのでしょうか…!」
近藤は唇を噛み顔を真っ赤にして、どうしようもない焦燥感に掻き立てられていた。それは浅羽も同じできっと二条城に入った幕臣や藩士たちも同じように憤っていることだろう。そんな様子を想像すると、土方は逆に冷静になっていく。
「…近藤先生、状況は変わっていない」
「しかし!」
「兵力は徳川が上回り、大坂湾には軍艦も到着する。戦になれば勝てる…むしろこうなれば戦になって白黒はっきりつけた方が良いと思う。単純に、強い者が勝ってこの国を治めれば良いだけだ」
これまで目に見えない権力争いで徳川の命運が定められようとしていたが、排除されたことで状況は実にシンプルになった。
近藤は土方の言葉に呆れたようにため息をついて、「席を外す」と部屋を出ていく。寝起きの酒が残る頭では何一つ冷静に考えることができないだろう。
浅羽はずっと厳しい表情をしていたが、少し気が抜けたように苦笑した。
「…確かに、土方さんのおっしゃる通りですね。状況は有利ですし、我が会津兵も戦を望んでいましたから…このあたりで雌雄を決するのが良いかもしれません」
「ただ…大樹公にその気概があれば、ですが」
いくら勝てる戦でも上に立つ者の気持ち次第だ。しかし浅羽はため息交じりに「そのことですが」と重々しく口を開いた。
「これは私の勝手な推測ですが、どうやらこの政変について上様は前もってご存じだったようなのです。…その上で、兵を出さず抵抗なく粛々とこの決定を受け入れられた…内大臣の職位はともかく、納地を受け入れれば幕臣たちは路頭に迷います。上様はそれをご存じのはずなのに…」
「…朝敵になるのを恐れたのか…」
何か思惑があるのか、土方と同じように達観しているのか、政権を手放して諦めているのか。
あまりにも動きが読めず、土方はなんだか面白くなってしまった。
「…土方さん?」
「いや…何でもない」
いつも予想を裏切る。
敵の王将は一手にして金も銀も食らいつくし自分の駒にしてしまったのだから、政というのは常に規格外だ。















解説
なし


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