わらべうた





81
文久三年八月。
佐々木の事件もひと段落がつき、隊内にそれなりの落ち着きと穏やかな空気が流れ始めた頃。


「相撲興行?」
「ああ、祇園北林で催されるらしい」
近藤と土方、そして山南から呼び出しを受けた総司と斉藤は幹部室へと訪れていた。ちなみに幹部室とは 隊士たちが勝手につけた通り名で、別にたいした意味もなく、近藤の部屋、というだけなのだが。
てっきり何か叱られるのではないかと思っていた総司は、すっかり安心した。
「なーんだ、どんな緊急の用事かと思ったら。斉藤さんまで呼び出すからびっくりしましたよ」
「それが大切な用事なんですよ」
山南が穏やかに笑った。そしてその答えを近藤が続けた。
「実は会場警備を頼まれているんだ」
「会場警備…って、まさか」
「そのまさかだ」
まるで悪戯が成功したガキ大将のように、土方が口の端を持ち上げた。不穏なものを感じつつ、近藤の顔を見ると、やはり総司が考えている通りらしい。
「我々に警備をしろ…と?」
斉藤が尋ねると。三人はそれぞれ頷いた。
「悪いな。非番なのはお前たちだけなんだよ。ほかの奴らは興行に行く気満々だし、いまさら命令できねぇだろ」
「君たちも相撲を楽しみたいだろうが…今回は我慢してくれないか」
「俺は構いませんけど」
年下の斉藤が平然とした顔で答え、今度は総司の顔を窺った。まさかここで指を横に振ることもできず
「…わかりました」
総司は聞き分けの良いふりをして、その命令に応じるしかなかった。

相撲は江戸時代の大衆的スポーツである。江戸相撲と、京都大坂相撲に別れ、特に江戸相撲ではしばしば上覧試合が行われ、ついには「江戸相撲方取締」という役所ができるほどに発展した。

そんな江戸で生まれ育った総司が、相撲を好まないわけがなかった。昼ごろになり、一人、また一人と相撲に出かける姿を縁側から眺めながらため息をつく。
「いーなー…」
それを羨ましそうに見ている総司を見て、斉藤が苦笑した。
「別に警備しながら見れるんだから、いいじゃないか」
「そりゃそうですけどね。何かあればそういうわけには行かないでしょう?集中して見れやしない」
斉藤ははあ、とあからさまなため息をつく総司の隣に腰掛けた。
「でも今回の相撲興行の警備は重要な役目みたいだな」
「え?」
「行幸に来てる相撲一座、この間の大坂の一件のときの奴らなんだよ」
「へえ…」
この間、というのは六月に訪れた大坂での一波乱のことだ。芹沢が道を開けなかった力士の一人を、無礼討ちにしたことから乱闘騒ぎになってしまった。
結局、近藤が場を納め謝罪に行くという形で決着がつき、なぜかその後も親交が続いているらしい。近藤の人柄ゆえだろう。
「…芹沢先生も行くのかなあ…」
「そうだとしたら、また厄介なことになりかねんな」
斉藤が即答し、総司はまた小さくため息をついた。


一方、八木邸の離れには人影が少なくなっていた。というのも、芹沢の取り巻き達がこぞって相撲に出かけてしまったからだ。
異様なほどの静かさに戸惑いながら、梅は団扇を芹沢に仰ぎ続けていた。
不遜な態度で風に当たり続ける芹沢に何の文句も感じないのは、馴れ合った結果なのだろうか。身体を合わせれば、好かない人も好きになれる――以前、遊女屋にいたときに年上の姐さんから聞かされた言葉が今なら分かる。
憎しみを感じながらも、それが愛情に変わるのも分かる。
「せんせは、相撲にはいかんの?」
「……俺が行くとややこしいことになるからな。面倒だ」
芹沢も慣れない暑さに閉口しているようで、あまり行動を起こそうとしない。それが隊に平穏を齎しているのも事実だが。
「せんせは……うちのこと、どう思ってんのん…?」
梅は不意に口にした。
「まだ…沖田せんせの代わり…?」
口にすると現実めいてしまい、語尾が掠れた。
わかっていたはずなのに。自分は代わりというそれ以上でもそれ以下でもない存在だと。けれど、どうしてこんなに哀しいのだろう。
どうして、芹沢に愛されない自分が悲しいのだろう――?
「代わり……か」
芹沢が呟いた。
「代わりの人間にこんなに入れ込んだりしないけどな」
「え…?」
「ただ、惚れた好いたとかいう年齢でもねぇってことだ。欲しいものは手に入れるし、手に入らなければ奪いたいと思う。…ただ、それだけさ」
「じゃあ…うちのこと、手に入れたかったん…?」
「…どうだかな」
芹沢は寝返りを打ち、そっぽを向いてしまった。
もしこの男が欲しいと一言言ってくれれば…自分はそれを受け入れるのだろうか。
憎たらしくて、殺しても足りないと思っていたこの男を……今では、こんなに近くにいるのに心は穏やかなままだ。
許せないと、思っていたのに。どうしようもなく……
「どうしようもない……女やね…」
「…お前は、優しすぎる」
どうしようもなく、言葉が染みる。堅く閉ざした扉が、この横暴な男によって開かれてしまう。
「それを……なんであんたがいうんやろうね…」
まるで欲しがっていたものを知っていたかのように。
「…仕方ねぇんじゃねぇのか。お前とは……同類なんだ」
背中を向けたまま不遜な態度を丸出しにして、言い放った言葉がどうしてこんなにも熱くするのだろう。
それは総司に向けた感情に、似ていた。


総司と斉藤が祇園北林に向かうと、既に人ごみで溢れかえっていた。普段は静かな時間が流れている場所というだけあって、 それは異様な光景に移る。観衆たちが押し寄せたそこでは歩くことさえも難儀だった。
「さいと…さん、これ、警備なんてしようがあるんですか?」
「仕方ない。人気力士が来ているんだろう」
「このまま仕事しなくてもバレないんじゃ……っ、いた!」
誰かに足を踏まれた総司は声を上げるが、謝罪するものは誰もいない。観衆はつま先だけを地面に着け、誰よりも背伸びをして力士を一目でも見ようともがいているのだ。
背中の押し合いで口論になっている観客もいて、辺りはちょっとしたパニック状態だ。
「とにかく、挨拶に行かないと。副長からも頼まれているんだろ?」
「なんか手紙を言付けられたんですよねー…。ねー、斉藤さん、渡し終わったら帰っちゃいましょうよ」
相撲が見たいといっていたわりには、人ごみにその誘惑はあっさりと負けてしまうらしい。斉藤は苦笑しながら「仕方ないな」というと、総司は嬉しそうに笑った。
夏の暑さと人ごみの熱気で、総司と斉藤は息も絶え絶え、汗はダクダクという様子でやっと土俵近くまでたどり着いた。土俵近くでは原田らが平隊士を引きつれて観戦に来ていたのが見えた。大きく陣取って自慢げに手を振る姿を見て、思わず脱力してしまったのだが。斉藤は着流しのまま試合を眺めている力士の一人の話しかけた。
「んぅ?親方やて?」
「ええ、壬生浪士組のものが来たと取り次いでもらえませんか」
そういうと、やはり、力士は嫌な顔をした。親方とは和解したものの、被害は力士のほうが大きかった。死者もいたし、怪我をした者も多いだろう。だが、お互いへりくだるわけにもいかず力士は渋々 「待っとけや」 というと背中を向けた。 その間に、数人の力士たちが忙しく通り過ぎた。と、
「お、あんた…」
「え?」
総司の顔を見て力士たちが二,三人立ち止まった。
「どっかで見た顔やなぁ…」
「やなぁ…」
「どこやったかなあ」
力士たちが顔を見合わせながら総司の顔をじろじろと見る。肉厚の顔と独特の汗の匂いに詰め寄られ、総司は一、二歩後ずさった。
「あ、あの…」
「あ、そうや!」
一番背の低い力士が不躾にも総司を指差して叫んだ。
「あんときの鼻血小僧や!」
一人が叫ぶと「そうや」「そうや」という話になり、力士たちは人目も気にせず大声で笑った。
総司は頭が真っ白になる。
そういえば大坂で乱闘騒ぎになったとき、力士の棍棒が顔に当たり、鼻血を出したまま刀を振り続けた…ということはあったが、あの緊迫した場面で誰もが気に止めていないと思っていたのに。
「がっはっは!あんた、ええ顔しとんのに、鼻血出したままおるさかい、印象に残ってなぁ! あとで相撲部屋で噂になったんやで!」
「そうや!兄貴がなあ、美人さんやのに、鼻血だしたままはあかんわってゆうとったわ!」
「そうそう、誰か嫁さんにしたいとかゆうてなかったか!」
「あれは深山の兄貴やわ!」
大声で騒いだものだから、次々と力士が集まり「なんだ」「なんだ」と総司を取り囲むことになった。
じろじろと総司の顔を眺め、そしてみな噴出すように笑っていく。
「さ、斉藤さん…!」
総司は助けを求めて、斉藤をみる。だが、
「……斉藤、さん…」
肝心な助っ人は、あの日の記憶が蘇ったのか腹を抱えて震えながら必死に笑いを堪えていた。


その後、親方が現れその場はお開きになった。
だがその親方も総司のことを覚えていたようで「そうか、あんたがなあ」とまじまじと顔を見られる羽目になった。総司はさっさと手紙を渡し、顔を俯かせる。親方はその場で手紙を読むと「うむ」と頷いた。
「了承したと伝えてや」
親方は満面の笑みで頷く。総司はそのときはその手紙に書かれている内容を知らなかったのだが、
実は壬生での相撲興行の約束を取り付けたのだと後に知ることになる。


82
文久三年八月。壬生浪士組はかつてない忙しさだった。

「はい、チラシ。これを配ってください」
山南の字はおおらかで、達筆だ。字は正確を表わすというけれど、彼の字はまさにそのものだった。山南から渡されたチラシには「壬生礼相撲」と大きく書かれ、その下に今日の未の刻から始まる相撲興行の詳細が書かれていた。

土方が約束を取り付けた相撲興行は、すぐに実行に移され八木邸の隣にある壬生寺の境内で行われることになった。
相撲は当時、庶民唯一のエンターテイメントであるため、大きな利益を見込んだものだ。もちろん、一観客として楽しむ隊士も多いが、この間の大坂での大乱闘を「商売」に変えてしまったあたり、総司は土方らしいな、と思っていた。

総司は山南から渡されたチラシを永倉に渡した。宣伝担当は人当たりの良い永倉なのだ。
「総司はもう仕事は終わったのか?」
「いえ、巡察が残ってるんです。せっかくのお祭りなのに、土方さん抜け目ないんだからなあ…」
総司が愚痴をこぼすと永倉が苦笑した。
「そりゃあ、そうだ。俺たちは祭りに浮かれてるだけでいいけど、そうはいかねえみたいだしなあ…」
永倉がちらりと目を逸らす。その先にあるのは八木邸の離れだ。そこは言わずと知れた芹沢の部屋だ。梅も常にそこにいる。
永倉は声を潜めた。
「なんか、機嫌悪そうだったぜ。俺たちが商売まがいのことをしているのが気に入らないらしい」
「そうなんですか?」
「ほら、芹沢先生は生粋の武士だろ。許せないんだろうさ、武士の矜持がさ」
生粋の武士、といわれれば自分たちも当てはまるのだろうに、と総司は思ったものの、芹沢の気持ちは察することができた。
大坂での乱闘の原因は芹沢なのだ。その芹沢を置いて、土方が相撲力士を「利用」し、あまつさえ壬生に招いて興行を催すなど、芹沢のプライドが許すはずはない。
「何もなければいいけどな」
永倉がそう嘆いたのを、総司は同意して頷いた。

永倉と別れてしばらく。
「あ、土方さん」
「総司、ちょうど良かった、お前も運べ」
酒樽を抱えた土方と鉢合わせた。酒樽は十ヶほどあった。
「なんです?前祝に酒ですか?」
「馬鹿。売るんだ、一つ十文でな」
「へえ」と総司は感心した。相撲に盛り上がった会場ではさぞ売れるだろうが、そんなことを考え付くのは土方しかいないだろう。総司は酒樽を抱えると、壬生寺に歩き始めた。
「お客さん、いっぱい来るんですか」
「来るだろ。これで金を集めて、さっさと返済しないとな。壬生浪士組の評判が悪くなる」
「…芹沢先生が不機嫌みたいですけど」
恐る恐る土方を窺うと、一瞬間をおいて「知るか」と答えた。
「俺たちはむしろあいつの尻拭いをしてるようなもんだ。感謝されたっておかしくねえはずだ」
土方の主張は最もだった。芹沢があちこちで作る借金は収入を明らかに超えた額で、利息分を払うだけでも間に合っていない状況だ。しかも、それは会津藩の耳にも入っているらしく、ちくちく説教を食らっているらしい。もちろん芹沢はそ知らぬ顔で、やりたい放題のままなのだが。
「これから…どうなるんだろう…」
総司は空を見上げた。相撲興行に相応しい青空だったが、それが総司に平穏を齎さない。
なぜ、こんなに胸騒ぎがするのだろう。
なぜ、こんなに不安に駆られるのだろう。
その疑問に、土方は沈黙という答えしかくれなかった。


「忙しそうだな」
酒樽を持って二往復したあと、八木邸に戻ると偶然芹沢と鉢合わせることになってしまった。そばには梅が当然のようにいて、総司とふと目が合うと、慌てたように彼女は目を逸らした。
「…そうですね」
土方は芹沢の厭味に乗るように、ぶっきらぼうに答えた。総司は内心慌てたが、二人の険悪な雰囲気は誰が見ても明らかだった。
土方と芹沢が対峙しているのは最初からだったが、昔は芹沢が明らかに優位に立っていた。むしろ土方が牙をむくのに対して、余裕の態度でかましていたのが芹沢だった。だが最近はそうではない。
両者の間には明らかな嫌悪と殺意が満ちていた。一触即発、というのかもしれない。
「せんせ、もういこ」
梅も二人の険悪な雰囲気に気がついたのだろう、取り繕うように芹沢に縋った。芹沢はふん、と鼻で笑い、憮然と言い放った。
「商売まがいのことはやめろ。お前たちの農民気性、目障りだ」
「芹沢先生!」
叫んだのは総司だった。その言葉は明らかに身分差別を誇張したもので、土方を侮辱していた。
「何だ、総司。何故お前が怒る」
「…当然です…っ」
「せんせ、もう、いこ。な、せんせ??」
梅が必死に芹沢の腕を引くが、「邪魔だ」と逆に突き放された。バランスを崩した梅がよろめき、尻餅をつく。
「お梅さん、」
「ただでさえ見下されている我々が、こんな商人まがいのことをして恥ずかしくないのか?我々の沽券に関わることを重々に考えろ」
芹沢が土方に向き直る。しかし、土方の表情は変わらなかった。
「…では、借金を繰り返すことが武士だと?酒と女に溺れることが武士だとおっしゃるんですかね」
「土方さんっ」
「…何だと?」
芹沢の剣幕が鋭くなった。そして刀に手を掛ける。
「侮辱したな。斬り捨ててやろうか…!」
「やめて!」
鞘から刀を抜こうとしたのを止めたのは梅だった。
「もう、ええやろ…、せんせ、こんな無駄なことしてなんになるん?」
彼女は芹沢の腰の辺りにしがみつくようして離れようとしなかった。それがあまりにも必死の形相で…総司には梅らしくなかったように見えた。
すると芹沢が小さくため息をつき、刀から手を離す。
「…お前に免じて、今日のところは聞かなかったことにしてやる」
芹沢は「行くぞ」と梅の手を引いた。梅は芹沢に強引に引かれつつも、総司に一瞥し小さく頭を下げた。

「あの女、芹沢に惚れたか」
二人の姿が見えなくなると、土方は苦笑気味に呟いた。
「そうなんですか…?」
「みりゃ分かる。それに俺が斬られたって梅にとっては「無駄」じゃないはずだからな。俺を庇う理由じゃないだろ。 てことはあの女は芹沢を庇ったんだ」
「…ふーん…」
総司は曖昧な相槌しか打てなかった。すると土方がからかうように
「落ち込んだか?」と尋ねた。
「そんなわけないじゃないですか」
総司はちらりと、土方に目を向けた。
土方は落ち込んでいないのだろうか、と思った。芹沢の言葉は明らかに身分差を誇張した侮辱的な言葉で…総司さえも声を荒げてしまったのに。だが、隣を歩く土方は悠然と、しかし、その表情に何も色をつけずただ青いだけの空を見上げていた。


未の刻から始まる予定の相撲には、すでにニ刻前から人が集まりつつあった。当時、相撲は男だけに公開され、女人が観戦することは 禁忌とされていたが、それでも多くの人が集まった。普段は浪士組を毛嫌いしている壬生村の住人たちも顔を見せ、我先にと席を確保していた。 酒や団扇の販売など、土方の機転を利かせた商売も上場の収益を得ている。
「うわー。もう入れないなあ…」
巡察を終えた総司が斉藤と共に壬生寺を訪れた頃には、相撲は既に満員御礼。ぎゅうぎゅう詰めになるほど人が押し寄せ、 土俵のギリギリまで人が座っている状況だ。
「これだけ人が集まれば、土方さんも機嫌がいいでしょうねえ」
総司が苦笑気味に呟くと斉藤も頷いた。
「大坂での乱闘をこういう形で利用する。…副長はいつからこんなことを考えていたんだろう」
「さあ…どうなんだろうなあ…」
「やっぱり鬼才の策士、かな」
斉藤が感心したように頷いたものの、総司はよく意味が分からず「そうかな」と適当に相槌を打った。昔から将棋だけは強かった。先を見通す力はあるのかもしれない。…しかし
「それにしても『黒の紋付と白縞袴』着用なんて、副長らしい」
という斉藤の苦い顔には総司も同意した。

壬生礼相撲はもちろん財源を見込んで行われたものではあったが、大坂力士との「仲直り」の意味もあった。そのため隊士一同『黒の紋付と白縞袴』の姿で「行儀よろしく」礼相撲に臨んだのだ。


「…お前がその格好をすると七五三みたいだな…」
「失礼なことを言わないでくださいよっ!大体、なんですか、この取り繕うがごとき格好は!」
土方がいる特等席にたどり着いた総司に、土方はあっさりと「七五三」と率直な感想を述べた。…実際のところ似合わないだの、大きすぎるだの散々に言われたのだが。
「取り繕うってわけじゃねえよ。これから会津のお役人さんが来られるんだよ」
「会津の?」
「そう。だから名誉挽回、絶好の機会だ。失礼な格好をさせるわけにはいかねえだろ」
「まあ…」
「おい、襟が抜けてるぞ」
土方は総司の襟を引くと、まるで子供にするように総司の合わせを直した。言いくるめられたような気がしないでもないが、こういう場で腹を立てても仕方ない。総司は渋々口を噤むと土方の隣に座った。
「斉藤」
そしてその総司の隣に座った斉藤に土方が声を掛ける。
「はい」
「芹沢はどうだ」
「山崎さんから聞いた話では今しがた遊里に。梅も一緒です」
「そうか」
二人の間で交わされていた会話に驚いた。一緒に巡察に出かけたはずの斉藤が、街に潜んでいる山崎――監察の役目を果たしている――に 会っていたなど、全く気がつかなかった。
そしてその会話が、総司の胸騒ぎがに拍車をかけた。


相撲興行は無事に終了した。
会津藩から招いた藩士たちも満足げに壬生寺を後にし、観客たちもほろ酔いがちに一人、一人と去っていく。予想をはるかに超えた集客で、土方も上機嫌だった。だが、原田は対照的に不機嫌で
「ったくよお、この格好のせいで羽を広げられなかったじゃねえかよ」
と愚痴をこぼした。
「たまにはこういう格好をしたら気が引き締まるんじゃないんですか?」
「そうだ、おまささんだって『似合うてる』って言ってたじゃないかよ」
藤堂と永倉は宥めたものの、原田はさらに眉間にしわを寄せた。
「…でもまさちゃん、明らかに俺じゃなくてお前を見て『似合うてる』って言ってたじゃねえかよ…」
「ん?なんだ?」
「何でもねえよっ!」
鈍い永倉に、原田はさらに不機嫌になってしまった。

そんな最中。

「近藤局長…っおられませんか!」
祭りを終えた壬生寺に島田が駆け込んだ。大柄な彼が大声で叫ぶとそれは境内中に響き渡り、辺りは時が止まったかのように静寂に包まれた。
「近藤さんなら会津さんたちと一緒に黒谷へ行ったぜ」
「どうしたんです、慌てて…」
「あの、では…っ、土方副長は…?!」
「何かあったのか?」
ちょうど良いタイミングで顔を出したのは土方と総司だった。島田が膝を折り、
「申し上げます!先程、芹沢先生ら数名、大和屋を襲撃!火をかけた模様です!」
「なにっ?」
その場にいた全員がその事実に息を呑んだ。

だが、その中にいて一人だけ、総司は空を見上げていた。赤く色づいた夕焼けを見ながら、長い夜を予感していた。


83
文久三年八月十三日。日中に行われた壬生寺の相撲興行とともに語られる大和屋襲撃は、のちの隊の命運を決めることとになる。

「…え…?」
梅は芹沢の大和屋襲撃の一報を聞き、驚愕した。芹沢と出かけたものの、途中で返された梅には寝耳に水の話だったのだ。
「…お前は関係してないんだな」
頷いた梅がさらに驚いたのはそれを伝えにきたのが土方だったことだ。内容とは裏腹にいたって冷静だ。
「せやけど、なんで芹沢せんせがそんなこと…」
「誰にも理解できるわけがない。お前にも、俺にも」
「……」
「とにかくお前は一歩も外に出るな。芹沢が帰ってきたらせいぜい慰めてやれ」
土方は嘲笑を含めたようにして言い放つと、梅に背中を向けた。
「まって」
「…なんだ」
「……土方せんせは待っとったんやろ?こうなること、だから、そうやって平気な顔して…っ!」
「だったらなんだ」
梅は言葉に詰まった。芹沢を擁護する言葉が見つからなかったのではない。ただ、背中を向けたままの土方という存在が、切迫する恐怖のように思えたのだ。
土方は梅が何も言わないことを悟ったのか、さっさと部屋を出て行った。


「土方さんっ!」
梅がいる離れを出ると、総司は待ち構えていたように飛び込んできた。
「どうした」
「どうしたじゃありませんよっ はやく準備をしてください、みんな待ってますよ」
「わかってる」
気のない返事をして土方は総司をかわした。
梅が言うように絶好の機会だ、と思ったことは否定しない。これがいつか追求材料になり、芹沢を窮地に追い込むことができるだろう。
ただ、純粋に大和屋を――もしくは芹沢を――心配する総司と目を合わせることができなかった。


総司たちが大和屋に駆けつけたときは、すでに周囲に火の粉が降りかかり、半焼状態だった。それどころか芹沢の取り巻きたちが駆けつけた火消しを拒み、状態はとても終息へは向かっていなかった。
近所の住民たちが心配そうに取り囲む中、駆けつけた総司はその取り巻き立ちの中で野口を見つけた。
「野口さん…っ!これはどういうことです!」
総司が問い詰めるように腕を引くと、野口は罰の悪そうな顔で目を逸らした。
「すみません…。わたしの力が及ばないばっかりに…」
「どうして…こんな!」
「いつものように…集金に来たのですが主人がおらず都合がつかなかったんです。そうしたら芹沢先生が火を…。大砲まで持ち出してこんなことに…」
大和屋に金策に出かけることはそう珍しいことではなかった。主人の大和屋庄兵衛は芹沢にたびたび金を貸していたし、そういう意味では贔屓にされていた店だ。よって、一度断られたからといって乱暴を働く理由はない。そうすれば考えられるのは、芹沢の虫の居所が悪かった。……ただそれだけの理由だろう。
「芹沢先生はどちらに…?」
「…屋根の上です」
総司は大和屋の立派な瓦作りの家を見上げた。白い煙と赤い炎、オレンジの光が真っ暗な闇の中で光り、芹沢の姿は見えなかった。

まっすぐ建物に向かっていく総司を引き止めたのは土方だった。
「どこへ行く」
「芹沢先生のところです」
「馬鹿野郎、お前が行ってなんの解決になる!」
「じゃあ土方さんが行ってどうなるんです!火に油を注ぐだけじゃないですか!それに、近藤先生にそんな危ない真似をさせられません!」
土方は総司の腕を引いた。
「もうちょっと冷静になれ!」
「冷静ですっ でもはやく火を止めないと危ないじゃないですか!」
「おい、二人とも、こんなところで喧嘩はやめろ」
言い合いになっている二人を制したのは近藤だった。
「総司、お前の気がはやるのは仕方ないがもう少し待ってくれ。もうすぐ会津の方が来られるはずだ。それから歳。藪から棒に怒鳴りつけるんじゃない。往来だ」
「ああ…」
土方は近藤の言葉であっさり掴んでいた総司の手を離した。
「でもよぉ、どうする?早めに火を消さねえと飛び火しちまう」
原田がため息混じりに辺りを見渡した。京に火事が多い一端は密集した住宅形態にある。加えて長屋が多いため、
火事の飛び火のスピードは火消しがとても間に合わないほど早いのだ。
「取り合えず延焼を防ぐ。町人たちも加えて手分けをして大和屋以外の場所に水をかけろ」
土方が指示を出すと、試衛館の食客たちは苦笑した。
「…なーんか、その指示。前にも受けた気がするな」
「芹沢先生と火事は切っても切れない関係…なんでしょうかね?」
「二度あることは三度ある…ってことはまたこんなこともあるのかもな」
原田、藤堂、永倉の脳裏に数ヶ月前の「本庄宿」のことが過ぎっていたのはいうまでもない。

「お前も手伝って来い。今度ばっかりはお前に無理はさせないからな」
「…わかってますよ」
「本庄宿」のとき、総司が腕を犠牲に窮地を免れたことを土方はきちんと覚えていたのだ。だから土方は大声で怒鳴った……優しさに違いないのだが、総司にはそれが素直に受け止められなかった。早く消さなければ……早く芹沢の暴走を止めなければならない。そんな焦燥に駆られていた。
しかし、いま自分にできることは原田らとともに延焼を防ぐこと。総司は自分に言い聞かせ歩き始めた。
すると。
「きゃああああっ!」
人ごみの中で悲鳴が響き渡った。一斉に野次馬たちの視線がそちらに映る。
「おい!子供が柱の下敷きになったぞ!」
「誰か手伝ってくれ!それから医者を!!」
総司は駆け出した。人ごみを掻き分け、騒ぎの中心へと。目に映ったのは悲惨な光景だった。土蔵の一部が燃え尽きたのだろう、太い柱と共に数十枚の瓦が崩れ落ちていた。
そしてその柱の下敷きになった少女が泣き喚く。「おかあちゃん、おかあちゃん!」その悲痛な声が酷く耳に入った。
「おい!壬生狼はなにしとんのや!」
「早ぉ消せ!こないな子供怪我させてよぉ平気な顔ができるのお!」
火事見物の野次馬が一気に声を上げた。壬生狼とは壬生浪士組のことだ。壬生の狼…そして「身がぼろぼろ」という意味もあるのだと聞いたことがあった。
そしてその視線が総司に集まっていた。もちろん浅葱の段だらを着用していたためだ。
「はよいねや!壬生狼!」
「お上に盾突くのはお前らのほうやないか!」
次々と湧き上がる怒号。それは総司の両手を持って塞いだとしても、聞こえてしまうものだった。
どうしてこんなことをいわれるのだろう。
自分達はこの京を守るために存在しているというのに。
どうして…。

「総司!どこに行く!」
野次馬が騒ぎ出す中で、総司はまっすぐ火の粉の降りかかる大和屋に向かった。土方が止めようと手を伸ばしたが、あと少しのところでそれは届かない。
「総司!おい、総司…っ!」
そして声も届かない。


「…きたか、総司」
梯子を上ってきた総司を見て、芹沢は微笑した。白い煙を背に微笑む姿は途方もない恐怖や畏怖を与えるだろう。
まるで不動明王が君臨したかのように。
総司は不安定な瓦を伝いながらまっすぐ芹沢を見た。
「火を消すように指示してください」
「総司、まるで人を殺してきたかのような目をしているぞ」
「消してください!」
真剣に見つめる総司の視線を嘲笑うかのように、芹沢は笑みを絶やすことをしなかった。
「感謝されると思ったんだがな。今日の相撲興行で失った自尊心を取り戻してやったんだ。明日からはまた町人たちは俺たちを恐怖の目で見るぞ」
「そんなもの…っ!」
「いらないか?では、親しみやすい組をつくってどうする?金儲けか?そんなものはなんの役にも立たない。俺たちは軍隊だ、人殺しの集団だ。……間違っているのか?」
「そんなもののために誰かが傷ついたりするなんて間違っています!」
「誰も傷つかない世界なんてない。犠牲は付き物だ」
芹沢は持っていた徳利を飲み干した。
「総司。中途半端な優しさなんて持っているだけで自分が疲れるだろう。良心と悪意に阻まれる。優しいだけで生きられる場所にお前はいない。…その現実をお前はわかっているのか」
「わかってますっ。私はそれが必要とあらば人を殺せます」
「じゃあ俺を殺せるだろう?」
総司は息を呑んだ。
「今は必要なときじゃないのか?俺を殺すのは今しかないぞ。さあ、斬れ」
芹沢の挑発に総司は刀に手を掛けた。しかし、手が震えていた、心が…乱れていた。目の前の芹沢はまるで壁のように立ちはだかる。身の丈の数倍以上の大きな壁…決して乗り越えられない尊大な。
「総司、俺のものになっちまえよ」
「……っ」
「悪意だけの世界で生きる。お前にはそっちのほうがお似合いだ。お前のように優しさという仮面を被り、本当は人殺しを憎めない。そんなお前が浪士組で生きていくのは苦しいだろう?お前の世界はそこじゃない」
「…っ私は、」
「違うと言い張るのなら、俺を斬ってみろ。それで正当化すればいい。俺を殺すのは当然だと。ただし、それでお前の悪夢がなくなるとは思えないがな」
「……私は…っ!」
頭が回る。炎に取り囲まれた屋根の上で、総司はどうしてだかとても息苦しさを感じていた。
芹沢鴨という人間を……どうしてこんなに憎みきれないのだろう。

「おい、会津さんがこられた!」
「道を開けろっ!」
突然野次馬の中から声があがった。総司が下を見ると会津の家紋がついた提灯が大和屋を取り囲んでいた。
「…仕方ねえ、飯事はおしまいだ」
芹沢はため息混じりに、しかしなぜか悪戯が成功した子供のように微笑んで、徳利を舐めた。


84
大和屋襲撃という前代未聞の事件は思わぬ方向へと転がった。
というのは大和屋が外国と交易を始めていたことが原因だった。その交易のために生糸を輸出品として買い占め、その値段が上がっている、という悪評が以前からあった。そのため、芹沢の大和屋襲撃をきっかけに、民衆のなかで 打ちこわしが起き、結局は民衆も参加した暴動へと発展。大和屋は消失し、民衆たちは拍手喝采で事態は終息したと言う。
とは言っても、芹沢の乱暴極まりない行動は会津藩の耳に入ることになる。

 翌日。案の定、会津が本陣を置く黒谷から足を運ぶよう連絡があった。だが、不思議なことに近藤、土方が名指しで呼ばれたのだ。それを聞いたとき土方の中である予感が生まれていた。
「申し訳ありませんでした」
近藤の後ろに控えた土方は、近藤が頭を下げるのと同時に頭を下げた。芹沢のために頭を下げるのは気に食わなかったが
今回ばかりは浪士組の存続が掛かっていた為、そうせざるを得なかった。
目の前にいるのは会津公用方の広沢だ。会津には珍しい開国を唱える彼は、以前下坂したときの案内役にもなり、何かと浪士組に関わることが多い。問題ばかり起こしている浪士組とそれでも好意的に接してくれている。
しかし、今回ばかりは苦々しい顔をしていた。
「…今回のこと、殿はお怒りになられた。確かに大和屋は異国との交易で利益を得、民衆から批判を受けていたが、こんな乱暴な真似で解決されては困る。民衆にも被害が出たそうだ」
「重ね重ね、申し訳ありません」
近藤が何度も謝った。
会津藩士松平容保は心優しき藩主だという評判は届いていた。忠義に厚く、若き将軍が京都守護職に任命したのも重い信頼を置いているためだというのはよく知られた話だ。また会津でも善政をし、民からも慕われている若き名君でもある。そんな会津藩主の怒りを買っては、壬生浪士組の存続は危うかった。
だが、広沢はちくちくと叱るだけで、解散しろという一言は発さなかった。広沢は日新館に学び、広く学問を修めたあと、松平容保と共に京都へやってきた。公用方筆頭というポストについている。そんな彼の言葉は松平容保の代弁にも等しいのだ。
その広沢を目の前に、近藤ははらはらしているようだが、土方はある程度安心していた。むしろ、予感が大きくなっていく。
「…近藤、土方。貴殿たちを呼び出したのは本件のことだけではない」
「は?」
広沢はこほん、と咳払いをして「頭を上げなさい」と言った。
二人が広沢を見遣ると、彼は真剣なまなざしでこちらを見ていた。広沢は二人と大して年齢は変わらないのだが、その眉間に皺が寄った様子は、初老の男性にも見える。
「芹沢を浪士組から除隊させよ、と、殿のご命令だ」
「除隊…?」
「…それ以上は言えぬ。ただそれだけだ」
広沢はそれ以上は何も言わなかった。目の前の近藤は頭が真っ白になっているのか、その言葉を理解できていないようだが、土方にははっきり分かった。
「…それはあらゆる手段を使っても、構わない、ということでしょうか」
土方が尋ねると、広沢は頷いただけだ。
すると近藤が驚いた顔で土方を振り返る。だが土方も頷いただけで明確な言葉にしようとは思わなかった。
「用件は終わりだ」
広沢は立ち上がり、部屋を去る。近藤、土方は再び頭を下げて広沢を見送った。


帰り道、近藤の顔は青ざめていた。
「どういうことなんだ、歳。広沢様は…」
「近藤さんもわかっているんだろ。本当は」
土方は言葉を投げると近藤はさらに項垂れた。まさか、このタイミングで芹沢への「処置」が取られると思っていなかったのだろう。ショックで無言になってしまった。
だが土方は違った。
自分の中にあった予感が的中しただけのことだった。
「芹沢が除隊なんてするわけがねぇ。あるとしたら浪士組と一蓮托生して終わるときだけだ。…だが俺はそんなことはさせねえ。どんなことがあっても……命令に、従うまでだ」
「歳…お前は躊躇わないのか?芹沢先生の乱暴狼藉は俺だってわかっている。だが、同志だ」
「最初はそうでも今は違う」
「だが…」
「今はただの酔っ払いだ。酒に溺れた哀れな男だ。こんな運命は最初から決まっていた」
「歳!」
近藤が声を荒げた。土方が余りに無感情に返事をするからだろう。だが、土方は謝らなかった。かえって、近藤に攻め寄った。
「かっちゃんだってわかっていただろう。芹沢にはいつか天罰が下る。……その天罰を会津様が下しただけだ。俺たちは誰の配下だ?」
「…将軍様だ」
「将軍様御使命の会津様からの命令なら、俺たちは従うまで。…違うか」
「そうだ、それは俺にだってわかる。だが、お前には情がないのか!今まで一緒に生活してきた仲間だぞ」
仲間、か。
土方は心の中で反芻した。これまで寝食を共にしていながら、一度も芹沢のことを「仲間」だと思ったことはなかった。
いつだって土方にとって芹沢は敵であり、できれば排除したいと思っていた対象に過ぎない。芹沢に敵意を持ったきっかけはやはり「本庄宿」だ。あのときから、土方の心に揺らぎはない。
「歳。ちょっと一人にしてくれ」
近藤が足を止めた。土方はちらりと振り返ると頷くだけして、歩みを速めた。
あんたはそれでいい。悪役は俺だけで…。


「土方さん」
しばらく歩いていると土方は後ろから呼び止められて振り向いた。そこにいたのはやはり総司だった。
「黒谷から帰ってきたんですね」
「ああ、お叱りを食らってきた」
「あはは。大変ですね」
総司が土方の隣を歩き始めた。
隣にぬくもりができたせいか、土方の中でさきほどまでの殺伐とした気持ちが抜けていった。
「お前はなにしてんだ?今日は非番だろう」
「ええ、ちょっと」
総司が口ごもる。土方は総司の顔が冴えないことに気がついた。いつもは能天気に笑ってばかりいるのだが、その分感情の起伏は分かりやすい。
「どこ行ってたんだ?」
「…医者のところです」
「どこか悪いのか?」
「いえ…。その、この間の焼き討ちで怪我をした女の子のところへ行って来たんです」
よくよく見れば総司の手には砂糖細工が入った袋が握られていた。お見舞いに行ったのだろう。
「でも、追い出されちゃいました。あの子のお母さんが私の顔を覚えていたみたいで…。これも渡せないまま…」
総司の表情が、苦笑から悲しみに変わっていく。どんな罵声を浴びせられたのか土方には容易に想像がついた。すると、総司が縋るような目で土方を見上げた。
「土方さん。私達は江戸から京を守るために来たんですよね。誰かを傷つけたり、嫌われたり、…そんなことのために来たんじゃないのに…」
土方はふいに、総司を抱きしめたくなった。
さっきまでの自分を知られたら、総司に嫌われるだろう。「芹沢暗殺命令」…それを聞いたとき、ついに来たと思った。
これであいつを消すことができると。
そんな恐ろしく、醜い姿をいつか総司の前に晒すときがくるのだろうか。だが、それが戻ることができない道だということもわかっていた。

だからふいに、隣にいる総司の優しさに触れたいと思った。自分という人間がお前のなかだけでも清いままでいて欲しいと思った。


「梅。膝枕だ」
芹沢が乱雑な言い方で梅を縁側に呼んだ。部屋の奥で縫い物をしていた梅は、少し顔を顰めたものの従った。
こうして二人で過ごす時間が長くなっていた。最初は芹沢が飲みにいく、と外出するたびに心を休めていたが今は傍にいないと不安になる。 けれども傍にいれば乱暴に扱われるから苦しい。 梅の中でその二つが鬩ぎ合っていた。芹沢は強引に梅を引き寄せると、その膝に頭をおいた。昼間の太陽は暖かく、心地よい。昼寝日和といえばそうなのだが、芹沢の寝不足の原因を知っているからこそ、梅は落ち着かなかった。
昨夜の大和屋での騒動。噂はあっという間に広まり、芹沢の横暴ぶりはさらに台頭した。壬生浪士組の評判もがた落ち。だが梅にとって一番気がかりなのは土方のあの表情だ。
大和屋の騒動を知らせた土方のあの顔。怜悧で無表情ありながら、梅には鬼の仮面にも映った。そしてその男が明らかなる殺気を、芹沢に向けていることは明白だった。
だからこそ、怖くなった。土方という男が。芹沢を無くすことが。
「…起きとる?芹沢せんせ」
「……なんだ」
芹沢は不機嫌そうに答えた。目を閉じたままだが、まだ意識はあるらしい。
「怖いくらい、静かや…」
「嵐の前の静けさ、というだろう」
「嵐…」
芹沢が口にした嵐という意味は分からなかった。単純に台風を示しているのか、それとも、別の意味を帯びているのか。
「…土方せんせが、怒っとったよ」
「そりゃあ、そうだろう」
「なあ、せんせ。…うちをおいていったりせんといてよ」
「馬鹿な女だな。お前の今の境遇は俺のせいだろう。目の敵に何を言っているんだ」
「目の敵やなんて、思うてない…」
自分の胸が締め付けられていく。どうしてこんな気持ちになるのだろう。目の前にいるのはかつては殺したいほど憎いと思った相手なのに。 ぬくもりを共有しただけで、こんなに愛しい感情が芽生えるのだろうか。

ただ、いまはこの男を無くしたくないと思うこの気持ちを認めざるを得ないのだ。


85
八月十八日の政変は壬生浪士組に突然もたらされた朗報だった。

この頃の京都は、真木和泉(本名は保臣)を中心とした長州藩士たちの討幕運動が活発になっていた。 もちろんそんな過激藩士たちを取り締まるべく壬生浪士組が編成されたのはいうまでもないが、その職務はあまり果たされていないといえる。
ともあれ、長州藩士たちは自らの理想を果たすべく、攘夷親征の詔を得ようと画策していた。攘夷親征の詔とは、天皇自ら出陣し攘夷を果たす令のことで、もちろんそれは開国を目論む幕府の意に反しており、会津藩、薩摩藩を中心に阻害されてきた。
だが、八月十三日大和行幸が決定されたことにより状況は一変する。 大和行幸とは大和国の神武天皇陵、春日大社で攘夷を祈願し、攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮まで参宮するというもの。
しかし時の孝明天皇は攘夷派思想は持っていたものの、倒幕という意思はなかったため、これが偽勅だと判明する。
そして動いたのは薩摩藩だった。薩摩藩は攘夷倒幕という理念はあるものの、この大和行幸が行われれば長州に政局が傾くのではないか、と懸念し十三日に会津藩に接近した。偽勅であること、そして長州藩を排除すべきだという考えが会津藩と一致したことにより同盟を結ぶ。
そして十八日、中川宮を通して勅命が偽勅であったことが確認され、会津藩、薩摩藩、淀藩は御門すべてを封鎖。京都から長州藩士を追い出すことに成功する。そしてこの際、攘夷派だった三条実美・沢宣嘉らが長州へと下る。このことが七卿落ちと呼ばれている。
また、この間に天誅組の乱(十五日)が起こり、日本初の討幕運動を意識した挙兵がおこる。そして、この一連の事件を八月十八日の政変、および文久の政変と呼ばれるのである。

だが、この歴史の渦中に存在した壬生浪士組がこのことを理解しているはずはなく…。


「…何だよ、それ。五月人形みたいな格好だな」
土方が呆れ顔――というよりも苦笑交じりで総司をみた。総司もなんとなくそう言われるような気がしていたものの、はっきりといわれ口を尖らせた。
「だって山南さんが着ろっていうんですもん」
総司は出陣の前に既に気だるさを感じていた。それはもちろんこの格好のせいだ。
長州藩を一掃するために出陣せよ、という知らせが届いたのは十八日の朝だった。伝達が遅いのは癇に障ったものの、初めての大きな仕事に皆が舞い上がっていた。武具甲冑を揃え、出陣準備はばっちりだ。
…だが、総司は重すぎる鎧に閉口していた。
「こんなの着ていたら邪魔で仕方ないじゃないですか。脱いで良いですか?」
「山南さんに言えよ」
「山南さんに言ったらだめっていうに決まってるじゃないですか。背中の紐、ほどいてくださいよ」
「ったく仕方ねえなぁ…」
土方は総司が指差した紐をほどいた。
「皆の準備は終わってるのか?」
「ええ。といってもみんな軽装ですからいつもと変わらないですけど。気合は十分」
「空回りしなけりゃ良いが」
土方の言葉に総司も笑った。出陣前だというのに何となく緊張感がもてないのは、総司の傍にいるからだろうか、と土方は思った。総司が傍にいるというだけで試衛館の雰囲気が戻ってくるような気がするのだ。

総司とは正反対に近藤は鎧を身に着けていた。その貫禄ある武士らしい姿に、総司は声を上げた。
「近藤先生!すごくよく似合います!」
駆け寄ると近藤は困ったような顔をした。
「そんなに大きな声を上げるなよ、総司」
「でも嬉しいです。この姿をつねさんに見せてあげたいですね」
「また機会はあるさ」
近藤は総司の頭を軽く撫でた。そして一人、また一人とその周りに人だかりができていく。
「こんな姿襲名披露ぶりじゃねえか?」
原田が永倉に問う。当の二人は浅葱色の羽織にいつもの軽装のままだ。
「襲名披露か…懐かしいな」
「まさかこんな形で披露することになるなんてな」
「誇らしいですね」
いつもの二人に、またいつもの藤堂が加わって一気に騒がしくなる。
鎧の上から羽織った浅葱色が、青空に煌いていた。


「お前は武士の出か?」
突然切り出された言葉に、梅は息を呑んだ。
長州征伐の達しが届いたものの、芹沢の様子に変わりはなかった。徳利に残っていた酒を飲み干し、ゆらり、ゆらりと準備を始めた。辺りがせわしくなっているというのに、おかまいなしだ。だが手際よく準備していく芹沢を見て、梅はこの人は生粋の武士だと思った。
一つ、一つ着ていくたびに貫禄が増していく。
「なんで、そんなこと?」
「鎧のつけ方に慣れているな。ただの遊女じゃあないだろ」
芹沢は鋭かった。確かに梅の手先は器用に動き、適度に締め付けつつ紐を結んでいく。
「……もう昔のことや」
「売られたのか」
「はっきり聞くんやね。…そうや、藩が取り潰しになったあと飢饉で。十五のときやった」
梅は目を細めた。
十五のときに京に来て、もう八年ほどになる。売られた先の遊女屋で菱屋の旦那に落籍され、囲いものになった。生活していく中で、自分が武士の娘だということはひた隠しにした。哀れみや蔑みの目で見られるのはもう懲り懲りだったし、父親にこれ以上惨めな思いをさせたくないと思った。
「父上はうちのこと、内緒で売った。母上にも兄上にも姉上にも内緒で。うちは貰われていった、いなくなったってそういうことにしてくれって」
「何故だ」
「…妹が病気やった。姉上は嫁ぐことが決まっとったし。だからうちは最初からおらんかった子になった。けど、父上の見立ては正しかったんや。うちの心根は 武家の女にはふさわしゅうない、汚れとったんやからなあ…」
梅は最後の紐を締めた。ぎゅっと、強く。この思い出を封印するように。思い出すつもりはなかった。誰かに言うつもりも。けれど、どうしてだろうか。この目の前にいる男に暴かれていく。剥ぎ取られていく。
「…ふん、馬鹿な親だ」
芹沢は吐き捨てると、刀を腰に佩いた。威風堂々とした姿がそこにある。
「こんな上玉を捨てた上、拾われる男はろくでなしばっかりなんだからな」
「せんせ…?」
「行ってくる」
芹沢は梅に背を向けると、大きな足音を立てて、去っていく。梅は無意識に呟いた。
「せんせは…ろくでなしやないよ…」
その大きな背中に返事はなかった。


芹沢、近藤を先頭にした壬生浪士組は十八日正午に出動した。
皆が揃いの浅葱色の羽織を身に着けた様は、昼間の京都に映えた。――むしろ、派手だったともいえる。ともあれ、御所の蛤御門に到着した壬生浪士組は、予想外の歓迎を受けた。
「貴様らをこの先に通すわけにはいかぬっ!」
門を守備している会津藩士は壬生浪士組のことをまったくといっても良いほど知らなかった。 むしろ奇抜な格好をしている彼らを不審者とみなし、断固として拒否したのだ。もちろん、自分たちが有名であると過信していた一部の隊士が声を荒げた。
「我々は会津様より命を受けてここにきたのだ!」
「早く話を通せ!」
「壬生浪士組の名前も知らぬのか!!」
…だが、会津藩士はそれにも屈せず門を開こうとしない。やがて会津藩士たちが群がり一触触発状態。
そして押し問答へと変わっていく。さすがの土方も焦れて、門番に詰め寄った。
「公用方の広沢様に話をさせてくれ」
「今は連絡がつかぬ!」
「その広沢さまから言付かった命令だ!さっさと話を通せ!」
「おい、と…土方くん!」
近藤が熱くなる土方の肩を引いた。土方は激情に囚われていたこと自覚すると「すまん」と素直に謝った。
だが、近藤も落ち着かない様子だった。
「どういうことなんだ?俺たちは命令されてここにいるはずだ」
「おそらく、藩士にまで我々のことが伝わっていないのでしょう。この緊張の中では仕方ありません」
山南が冷静に答えた。だが、その顔には焦りが見られる。
この出動は壬生浪士組にとって手柄を上げる絶好のチャンスだったのだ。土方さえも舌打ちした。
と。
「どけ。俺がやる」
それまで押し黙っていた芹沢が近藤、土方を払いのけ、前に出た。そして門番の前に立つ。
その後姿は貫禄の塊といっても良い。どんな強風に煽られても倒れない…そんな風に映った。
「我々は会津藩お預かり壬生浪士組である!拙者は局長の芹沢鴨!殿のご命令により参上仕った!」
「せ、芹沢…!」
芹沢の堂々とした立ち振る舞い、大声もそうだが、門番は「芹沢鴨」という名に震え上がるように しておびえた顔をした。
土方が小さく嘆息する。
「こういうことかよ」
「そういうオチなんですね」
傍にいた総司も苦笑した。
「壬生浪士組」の名は知られていなかったにせよ、「芹沢鴨」という名は知られていたらしい。やがて門番たちは眉を顰め、こそこそと耳打ちを始める。
そしてそのとき。
「あいや、すまぬ!伝令が遅れた!」
会津公用方の広沢が数人の部下を引き連れ、門へとやってきた。 芹沢を目の前にすると、軽く頭を下げる。
「壬生浪士組の方々。お待たせした。ご命令どおり、御花畑門の警備を頼む!」
広沢が高々と宣言して、騒動は終着を向かえ、壬生浪士組は門の中へと通されることとなった。


壬生浪士組が命じられた御花畑門警備は難なく終わった。
――隊士たちは御花畑門にどんな貴重で高価な珍花が飾られているのだろうかと、わくわくしていたのだが 『御花畑』というのはそういう意味ではなく、単なる名称だということを知ったのは言うまでもない。
もちろん、学のあるものはわかっていた事実だが、大半の隊士が知らなかったこともまた言うまでもない。

こうして壬生浪士組の関わらぬところで、一つの歴史が始まり、歴史が終わった。
その流れに誰も気がつかず。 だが彼らの中の歴史は、動き出そうとしていた。


86
八月十八日の政変から数日。過激攘夷志士排除および七卿落ちが起こったことにより、京は以前の落ち着きを取り戻しつつあった。


「…仕方ありませんね」
土方の話を聞いて、山南はまるで予想していたようにため息をついて、あっさり納得した。 もしかしたら土方が大事な話があると呼び出したときからわかっていたのかもしれない。 彼の聡明さは近藤の実直さと時々相反す。そこが近藤との違いだろう。 だが、土方にはその聡明さが今回はありがたかった。
「山南さんにまで反対されたらどうしようかと思ってたぜ」
「いずれこうなることはわかっていましたから。良くない表現ですが、因果応報です」
きっぱりと言い切った山南は、意外と芹沢を恨んでいたのかもしれない、と思った。
山南に「芹沢暗殺命令」を伝えた。一応副長というポジションについている彼に知らせないわけにもいかなかった。てっきり「それは正しくない」と反対されるものと思っていたが、それは杞憂に終わり、彼はそれに賛成した。
「問題はそれをどうやって実行するかです。考えはあるのですか」
「ある。――といっても時間が掛かるし、それは正しいやり方じゃねぇはずだ。あんたには気に入らないかもしれない」
「…まずは聞かせてもらいましょう」
土方は頷くと、懐から一枚の紙を取り出した。


「おー?総司、何してんだ?」
通りかかった新徳寺で総司の姿を見つけた原田が足を止めた。
周りに子供がわらわらと集っていたので、最初は顔も見えなかったのだが、子供たちの中心にいたのは無邪気な顔を晒す総司に違いない。そしてなぜか新徳寺の池に足だけ浸かっていた。
「あ、原田さん。どこに行くんです」
「おまさちゃんのとこに決まってんだろ?お前のほうこそ、今日は非番なのか?」
「仕事は朝で終わったんです。それよりも暇なら手伝ってくださいよ」
「だから暇じゃねえって……ん?なにしてんだ」
総司が腰を曲げ、水面を見渡す。子供たちも同様に何かを探しているようだった。
「魚を探しているんです」
「魚だあ?」
「捕まえてみんなで食べようと思って。美味しいらしいですよ」
原田が呆れ顔をしたのも気にせずに、総司は真剣に水面を見つめ続けていた。その姿は十の子供と変わらない。純粋でひたむきで、穢れのない姿だ。
「おじちゃんもする?」
「せや。みんなでさがそ」
びしょびしょになった子供たちが原田の周りに集まった。原田は困惑した。愛嬌のある顔をしていて、好感度ナンバーワンといっても過言ではない原田だが、実のところ、子供の扱いだけは不慣れだった。何を考えているか分からない対象にはどうしていいかわからないのだ。
「あー…えーっと、その、よ。俺は用があるからよ」
「用って?どっか遊びにいくん?」
「あー、そのー…」
原田が思考をめぐらせているその視界に、くすくす笑う総司が目に入った。
「ったく!俺はおまさちゃんのとこにいくの!」
原田はふん、と顔を逸らすと、ずかずかと歩き始めた。
「おまさちゃんで誰~?」と子供たちが追いかけようとしたものの、原田は俊敏に立ち去っていった。「あーあ、いっちゃった…」総司は苦笑しながら、その後姿を見送った。


山南は顔を顰めた。
「局中法度か…」
彼は頭を悩ませたようだが、それは土方には予想通りの反応だったので、別に驚きはしなかった。土方が懐から取り出した一枚の紙。それは前々から考えていた隊の規則――局中法度だった。
「一.士道に背きまじきこと
 二.局を脱するを許さず
 三.勝手に金策いたしべからず
 四.勝手に訴訟取り扱うべからず
 五.私の闘争を許さず
 …右の条々あい背き候者は切腹申しつくべき候なり、か」
「隊に規則を作るのは当然だ。律するという意味でも必要。さらに、この法度が定められれば、芹沢のやっていることはこの規則に反すことになる」
「だからといって切腹は厳しい。……芹沢先生が反対するのではないだろうか」
「それは俺たちの覚悟次第だ。俺たちが覚悟を決めれば、あいつらだってそうしなければならなくなる」
「……」
土方の書いた法度案を見つめ、山南はまだ気難しい顔をしたままだった。
「…これを、近藤先生には?」
「まだだ。かっちゃんは今それどころじゃねぇからな…」
近藤はあれからふさぎ込んでしまった。表向きには体調不良ということになっているが、実際は決断を迷っているのだろう。だが、土方は妥協はしなかった。優しい言葉も励ましの言葉もかけなかった。  
ただ、気がついて欲しいと思っていた。このままでは駄目だということ。
「俺たちは、分岐点に立っているんだ」
「……わかりました」
土方の決意が伝わったのだろうか。山南は持っていた紙を元のように折りたたむと、土方に渡した。
「土方くんに任せます。どんなに非道なことをしたとしても…彼らを追い詰めなければならない。その方法が正攻法ではなかったとしても。そして新しい一歩を踏み出しましょう」
「…感謝する」
山南は深く頷いた。そしてまた彼も、この法度によってすべてを終える結果になるとは知らずに。
だがそれは、随分後の話になる。


山南と別れた後、土方は近藤が塞ぎこんでいる部屋へと向かった。あれから暗殺についての話は一度もしていない。八月十八日の政変で少しは気が紛れたようだが、それでも気分は優れないようだった。
(いや、この間の事件はかっちゃんにとって悪影響だったな…)
土方は嘆息した。
八月十八日の政変。門に入るの入らないのとひと悶着が起こったときに大声を挙げ、壬生浪士組の威厳を守ったのは芹沢だった。強引なやり方であったにせよ、芹沢という大きな頭がいるのだという証を示した結果になった。
(…ますます、芹沢を殺すのが惜しくなったのかも知れねぇな…)
「あっ、土方さん」
考え事をしていると明るい声が聞こえた。総司に違いなかった。
「ああ、そう…」
振り向きかけて、土方は顔をゆがめた。
「…なんだ、その魚は」
総司が桶を抱えていたのだが、その水を張った中に魚が泳いでいた。
「そこの新徳寺の池で捕まえたんです。5,6匹捕まえたんですけど、他はみんな食べちゃって」
興奮気味に笑う総司の顔は、酷く汚れていた。泥が頬について、まるで江戸にいた頃、遊びまわった後のように。けれども、その満面の笑顔に苦笑した。
「早く風呂にでも行けよ、掃除しなけりゃならなくなる。…で、どうするんだ?その魚」
「近藤先生に見せてあげようと思って」
にっこり微笑んだ顔は子供のそれに違いない。土方はぷっと吹き出した。
「大きなのを釣ったって自慢するのか?ガキだな」
「違いますよ!…近藤先生元気がないから。魚でも食べれば元気になるんじゃないかなって」
「……」
無邪気さは罪だ。
土方は思った。何も知らないことがこの明るさと優しさを生む。だが同時に黒くくすんだ自分の心がさらに曇っていく。
「…喜ぶだろうな」
「でしょ?」
穢れを知らない無邪気の塊。土方はそんな総司の頭を軽くひと撫でする。
「…まーた、子ども扱いですか?」
「ちげえよ、ばーか」

総司が部屋を去った後、土方は早速近藤に「局中法度案」を渡した。
「…局中法度か」
布団から上半身だけを起こした近藤は、やはりため息混じりにその紙を見た。少しやつれているように見えるのは気のせいではなく、げっそりとした様子は2,3歳歳を取ったようにも見える。
「…歳は本当に命令に従うつもりなのか」
「前に言ったとおりだ。それが会津様の…将軍様の意思なら従う」
本当はそれは建前だった。
芹沢を葬る理由…それが生まれた。それに従う。自分の意図と欲望と。
すると、近藤は呟きはじめた。
「…この間思い知ったよ。御花畑で芹沢先生が前に立たれたとき。この人に勝てるのか。この人を葬ってしまってもいいのか…。そうすることで、何が生まれるのか。失うものが多いのではないだろうか…と」
「かっちゃん…」
「だが、俺たちの主は会津様…将軍様だ。それは何にも変えられないことだ。…さっき総司がここにきたときに思った。いつかあの笑顔を将軍様に見てもらいたいと。民がこんなにも平和に暮らせるのは将軍様のおかげだと、そう申し上げたいと…」
近藤は俯いていた顔を上げ、土方を見た。
「従うよ。そしてこの法度も…お前に任せる」
「…いいのか」
「いまさら聞くな。もう後戻りはできない。……俺が寝込むのだって今日で終わりだ。総司に心配はかけられん」
「…ああ、そうだな」
芹沢を葬ってもいいのか。…それを考えるときりがない。
「俺たちは将軍様の駒だ。進めといわれた以上、進むしかない。殺せといわれれば殺すしかない。…そこに感情はいらない。無機質に、命令に従うんだ」
「ああ…」
土方はもう大丈夫だと思った。近藤は決意したのだ。

だが、総司はどうだろうかと思った。汚すのは俺しかいないのだろうか。土方は迷った。


87
「…魂胆が見え見えだ、土方」  
芹沢は渡された紙を宙に持ち上げて、嘲笑った。土方の狡猾さを、そして己の行く先の運命を。
独り言は部屋に凛と響き渡っただけで誰の耳にも入らなかった。


屯所にしている八木邸の一番大きな部屋に、平隊士を含めた男たちが群がった。その理由は近藤が皆を呼び出したことにある。大事な話があるから一人も欠けることなく集まるように、とのことだった。
だが、屈強な男たちが集まるには部屋が小さすぎた。小柄な総司は斉藤の隣を確保したものの、どうも落ち着かない心地がしていた。
「こんなにたくさん集まっていたんですね」
「確かにこんなに一気に集まる機会はないからな…。この間の事件のときも何人か屯所に待機させていたし。 壬生浪士組も大きくなってきたってことだろうな…」
斉藤も感心したように呟いた。数として隊士の数は把握しているものの、実際集会のようなものが開かれるのは初めてだ。
「それにしてもなにがあるんでしょうね。近藤先生もふさぎ込んでいたし…山南さんも真剣な顔をしていたから気になってたんですけど…」
「……」
総司は単純に呟いただけだが、斉藤はそれに答えなかった。
すで斉藤は土方の左腕として活躍している。――もちろん、右腕は監察の山崎だ――彼が土方が極秘事項をもらすことはないが、彼が探りを入れようとするとき、大抵それを頼むのが斉藤だった。
寡黙で無口で…人と関わらない。だが、斉藤が誠実なことは土方も知っている。それを買われている斉藤なのだ。だから、実のところ、土方がこれから言わんとしていることは完全ではないにしろ把握している。
「…沖田さん。武士に一番必要なものは何だと思いますか」
斉藤は唐突に尋ねた。理由はない。ただ総司がどう答えるか…興味を持った。
「それはもちろん主君ですよ」
総司は直ぐに、――加えて朗らかに答えた。
「主君ですか」
「主君を持たない人が浪人と呼ばれるんでしょう?」
「もともとは牢人が由来らしいですけどね。由井正雪の『慶安の変』以来、牢人が浪人に変わったんですよ」
「斉藤さん、物知りだなぁ」
総司は二つも年下の斉藤を羨望のまなざしで見る。斉藤はその子供のような瞳に苦笑した。
「沖田さんにとって主君は誰ですか?やはり将軍様ですか、それとも会津様?」
「違いますよ」
総司はきっぱりと否定した。
「もちろん大樹公のことも松平さまのことも尊敬しています。けど、やっぱり主君といわれれば 私にとって近藤先生しかいません。私は何があろうとも、近藤先生以外に仕える気持ちはありません」
「……近藤先生が、極悪非道の大悪人でもですか」
「そんなことありえないですけど、それでも、です。私にとって近藤先生はこの命を捧げても足りない…誰よりも、大切な人です。将軍様や会津様の命令よりも近藤先生の命令に従います」
斉藤は悟った。
土方が一番信用の置けるはずの総司を傍におかず、自分のような少し距離を置いた者を使う理由が。
この純粋さは、土方のもつ裏の非道さと相反している。
総司が太陽なら、土方は月だ。燦燦と煌く眩い光と、闇夜の中でしか光を放つことのできない月光。月光は太陽の光に憧れるけれど、眩しすぎて近寄ることもない。そして相反する二つは交わることを知らない。もし月光が支配すれば、この世の中に光はない。だから、月光は分かっている。自分が光るのは夜の闇の中だけで良いと。それ以外に場所はないと。
「斉藤さんの主君は誰ですか?」
なぞなぞの掛け合い…それに近い口調で総司が斉藤に尋ねた。斉藤は少し黙って…答えた。
「それは秘密です」
「え~?」
主君は自分の中にいる。自分を信じるだけだ。

暑苦しい男たちが集合し、幾許か経った頃。幹部とも言える近藤、土方、山南そして新見がやってきた。そこに芹沢の姿は無い。
「静かに」
土方の重く、低い声に騒がしかった集団が静まり返る。
「今日、お集まりいただいたのは今後のこの隊の…規則を決めるためです」
「規則ぅ?」
山南の言葉に原田が声をあげた。だが構わず土方が言葉を紡ぐ。
「我々は局長に芹沢先生、近藤先生。副長に新見先生、山南先生、…そして俺という形で現在組している。しかし、もちろん我々の間には主従関係などなく、同志だ。志を同じにもつ同志。優劣はない。
 …だが、これから先、隊の規律を守るという意味で隊則が必要だと考えた」
「自戒、他戒という意味で今から読み上げる規則を、頭に入れてもらいたい」
近藤が懐から取り出した紙を読み上げる。そこには、後に語り継がれる局中法度の条文が書かれていた。


「土方さんっ!」
ドタバタと走りより、総司は土方の背中を捕まえた。その背中はいつもよりも大きく見えたが、そんなことを気にする余裕はなかった。振り向いた土方の表情はやはり険しいままだった。
「…なんだよ」
「なんだ、じゃありません!どういうことなんですか、さっきの規則はっ!」
「大声を挙げるな。……部屋の中に入れ」
土方は総司の背中を押して、自室に入った。
ぴしゃり、と障子を閉めると総司が早速と言わんばかりに土方を問い詰めた。
「さっきの法度!どういうことなんですか、どうして何の相談もなく…っ!」
「近藤さん、山南さんにはちゃんと相談した。新見さんにもな」
「あんなの…!芹沢先生を陥れるための法度じゃないですか?!」
「芹沢さんも了承したぞ」
ふいに、総司の言葉が途切れた。息をすることを忘れたかのように。
「……了承した?」
「ああ。すぐに『わかった』ってな」
「…芹沢先生が…」
「あの男だってそこまで馬鹿じゃねえはずだ。気づいてるさ、俺の意図も…」
「じゃあ、やっぱり土方さんは…っ!」
総司は今度は言葉を飲み込んだ。それが土方には分かった。そして同時に何を言おうとしていたのかも。
すると、だんだん総司の表情が崩れてくる。涙を流す寸前のように、くしゃくしゃに曲がっていく。彼の中でもどかしさが募ったのだろうか、土方の胸板を叩いた。
「どうして…っ、どうして、」
あんな法度を作ったんですか、と呟いた。普段は能天気な顔をしている総司だが、さすがに気がつかないわけがなかったのだ。あの法度にははっきりとした意図があった。
「教えて欲しいのか」
「…え…?」
「お前は本当に聞きたいのか?」
土方は総司の頬に手を添えて、上を向かせる。総司の目を逸らさせないように固定して、まっすぐに尋ねた。
「真実を聞きたいのか?」
聞かなくて幸せな事だってある。
土方はそう伝えた。総司も分かったはずだ。だからこそ、総司の目が泳いでいた。
「…土方さん…」
「これは会津様からの命令だ。俺たちはそれに従うしかない。近藤さんも、山南さんもそれを理解してくれた。……もう決まったことだ」
「……っ、でも…」
「分かり合う道がないってもう嫌って言うほどわかってんだよっ!」
土方はその怒号で総司の言葉を塞いだ。
間近で怒鳴られて、総司は目を見開いた。今まで何度だって喧嘩をしてきたはずなのに、こんなにも険しく殺気に満ち溢れた土方を総司はみたことがなかった。
「どうしてお前にはわかんねぇんだよ…っ!どうして伝わらない!」
「つ、伝わってます、わかってる。…でも、」
「でも、はいらねえ。お前はきっと何か他に方法がある、違う道があるって言いたいんだろう?」
「……っ」
図星を指され、総司は困惑した。
「でもな、俺たちにはもうこれが以外の方法がないんだ、決めちまったんだよ」
「歳三さん…っ」
「俺たちはあいつを…葬る」
土方は一気に手に力をこめて総司を引き寄せた。
そして慣れた風にして総司の口に自分のそれを重ねた。卑猥な音を立てて、隅から隅まで支配されていく。混乱と困惑のなかで、総司は思った。以前、疑似体験をしたことを。
(土方さんとの口付けは…いつもそうだ)
彼との口付けはいつだって言葉を飲み込むための手段だ。一種の伝達手段のように、分かり合えない自分たちを強制的にわかりあえるようにする……。最終的な懐柔策。
「…んぅ…っ」
寂しいと思った。 以前のように何も言わないでも分かり合えることはないのだろうか。体温は感じたとしても、生命は感じない。虚しいだけの殺伐とした…気持ちになる。
「…っ、離して、ください」
総司は土方の胸板を押した。重なった唇からどちらとのいえない唾液が零れたが、総司はそれを力強く拭った。
「こんな…こと、もうしないでください」
「総司…」
「こんなんじゃ…わからない、わかりません…っ!」
何も見えない。

総司は言い放つと土方の部屋を出た。土方は追おうとした足を一歩踏み出して、けれどもそれ以上進めなかった。
「…わからない、か」
土方は自嘲した。そして無意識に自分の唇に指先を押し当てる。
「…体温の高い奴だな…」
ぬるま湯につかったような、暖かさだった。

88
局中法度が発表されてから数日で、隊内の雰囲気は変わった。
ビリビリとした緊張感が常に漂い、皆が神経質になっていた。特に最初の項目である「士道に背くまじき事」。その曖昧で広域にわたる感覚的な表現に誰もが戸惑った。試衛館食客でさえもだ。
「黄表紙を見ることは「士道に背くまじき事」だと思うか、へーすけ」
原田がごく真面目な顔で藤堂に尋ねた。尋ねられた藤堂の方は苦笑した。
「そんなことないと思いますよ。だって、将軍様にだって側室がおられるわけでしょう?恋情に制限なんて」
「じゃあもしだぞ?もし祇園の女に惚れて、その女に会うために「金策」したら切腹か?」
「…まあ、そうでしょうね」
「人の恋愛にケチつけるなんて、息苦しい法度だな…。まあ俺はおまさちゃん一筋だけどさぁ」
原田がちっと舌打ちする。問題はもっと違うところにあるんじゃないかな、と藤堂が心の中で呟いたのは自然なことだった。それからすぐに島田が顔を出した。
「自分も質問があるのですが…」
「なんですか?」
小柄な藤堂とは反比例に、島田は天井に頭がつきそうなほど背が高い。実際に何度か頭をぶつけているのを数回見たことがある。
「局を脱するを許さず、とはいかなる場合も、でしょうか。たとえば母が重病だとか、そういうのでも?」
「あー。特例とかあるんじゃないですか?」
「そんなものないってよ」
その会話に入ってきたのは永倉だった。隊内でも良識派の人間だが、顔は珍しく不機嫌そうだった。
「そうなのですか?」
「そのために最初の一文があるんだよ。隊に入った時点で覚悟を決めなきゃならない。何もかもを捨てて、将軍様のために生きる覚悟ってのが士道。それを逃げようとしたらその覚悟が足らない、という意味で、こうなるのさ」
永倉は親指を立てて腹に突き刺した。切腹、という意味だ。
「…自分は勘当された身ですから良いのですが…。些か厳しいのではないでしょうか」
島田が青ざめる。永倉、原田、そして藤堂も苦笑した。
「俺たちも放浪の身だ。帰るところなんかねえから、脱走しようなんて思わない。けど、皆が皆そうってわけじゃない」
「そうですね。きっとその覚悟がなかった人もいるでしょうから」
「これからきっと騒ぎが起きるだろうよ」
「けれど、仕方ない」
縁側に座って刀の手入れをしていた斉藤がその重い口を開いた。無口な斉藤が発言するのはきわめて珍しく、4人の会話が止まる。
「そうでなければこの隊は成り立たない。局中法度は理想ではなく、為すべき現実。それが言いたかったのでしょう」
――副長は。
その言葉はあえて付け足さなかった。

斉藤が自分に与えられた部屋ではなく、めったに居座ることのない大広間(隊士が無造作に集まっている)にいるのは理由があった。同室の総司が癇癪を起こしているからだ。
局中法度を提示した時点で総司が反発し、土方と喧嘩になるのは予想ができたが、部屋にこもりきりになり、誰とも口を聞かなくなるほどのかんしゃくを起こすとは予想ができなかった。唯一斉藤とは最低限の会話を交わすのだが、同室にずっといると空気が重くとても耐えられるものではなかった。
斉藤は察していた。総司はきっと気がついたのだろう。局中法度の意味を。あの法度は芹沢への牽制であり、徹底的に壊滅させることを意味している。芹沢のすべてがあの法度に反し、切腹へと繋がっていた。
だが、斉藤は何も思わなかった。むしろ、くるべき時が来た、と感じただけだ。
だが総司は違うのだろう。
斉藤よりも酷い目にあっているはずだが、総司が心から芹沢を憎んだことは――傍目には――なかったように思える。 総司が実際、芹沢のことをどう思っているのかは、斉藤にはわかるはずはないが、少なくとも殺したいほど憎い、とは思っていないのだろう。
(…その優しさが命取りだな)
そして斉藤が自分がやはり冷たい人間だったことに気がついた。その優しさはただただ総司を傷つける感情でしかないと割り切ってしまえる程度には。
ただ今は、はやく総司の機嫌が直ってほしい、と今にも雨を降らせそうな雲を見上げて思った。


総司の部屋に土方が訪ねてくることはなかった。些細な喧嘩は今まで何度だってした。幼い頃から土方のからかいに似た悪戯にいつも腹を立てたり、不機嫌になったり。けれどそれは次の日には忘れていた。
だから、不思議だった。こんなにも落ち込んでしまう自分が。
自分の主張が間違っていたとは思わない。芹沢のことを憎らしいと思う瞬間はあるが、それが殺意へは繋がらない。
思い出すのは八月十八日のこと。芹沢の威風堂々の姿に、武士の姿を重ねてしまった。偉大な人だと思った。彼にどんなに深い誇りが刻まれているのだろうかと。
だから、土方には反発した。殺さなくても良い道を探す努力をしたい。
けれど、土方はそれを受け入れてくれなかった。もう道はないのだと一刀両断した。総司にはそれが哀しかった。
数年前。総司が初めて人を殺めたとき。あの時は土方を庇って殺してしまった。あの後日野に逃げるように帰った総司を迎えに来てくれたのは土方だった。人を殺した総司を抱きしめて、ただただ総司の泣き言を聞いてくれたのも土方だった。
その土方はいまここにはいない。
もちろんあの頃から総司だって変わった。人を殺すことは場合によってはありうることだと知った。それは自分の中でも矛盾を起こしていることでもあるのだが、それよりも大切なのは近藤と交わした「刀の盟約」だ。自分の大切な人の害になるのなら、無心で人を殺すことができる。そんな自分の側面を知った。
けれど芹沢は違う。
近藤だって、隊士たちだってどこかで芹沢を頼りにしているはずだ。彼の存在はあまりにも大きい。それに総司にとって芹沢は……どうしても情を感じてしまう男だった。大和屋の一件のときもそうだ。「殺せ」と言った芹沢に刀さえ向けることができなかった。
自分はこの人を裏切れない。何故だかわからないが、そう思った。
こんなにも非情なひとなのに、どうして何もいえないのだろう。
名前のない感情が、蠢く。

「沖田先生」
膝を抱えていると若い隊士の声がした。総司は嫌な予感を感じながらもふすまを開けた。
そこにいたのは小姓、楠だった。新入隊士の彼は、若干十七歳で入隊した少年だ。見目麗しく一瞬少女のようにも見えるのだが、剣術はよくでき、進んで土方の小姓となった。頭の回転も速く土方が重用していた。総司は土方からの呼び出しかと思ったのだが
「お客様です」
との楠の言葉に、落ち込んだような、ほっとしたような…妙な気分になった。


その「客」にあまり見覚えはなかった。
というのも、そこにいたのが小さな女の子だったからだ。すぐに壬生の子かと思ったのだが、見覚えはない。総司は不思議に思って尋ねた。
「一人で来たの?お母さんは?」
女の子は首を横に振った。心なしか俯いているのは、ここがどういう場所かおぼろげに分かっているからなのだろう。総司の顔もまともに見ないため、総司も表情が窺えない。
「なにか用があるのかな…それとも迷子?」
「…あのね」
女の子はやっと口を開いた。少女の目線に合わせてやると、安心したように微笑んだ。
「うち、お礼いいに来てん」
「お礼?」
「これ」
少女が懐から取り出したのは赤いちりめんの巾着袋だ。総司は「あ、」と思い出した。
「もしかしてあのときの…?」
大和屋事件が起こった日。火事に巻き込まれて怪我を負った少女がいた。総司は後日見舞いに尋ねたのだが、母親に拒絶され追い返されてしまった。それからしばらくは毎日通い詰めせめてもの思いで、母親に渡したのが砂糖菓子を詰め込んだ巾着袋だ。
「そうや」と少女は笑顔になり、大きく頷いた。
「おかあちゃんにはあかんってゆわれたんやけど、うちはね、どうしてもお礼がいいたかったん。お菓子、おおきに」
舌足らずで、影のない満面の笑顔。野花が咲いたかのように彼女の表情は明るかった。
それを見て、総司は動揺した。
少女を傷つけたのは芹沢だ。あの時総司が抱いた感情に、確かに憎しみがあった。罪のない少女を知らぬうちに傷つけた芹沢を、自分は庇うというのだろうか。無邪気に微笑みお礼を言いたいという少女はそんな自分をどう思うだろうか。
――何か悪か、何が正義か。
そんなことを決めるのは誰なのだろう。
ただ確かなのは、目の前の少女が傷つく理由なんてなかったということだ。
「兄ちゃん、どないしたん?」
「ごめん…ごめんね…」
気がつけば総司は少女を抱きしめていた。ごめんね、と何度も繰り返す。
君を傷つけた人を、憎めない自分を、どうか許して欲しい。


89
 それでも憎めない自分がいる。


「…どうにかしてる」
土方はため息混じりに呟いた。それを聞いた近藤が「は?」と首を傾げる。
「どうしたんだ?歳」
「いや…。それより山崎から報告を受けた。芹沢派の奴らの動きが少し鈍くなったらしい。法度も少しは効果があったみたいだな」
「そうか。このまま法度にしたがってくれればいいな…」
近藤が安堵のため息を漏らした。
法度を提示してから一週間。芹沢らの金策の噂は聞かなくなり、飲んで騒ぐということもなくなった。不気味なほど八木邸の離れは静かだった。
「法度といえば総司がへそを曲げているらしいな」
近藤が持ち出した話題に土方はびく、と反応した。
「ずっと不機嫌だって聞いてる。また喧嘩でもしたのか?」
近藤は「しょうがないな」と苦笑交じりに尋ねた。土方はそれに曖昧に頷く。
(喧嘩で終わればいいがな…)
総司とは一週間口を聞いていなかった。次の日になれば忘れてしまうような総司も、今回はそうとはいかないらしい。
総司が芹沢に固執しているのは前からだ。どんなことがあっても、芹沢を見捨てきれないというほうが正しいのか。尊敬でもない憎悪でもない…別の何かが芹沢と総司を切っても離さない。
土方にはそれが煩わしかった。はやく芹沢を諦めて欲しい…土方はそう思っていたたが、いくら総司のことでも、総司の感情は総司だけのものだ。それを無理矢理殺したいとは思わない。
『ちゃんと…ちゃんと、しますから』
感情を持て余し、それを佐伯への殺意へと変えてしまった総司を見たとき、こんな風にしてはいけないと思った。ましてや感情を持たず、人殺しを機械的にこなしてしまう人間にはしてはいけないと。
けれど、きっとそれからはそうはいかない。
これから厳しい状況に陥ったとき、どうしても己の誇りのために人を殺さなければならない瞬間は必ずやってくる。ただせめてそのときに。 そのときに受け入れてやれる存在になれればと思う。総司にとって帰れる場所であればと思う。
ただ、いまはそれを願うのみだ――…。


「星が綺麗…」
梅は縁側から星を見上げた。夏の夜は過ごしやすく、遠くから虫の声が微かに聞こえるこの庭はとても風流だった。ただ酒を飲み続けるだけの芹沢もこの場所は気に入っているらしく、こうやって星を見ながら酒を飲むことが多い。
最近、芹沢は出歩かなくなった。
以前は毎晩毎夜酒の匂い――女の匂いを漂わせて、そのまま床についてしまうことが多かったのだが、この縁側で舐めるように酒を飲んでいることが増えた。それは一週間前に出された法度のせいらしいのだが、梅にはよくわからなかった。
ただ単純に、同じ部屋に誰かがいるのが嬉しい。…そう思える。
八木邸にやってくるまえ、菱屋の妾としてこんな日々を過ごすこともあった。正妻の嫌がらせや周囲の目を気にしつつも、それでもプライドだけは捨てずに生きていたあの頃。菱屋の旦那は確かに優しかったが、それは欲望へと繋がる優しさだけだ。妾としての梅優しさ。だが今は違う。芹沢は他に女を連れ込むことはなかった。女の匂いはしても、梅を追い出したりしなかった。ただ空気のようにそこにいることを許してくれた。言葉だけの、仮初の優しさではない、不器用な優しさ……芹沢はそれを優しさだとはこれっぽっちも感じていないだろうが。梅にとってはそれで十分だった。
「酒」
「へえ…」
募っていく梅の気持ちとは裏腹に、芹沢は不機嫌だ。乱暴に猪口を差し出され、梅はそれになみなみと注ぐ。
「…ねえ、飲みすぎやないの?」
「放っておけ。付き合うのに飽きたら先に寝ればいい」
「せやけど」
「黙れ」
激しく怒り散らすよりも芹沢の低音の、静かに怒りをこめる物言いのほうが梅には恐ろしかった。それに、そっちのほうが本当は機嫌が悪いのだと最近はわかってきた。
(…なんで、こんな男がいいんやろ…)
梅は心の中で苦笑した。
「…誰だ」
「え?」
寝転がっていた芹沢が上半身を起こし、鋭く言い放つ。人の気配を感じていなかった梅は驚いたのだが
「…私です」
と、聞き覚えの声色がしたときはさらに驚いた。
「沖田せんせ…?」
月明かりで薄ぼんやりの中、姿が見えたのは総司だった。髪を下ろした姿を見るのは初めてで、梅は一瞬誰だかわからなかったのだが認識した途端、緊張が走った。
「何の用だ?」
芹沢が少し楽しそうに尋ねた。夜分に総司が尋ねてくることは一度もなかった。
「…芹沢先生にお話があるんです」
「……梅、席をはずせ」
「へえ…」
梅は酒を持って立ち上がった。そのとき総司とすれ違う。総司は酷く思いつめた顔をしていた――。


総司は芹沢と向かい合って座った。芹沢はいつものように胡坐をかいたが総司は正座をしたままだった。
「…で、話はなんだ?」
芹沢が促す。総司は少し逡巡して、それでも答えた。
「局中法度のことです」
「法度か…」
「先生もわかっていらっしゃるはずです。……あれは、」
「それ以上は言うな」
芹沢は鋭く諌めたが、総司はそれを聞き流した。
「あれは、芹沢先生を陥れるための策です…!だから、早くここから出て行ってください。お願いします…っ!」
総司が悩みぬいて出した結論だった。これ以上誰かを殺したくない。それがただ存在自体が邪魔だというそんな理由で。総司の中の芹沢は確かに憎く思うときもあり、横暴だと思っている。しかし、それでもその存在感、志は尊敬できるものがあり、殺すには惜しい。だから、こうなった。
「…逃げる、のか」
「そうではありません!私は……」
あなたを殺したくありません。喉まで出かかった言葉は吐き出すことはできなかった。
口に出したらそうなってしまいそうで…。総司は怖かったのだ。いつか、土方が自分に命令することが。それを聞きたくない。
「…私は、貴方を尊敬しているんです。だから、お願いです」
「……お願い、ねえ」
芹沢は茶化したように総司の言葉を反復して、笑った。
「総司。お前のその中途半端な優しさはある意味、罪だな」
「罪…?」
「俺を憎みきれない、土方を裏切りきれない。その中途半端な感情だ」
総司は息を呑んだ。
「…お前は最初会ったとき…ガキだったときのことだ。その頃から比べると十分汚れたな。つまらない優しさを身に着けて、今では殺すことが怖いんだろう?加えて、お前は人を殺すことの意義を学んだ。殺しても良い理由を捜して、正当化する術を。だが、お前の根本にあるのはその中途半端な優しさだ。俺に情をかけてしまったから、殺すに殺しきれない」
「違い、ます…っ」
「じゃあさっさと俺を始末すればいいだろう?あの法度の意味なんかわかっているさ。 俺は今はただ、お前に殺されるのを待っているだけの屍なんだよ」
芹沢は笑っていた。達観しているからの余裕だった。
「…前に言っただろう。俺のものになれってな。優しさを捨てて殺意の世界で生きていけば良い。そうすれば人を殺す理由なんて捜さなくても良い。痛みなんて受けない。お前にはそっちのほうがあってんだよ。お前はそうじゃないとここで生きてはいけない。その優しさで押しつぶされる」
「先生…」
「さっさと選べ。答えは二つだ。土方を信じ、あいつとともに生きていく決意をし俺を見捨てるか。それとも俺を選び、痛みを捨てて自分が思うように生きるか。……そうだと思わないか?」
総司は唇を噛み締めた。そして自然と両手を握りしめていた。
「どうして…どうして誰かが死なないですむ方法を探さないのですか…っ土方さんも、そうです。どうして、どうして皆が幸せで生きていく道を、捨ててしまうのですか…っ?」
総司には分からなかった。
どうして二つの答えのうちの一つを選ばなければならないのか。芹沢が局を脱することで、すべてが解決するのに。誰も死なないですむ、誰も悲しまないですむ…。
「それは武士だからだろう」
「え…?」
「武士」。その答えに総司の心はざわめいた。
「もし戦が始まって、お前は将軍様のために出陣する。そのときに殺す人間は俺と同じだろう?邪魔だから殺す。反抗するから殺す。…そうじゃないのか? そしてお前は将軍様に楯突く不穏な奴らだからと自分を正当化する。だがそれは俺にも当てはまるとは思わないのか?これだけ金策を繰り返し、会津さんに迷惑かけて。…それを将軍に楯突く奴らとは同じだろう?」
総司は何も反論できなかった。確かに戦に出れば躊躇いもなく殺すのだろう。将軍様に楯突く、というただその理由で。
「違いは情があるかないか。そうだろう? じゃあ、考えろ。お前がこれからこの浪士組で担っていく役目はなんだ?……情もなく人を殺すことだ。
 お前には情なんて必要ない。だから答えは二つに一つだといった。土方に傷を慰めてもらうことで生きていくか、それとも殺意の世界で感情もなく生きていくことか」
総司の頬につめたいものが流れた。それが涙だと知ったのはすぐあとのことだ。
哀しい。悲しい。
殺意の世界は、きっと悲しいのだ。芹沢がそうであるように。
「…なぜ泣く?」
「じゃあ…芹沢先生も殺意の世界で生きているというんですか…?」
「そうだ」
芹沢が何のためらいもなく答えた。
この人には何もなかったのだ。傷を癒してくれる友人も、支えてくれる仲間も、そして泣くことを許される場所さえも。
だから、自分を殺意の世界に投じ、感情を無くすことで生きてきたのだ。孤高の狼のように。それは…あまりにも悲しい。
「…私は、きっと殺意の世界で生きていくなんて、できません」
「そうだろうな。お前には合っていると思うんだが」
「でも…先生を無くしたくないんです…」
我侭だと笑うかもしれない。溢れる涙を通して芹沢を見た。そこには困ったように微笑む芹沢がいた。
「お願いです、先生。…私は、誰も悲しませたくないんです。芹沢先生も、近藤先生も、みんなも…土方さんも。誰も苦しんで欲しくない。あんな法度がいらない場所を作りたいんです。だから…隊を脱してほしいんです」
「……お前の覚悟次第だな」
芹沢は胡坐をかいていた姿勢から徐に立ち上がると、隣の部屋のふすまを開けた。
そこには布団が一組、敷いてあった。
「お前に言われたからといって、はいはいと隊を脱することはできねえな。お前もそれなりの代償を支払え」
「芹沢先生…」
「意味は、わかるだろう?」
総司は喉を鳴らした。静まり返った夜に、その音は部屋中に響いた。


梅の胸騒ぎは収まらなかった。席を立って一刻。隊士の鼾が響くなか、大広間の縁側に腰掛けていたのだが、離れから総司が戻ってくる気配はない。
月が傾き、雲がその姿を消した。先ほどの総司の表情は今までにないほど憂いを帯びたものだった。最近は塞ぎこんでいると聞いていたのだが、少し痩せてしまったのか、梅には少し奇妙に思えた。

それから、梅は離れに戻った。忍び足で気づかれないように部屋に近づく。部屋の火は灯されていなかった。しん、と静まり返り、それがかえって不気味なほどだ。
「…芹沢せんせ…?」
梅はか細い声で呼んだ。だが返事はなかった。 不思議に思いながらもすっと音もなく障子を開ける。やはり芹沢と総司の姿は無い。だが、隣の寝室から人の気配はあった。
「……っ…」
それは胸を刺す様な痛みだった。動悸がおかしくなってしまったかのように早まって、声も出ない。梅は力なくその場に座り込んだ。
「…ぁ…」
その光景に言葉を失った。
「ぃ、やだ……せんせ…い、芹沢…せ…っ!」
蚊の鳴くような小さな声で芹沢の名前を呼ぶ。それは明らかに総司の声だった。布団と肌が擦れるような音。快楽に耽り意識が朦朧となる中で呟かれる喘ぎ声。
「…いいんだろう?いいって言え」
エゴイスティックに言い放つ芹沢の言葉に、いつもとは違う野生じみたものがあった。
(…どうして…?)
「あ、…っ、おねが…も、…!」
(どうして、こんなこと…?)
血の気が引いていく。頭がぐらぐらして、その事実を拒むかのようだ。
「言え」
「ぁ…っも、いい…っ!いい…!」
梅は耳を塞いだ。両手で渾身の力をこめて、何も聞こえないようにして。ただこれが夢だったと誰かに言って欲しかった。

もう、何も聞きたくない。



90  
誰もが笑っていて、幸せなら良いと、そう思っただけなのに。


八木邸の庭は朝靄に包まれていた。久々に降った雨はパラパラと小雨で、水溜りを揺らし続けている。
総司が適当に着物を羽織り、廊下に出たときまだ夢を見ているのだろうかと思った。静まり返った八木邸に人の気配はない。靄に包まれ、世界が白と灰色に染まっていた。なのに夏のじめじめとした暑さが、纏わりついて離れず、総司は不快感を取り払うために、ゆっくりと歩き始めた。

「…どこに行ってたんだ?」
離れを離れると低音の声が鼓膜を揺らした。総司に緊張が走ったが、それは予想とは外れた人物の声だった。
「斉藤さん…」
斉藤が早く起きているのはいつものことだが、斉藤の表情に朝のすがすがしさはなかった。普段の無表情に変わりはないのだが、総司に罪悪感があるせいか、どこか怒っているように見えた。
「立ち話ではすまないんだろう?部屋に」
総司は斉藤に従って部屋に入った。

部屋はすでに布団が上げられ、いつもの殺風景なままだった。総司は斉藤に促されるままに羽織りを被せられ、その場に座り込んだ。向かい合って斉藤も腰を下ろす。
総司は苦笑した。
「説教されるみたい」
「俺は説教なんかしない。俺の役割じゃないからな」
説教はしないという斉藤だが、今ばかりは責めるような口調をしていた。
「…浅はかな事をしたと思ってる…?」
「思ってる」
斉藤は即答した。彼にしては珍しいことだった。
「芹沢のことはもうあんたの手に負えるようなことじゃない。一人で何もかも解決しようとするな」
きっぱりと言い切った斉藤はやはりいつもとは違った。苛立っているかのようだ。その口調がどこか土方に似ていて、総司は胸が苦しくなった。
土方も同じことを言うのだろうか。
それとも、もう心配なんてしてくれないんじゃないだろうか。
「…でも……」
「あんたは自分が周りにどれだけ大切にされているか、知らなさすぎる」
「…そんなの、わかりません」
総司は自分の声が震えていることに気がついた。それがどこからこみ上げてくる感情なのかはわからないが、胸の奥が詰まって苦しい。もがくように出した声だった。
「私は、ただ、みんなで…みんなが、笑ってくれればいいと思ったんです。誰も恨まない、争わない。、殺しあわない……試衛館みたいな場所を作りたかったんです…」
「その中に、芹沢を加える必要なんてない」
斉藤はなおも言い切った。
「芹沢はあんたを傷つけるだけだ。あんたもそれをわかっているはずだ。女を手篭めにしたときも、大和屋のときも、あんたは芹沢を恨んだはずだ」
「…っ、それでも…っ!それでも、私はあの人を救いたかった…殺意の世界で生きるしかない、あの人を…っ」
頬に伝わる感触で、総司は自分が涙を流しているのだと気がついた。
あの不器用な優しさを失いたくはなかった。彼を殺したくなかった――。
「偽善だって思われても、いい…。私は大切な仲間が殺しあうことが一番嫌だった…だから…っ」
だから、いいと思った。
こんなことで、あの人の手が真っ赤な血で染まらないのなら。
こんなことで、あの人の世界に少しでも光が差し込むのなら。
そう思って、あの時差し出された芹沢の手を取ったのだ。
たとえそれが裏切りであると罵られようとも。
「……このことはまだ副長に報告してない」
斉藤がため息混じりに答えた。総司は濡れた視界のなかで、斉藤の表情が緩んでいることに気がついた。
「斉藤さん…?」
「あんたは…本当に優しすぎる」
やれやれ、とわざとらしく肩からため息をつく斉藤を見て総司の緊張もほどけた。涙の筋を拭って、笑顔を向ける。
「やっぱり…斉藤さんはお兄さんみたいですね」
「だから言っただろう?あんたみたいな出来の悪い弟は願い下げだ。第一、俺のほうが年下なのに」
本音なのだろう、斉藤は眉を顰め、本当に迷惑そうだった。
きっと斉藤は納得をしてくれたのだろう。…理解というわけではないようだが。それでも総司は少し荷が軽くなったような気がした。芹沢を殺したくないという気持ちをわかってくれたのは、もしかしたら斉藤が初めてだったのかもしれない。土方は…否定するばかりで。
「でも、副長にはそのうち伝わる。その前にあんたからちゃんと説明しておいたほうがいいな。芹沢から伝わってしまう前に」
「……はい」
「ところで、」
「え?」
斉藤は総司の手を引いた。そしてこっそり耳打ちする。
「ちゃんと後始末はしたのか?」
総司はみるみる真っ赤になった。


土方の手元には一枚の紙があった。そこに書かれているのは芹沢の腹
心、新見錦の借用表だ。
山南がリストアップしたものだが、借金は膨大な金額になっていた。芹沢の影に隠れて目立ちはしなかったものの、新見も幅を利かせているらしく、高い女を買っているとの噂だ。もっとも、芹沢の腹心、というわりには冴えない顔をしていて、とても「副長」には見えないのだが。土方は芹沢暗殺を決意したものの、反乱因子を無くすことが先決だとしていた。親玉がいなくなれば解決はするだろうが、芹沢への恩を持った人間を今後働かせるのは面倒だった。どうせ芹沢の二の舞をするに決まっている。よって、まず、新見の処分を先にしようと踏んだのだが、良い案は見つからなかった。新見を法度に適用させて殺すのは簡単だ。だがそれでは何の意味もない。――残忍なことだが、見せしめ、という意味もこめなければならなかった。この法度が有言実行のものであると。土方は頭を悩ませていた。
と。
「……あの」
か細い女の声がした。八木邸にいる女性は源之丞の妻まつと使用人、そしてこの女くらいしかいない。
「…何か用か」
土方が冷たく答えた。だが梅は「へえ」と頷いて怯む様子はない。
土方は仕方なく、立ち上がると障子を開けて梅を迎えた。だが一瞬で梅の様子がおかしいことに気がついた。いつもは一本の乱れなく結われた髪が少しほどけ、――それでも色香を増しているのだが――表情は冴えず、土方に脅えているというよりは、青ざめ疲れきった様子だった。
「どうした」
土方が思わず尋ねてしまうほど、梅は表情を堅くしたまま何も言おうとしない。
「用がないのなら…」
「あの…」
梅はぱっと顔をあげたと思うと、やはり目線を逸らした。
「あの…沖田せんせのことやけど…」
またか、と土方は内心ため息をついた。総司とは相変らず喧嘩中で最近は口をきいていない。
土方には蟠りはないのだが、総司に思うところがあるのだろう。しばらく収まるまで放っておこうと決めたのだ。さらに梅が関わる総司の話は、疲労が蓄積したいま、酷く億劫だった。
「総司のことだったらあとに…」
「どうしてあんなに、追い詰めたん…っ?」
弱気に怯んでいた梅の瞳が急に射止めるかのように土方に強く突き刺さった。よく見れば梅の目には涙が溜まっていたようで少し光って見える。だが土方には意味が分からなかった。
「なんのことだ」
「とぼけんといて…!どうしてこんなこと…なるん…?うちの好きな人は、皆傷ついていく…」
「傷ついて…?」
俯いた梅の涙が畳に落ちる。ぽたぽたと、音を立てて。
その音が、なぜか土方には木霊して聞こえた。





解説
なし
目次へ 次へ