わらべうた




821


順風満帆な日々は長くは続かない。

山崎は近藤に伴って長州へ向かうこととなった。これまでも長い期間顔を合わせないことはあったが、彼が赴くのは火種が燻ぶり続ける戦地だ。相良はその話を深刻な顔で受け止めたが、山崎はふっと笑う。
「幕府の御役人様ご指名の重要な任務や。言うても、俺は近藤局長には同行せず庶民に化けて周囲の調査と警護…いつも通りの任務やから心配すな」
「…烝の方が緊張してるんちゃうんか?」
「バレたか」
物乞い姿の山崎は赤い舌を出して茶化した。周囲にはみすぼらしい物乞いに施しを与える裕福な商人が言葉を交わしている…に見えるだろう。けれど彼の眼差しは鷹のように鋭く、強張っていてとても物乞いには見えない。
「局長が出世されてこんな大役を任されることになったや。俺が失敗するわけにはいかへん。…それに同行者かて油断でき…いや、なんでもあれへん」
「…」
山崎は言葉を濁したが、新撰組は江戸から新たに新入隊士を迎え入れて以来、気が抜けない緊張感があるらしい。討幕派の浪士たちに目を光らせるだけでなく、内部の監視も増えたことは相良も実感していた。
「俺は何したらええ?」
相良は何か手助けできないかと申し出るが、山崎は首を横に振った。
「これ以上は頑張らんでええ。用事もあれへんのにあちこち顔を出して…直かてええ加減、不審がられる。…俺がおれへん間は休暇や思て大坂に戻ったらええ」
「…」
「そんな顔をせんといてや。無事に戻ってくる」
「わかった」
相良は頷き、懐から財布を取り出すと多めの小銭を欠けた茶碗に投げ入れる。チャリンチャリンと甲高い音が響いたのを聞き終えてから、未練を断ち切るように足早に去る。
(…俺は隊士ちゃう。あいつのやるべきこと引き止めることなんてでけへん)
けれど手先は震え、鼓動はどくどくと早鐘を打っていた。
(烝になんかあったら、俺は…)
それは初めての感情だった。


相良は山崎に言われた通り大坂に戻ることにした。
兄の長子で跡継ぎの甥はすくすくと健康に成長し、家人は日々喜びに満ちていた。そんな彼らは次男の相良が長く家を離れても、都に足しげく通っても何の興味もないようで毎度
「おや、お帰りですか?」
と奉公人までもが相良の所在さえ気にしない雰囲気だった。それは少し虚しくもあるが、自由であるということだ。相良は山崎の役に立つためにはちょうど良いと考えていたが、
「ようやく戻ったんか」
と今回は玄関先で待ち構えていたように鬼のような形相をした兄が出迎えたので驚いた。
「に…兄さん、どうされたんや?」
「話がある」
「話…?」
普段から弟のことなど気に留めずに跡を継ぐことだけに邁進していた兄が、いったい何の話があるのか。困惑した相良がもたもたと足を洗っていると「早くせえ!」と文字通り首根っこを捕まえて人気のない奥の間へと引きずられて投げ飛ばされた。奉公人たちも驚いていたが兄の形相にとても声を掛けられなかったようだ。身体中が痛んだが、それよりも兄がなぜこのようなことするのかという疑問で頭はいっぱいだ。
「兄さん…?」
「お前、えらい京や大坂の馴染みさんのとこへ顔を出してあれこれ聞き出してるそうやな?学なんてあれへんくせに尊王やら、佐幕やら、しょうもないこと語ってるそうやが」
「…!」
相良はごくん、と唾を飲み込んだ。
「そらかまへん。お前が何考えていようとどうでもええ。…ただ、大店のお馴染みさんの事情がなんかと漏れてると耳にした。このご時世や、徳川様に付くか、薩摩さんや土佐さんに付くか皆見極めてるし、裏でいろんな商売してる店もある。…それ他言されたら皆困る。もし耳に入っても同業の誼でお互いに上手くやる…そんな簡単なことまさかわかれへん言えへんわな?」
「…」
何も答えないことが無言の肯定となる。兄が容赦なく相良の頬を平手打ちした。
「っ…!」
「なあ。おとつい、堺のお馴染みさんのご主人が奉行所の取り調べを受けたんやて。長州さんに武具を売ってる疑惑があるってな。…そこの奉公人がお前に喋ったと打ち明けたそうで、奥方がどやし込んできたで。…うちの店はいつから裏切り者になったんかと父上が責められた。もちろん父上は濡れ衣やと突っぱねたけど、お喋りな奥方やさかい噂はあちこち広まってるやろうな」
兄が責め続け、相良の心臓がバクバク音を立てていた。その件は当然心当たりがあって、先日山崎に伝えたばかりだ。
(何か言い訳を…上手く躱さないと…)
そう思うが頭は真っ白のままで動かず、「それは」「その」と口から洩れるだけで後が続かない。そのおどおどした様子が気に入らなかったのだろう、兄はさらに高い場所から掌を振り落とし、相良は口の端から血を流した。しかし痛みよりも血を分けたはずの優秀で気高い兄が、まるで鬼のような形相で自分を打ち据えていることが信じられなかった。
兄は相良の言葉を聞こうとせず、怒鳴り続けた。
「父上はお前を庇ってそんな気概はあれへん言うとったけど、俺はちゃう思た。…お前の友達、唯一の友達や、新撰組に入ったやろう?」
「…!」
「それに思い至って全部辻褄があったわ。お前、そのお友達に情報を流しとったんやろう?その気がなかったくせにこの数年、えらい熱心にあちこち顔を出して、父上のお使いを引き受けてる思たら…まさか間者の真似事しとったなんてな」
「…」
相良は身体が強張りその場から動けなくなってしまった。兄は自分よりもはるかに優秀だ、何故いつかこうなってしまうと想定できなかったのか…自分への情けなさで胸が締め付けられる。そして山崎の足を引っ張ってしまったのだ。
兄は何も答えない相良に苛立ったように立ち上がると、さらにそのまま足蹴にした。
「なんでなんも言えへん?!認めるんか?!友人のためにうちの信用を損ねたと!」
「…兄さん…」
「次男で、跡継ぎになられへんからって好き勝手にやりよって、家を潰す気か!お前のせいで家人や奉公人たちが路頭に迷うたらどう責任を取る!いや、責任やら取れるはずがあれへん、無能なお前に!!」
「…」
「なんや、まだ何も言わへんのか!…ああ、腹いせか?俺に息子が生まれて跡継ぎになれんことを妬んだんか?!」
「違う…違います!」
相良は身を屈め、ひたすらに頭を下げた。兄からすれば弟はそれだけの愚行を犯したのだからどれだけ殴られ、蹴られても仕方ない。
ただ、何故か…罪悪感は沸きあがらなかった。
「先祖に、父に、家族に詫びんかい!壬生狼に成り下がった友人のためにお前は裏切った!」
一通りの罵詈雑言を浴びせ、息切れする兄に相良はようやくまともに口を開いた。
「…兄さん、俺は烝のためにそうしたんちゃう。自分のためにそうしてん…」
「この…っ!」
相良の弁明は兄の怒りの炎に油を注ぎ、結局は家人たちが駆けつけて引き剥がされるようにして終わった。
その日の落ち着いた頃に、父は相良を呼び「まさかお前が」と信じられない様子だった。父から見ても兄から見ても、次男の自分は凡人に過ぎなかったのだろう。しかし父は兄のように激昂せず静かに語った。
「…直之進はこの家の者として商人の何たるかを兄の背中を見て学んでるもんや思うとった。一度失うた信用を取り戻すんがどれほど大変か、わかってるやろうと過信しとった…これはわしの責任やな」
「…父上…」
淡々とした父の寂しい言葉で、相良は初めて彼らに対する申し訳なさを覚えた。兄は自分を見下しているのを察していたけれど、父は無関心だと勝手に思い込んでいた。
「…お前を勘当する。好きな所へ行かんかい」
父は投げやりな勘当宣言に、相良は頭を下げて「はい」と言っただけだった。この店と、家を去り、勘当されることが唯一の、最後の親孝行になるだろうと思ったからだ。
どんな言い訳も口にできない。
…いや、むしろ言い訳なんてない。
(これは烝のためやのうて、俺のために選んだ道や)
相良はその日のうちに家を出た。


豪商の次男でなくなった相良には当てなどない。長州へ向かった山崎を煩わせるわけにもいかないので何も知らせず古い長屋を借りて暮らすことにした。
家を出た夜、母がそれなりの金を持たせてくれたが使う気になれず、相良は慣れない日雇いの大工仕事ををして日々を凌いだ。齷齪働くと自分がどれほど恵まれた暮らしをしていたのか実感したが、だからといって家に戻りたいという気持ちはなく、ただその日常に慣れようと必死だった。
しかしこの暮らしでは山崎の求める『情報』を得られそうにない。兄の性分なら実弟を勘当したことなど恥ずかしくて口外しないだろう、きっと病で死んだとか遠くへ行ったとか曖昧な理由でその存在を消したはずだ。もちろん相良もそこまで厚顔無恥ではないので、以前の人脈を頼るつもりはなかった。
(これ以上、迷惑はかけられへん)
兄の見下した眼差しと父の淋しそうな顔が浮かんだ。
しかしいったいどうしたものかと思案していると、大工仲間の一人が相良を賭場へ誘った。もちろん幕府によって賭け事は禁じられて何度もお触れが出ていたが、一向に止むことはなく少額の賭け事は黙認されることもあった。相良はこういった場所に出入りすることさえ躊躇われる良識を持っていたが、ここで飛び交う情報網は魅力的だった。下世話な噂話が多いがそのなかには決して日常では得られない内幕話があって大いに役立ったのだ。
だが山崎はいまだに帰京せず長州に潜伏しているらしい。時々文が届くが、『まだ帰れない』という知らせばかりで結局、彼に再会できたのは見送ってから一年弱経った頃だった。











解説
なし


拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ