わらべうた




822


久しぶりの再会だったが、山崎はまるでつい昨日会ったかのような気軽さで手を振って挨拶してきたので、相良は内心胸を撫でおろす。賑わう居酒屋で酒と肴を囲んだ。
「直、なんか雰囲気が変わったな?」
山崎は相良をまじまじと眺めた。商家の暢気な次男坊を勘当されて一年…外での仕事が多く、色白の肌は焼けて少し痩せた。袖を通す物にも関心が無くなり、同じ着物ばかり着ているせいか草臥れたものばかりだ。しかし会って早々に彼を落胆させるつもりはなく、
「…これも仕事の一環や。それにこっちの台詞やで、そんな上等なモン着て刀なんか差して…今日はどっかの藩士のふりか?」
と話を振ると彼は照れくさそうに笑った。
「ちゃうちゃう。これは普段着や。今回の長州行きで一年もあちらにおったからな……俺もええ加減、顔を知られるんは時間の問題やからな、監察方の頭から身を退くことになってん」
「…身を退く?」
「ああ、組長に出世や。これで堂々と配下を率いて洛中を歩き回れる」
山崎は襟を正すしながらしたり顔をして軽く笑ったが、相良は「そうか」と視線を落とす。彼の出世は喜ばしいけれど監察方ではなくなることは残念に感じた。
「…ほな俺は用無しやな」
思わず漏れた弱音に、山崎は「まさか!」と声を上げた。
「頭やのうなるけど、無関係になるわけちゃう。まだ仕事を全部任せられるような部下はおれへんし、あくまで頭から退くっちゅうだけで。これからも今まで通り、情報があったら寄越してほしい。必要があったら俺が動くことになるやろうから」
「…わかった」
相良はほっと安堵しながら頷いた。彼の協力者であること…それだけが今の相良を支えていることなど、山崎は微塵も気が付いていないだろう。
相良は肴を箸でつつく。
「ほんで、長州はどうやった?」
「どないもこないも、潜入したところでなかなか上手くいけへん。一年間、苦労を続けたけど具体的な成果はなかった…そうこうしてる間に二度目の戦が起こることになって戻って来たってわけや」
「戦うて言うても、たかが長州一国を相手にするだけやろう?負けるわけがあれへん」
相良にとって幕府の内情など知る由もなく、長州一藩に負けるはずがないとしか思えない。しかし山崎は難しい顔をした。
「そうやったらええけど。…長州に潜伏して、奴らが倒幕へ強い執念を持ってるんは感じた。軍備かて異国と取引をして取り揃えてる…幕兵の怠慢を目の前にすると、もしかしたら負けるかもわかれへん思った。今回の戦に薩摩と土佐は参加せん言うてるし…万が一負けたらこの国は一変するやろうな…」
「…」
好奇心の赴くままに生きていた山崎が、真剣な表情でこの国の将来を憂いている。この一年会わなかった間にさらに精悍な顔つきになり、彼が新撰組幹部の一人に名を連ねていることも何ら不思議ではない。
「…ええ男になったな」
「…はあ?なんていった?」
「何でもあれへん」
「もういっぺん、言うてみ」
「いやや」
相良は適当に誤魔化して酒を飲む。久しぶりの楽しい酒は喉をカッと熱くして流れていき、それが心地よくて酒が進んだ。気心の知れた幼馴染との邂逅はここ一年、孤独に暮らしてきた相良にとって寂しさを吹き飛ばすほどの喜びにあふれていた。そして、門限がある山崎とともに店を出る頃には体中熱てり、相良の足元が覚束なくなっていた。
夏の夜空に星が煌めいている。夜風の心地よさに身を委ねつつ相良はそれを見上げるだけで気持ちが満たされていた。
「ああ、楽しかった!烝が無事に帰ってきてこうやってうまい酒を飲める。しかもお前の奢りなんて最高やで」
山崎に支えられながら機嫌良く煽てるが、山崎の方は眉間に皺を寄せていた。
「直、やっぱなんかあったんちゃうんか?こないに酔うなんて見たことあれへん」
「…烝が戻ってきた祝いの宴やってん。別に羽目を外したっておかしゅうはあれへんやろ?」
「そらそうやが…実家でなんかあったんか?」
相良は苦笑した。
(さすが新撰組の監察様や)
酒の席で一言も大坂の家の話を口にしていないことに気が付いていたのだろう。
心のなかでは彼を茶化しながら、しかし相良はすでに山崎に自分の身の上の事情を話さないと決めていた。新撰組の協力者であることが父と兄に露見して勘当されて、今はその日暮らしをしている…なんて打ち明けたところで山崎は己の責任だと言い出すだろうし、出世した彼の足を引っ張ってしまうだろう。
「…ちょい兄さんと喧嘩しただけや。皆、元気にやってるし、問題あれへん」
「ほんまか?大坂には戻ってるんか?」
「たまには。…ちょうど俺は京へ拠点を移したところや」
大坂に戻らなくとも齟齬が生まれない様に、相良は嘘を重ねる。いつかバレてしまう嘘でも、いま目の前の山崎を悲しませるのは本意ではない。
「へえ、こっちに引っ越したんか?新撰組のために?」
(お前のためや)
「いや…自分のためや」
言いかけた言葉を飲み込んで、相良は答える。自分が選んだ生き方の責任を押し付けるようなことはしたくない。
山崎は「そうか」とまだ疑念を持っているようだったが納得してくれて、二人はすぐ先の角で別れることにした。
「ほなまた」
「…ああ、またな」
すぐに会えるとわかっていても、山崎が去っていくのが虚しくて寂しくて相良はいつまでもその背中を見送った。
(きっとこれからお前は陽の当たる道を、俺はお前の影を行くんだな…)
それでも光と影は離れられない。だから共にいられるならそれでいい。
…しかしその道は思った以上に過酷な道だった。


二度目の長州征討が将軍家茂公の薨去のため休戦となり、幕府が事実上の敗戦を喫したと都中では噂になった。
ゲラゲラと人の声があちこちで沸き立っている。
「一橋のお殿様が将軍になられるそうやな」
「あーあ、豚公がせっせと戦をやめてしもうたで」
「薩摩も土佐も見切りをつけて長州と一緒に攻めてくるって噂を聞いたわ」
「ほんまかいな」
相良が通う賭場でも慶喜公の将軍就任は格好のネタで、冗談を混ぜた流言飛語が飛び交っていた。相良は時にその雑談に加わりながら聞き耳を立て、賭け事の様子を見物していた。客人は相良のようなその日暮らしの庶民や暇そうな商売人、夜鷹のように乱れた女、ガラの悪い下級武士などで様々で、駆けの品も異なる。役人に目をつけられない程度の少額の金から酒代、肴代は定番で女なら化粧品の類や装飾品…舶来の薬や銃など色々な品が行きかっている。
「兄さん、今日も見物?」
相良が野次馬の一人となって賭場を眺めていると、中年の小太りの女が声をかけて来た。彼女は相良の長屋の隣に住む静(しず)というで、たまたまこの賭場のことを教えてくれたのだ。
「ああ、どうも。…俺は賭けようにも賭けられる品を持ってへんのや。お静さんやったら知ってるやろ?」
「そらもう良う知ってます。ボロ屋で家具も荷物もなんもあらへん質素な部屋に住んでるもんな」
「そうそう」
「そやけどあんた、ほんまはええとこのお坊ちゃんちゃうんかい?」
「…なんでそう思う?」
目を細めて相良を見る静は値踏みをしているようにも見えた。
「何とのうや。うちはそんなんに察しがええんやで、長う客商売をしてるさかいな」
「ははは…たとえそうやとしてももう関係あれへん。同じ穴の狢ってやつや」
「それはそうやな」
静には一見人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべているが、その腹の奥底には得体のしれないものを感じていた。実際彼女がどのような商売をしているのか、相良は知らない。ただこの賭場に通い詰めているのだから人に誇れるような仕事ではないのだろう…と思うだけだ。
静と会話をしていると、賭場の奥の方がワッと騒ぎになった。
「 半!半や!わしの勝ちだ!ハハハ!わしの勝ちだァ!」
「待ってくれもう一勝負!」
「ダメダメ!あんた、もう負けっぱなしで賭けるものなんてあらへんやろう!」
勝ち誇って狂喜する見るからに金持ちの男と、顔を真っ赤にして「まだまだ!」と縋る男。その隣には「お父ちゃんいい加減にして」と引き止める若い娘がいた。
賭場ではよく見る光景で、相良は負けたのなら引き下がれば良いのにと思うが、こういう賭けでは負けたまま止めることこそ難しい。それが己の才覚なら諦めがつくが、皆に巡ってくる運に左右されるのだから、「次こそは」と思ってしまう。
負けた男もそうだったのだろう。
「やったらこの娘を賭ける!次に負けたらあんたの好きにしたらええ。妾でも下女でもな!」
「お父ちゃん!」
男がとんでもないことを言い出したので、相良は顔を顰める。静も「タチが悪い」と賛成できない様子だったが、場上の雰囲気は真逆だ。
「人でなし!」
の声は非難ではなく冗談交じりの揶揄でしかない。
「やれやれ!」
「おもろなってきた!」
と大盛り上がりだ。勝った男も周囲に煽られて悪い気分ではなく、値踏みするように娘を見た。
「へえ、娘はいくつだ?」
「まだ二十歳にもなってへん!」
「ふうん…若いならええか」
男の下卑た視線を浴び、涙目になった娘は必死に「お父ちゃん」と助けを求めるが、父である男はすでに目が血走って正気を失っている。周囲は歓声を上げ、
「この親父、娘を賭けるんやて!」
「やったら俺も参加させてくれや、自分の娘を賭けるなんて聞いたことあらへん!」
「ほらほら、集まった集まった!」
困惑する娘を置いて、彼らの卓には野次馬たちが集まっていた。
「あんたも行く?」
「…お静さんは?」
「うちはあんまり興味あらへんなあ。結果は見えてるし。…先に戻るさかい、あとで顛末を教えて」
「わかった」
静はどうでも良さそうに手を振って賭場を出て行ったので、相良はそちらに足を向けた。賭場のあちこちで賭けが行われていたはずだが、すべて途中やめになって父娘の行く末を見届けようと皆が集まっていた。
相良は一番後ろでその様子を見守ったが、静が予想した通り娘を賭けた勝負はあっさりと父親が負けた。いよいよ賭ける物が無くなってようやく冷静になったのか、父親は顔面蒼白となっていたがもう後戻りはできない。既に娘は勝った男に引っ張られ、我がものだと言わんばかりに肩を抱かれている。
「思た以上に肌艶もええな、ええ買い物をしたぞ」
「い、インチキちゃうんか?なんか仕掛けが…!」
「おいおいおい、負けといてケチをつけるんか?…言うとくが、この賭場で細工やらできんで!」
そうだそうだと周りが責め、父親は黙り込むしかない。手だてが無くなったことに絶望した娘は号泣し、頼りない父親とともに項垂れていた。相良は興奮する野次馬の合間から彼らの顔を見る。
(器量のええ娘とやないか…)
父親もきっと貧乏人というわけではなく、娘も不自由なく育ったはずだ。立った一晩の賭け事に人生を狂わされていく様を、野次馬たちは他人事のように嘲笑うが相良には憐れとしか思えなかった。
するとさらに残酷なことに「品定めしたらどうや!」と誰かが声を上げてそうだそうだと囃し立て始めた。娘はこの場で引ん剥かれる絶望に悲鳴を上げたところで、耐えきれず相良は一計を案じた。
「オイ、役人がこっちに来てんで!」
高らかに叫んだ途端、まるで一気に潮が引くように客人たちは「拙い!」「逃げろ!」と一斉に逃げて行った。逃げ遅れたのは賭けに勝った男と、その取り巻き、唖然とした父親と絶望した娘だ。
(状況は変わってへんが…野次馬の前で裸に。引ん剥かれるよりはマシやろう)
相良は後ろ髪を引かれつつこれ以上は何もできることがないと、駆けだそうとしたが
「待てや!」
と引き止められて相良は男二人に両腕を拘束された。
「兄貴、この男法螺吹いてるで!」
「役人なんて来えへん!貴様、奴等とグルなんか?!」
相良は暴れて「離せや!」と足掻くがとても相良の細腕では逃れられそうにない。
(しもうた…あの男、この賭場を牛耳ってるんか…!)
勝った男の味方があちこちに潜伏していたのは賭場を仕切っている側だったからだろう。もしかしたら賭け事も父親が主張したように何か裏があるのかもしれない…が相良にはそれを証明する手立てはない。すると男が娘を連れたまま相良の目の前にやって来て、まじまじと見てにやりと笑った。
「ふうん…この娘に興味があるんか?それともただの義侠心か?」
「…年若い娘を賭けるなんて正気ちゃう、面白うない」
「賭けたのは父親や」
「ああ、せやから俺はあんたも父親も軽蔑する。…その娘が可哀そうなだけや」
こうなっては状況は変わらない、と相良は遠慮なく答える。一年前の裕福な商家の次男ならこんな口答えはせず無関心を決め込み静のようにさっさと去っていただろうが、何も失うものがない今の相良には恐怖はなかった。
すると男は気分を害した様子はなくそれどころか「気に入った!」と満足そうに頷くと、娘を父親の元へ放り投げた。そして相良の顎にごつごつした指を這わせて舐めるように見下ろした。
「わしはもともと女より男の方が好きや。…娘は適当にどっかに売ろか思たけど、気ぃ変わった。お前、よう見たら品のある顔をしてるし」
「…割に合えへん。俺は賭けに負けたわけちゃう、法螺を吹いただけやろう」
「ハハ、確かに!ほなそうやな…一晩でええか」
「…」
相良はもちろん気がすすまないが、ちらりと父娘の方へ視線をやった。相良の選択で娘の人生が救われる。きっとあの父親は根は真面目なはずで深く反省して二度と過ちは繰り返さないだろう。そう思えばたった一晩の事、犬に噛まれたと思えば安いものだと思った。
相良が「わかった」と頷くと娘の眼差しに光が差し込み再び涙を流し、父親は「おおきに!おおきに!」と平伏した。
(まったく…俺は相変わらず上手う立ち回られへんな)
自分を犠牲にせずとももっと賢い手立てがあったはずだ。兄に露見した時ももっと良い言い訳を準備すれば良かったのに、兄に責められ怖気づき何も言えなかった。
相良は男たちと共に賭場を出た。ちらりと振り返った先にいる父娘は互いに抱きしめあって互いの無事を喜んでいた。
(お静さんに話せる顛末になりそうにないな)
相良はそんなことを思いながら男とともに投げやりに歩いて行った。


裕福な暮らしを捨てた一年で、自分はすっかり俗世に染まり世の中の不条理を味わったと思っていたけれどそうではなかったのだろう。底辺には底辺がいて、人を人と思わず扱う異様な下郎がいることを知らなかった。
(甘かった…)
賭場で勝利した男は名乗りもせずに家へ連れ込むと、すぐに乱暴を働いた。相良は犬の噛まれた程度だと覚悟していたが、実際は狼に喰われたような惨い扱いを受けて一晩がとても長く感じた。最後のあたりは記憶にないが、おそらく賭けに勝った男だけでなく何人をも相手にしたのだろう、気が触れたような悲鳴を上げて意識を失い、目を覚ました時には半裸のまま外に放り出されていた。
身体中が軋み、頭痛がしてこめかみを抑えた。吐き気さえ感じた。
そして忘れたい記憶の中で
『烝』
と何度も呼んだ気がした。
「ほんまに…しょうもないな…」
幼馴染の役に立ちたくて、自分が選んだ生き方だ。どんなに辛くとも、家族と縁を切っても、自分がそうしたいと思ったから選んだはずなのに。
(俺の心の奥底には…そんな浅ましい気持ちがあったなんてな…)
それをこんな形で自覚させられるなんて、本当にどうしようもない。
相良は着物の乱れを直してふらふらと立ち上がった。








解説
なし


拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ