わらべうた




823


人は、一度堕ちてしまうと、もっともっと底へと堕ちていく。

「直、お前どっか具合でも悪いんか?」
山崎に尋ねられたのは夏の終わり頃だった。屋台で二人並んで蕎麦を啜っているときに不意に訊ねられたのだ。
「…具合?なんで?」
「顔色悪い。クマも酷いし、寝不足か?」
「そうかも…ほら、最近夜も暑いやろ」
初夏だというのに陽が陰ってもムシムシしている。相良が適当に答えると、山崎は「そうやなあ」と相槌を打ってまた蕎麦を啜った。
監察方を離れたはずの山崎だが相変わらず情報収集を怠らず、相良にもあれこれ調べてほしいと連絡が来る。今日はその報告のために顔を合わせたのだ。
「そんなことより烝、例の麻呂殿のことだけど廓では知る人ぞ知る人物らしい。なかなか足を運べへんけど、一度来店したら金つこて豪遊するんやて」
「へえ…どっかのお公家さんかいな?麻呂っちゅうからには」
「さあ、適当な変名ちゃうんか?」
山崎は「うーん」と考え込む。今回は会津からの極秘の調査だということで、あだ名以外の情報がないそうで山﨑にとっても『麻呂殿』という存在はまるで雲をつかむようなものらしい。
相良は箸を止めた。
「…直、どないした?」
「いや…もう腹がいっぱいや」
「ふうん。…それにしたかて、廓の情報まで手に入れるなんて、直にそういう類の伝手があるとは知れへんかった。うちの監察方じゃ廓の女将に訊ねても、麻呂殿のことは知れへん存ぜぬ言われるばっかりやったと報告を聞いたけど」
「…たまたまや」
「ハハ、優秀な相棒で助かるわ」
山崎の過剰な誉め言葉に「やめろよ」と笑いつつ、相良は温かい茶を口に含んだ。
…あの賭場での出来事から、相良のなかで何かぷつんと糸が切れた感覚があった。情報を得られるなら自分の身体さえ道具にすることを躊躇わず、女だけでなく男まで誘うようになったのだ。隣家の静は白い目で「すっかり色狂いになってしもうた」と揶揄したが、相良も箍が外れた自覚があった。
(せやけどそうせんと情報は得られへん…)
賭場で得られる情報には限りがある。家の勘当によって商人との縁が切れてしまった相良には取れる手段は限られていたのだ。使えるものはなんでも使う。
(それに一度この身は汚れたんやから、もうどうでもええやろ…)
投げやりなわけではなく、手段として用いることに躊躇いがなくなっただけだ。そのおかげで廓にこっそり通う『麻呂殿』の情報が入ってきたのだ。
だがこの事実を山﨑に知られるのは憚られたので、相良は話しを切り上げた。
「ほんで、最近はどうなんや?偉ぶって市中の見回りするって言うてたけど、見かけたことあれへんな」
「それが案外医学方の方がせわしなくてな。結局は裏方や」
「…医学方?」
「あれ、言うてへんかったかいな?昨年から監察方兼医学方として会津藩お抱えの診療所で学んでる。親父が鍼医者やといっても俺は不真面目やったから向いてへんって思てんけど、幕府ご典医のご推挙で断り切られへんでなぁ」
「へえ…」
山崎は渋々という言い方をしたが、相良にはその表情が少し誇らしげに見えた。本人は向いていないというが鍼医師の息子として父の背中を見て来ただろうし、器用でなんでも卒なくこなすので案外楽しんでいるはずだ。
「そうか…がんばりや」
「ああ」
このやり取りを何度繰り返しただろう。相良の知らないところで、山崎は好奇心に満ちた眼差しで羽ばたいている。相良はまるで足の裏が地面に張り付いたようにその場から動けず立ち竦んでいるだけだ。
(なんや…虚しくなってきたなぁ…)
充実した人生を送る彼に対する嫉妬ではない。ただ彼との差が歴然と現れているような気がして、相良が目を伏せて唇を噛んだ時、
「…ほれ」
「ん?」
「ナスの天ぷら。直の好物やろ?」
「…おおきに」
(ナスが好きやったのは子供の頃や)
こんな些細なやり取りだけが相良の救いになる。ナスの天ぷらを見つめながら手をつけずにぼんやりしていると、山崎は顔を顰めた。
「なあ、やっぱなんか心配事か?…この仕事が辛いならもう辞めても…」
「やめへん!」
相良は自分でも驚くほど大きな声が出た。山﨑は目を見張り、蕎麦屋の店主も「何事や?」と言わんばかりの表情をしていた。
「直…?」
「…い、いや、その…いろんなとこに人脈ができて楽しなってきたとこや。やりがいもあるし、商売人よりよっぽど向いてる。…続けさして欲しい」
「…そら、直がええならもちろん助かるけど」
「ほなこの話はこれでおしまい」
相良は山崎が不審がらないようにナス天を頬張り、蕎麦を啜り汁も残さず飲み込んだ。胃がキリキリと痛んだが、きっとそのうち治るだろうと思った。


夜、住まいの長屋に戻ると静が「やっと帰ってきた!」と言って駆け寄ってきた。
「お静さん?なんか用か?」
「お客はんやわぁ。…なんかガラの悪い男や、あんなんと付き合うてるのかい?あんたはんが帰るまで待つってなぁ…隣にあんなんがおると落ち落ち眠れやしいひんよ」
静は隣人として苦情を言いにきたようだが、相良は住まいを知っているような客人に心当たりがない。
ひとまず静を宥めて「早めに帰らせるから」と約束し、相良も長屋に入る。
狭い長屋に寝ころび、相良が帰ってくると気だるげに振り返ったのは金貸しの若い男だった。首筋の刺青が威圧的でよく目立つ。
「…クロさんやったのか」
相良はクロ、というのが彼の本当の名前かどうかは知らない。ただ彼は賭場の金貸しで皆に「見かけは優男だが本性は不気味」とあまり良い評判を聞かないため、目の前に在られたら黒猫のように忌み嫌われ避けられている存在だ。相良は少し身構えた。
「なんでここが分かった?」
「昨日あんたはんを尾行したんやねん。…相良はん、もう少し返してくれなこっちの商売も上がったりや」
「そうやろな」
彼とは長い付き合いだが家まで押しかけられたのは初めてだ。相良は懐から財布を取り出して、有り金をすべてくれてやったが、クロは渋い顔でそれを数えて
「足りへん」
と言った。
「今日はそれで勘弁しとくれや。隣家のおばちゃんがあんたを怖がってるんや」
「俺ァは何にもしてなぇのにな。…そやけど相良はんもえらい人がええわな。賭場でいっぺん、あほな父親と若い娘を救うたったこと広まってもうて、負けたやつが皆あんたに頼るようになった。ほっときゃええのに、全部引き受けて自分は借金三昧…こないなボロ長屋に住んでなぁ。ほんま、理解できへん、金はあらへんくせに善人のつもりか?」
クロは半ば嫌味のつもりで尋ねたが、相良は苦笑した。
「別に、そないなつもりとちがう」
確かにあの一件以来、賭場で頼られることが増えた。しかし相良は単なる善意で彼らに手を差し伸べていたわけではなく、彼らの損失を補填する代わりに新撰組や山崎へ渡す情報を得たり、協力者に仕立てたりしたのだ。そういう意味では彼らの命を担保にした取引を行っただけで、称賛されるものではない。
クロは金を懐に仕舞いながら胡坐をかいた。
「それで?残りの金はいつまでに?」
「…そう急かさんといてくれや。必ず返す、待っとってくれ」
「待つだって?…そんなんをしいひんでも、すぐにアテがあるやろ?」
「…」
クロは口元をにやりと意味深に綻ばせ、相良から『アテ』を引き出そうとする表情を浮かべていて、相良は困惑した。
(まさか俺が新撰組の協力者やちゅうこと知られたのか…?)
新撰組にもっと金を出させればいいだとか、協力者であることをネタに脅されるのか…様々なことが頭を巡ったが、クロが口にしたのは別のアテだった。
「俺の客には金持ちが多い。店の金を着服したことバレると大変なんやとさ。そやさかい…相良はんのこと知ってる客もいたよ、あんた無駄に顔に品があるさかいさ。すぐに教えてくれた」
クロは得意げに語ったが、相良は血の気が引いていく。
「大坂の、そこそこ大店の次男なんやって?入ってくる金を待たのうったって、お父上に頼んだら解決するんじゃねえの?」
「…俺は勘当されてる」
「勘当されても、面子は大切やろう?」
クロの言うことは尤もで、きっと父や兄は体面を気にして金を出すだろう。父と兄は次男に呆れて憤るに違いないが、クロが一度だけで取り立てを終えるわけがない。何かと理由をつけて脅し、執着して搾り続け実家に迷惑をかけてしまうだろう。
相良は態度を改めて、クロの前に膝を折り頭を下げた。
「…頼む。金はどないか工面する、もう少し待ってくれ」
「ふうん…アテがあるんか?」
「アテは…ある」
相良は具体的には思いつかなかったが、とにかく事情を知らない父や兄を巻き込むことだけは避けたかった。
クロは「ふうん」と少し考えこむように唸った後、伏したままの相良の顎を指先で掴み、
「利息は必要やろ?」
と笑った。相良は躊躇いながら「そうやな」と頷いた。

翌朝、クロはもういなかった。
「…直はん、あんた阿呆やな。結局、うちは寝られやしいひんかったわぁ」
粥を持って訪ねて来た静は朝の挨拶すらなく文句を言った。続き長屋の薄い壁一枚隔てた先で何があったのか…筒抜けだったに違いない。男の嬌声など聞きたくはなかったはずだが、あのクロはそんなことを気にするような輩ではない。
相良は力の入らない身体をどうにか起こしつつ「すまん」と謝った。静はため息をつきながら相良に粥を押し付けた。
「ひとまず食いな。…怪我は?見せてみな」
静は首筋や背中、腕などあちこちの打撲やひっかき傷を手当てした。相良は静がこんなに気にかけてくれることを意外に感じたが、それもまた相良の知らない彼女の一面なのだろう。しかしせっかくの粥はなかなか喉を通らず食欲はなかったため捗らない。静は気が付いていたようだが、そのお喋りな口を閉じて黙って手当てした。
「…熱でもあるのかい?」
「そうかもしれへん。関節も痛むし、身体火照ってる気ぃする」
「…そうかい。ほな後で薬を届けたるさかい寝てな、隣人の誼やわ」
「おおきに」
静は相良の背中を叩きながら「阿呆や」と何度か繰り返した後、長屋を出て行った。
相良は食べ残した粥を置いて、横になった。煎餅のように固い布団、いつ崩れるかわからないボロボロの長屋、悪人の手垢がついた自分の身体…そしてその中身は空っぽで生き甲斐さえ友人に求めている。
(俺…どうなりたかったんやっけ…?)
大店の次男として生きることがつまらなくて、山崎の背中を追うように新撰組の協力者になることを決めた。勘当されてもその決意を貫いて、あらゆる手段を講じるうちに環境が変わり果て、いまや借金取りに追われるようになった。他人から見れば転落…としか言いようがない。
(でも、俺にとっては違うんや…)
山崎に感謝され、必要とされ、求められる。いつも好奇心で満たされていたあの眼差しに自分の姿が映っていることが…どうしようもなく嬉しい。
『優秀な相棒で助かるわ』
「相棒…か…」
(烝はいまの俺を見ても…そう言うてくれるんやろうか?)
相良は目を閉じた。
すると不意に忘れていた記憶が蘇る。
『…何でも言うこと一つ聞くっていうはどうだ?』
『それがええな。何でも聞く』
互いに大人だと言うのに、指切りをした。律儀な山崎はきっと覚えているだろう。
(俺は…何を、願うのだろう…)
そんなことを考えているといつの間にか眠っていた。

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解説
なし


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