わらべうた




824


風邪だと思ったものの体調が優れず全快することがないまま、盛夏の頃には身体が重く火照りを感じて寝込むようになった。
時折静が様子を見に来てくれるが、それ以外は誰にも会わずに家に籠りきりだ。山崎からたびたび「そろそろ顔を見せろ」と催促されるがあれこれ都合をつけて断り続けた。
(医学方の烝に診したら、めんどいことになりそうや…)
そんなある日、静が珍しく色めき立った様子で「お客さんやで」と顔を出した。うとうととしていた相良には心当たりがない。
「…客?」
「狭くてボロ屋ですけど、どうぞぉ」
静は相良の許可なく客人を案内する。彼女には散々世話になっているので文句は言えないが、クロの件もあるのでせめて客人の名前くらい聞き出してほしいものだ。
しかし、その顔を見た途端、相良はハッと目を見張った。
「ひじ…!」
「邪魔するぞ」
突然やって来たのは土方だった。傘を目深に被り周囲を警戒しているようだったが、その端正な顔立ちは良く目立ち、中年の静まで喜ばせてしまう。相良は寝床から出て正座しようとしたが、土方は「そのままで」と言ったので薄手の羽織に袖を通すにとどめた。
「あの…なんでこちらに?いえ、そもそもこの場所をなんでご存じで…」
「新撰組の協力者は山ほどいる。…安心しろ、山崎には伝えていない」
「…」
住処だけでなく山崎に隠していることすら何故知っているのか…と相良は思うが、尋ねたところで答えなど得られないだろう。相良が黙っていると、静が「粗茶やけど、ごゆっくりぃ」と見たことがないほど愛想良く振舞って去っていった。
土方は湯飲みに手を伸ばしながら早速切り出した。
「麻呂殿の件では世話になった。…先日、無事に解決した」
「あ…ああ、そうでしたか。そら良かったです。…その件でわざわざ来てくれはったんですか?」
「それもあるが…話はいくつかある。…まず、クロは死んだ。大坂の実家には接触していない、安心していい」
「…」
相良は唖然とするしかない。クロの件はどう対処すべきか考えていたが、その後接触がなく彼自身の所在がわからなくなってどうしようもなくなっていたのだ。まさか新撰組によって始末されているとは思いも寄らなかった。
「それから君が賭場で抱えている借金も解消した。そもそも君自身のものではないものが殆どだったが…解決させた」
「…」
『させた』という土方の物言いには強引な手段を使ったのだろうと想像できた。そもそも違法な賭場での借金だったので、今や幕臣となった新撰組副長の一言で無かったものになるのは容易いのかもしれない。
「ありがとうございます…」
「君の働きの対価だと思えば大した額じゃない」
「そんな…」
土方の言葉は相良への賛辞なのだろうが、あまりに突然の出来事に感情が付いていかない。そして土方は声のトーンを落とした。
「…家を勘当されたと聞いた」
一体どこから、と思うのは愚問だろう。相良はすぐに首を横に振った。
「それは…俺が未熟やったんです。もう少し上手うやったら良かっただけで…父や兄に迷惑をかけるんは本意やなかったので、勘当については異論はありません。もちろん新撰組や烝のせいでもないと思うてます」
「そうか…」
「それより、烝には黙っとってもらえますか?勘当されたなんて知ったらあいつ、自分を責める思うので…!」
勘当されたことよりも、その事実を山崎に知られることの方が怖い。相良は土方に懇願したが、彼は険しい顔をして突然、相良の手を取った。
「あ…!」
「君は自分の状況が分かっているのか?」
「…」
土方が相良の手のひらを強引に開かせると、薄い紅斑の発疹が発生していた。相良は咄嗟に引っ込めようとしたが力の差で敵わず、そのまま羽織の襟まで掴まれてしまった。背中には豆くらいの赤褐色の丘疹が現れている。
土方は「やはり」と呟いて眉間に皺をよせ深くため息をついた。相良も観念し、目を伏せた。
「俺は昔、薬屋をやっていて多少の心得はある…目は見えているか?」
「…見えてます」
「以前のようにまっすぐ歩けるのか?…この部屋の惨状を見る限り、足元が覚束なくなっているんじゃないのか?」
「…」
相良は答えられない。土方の言う通り、いつまで経っても熱が引かず、発疹が増えて平衡感覚が失われていたせいで、あちこちにぶつかり長屋には物が散乱してしまっている。
薬屋をやっていたら…いや知識がなくともわかる病だろう。
「かなり進行している瘡毒だろう。…いつからだ?」
「…わかりまへん。ただクロが来てからこんな具合が続いて…せやけど一度収まって…」
「瘡毒はそういうものだ。たいてい治ったと勘違いしてまた始まる…完治することはない」
「…」
相良が目をそらしていた現実が、土方によってはっきりと突き付けられ胸が痛んだ。
おそらく一年前、賭場で一線を越えた時にこの病は始まったのだろう。あの時の出来事を恨むこともあったが、周囲を騙し情報を得て、借金の代わりに協力者に仕立てた…そのしっぺ返しのような罰がこの瘡毒だったのだ。
土方はようやく相良の手を離した。
「何故、こんな無茶をした?山崎は君が自分の身の危険を冒してまで協力することを望んではいない」
「…俺が望んだことです。烝の役に立ちたかった…どんな手ぇつこても、必要とされたかった」
「山崎とは幼馴染だろう?あいつも君を頼っている」
「…ほんま、おぼこいと思いますけど…命を賭けるってそんなんや思いました」
「…」
相良の言葉を聞いて、土方は複雑そうに顔を歪めた。
誰かのためにたとえ命を賭けても役に立ちたい…それは土方にとって既視感があり、耳に痛い言葉であったためそれ以上は責められなかったのだ。
土方は深いため息をついた。
「これからどうしたい?実家に戻るか、療養するか…」
「なんも望みまへん。このままここで野垂れ死にしても誰も困れへん思うさかい…」
「…相変わらず自己評価が低いな。ひとまず、医者を遣わせる。治すのは難しいかもしれないが…気休めの薬くらいは出してくれるだろう」
「あの…」
相良は改めて姿勢を正して土方に懇願した。
「…どうか烝にだけは黙っとってください。実家に勘当された件も瘡毒も…たとえ俺が死んだかて、あいつにはなんも告げんといて、女と駆け落ちしたとでも伝えてください。不義理な親友やと罵られる方が…その方が互いのためになると思います」
「……君は本当に、山崎のことしか頭にないんだな」
土方がどういう意味でそう言ったのかはわからなかったが、相良は否定しなかった。鬼副長を前に『烝』『烝』と何度も口にしたのだ。しかしはっきりと指摘されると照れ臭い。
「はは…自分でもおかしい思います。せやけど、家業を疎かにしてふらふらしとったあいつが俺に見してくれる景色は…自分では絶対に見られへんかったものやったんです。それは何事にも代えがたい財産やと思うてます。だからそれを一緒に見られただけで十分満足してます」
偉大な父と優秀な兄の陰で生きて来た相良に、山崎は新しい生き方を教えてくれた。その道は決して楽ではなかったが、
「たとえ今死んでも…後悔はおまへん」
相良はそう言い切ることができる。
土方はしばらく黙り込む。そして再びゆっくりと息を吐いて「わかった」と言った。


翌日には土方から遣わされたという医者が長屋を訪れ、改めて瘡毒に侵されているだろうと告げられた。進行状況について医者は言葉を濁したが、
「家族も友人も子ぉもおれへんのやさかい、正直に聞かしてほしい」
と頼み込むとようやく答えた。
通常であれば瘡毒と付き合いながら数年は生きられるはずだが、相良の場合は早々に頭や臓器まで毒が侵食している可能性が高く、長くはもたないと聞かされたのだ。
「そうですか…」
相良は冷静に受け止めるとともに、長くないことに安堵した。山崎を裏切り続けるのは本意ではなく、長く隠し事ができるはずはない。だらだら長引かせるよりはよほど良い。
(もうちょい烝の役に立ちたかったけど…)
何者にもなれなかった商家の役立たずの次男坊として、山崎が幕臣へ出世する手助けができたのだから…我ながら上々の成果だろう。
「…烝…かんにんな」
別れの言葉さえなく去っていく幼馴染を許せとは言わない。探しまわって、探し疲れたら…どうか忘れてほしい。
相良は医者が気休め程度だと話していた薬を飲みながら、狭い長屋を見渡した。平衡感覚を失いつつあるせいかとても狭く息苦しく感じるが、外の世界は忙しなく回り続けている。その輪から外れ、死へ向かう―――その心境がこんなに穏やかなものだとは思わなかった。
相良は身体の具合が良いときに外出し、世話になった斉藤を始めとした監察の隊士や協力者に『自分が身を退く』ことを告げた。彼らが惜しんでくれることもまた、相良にとって有難い事だった。
そして自分の身体が病に蝕まれるのを感じながら、自分の人生の終焉へ向かい目を閉じ続けた。とても静かな湖畔に少しずつ沈んでいくような不思議な感覚だった。

その間に外の世界は変化し、大政奉還が起こり王政復古の大号令が発布されたのだ。






解説
なし


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