わらべうた





91
「どうした、顔色が悪いな」
何気ない顔で聞いてくるこの人が恨めしい。まるで何もなかったかのように…もしくは忘れたふりをするかのように、平然と、いつもと変わらない この人が憎らしい。この人は先回りをして、その分その人が傷つく言葉を知っている。そしてそれを平然と言い放つのだ。まるで当然のことのように。自己主義者で、他人排斥ばかりして。好き嫌いが激しくて…捜せば捜すほど欠点しか見えてこないのに。
「…わかってるん?……うちが愛してんのは、あんただけなんよ……」
それでも愛してしまった。そんな自分が愚かで情けなくて…仕方ない。


八木邸は古くに立てられた住まいだが、その大きさは周りの建物とは一線を引いている。離れだけでも試衛館の二倍以上の広さ。母屋になると最初は迷子になるのではないかと思うほど広く感じたものだ。主人の手入れが行き届いた庭も、季節によって色とりどりの花を咲かせ、目に鮮やかだ。
そんな八木邸の廊下をバタバタと足音を立てて歩いてくる者がいた。それは総司の耳に入り、この部屋にやってくるのだと予感した。それは一緒にいた斉藤も同じだったようだが、目配せをしてきただけであまり反応はなかった。総司は長年の経験でそれが誰の足音だか判別することはできるのだが、斉藤はいわゆる勘というやつで、見分けることができるらしい。
総司は最初は原田だと思った。しかし、違った。
「…あ…」
バタバタと品のない歩き方をするのは原田のはずなのに、そこに現れたのは土方だった。土方は音を立てて障子を開け、部屋を一瞥するとなぜか斉藤に目を向けた。
「斉藤。悪いが総司の替わりに隊の奴らを引き連れて巡察に行ってくれ。俺は総司に話がある」
「土方さん…」
「…わかりました」
斉藤は逡巡したものの、すぐに頷いて刀を手に取った。その表情は何一つ変わっていないが、その意味は察することができたらしい。斉藤の無に近い足音がなくなると、土方は後ろ手で障子を閉めた。

土方と二人きりになった瞬間、総司には空気が薄くなったように、苦しく感じた。それはもちろん総司に罪悪感があるからで土方のせいではないのだが、土方の表情が全く読めないこともあった。
怒っているというよりも、蔑むような…絶望するような。
そんな土方を見るのは初めてで、総司は思わず目を逸らす。どくどくと、心臓は彼を恐れていた。
それから少し時間が過ぎて、土方はふっと、口を開く。
「総司」
どんな風に土方は今まで自分のことを呼んでいたのだろうか。優しい声で、明るい声で、自分の名前を呼んでいたのではないのだろうか。
なのに今は、低くて重苦しい。
「……はい」
総司はその息苦しさの中で返事をした。自分の声は掠れてよく聞こえなかった。すると土方は苛立ったように、総司の腕を取って強引に立ち上がらせた。総司はバランスを失って、土方のまん前に立つ。そして、土方は厳しい顔で言い放った。
「脱げ」
握られたままの腕を強く力を込められる。
「いた…っ」
「全部脱げ。早くしろ」
言い方は厳しかった。まるで他人のように無関心な顔をしたままなのに。だが総司はそれに従うことはできなかった。体中には芹沢が残した痕が鬱血したまま残っている。それを土方に見られるのは一番嫌だった。
「いや…です」
「何故だ」
「……」
土方はきっと何もかも知っているのだ。誰から伝わったのかは知らないが、それを確かめようとしている。
だが総司は勝手に詮索されるのは嫌だった。
「あの、…これには理由があるんです。お願いです、聞いてください」
「俺は自分の目で見たものしか信じない。いいから早く脱げ」
「…だから……」
「脱げ!」
土方が声を張り上げた。その驚きに総司が怯んでいる間に、襟に手を掛けられる。総司は必死にもがいた。
「や、いやだ…っ!土方さん…っ、お願いです!話を…!」
「お前が何を言うかなんてわかってる。どうせあいつを庇うんだろう?!」
「ちが…っ」
「じゃあ脱げ…っ」
総司ともみ合っている隙間を捉え、土方は総司の襟を開いた。その白い肌には数箇所に鬱血の痕が残っている。
それを、土方が見ている。総司は沸きあがってくる羞恥心と後悔を拭いきれず、目を逸らした。
「……他には」
「ほ…か…?」
「俺が何も知らないと思うな。他にもあいつの痕があるんだろ」
総司は土方の真摯な眼差しに言葉を飲み込んだ。
「ない……です」
「嘘をつくな。ここも、触られたんだろう」
「…あっ…!」
土方が触れたのは袴の中だった。双丘を裂き、その奥へと的確に触れられ、総司は衝撃に声を上げた。
「…っ、やだ、歳三さん…っ!」
土方の指は強引にもその中へと押し込まれた。その強引さに総司は思わず土方の胸にすがり付いてしまう。
どんな顔で土方は自分を見ているのだろう。蔑んだ、恨めしい目で自分を見ているのではないだろうか。
「…本当だったんだな」
土方は呟く。それは総司には悲しく、寂しく聞こえ、胸を締め付ける。
「…歳三さん………聞いて」
言い訳がましいといわれるかもしれない。けれども、自分が決めてやったことだ。芹沢をせめても仕方ないのだから。
だが、土方は何も答えなかった。縋りついた総司を突き放すこともせず、ただただ黙っていた。
「私は、裏切りとか、そういう気持ちで…芹沢先生と……寝たんじゃないんです」
「………」
「私は、ただ」
「もういい」
ぴしゃりと言い切った土方の言葉に総司は言葉を止めた。その言い方は怒っているのではなく…諦めているかのように、土方らしくない不安定さがあった。
「…歳三さん…?」
憂いを秘めた、土方の横顔――激しい痛みが胸を襲う。
自分が一番大切にしなければならないものは何だったのだろう。
芹沢との確執、誰かが傷つくこと、そして武士道――そんなものよりも大切なものが、あったのではないか。
「…っ、歳三さん!」
総司は土方にしがみついた。言葉では伝えきれない、激しい衝動に身を任せるように。もしこのまま土方が何も言ってくれないとすれば、きっと離れていってしまう。
見捨てられる。
自分勝手なエゴイズムだが、土方にだけは嫌われたくない。
「ごめ…ごめんなさい、ごめんなさい…っ」
「……」
「ご…めんなさ…い…」
それでも、土方は何も言ってくれない。
かける言葉がないほど、自分が醜く愚かであるからだろうか。自分勝手な感情で動き、今まで大切にしてくれていた周りの人を傷つけて。
馬鹿だと思っているのだろう。総司は怖かった。縋りついた彼の表情を窺うことが。だから額を土方の胸に擦り付けたまま、顔を上げられずまるで壁にように黙っている彼に抱きついたままになる。
「総司」
「……はい」
怒られるのだろうか。総司は意を決して返事した。しかし意外にも土方の声色は穏やかだった。
「俺は…ずっとお前を守ってやりたいと思ってた。お前が汚れないように、染まらないように、ずっと……」
 それは総司にもわかっていた。過保護すぎることに苛立ちを感じることもあったのだ。
「だが……お前は、何も変わらない。どんな目にあっても、お前はお前のままだ。俺が思っていた以上にお前は強いんだな」
「歳三さん?」
総司は恐る恐る顔を上げた。すると土方の表情は少し歪んでいて…泣きそうに。
「歳三さん…?」
「だから、もういい。お前は俺が守ってやらなくても大丈夫なんだろう。お前が思うようにしろ。俺はそれを止めたりはしない」
「ちが…、違う、歳三さん」
土方の庇護から離れたかったわけじゃない。土方が嫌いだから、離れたわけじゃない。だが土方は言葉を続けた。
「ただ…」
「…っ、ただ…?」
「俺は…お前を守りたい。それは副長としてじゃない、兄としてじゃない。お前を愛しているからだ」
「…歳三、さん…?」
土方はその硬質な手で総司の頬を挟むと、引き寄せ、口付けた。今迄で一番優しい口付けだった。ただ伝わってくるものはぬくもりと愛情だけで。何もない
ゆっくりと、総司は開いていた目を閉じた。すると土方の形のよい唇の感触が全身に染み渡る。ずっとこうしていられればいいのに。もっと触れてくれればいいのに。身体をつなげた相手が、土方であれば――。
「……っ!」
総司は両手で土方の胸板を押した。
(な、なんて卑猥なことを…っ)
「…あ……」
しかし、総司はすぐに後悔した。まるで口付けを嫌がって…土方を拒絶したかのようになってしまった。もちろん、土方もそう受け取ったようで
「…わかってる。こんなことを言われてもお前が困るだけなんだ」
「違…っ」
「返事が欲しいとは言わない。ただ言いたかっただけだ」
土方がくるりと背を向ける。閉じきっていた障子を開き、付け足すように言った。
「俺はお前を愛してるから芹沢を殺すわけじゃない。芹沢のことは副長としての判断だ。そこを見誤るな」
「……っ、歳三さん…」
土方は総司を無視して障子を閉めた。ドカドカとらしくない足音で土方が離れていく。

総司の鼓膜には、土方が言った「愛している」の言葉が残った。


92
馬鹿な女だと思った。そして同時に哀れだとも思った。
こんなどうしようもない男にしか縋って生きることができない――いや、そうではない。この女は自分が生きられる術を、ろくでもない男の傍に求めてばかりなのだ。
だったら、その場所を与えてやるのも悪くない。 それがお前の大切な場所になるというのなら。

「…愛してる、か」
芹沢は梅がいった言葉を反復した。大粒の涙を流しながら、愛情の言葉を吐露した梅は視界にぼんやりと移る芹沢の姿を見つめ続けた。
今までこの目に映った芹沢は決して善人ではない。むしろ、今まで出会ったことがないくらいの悪人に近い。自分勝手で、利己主義者で。周りに迷惑ばかりかけて、横暴で、乱暴で。
最初出会ったときからそうだった。 総司を条件に、梅を強引に傍に置き。それでいながら別の女を連れ込むことも多かった。酒を飲んで暴れて殴られることもあったし、罵られることも珍しくなかった。
じゃあどうして、自分を傍に置くのかと問えば、総司の代わりだと平然と答えて。
…それが、何よりも胸を苦しませるのをわかっているのに。
知れば知るほど、怖くなって、恐ろしくなって。なのに、時間が経てば経つだけ芹沢への気持ちに変化があって。なんて不器用な人だろうと思った。自分の生き方を貫くために、彼はまっすぐ歩いてきていた。回り道も、道草も、違う道にも行かない。まっすぐ、自分の信じる道を。
それを傍から見ればおかしいと、乱暴だと評するのかもしれない。けれども芹沢にとってそれが正義だった。
そして同時にそれが生きる術なのだろうと思った。
だから、そんな芹沢に惹かれたのだろう。何かに縋って生きるしかできない卑小な自分を、どんな理由であれ傍においてくれた。今ではそう思える。そして、誰よりも彼を理解したいと思う。誰が彼を憎もうとも、誰が彼を嫌おうとも、芹沢という男の傍にいたいと思った。それが総司の代わりであっても構わない。そう思えるほど。
「…梅」
芹沢が名前を呼ぶ。梅は涙に濡れた瞳を擦り、恐る恐る顔を上げた。そこにある芹沢の顔は冴えなかった。不機嫌で怒っているのではない。どこか…困っているような顔をしている。
「せんせ…?」
「馬鹿だな。お前みたいないい女が俺にそんなことを言うのか」
芹沢は苦笑した。
「……そうや。うちはせんせのこと…愛してる」
「総司のことはどうした。気が変わったのか?軽い女だな」
「沖田せんせのことも…好きや。けど、せんせとは違う」
「どう違う?」
芹沢が子供のような眼差しで問いかける。梅はきっぱり答えた。
「うちは、先生のややこが欲しいもの」
「……はは…っ」
「こんなこと、沖田せんせには思うてない」
芹沢は破顔した。今までに見たことのない、明るい笑顔だった。梅はそんな芹沢に驚きを隠し切れずに、
ただただ、笑い続ける彼を見続けた。
芹沢という男はこんな表情も持っていたのだろうか。そんな疑問さえ生まれてしまうほど、芹沢が表情を崩していた。
「せんせ…」
「はっはっ……、わかった。よくわかった」
「せんせ?」
芹沢はここに座れ、という風に畳を叩いた。梅は芹沢に向かい合って座る。
「お前、わかっているんだろ。俺が昨夜何をしていたのか。だから夜になっても帰ってこなかった」
「……」
梅は押し黙った。
総司と芹沢の場面を見てから、梅はショックのあまり八木邸を飛び出していた。そして隣の壬生寺で息を殺すようにして泣いた。
「あいつを抱いて分かったことだが…。あんな骨っぽい身体は、抱いてもつまらないもんだ」
「…え?」
「俺はお前のほうがもっと欲情する」
「…っ、せんせ…」
「好き」でも「愛してる」でもない。もっと野生的で率直な、ただただそれだけの芹沢の言葉。けれども、梅にはそれがとても尊いもののように思えて仕方なかった。
求めるばかりの自分が、求められていた。梅はその細い手を伸ばした。すると分かっていたかのように芹沢がそれを取る。
そして強引に引き寄せ、胸の中に入れた。
このぬくもりをいつもは疑っていた。総司の代用品だと平気で言い放つこの人をただただ憎く思っていた。けれど、いまは違う。
今は少なくとも、この芹沢という男が自分を求めてくれている。そのぬくもりは自分に宛てられたものなのだ。
芹沢は囁くように呟いた。
「覚悟ができるのか。俺はお前だけを抱くとは言わない。これからも女だって買うし、もしかしたらあいつを抱くこともあるかもしれない。……それでも、いいのか」
「…ええよ、それで、…ええ」
きっともう涙腺が壊れてしまったのだろう。涙が溢れて仕方ない。優しくなんてない言葉なのに。どうしても嬉しいと感じてしまう。それはきっと、
「せんせの…ややこが欲しい」
きっと、これが芹沢との最初の約束だから。


「飯だ」
ぶっきらぼうに言われたその言葉で、総司は我に帰った。声の主に顔を向けるとそれはもちろん斉藤だった。斉藤は膳を抱え、陰気な部屋に入ってきた。
「いつまでそんな顔をしてるんだ」
「……すみません」
総司はただ謝ることしかできなかった。
体調が悪いから、といって稽古と巡察を斉藤に変わってもらった。斉藤も深く何も尋ねることなく「そうか」と引き受けてくれたものの、大方察しているのだろう。
総司は顔を上げることができなかった。こんな情けない顔を誰にも見て欲しくない。
「…あったかいうちに食えよ」
「はい…」
いつも丁寧口調だった斉藤が、今では慣れ親しんだ友人のように話す。総司からそうしてくれ、と頼んだものの、年下の彼にまで「しっかりしろ」と言われているようで、情けなくて仕方ない。すると、大きなため息が聞こえた。
「全く…陰気くさいのは好きじゃないんだ。加えて土方さんの不機嫌のおかげでみんなぴりぴりしてる」
「……っ…」
土方、とその名を聞いただけで総司に緊張が走った。そして脳裏にはあの「愛してる」という言葉が連呼している。
冗談でもない、からかったのでもない、土方の真摯な声が、何度も木霊するのだ。
「あ、の…斉藤さん」
「ん?」
「土方さん…怒ってましたか…?」
上目使いに尋ねると、斉藤は苦い顔をした。
「怒ってるくらいならまだましだ。無表情のまま苛々している。火山って言うのは、噴火する寸前のほうが案外怖いんだよ。それと同じだ」
「……そうですか」
総司は斉藤が持ってきた膳に手を合わせたあと、箸を取った。朝から何も食べていないため、胃が限界の音を鳴らしていたが、総司は空腹を全く感じなかった。何を口にしても味がしない。噛んで飲み込む。その生理的な繰り返しをしているだけのようで。 何もかもが浮遊しているような感覚だった。頭の中は土方のことでいっぱいなのに、それは非現実なことにしか思えなくて。
「愛してるって……どういう意味だと思いますか?」
「……は?」
突然の総司の問いに、斉藤が唖然とした。
「何いって…」
「どういう意味なんですか?好きとは違うものなんですか?」
「そ、それは…」
「だって、私は近藤先生も、山南さんも、もちろん斉藤さんもみんな好きなんですよ?誰も失いたくないしみんな幸せでいて欲しい。それは愛してると違うんですか?」
「だからそれは…」
「なのに、どうして…土方さんはあんなことを言ったんですか…なんで好きじゃなくて、愛してるって言ったんですか…っ?」
斉藤は唖然としていた。総司も自分自身が何を口走っているのかよく分からなかった。
でも、もっとわからないのは土方のことだった。
「どうして…土方さんが言う「好き」は…違う風に聞こえるんだろう。どうしてあんなこと…」
斉藤に聞いても答えが返ってくるわけがない。けれども尋ねられずにはいられなかった。
「頭の中…ぐるぐるして、もう、わけわかんなく…て…。もうどうしていいのか…」
「わかった。わかったから、ちょっと黙れって」
斉藤は総司の手をとった。箸を取り、膳に戻す。いつの間にか握り締めていたらしい。そして一息ついて、真摯な顔で尋ねた。
「…土方さんに…その、そう言われてどうなった?」
「どうって…?もう何がなんだか…身体中が熱くて、どきどきして…」
「で?」
「で……恥ずかしくて、もう顔も見られなくて…」
「…じゃあそれが答えだ」
「え?」
総司は顔を上げた。そこにはやれやれ、とため息をつく斉藤の姿があった。
「それが愛してるってことだろ?」
「……え?」
「全く…のろけを聞かされた気分だ」
心底疲れる、と言われ総司はさらに首をかしげた。
「あの、…斉藤さん?」
「いいから、そういうのは当事者同士で話し合ってくれ。あんたらの関係が隊に影響を与えるんだから」
斉藤は総司の腕を取って、強引に立ち上がらせた。そして障子を開いて、背中を押す。
「いいか。土方さんと話がつくまで帰ってくるなよ」
「えっ…」
「いいから」
きっぱり言い切ると、斉藤はぴしゃり、と障子を閉めた。どうやら追い出されたらしい状況に、総司は困惑した。
ひんやりと冷たい夜の風が肌を撫でた。


93
「…土方さん、いますか?」
仄かな光が灯っている部屋を訪ねた総司は、か細い声で部屋の主に声を掛けた。部屋に土方がいることはもちろん分かっていた。けれども以前のように、お構いなく「土方さん!」と障子を開けることはできなかった。
まるで他人を訪ねるかのように、総司は緊張していた。


「何の用だ」
冷たく言い放った土方は既に寝間に着替えていて、小さな明かりの中、細かな事務作業をしていた。
総司にはそれが何の仕事か理解できない。
…こういったことから、だんだんと土方との距離が遠くなっていたのだろうと思う。立場が変わって、忙しくなって、互いに気持ちが見えなくて。
総司は、土方がきっと遠くに行ってしまったのだろうと思っていた。しかし、違う。離れてしまったのは自分のほうだ。何も失いたくなくて、何もかもから目を逸らし、自分が傷つかない道を選び続けていた。
土方と全く逆の道を。
「土方さん」
「……ん?」
「……」
総司は土方の背中を見つめ続けた。呼んでも振り向かない。それが土方の答えだというなら、何もいえない。土方は総司の存在を無視するかのように筆を動かし続ける。
「あの。…芹沢先生のことですけど…」
「……」
「…芹沢先生のすることが…正しいとかそういうことを思っているんじゃないんです。むしろ…ちゃんとわかってるんです。芹沢先生が隊の足枷になってること、会津様に迷惑をかけていること…。でも、それでも、私が芹沢先生を嫌えなかったのは、ちゃんとわけがあるんです」
「…わけ?」
土方の声が低音になる。だがそれでも土方は振り返らなかった。総司は土方の背中を見つめながら、ただただ口を動かした。
「私は…あの人が、可哀相なんです。不器用で…人を困らせることでしか、存在を証明できない。自分が悪いと分かっていて…もう、あの殺意の世界から抜け出せないことも、わかってる」
「芹沢が可哀相だから、同情して抱かれてやったっていうことか?」
土方が苛苛したように訪ねる。総司は言葉に棘を感じた。ただ、その棘は受け入れなければならない。
「たぶん、そうだったんです」
「……」
土方の言うとおりだったからだ。きっと芹沢の哀しみに同情して、少しでも救われるならと自分を差し出した。
ただの慈善行為に過ぎなかった。それがどんな結果を齎したとしても、自分が芹沢を救いたかった、自分なら救えるはずだと過信した。
「いまでも…芹沢先生を失ってしまって本当にいいのだろうかと思います。あの人はただ…自分の正義のために行動している。そんな先生を会津様の命令とは言え、失っても…後悔しないのだろうかと」
「その正義が間違っているんだ」
「それを決めるのは誰でもないんです…!」
総司は振り向かない背中に必死に言い募った。
「土方さんの正義は…将軍様に殉じて命令されたことを実行することです。それは皆も同じです、私だってそうです。でも…芹沢先生は違う。先生にとっての正義はきっと自分の尊厳を保つことなんです。武士の出である誇りを守ることが、武家を重んじてきた幕府を守ることに繋がる……だからあの人は、それを貫いている。……先生は無意識なのかもしれないけれど」
「……」
「分かって欲しいとは言いません。私が勝手に考えてることですから…」
まだ、届かない。土方は振り向いてくれない。
「……土方さん…」
「……」
「土方さん…土方さん…」
何度も名前を呼ぶ。けれども、土方は聞こえていないかのように微動だにしない。
瞬きができない、目が痛い。けれども、目を閉じれば離れてしまうように感じて…総司はただその背中を見つめた。
大きな背中。昔から見ていたはずなのに、今では大きすぎて。このまま遠く離れてしまった距離は縮まることなく、時間が経ってしまうのだろうか。十数年ともに生きてきた世界から、離れてしまうのだろうか。 土方のいない世界で、生きなければならないのだろうか。
「…歳三さん…っ」
総司は振り向かない背中に抱きついた。両手を土方の首に回し、ぎゅっと離れないように。
「総司…?」
さすがに土方も驚いたように首を回す。総司は土方の肩口に顔を埋めた。
「…どうしたんだ」
「だっ…て、としぞ…さん、振り向いてくれない…っ」
土方の着物に総司の涙が滲んだ。いつの間にこんなに泣き虫になってしまったのだろう。
泣く顔が見られたくなくて、試衛館ではいつも人目を忍んで泣いていたのに。土方が離れてしまうかもしれないという不安を味わっただけで、涙腺が壊れていく。
「…馬鹿。お前、忘れているだろ」
「え?」
土方が呆れた声を出した。
「俺がお前に言ったこと。俺だってお前の顔、まともに見られねぇんだよ」
「…あ…」
総司は急に思い出した事実に顔を赤らめた。「ごめんなさい」と抱きついた背中から離れようとしたが、今度は土方がそれを許してくれなかった。絡みついた腕に土方の手が絡む。
「……わかったよ。お前の考えだってちゃんとわかってる。結局、芹沢のことが見放せないんだろ?拾ってきた犬を元の場所に戻せないのと同じだ」
「犬って…」
「もう仕方ねえとしか言いようがないだろ。俺はお前がそういう人間のままでいて欲しいと思ってる。俺の駒としてなんて、生きさせねえ。お前はお前が思うままにすればいいって、俺だって思ってる」
土方の言葉にもう棘はなかった。優しい声色は…どこか懐かしい。
「でも…ちゃんと、わかりました」
「何が?」
だが、優しさに甘えてはいけない。総司には言わなければならないことがあった。
「私は、芹沢先生のことを失いたくはないけど……それ以上に、歳三さんが悲しむ顔は見たくないんです」
「総司…」
土方が総司の部屋に押し寄せて、芹沢とのことを問い詰めたとき。土方は今まで見たこともない怒った…そして悲しい顔を総司に向けた。どこかを痛めているかのように歪んだ、表情。
「私は、…歳三さんを選びます」
その顔を見たときに思った。芹沢のことを失いたくない。けれど、その思いが土方を苦しめるのだとすれば、
選ぶ道はもう決まっている。
試衛館の縁側で星を眺めたあの日。総司は確かに誓ったのだ。いつまでも土方の傍にいると。
近藤を男の中の男にしたいと願った彼の傍にいたいと、願ったのだ。
「…いいのか」
土方が不安そうに尋ねた。総司は安心させようと、微笑を浮かべた。
「いいんです。…それが運命だと、思うから」
芹沢を失う。そのことを想像することはできない。総司にとって芹沢はたとえ負であっても大きな存在であることは間違いないのだから。けれど、自分がその運命に手を貸すことになっても、後悔しないはずだ。
土方の約束があるなら。
「…お前が殺すことになるかもしれないんだぞ」
「そのときは…むしろ、私が殺したい」
「…芹沢を、か?」
「私が…葬ってあげたい」
それが同情なのか、覚悟の表れなのか、わからない。ただ芹沢への思いを具現化したものが、それだった。せめて、自分の手で、と。 そしてそれを芹沢も願っているのではないかと思った。
「……わかった」
土方は深くは尋ねず、うなずいてくれた。総司としては、それは言葉にできない思いだったからあり難かった。
もしかしたら土方は、それを察してくれたのではないかとも思った。
「あと…」
「ん?」
総司はもう一度土方の肩口に顔を埋めた。強く背中から抱きついて、密着した肌からその鼓動が土方に悟られまいかと思った。けれども、恥ずかしくて顔を見られるほうが羞恥心が強く感じた。
「…私も、歳三さんのことは好きです。けど、…だからって…その、芹沢先生としたようなことができるかって、言われると…わからなくて……でも」
「でも?」
「…でも、皆とも違う「好き」だってことはわかります。…こうして触れ合っているのは嬉しいです。今は…それだけしか、いえなくて…」
だから、ごめんなさい、と謝ると、土方はふっと、笑みを漏らした。
「…別に答えが欲しいって言ったわけじゃねえだろ?ただ、俺はもうお前を弟としてみるのはやめたってことだよ。だから」
「だから…?」
土方は巻きついていた総司の腕を強引に放した。両手首を掴んでそれを畳へと押さえつける。「え?」と総司が困惑している間に覆いかぶさり、そのまま口元に息を漏らす。
「…急にこういうことになっても、覚悟しておけよってことだよ」
「あ…っ!」
土方の吐息が総司の唇から染みた。まだ触れてもいないというのに、リアルな土方の体温を感じ総司は顔を真っ赤に染めた。
ただでさえ、土方の顔を見られないというのに、一寸も離れていないこの距離はあまりにも近すぎた。
「っ、歳三さん…!」
「…お前、切羽詰ると「歳三さん」って言うよな…」
土方は必死に顔を背ける総司に追打ちをかけるように尋ねた。その声は甘く…艶かしい。
「…、土方さん…のほうが、いいんですか…っ」
抵抗代わりに睨みつけると、土方は怯むことなく笑ったまま
「そうじゃねえって」
と、その隙をついて唇を重ねた。総司の身体にまるで電流が走ったかのように、痺れが伝わった。
「…そのほうが、いい」
「……っ、ぁ、…や、んぅ…」
逃げて、追いかけて、捕まえて、触れ合って。
その繰り返しを何度もした。けれども、総司は本気で逃げたかったわけではない。本当はどこか心が暖かくなることを知っていて…けれども、その暖かさに身を預ける勇気はなくて。触れるだけだった口付けが、どんどん深くなる。深く絡めてくる土方の舌に、翻弄され続けていた口内が、だんだんとその刺激に麻痺して、飴玉のように土方に吸い込まれていく。ねっとりとしたその甘美な誘惑に総司は目を閉じた。
「嫌か?」
意地悪な問いだった。総司の答えを知っているのに。
「…やじゃ、ない…」
「じゃあ気持ちいいか?」
「……わからな…い、も…」
これ以上尋ねないでくれ、と首を振る。土方の顔が見られなくて目を開けられないでいると、土方はゆっくりと総司の髪をなでた。
「…俺は、いつまでも待ってるから」
土方の優しい声が鼓膜を、揺らす。


94
 文久三年、九月。残暑の蒸し暑さが続いた夏がようやく終わりを告げようとしていた。
江戸からやってきた者たちは京の暑さに辟易としていたのだが、その寒暖の差は彼らが予想したものよりも厳しいものになった。秋風が冷たく季節をつげ、若々しい緑の葉が、赤から茶色へと変化を始める。
すべてのものに変化はつきまとう。永久に変わらないものなんてない。人の心も、いつしか変わる。そしてこの九月という時は、浪士組にとって一番大きな変化を齎した。


とある茶屋の一室には近藤、山南、原田、そして総司が呼ばれていた。近藤、山南が上座に座り、呼び出した張本人である土方が脇に控える。置手紙によって呼び出されたメンバーだが、もちろん他言無用、秘密裏にここを訪れていた。
顔なじみらしい土方が人払いを頼むと、女将は「あい」と愛想よく下がっていく。酒なども準備されたが誰も手をつけなかった。
「……呼び出した用件は新見副長のことだ」
土方が切り出すと、場の空気はさらに張り詰めた。総司と原田は刹那驚いた顔をしたが、近藤、山南は聞かされていたのだろう、顔色一つ変えなかった。
「斬るのか?」
原田が率直に尋ねた。すると、土方はあっさり頷く。
「斬るわけじゃない。隊規違反で切腹だ」
「…切腹、ねぇ。詰め腹斬らせるってことなんだろ」
「左之助」
近藤が原田を諌める。「悪い」と謝る原田だが、原田の言い分が正しいのは誰もが分かっていた。
新見錦は芹沢の腹心であり、三人目の副長でもある。浪士組に志願する前から芹沢とは懇意の仲であり、結成当初は芹沢や近藤と同格として扱われていたこともあった。だが、芹沢の力が台頭してきた最近では、一匹狼状態とも言えるほど単独行動が多くなっていた。
「隊規に照らすと新見は断罪されて当然だ。勝手な金策を行い、隊務を怠り…士道不覚悟。罪状は山ほどある」
「神道無念流免許皆伝の剣の腕前は惜しいですが……法度を定めた以上、仕方ないことでしょう」
こういうとき否定的な山南でさえも、新見の切腹を決定事項であると認識していた。これは相談ではなくて、決定されたことの伝達だった。しかし、原田は何の感慨もなく「そうか」とあっさり飲み込んだ。
「わかった。…それで、いつやるんだ」
「今夜だ。急で悪いが、早めにこんな話を聞かせては、お前たち二人が表情に出ないわけがないだろうと思ってな」
「そりゃ、そうだな」
原田が苦笑した。
「…新見は今『山の緒』に入り浸ってる。今夜、新見に罪状を突きつけて…切腹させる。そのあたりは俺がやるつもりだが、新見は相当の剣の使い手だ。お前たちは後ろで待機していて欲しい」
「威嚇…か」
「新見は馬鹿じゃない。この大人数相手にたった一人で立ち向かえるとは考えないだろう。お前たちの出る幕はないはずだ」
「ああ、わかった」
原田は二つ返事で了解した。そして総司もゆっくりと頷いた。近藤と、そして土方に向かって。
山南は相変らず困惑した顔をしていたが…彼自身も諦めているのだろう。後悔はなかった。新見錦が隊規違反による切腹の一人目になる。
一瞬の沈黙が流れ、ふいに、原田は土方に目を向けた。
「それにしても、なんで俺だったんだ?総司は食客というよりも身内だったから、信用があったんだろ。 俺はどうして選ばれたんだ?」
「…永倉は新見と同門で学び、芹沢へも好意的だ。斉藤はまだ隊に入って日が浅いし、藤堂には重過ぎる。……それでお前だ。お前は、佐々木くんが殺されたときも憤慨していただろう」
「ま、結局、芹沢の仕業じゃなかったわけだけどな。……あいつらは俺には合わないから」
軽い口調だったが、原田の表情は渋くなっていた。佐々木愛次郎が殺されたときのことを思い出しているのだろう。残酷な死を迎えた彼のことを悼むものは多い。
「理由はわかった。今夜、『山の緒』な?俺はおまさちゃんとこにいるから」
「わかった」
原田は腰を上げると、さっさと部屋を去っていった。

「総司」
近藤が未だ苦い顔のまま、総司を見る。
「はい…?」
「お前は異論はないのか?確かに正当な理由があるにしろ…一人の同志を殺すんだぞ?」
「おい、近藤さん」
土方が近藤を制した。「すまん」と謝る近藤だが、本心は新見のことを殺したくないと思っているのだろう。そしてそれは総司も同じではないのか、と。しかし、総司は微笑んでみせた。
「異論はありません。法度を破れば切腹、…それは皆がわかっていることです。それに違反したのなら切腹は仕方ないと思ってます」
「総司…」
その、総司を呼ぶ近藤の声が切なげだった。掠れて、よく聞こえない。
総司はそれをあえて聞こえないフリをした。
「新見先生が切腹されると、隊の風紀は乱れることもないでしょう。私は、ただ新見先生を断罪するだけの意味ではなく、これからの隊にも必要なことだとおもってます」
「だが、総司。もしかしたらこれから、芹沢先生に手を…」
「かっちゃん」
鋭い眼差しで土方が近藤を睨む。さすがに今度ばかりは近藤も口を噤んだ。しかし、総司の表情は変わらなかった。
「…そうであっても、私は迷いません。先生との刀の盟約に掛けて」
近藤は一瞬目を見開いて、「そうか」と呟いた。


「…沖田君は強くなりましたね」
総司が去ると――カモフラージュのために一人ずつ部屋を去っているのだが――山南が呟いた。
その表情はどこか寂しげだ。試衛館時代の総司の無邪気さに、思いを馳せているのだろう。確かにあの頃の総司は、純真で、人を殺すこと…その場面に出くわすことさえも躊躇うところがあり、色々な意味で綺麗なままだっただろう。しかし、先程の総司の様子では、その無邪気さは既に「思い出」となっていた。
新見を切腹させる。
その言葉を聞いても総司は知っていたかのように、表情一つ変えなかった。
「強くなった…というよりも、強くさせてしまったのかもしれないな。こちらにきて、総司にはつらいことも多かっただろう」
「そうですね。色々知っていくことで、彼の中で何かが変化したのかもしれないですね」
「なんだか総司らしくないな」
近藤がしみじみと語る。だが、土方にはどこか違う意味に聞こえてしまい…居たたまれなくなった。刀を手に取り、立ち上がる。
「土方くん?」
「もう出る。今夜は頼んだ」
短い言葉を残し、部屋を出た。


土方は先に出て行った総司の姿を捜した。しかし、土方が店から出たときはすでに人ごみに紛れてしまったようで その後ろ姿を見つけることができなかった。小走りに屯所への道を歩く。焦る気持ちが抑えきれなかった。
すると、総司の姿を見つけた。往来の激しい、道のど真ん中に立ち尽くしていた。
「おい」
「……あ…土方さん」
「あ、じゃねえよ。何してんだよ」
人が行き交うど真ん中で立ち尽くす総司の様子は、明らかに目立ち…そして異様に映った。土方が声を掛けると、小さく笑ったが、直ぐに顔が強張る。土方は苦笑した。
「何、無理してんだよ」
「……無理なんて、してません」
「無理してるだろ。近藤さんの前であんなに強がりやがって。ちょっと位動揺しろよ」
「動揺なんてしませんよ。ちゃんとわかってたんです。いずれ…こうなるって。まず新見さんから片付けてしまったほうが、楽だって」
土方は少し驚いた。関心のなさそうな総司には、新見を切腹させる意味などわかっているはずもないと思っていたのだ。親玉を倒すには子分から。それを「わかっていた」と総司は言うのだ。
「…でも、本当はわかってなかったのかもしれません。今さっき話を聞いて…やっぱり、そうなんだって思って。でも部屋を出るまで信じられなくて…いま、ふっとわかったんです。今夜から、すべてが始まるって」
「……後悔してるのか」
新見を殺すこと…そして芹沢を殺めることを。
しかし、総司は頭を振った。
「違います。…ただ、…寂しいと思っただけです」
「寂しい…か…」
土方は己に尋ねる。寂しい…そんな感情は浮かんでこない。むしろこれからの日々に高揚感さえ感じている。
この先に見えるのは己が望む未来か、それとも絶望か。それはわからない。だが、変わることは確実だ。何かが変わる。浪士組も、規律も、…そして生きる意味をも。
ふっと、土方の手のひらに体温を感じた。総司の手が重なっていた。
「…しばらく、こうしてもいいですか?」
そうすれば少しは寂しくないというのだろうか。
だが、土方はそんな問いをぶつけることはできなかった。ただ黙って頷いて、誰にも見られないように手をつないで屯所へと向かった。


95
文久三年九月十三日夜。『山の緒』には新見錦がいた。

「――…何の用だ」
新見は既に酔っていた。数人の女を侍らせて羽振りよく振舞っているようだが、その金がどこから調達 されたのか、と考えると腹立たしい。
しかし土方はそんな己の内心の感情を抑え、できるだけ無表情で新見の前に座った。後ろには山南、原田、そして総司が控えている。異様ないでたちに感づいたのか、新見も苦い顔をした。その雰囲気を察した芸妓たちもそそくさと部屋を立ち去り、部屋には男だけが残った。
乱暴に散らかる酒、濃いほどの女の化粧臭さ、そして酒の匂い――…その時点で『士道に背くまじきこと』に該当している。しかし、難癖をつけて無体をするであろうことは土方も予想していたので、あえて何も言わず切り出した。
「用…とは、もちろんわかっていらっしゃるのではないですか」
「何だと…?」
「聡明な新見先生はすでに察していらっしゃるものかと思いましたが…どうやら本当にご存知ないのですか」
土方の回りくどい言い方が気に障ったのだろう、新見はさらに鋭く土方を睨みつける。
しかし、新見とて分かっているに決まっている。彼が繰り返した借金、長期の廓への居続け、職務怠慢…優秀な道場を出た彼にはこんな日が来ることもさっしていたはずだ。それでいて、何も言い返さないのは己の罪を認めるつもりがないからだ。「そんなことは知らん」としらを切るつもりなのだろうが…そうはいかない。土方は懐から一枚の紙を差し出した。
「…なんだ、これは」
「局中法度です」
しゃあしゃあと言い切った土方に、新見は怪訝な顔をした。そこには規則である「局中法度」が大きく書かれていた。
「これが何だ。お前たちが勝手に作った法度じゃないか。俺には関係ない」
「そうはいきません。法度は芹沢先生も認めたものです。隊則ともいえる。隊の…しかも根幹を成す新見先生が法度を破ったとなると…隊が乱れます」
「だから俺には関係ないと…」
「そう、言いきれますか」
後ろに控えていた山南が口を挟んだ。芝居掛かった調子だが、土方は成り行きを山南に任せることにする。もちろん打ち合わせはしていた。
「ここに借用書があります。金額は合計で100両を超えてます」
「こ、これは…芹沢先生の名義ではないか。俺には…」
山南の差し出した借用書には、確かに最後に芹沢の名が記されていた。
「しかし、これは芹沢先生の筆跡ではないんですよ。金を貸したものも「代理で来た」という者に渡したそうです。そして新見先生。……この署名はあまりに貴方の筆跡と似ている」
「……っ」
新見が言葉につまる。それはそうに違いない。これは新見の筆跡で、代理で来たというのは芹沢に罪を被せるための
工作――もしくは、そうでもしなければ金が借りられなかったか――なのだから。
「しかし、確かに貴方の言い分は理解できる。本当に芹沢先生の「代理」で金を借りたのだとしたら、この借用書は芹沢先生に宛てられたものであり、方便をいっているのは芹沢先生なのかもしれませんから。そうとも考えられるんじゃないか、山南さん」
土方がさも、今、思いついたかのように山南に問いかけ、やはり山南は芝居掛かった調子で「確かに…」と同調する。すると、新見は顔を綻ばせた。
「そうだ、芹沢先生が私に罪を擦り付けようとしているとも考えられるではないか!私は「代理」であり、金を借りたのは芹沢先生だ。私自身が金を借りた、という証拠はどこにもない!」
嬉々として笑った新見だが、土方は「そうですね」と内心新見を罵りながら頷いた。
低脳な奴だ。土方は口にさえしないものの、新見という男の卑小さにうんざりしていた。ここで「すべて俺が作った借用書だ」と認めたならば、逃がしてやっても良いとさえ思っていたというのに。「士道不覚悟」「勝手に金策いたすこと」…そして何よりも武士ではない。潔さを芹沢と過ごすうちになくしたのだろうか。酒に溺れて消えていってしまったのだろうか。
「…新見先生。それでは、貴方は芹沢先生の「代理」である、と?」
「何度も言わせるな!その通りだ」
「それでは、貴方は法度に従う義務がある」
新見は顔をゆがめた。
「……何?」
「芹沢先生は壬生浪士組の局長。その「代理」である新見先生はもちろん浪士組に属するわけです。あなたがいま咎められていることは「金策」だけではないことはわかっていらっしゃるでしょう。職務怠慢…これは士道不覚悟。この法度が見えませんでしたか?」
新見を切腹させるための方法は何も「金策」だけではない。「金策」だけなら言い逃れもできたかもしれないが、どちらにしろ、新見は職務を果たすことなく、女遊びに耽っていた。これは第一条に背くことであり、十分切腹する理由になりえるのだから。
「…貴方はいま、自分が隊士であることを認めました。そしてこの「山の緒」に居るという時点で、隊士としての勤めを果たしていないことになります。いや、脱走とも見れるかもしれない。…貴方は裁かれるんですよ」
新見がカッと赤くなった。こめかみが震え、何か言わんとしているが、言い返す言葉はないはずだ。
そして新見は震える手で刀をつかみ掛けた、だが、後ろに控える原田と総司の姿に気がついた。 勝ち目はない――。
そう悟った、新見が、沈黙のあと、刀を置き項垂れた。深いため息が部屋中に聞こえ、それは叫びのようにそこにいた全員の耳に木霊した。
「まんまと騙されたか。いや、挑発に乗ってしまったのか…」
新見はいまさらどうしようもないとわかっているのだろう。その言い草は寂しげだが、後悔を滲ませてはいなかった。
「どうせ、お前たちは俺のことを芹沢の腰ぎんちゃく、と思っているのだろう」
「違うとでもいうのですか」
冷たく言い返した土方に、山南が「土方くん!」と制する。もう新見は負けたのだ。敗者に追打ちを掛ける必要はないのだ。
「俺は、主君を間違えたのさ」
「……言い訳か」
「そういわれても仕方ないか」
新見は案外あっさりと土方の言葉を飲み込んだ。まるで言い残すかのように、ゆっくりと話し始める。
「俺は一度、主君を裏切った。若い頃は主君の思想に同調することができず、過激組に加わりついには脱藩した。そして気がついたのだ。主君を持たない己の情けなさを。…守っていたと思っていた主君に、本当は守られていた。主君が居たからこそ、生きていけた。
 だから、もう裏切らないと決めたのさ。…それがたとえ極悪非道の悪人だとしても」
新見なりの忠誠心があったというのだろか。
だが、この期に及んでまで芹沢の腹心であろうとする姿には、確かに見固い決心を感じた。もし、この男が芹沢にではなく、近藤と出会っていたら、こんな結末を迎えなかったというのだろうか。
主君を間違えた。――それは、言い訳か、嘆きか。
土方は小さく首を横に振った。考えても仕方ないことだ。結局、新見はそれを選んだのだ。

新見は脇差を手に取った。上半身を晒し、刃先を自身に向ける。
「一つ、聞く」
「なんだ」
命乞いか、と思ったが新見の瞳にはすでに生気は感じられなかった。
「…お前たちは芹沢を殺すつもりか」
「そうです」
隠す必要はなかった。土方がきっぱりと答える。すると新見は視線を土方から、総司に向ける。
「沖田君。君は芹沢に「可愛がって」もらっていたじゃないか。…私にはあながち君も芹沢を恨んでいるようには見えなかった。そんな君が芹沢を殺すというのか?」
ちゃんちゃら、おかしい。
新見は笑った。顔が強張ったのは土方だった。その棘のある言い方は総司を嘲笑うかのようだ。土方は総司の顔を窺う。するとそこには顔色一つ変えない総司の姿があった。
「芹沢先生の恩情は感じています。けれど、私は殺せます」
「……沖田君…」
驚いた顔をしているのは山南だけではない。総司とともに控えている原田も「本気かよ」と呟いた。しかし総司は表情を変えず、きっぱり告げた。
「私が殺します」
揺るぎない、堅い決意。今までの総司になかったはずの強い殺意。
自分がそうさせたのだ。本人が望まない殺意を持たせているのは、自分のためなのだ。こんな残酷な台詞を吐かせてしまったのも、すべては自分のため。
『私は、…歳三さんを選びます』
そう誓った総司の悲しさを無駄にするわけにはいかない。
「…殺せるものなら、殺せば良い。あの方とて、予想していないわけではないだろう。高い空から、俺はそれを見守ることにするさ」
呟いて、新見は刀を己の腹に突き刺した。一閃した脇差が、畳の上に転がる。
溢れる赤い鮮血。バタッと倒れた新見の亡骸。
それが、局中法度に殺された最初の人間の姿だった。


96
局中法度に殺された最初の人間の姿は実に潔かった。何の誇張でもなく土方はそう感じていた。死ぬほどの罪ではなかったことは、新見も、そして罪を科した土方自身もよく分かっていた。
それでは、なぜ新見が死ななければならなかったのか。
彼に贖罪の機会を与えるべきではなかったのか。
新見を失ったことは、自分たちにとって全く損失にならないのか。
 そのどれもに明確な答えはなく、また誰もがその正解を知らない。
――では、たとえば、あえてその正解を明言化する必要があるのなら。
――其の答えは、ただ、闇雲に殺したのだ。邪魔だから殺したのだ。
ただそれだけのことだ。

それは自分を誤魔化すためにも、伏せておくべき真実だ。誰もがわかっていて口にしない事実だ。それを受け止めるしか、ないのだ。

新見の遺体は、屯所に程近い壬生寺に埋葬された。その死の真相は語られなかったものの、そこに『局中法度』という存在があったのはあまりにも明確なことだった。数十名の隊士たちは、その悲惨な結末に皆、息を呑み、だが黙って異論を述べるものはいなかった。

空が青い。一言で評すればそれだけの空だった。雲ひとつ無く、快晴。夏らしい青空といえよう。だが、なぜか八木邸だけは閑散としていた。まるで時間が止まってしまったかのように
明るい笑い声など聞こえなかった。

「新見が死んだ……か」
まるで他人事のように、――どこか呆然と呟いたのは芹沢だった。
八木邸の離れを分捕っている彼の姿を見るものはいないが、其の姿はやけに弱弱しい。
梅は優しく扇で風を起こしながら、芹沢の背中を眺めた。
誰が死んだって構わないと、そういうのだと思っていた。だが実際の芹沢は人間らしく新見の死を悼み悲しんでいた。
…だが、芹沢のこの姿を悲しんでいる、と捉えることができるのは自分だけなのだろう。梅はそう思っていた。きっとこの人はこの離れから出ると、豪胆に、激しく振舞うのだろう。自分は平気だと。新見の死を
悲しんだりはしないと。その矜持はどこから来るのかと問えば、きっと答えは『武士だから』の一言だ。武士としてのプライドがこの人を奮い立たせ、そして生かしているのだ。
その姿は少し自分の父に似ている。 梅はどこと無くそう感じた。

梅の父は、梅が十五のとき彼女を遊女屋へと売った。もちろん目的はお金のためだった。姉は嫁ぎ先が決まり、妹は病にかかっていた。とにもかくにもお金が必要だった。そして梅の身の上が決まると、父は家のために犠牲となる、真ん中の娘にただ一言だけ言った。
『お前は、もううちの娘じゃない』
残酷な、それでいて悲しみなど微塵も感じさせないきっぱりとした物言いだった。
だが、その表情は悲痛にゆがみ、さらにそれを隠そうとしているからさらに痛々しく梅に映った。梅は、その一言に「わかりました」と返事するしかなかった。
父がただ冷たくてその一言をいったわけではないと分かっていたからだ。 確かに、頑固で無口で、どこか冷たい雰囲気を帯びていた人ではあったが、家族のことを大切にしていた。その父が、言いたくもない言葉を口にして、それを必死に悟られまいとしている。
十五の梅はただただ頭を下げ、わかったから、そんな顔をしないで欲しいと願った。――それ以来、父には会っていない。そして家族からの連絡も無い。姉が無事嫁ぐことができたのか、妹の病は治ったのか……それさえも知らない。

そう、たとえて言うならあのときのような気持ちだった。
見たくも無い姿を見なければならない現実が、目の前にただただ壁のように広がっている。
そしてその先の真実…未来を告げている。…梅でさえも感じていた。
もしかしたら、次は殺されるのは――と。
「せんせ」
「……なんだ」
少しの沈黙の後、芹沢が返事する。
「その…」
逃げよう。
梅はそういうつもりだった。このままでは殺される。あの法度に、あの男に、奪われてしまう。崩れてしまう。
自分だけは一緒だから、ついていくから、傍にいるから。
「……なんでもない」
でも、きっと、通じないのだ。梅の言葉が凍りきったこの人のプライドを溶かし、逃げるなどの発想へと結びつかせたりはしないのだ。
ああ、なんて不器用なのか。
「お手水」
「ああ」
それでも、梅は逃げなかった。この人が死ぬのなら、自分の居場所が葬られるというのなら、己もそのまま消えるまでだと。


「総司?何してんだ」
会津からの呼び出され、連れ立って帰ってきた近藤、土方の視界に飛び込んだのは総司が台所に立つ姿だった。といっても、今は飯時でもなく、真昼間だ。なのに総司はというと、タワシを手に袖をたくし上げ、掃除に励んでいた。
「あ、お帰りなさい」
やや汚れた顔で笑顔で出迎える様は、どこかの子どものようだが…
「掃除してたんですよ。最近お勝手に立ってないなぁと思ってふらっと来て見たらもう言葉も無いくらいに汚れてて…きっとこれ、ふでさんが見たら大激怒ですよ。そしたらなんかぞっとして」
「それで掃除ってわけか?」
「まったく、総司らしいな!」
…洒落のつもりか、と土方は冷たい目で近藤を見たが、近藤は気にせず大声で笑う。その声はどこかこの緊張感漂う八木低には不気味に響いたが、気にする三人ではない。
「ちょっとだけって思ったらなんか熱中しちゃったんですよねぇ…あ、そうだ。会津様はなんて?」
「馬鹿、大声でしゃべるな。掃除が終わってからでいいから、あとで俺の部屋に来い」
「ああ、はい」
総司は笑顔で答えるとタワシを片手に、また掃除を始めた。

「…まったく、緊張感の無い奴だ。全く何にも分かってないのかよ」
土方が愚痴のように近藤に問いかけると、近藤は苦笑した。
「違うよ、歳。あれは総司なりの強がりだ」
「あ?」
「何かせずにはいられないんだろう。もしくは心の中の整理がつけたかったのかもしれん。わかっているのか、無意識かそれはわからんが……ああして、きっと格闘しているんだ」
自分の中の猜疑心とさ。
近藤は少し悲しげに微笑んだ。土方はそれにつられて苦笑する。いい加減、あいつを子ども扱いしすぎただろうか、と。


芹沢から離れた梅はふらりと厠に立ち入った。最近どうも気分がよくなかった。突然、吐き気を催すこともあったし、体温が低かったり高かったりと様々だ。
――自分の中で、どこかが緊張感に絡まっているのだろうか。
それが体に負担を与えているのだろうか。もしくは嫌な予感を感じ取っているのか……それは梅には分からない。ただ調子が悪く、めまいも多かった。
厠からでて、数歩。夏の太陽の日差しを視界に入れた途端、ふっと目の前が真っ暗になった。
(またや…)
「お梅さん!」
そのめまいもいつものことだったが、ちょうどお勝手にいた総司が慌てて駆け寄った。梅は少し壁に寄りかかっただけだったが、慌てて総司がその手をとる。
「大丈夫ですか!」
「あ…へえ、大丈夫…」
やっと梅は総司の姿を認識する。ぼんやりとした姿だったが、すぐに総司だと分かった。
「すんまへん…」
梅は慌てて総司から逃れた。手を握られた瞬間に旋律が走った。
(なんやの、これ…!)
前触れられたときはそんなことを感じなかった。どこか暖かい総司の体温にこっちの身体が熱くなってしまった。それは恋心がそうさせたのかもしれないが、とにかくどこまでも総司の手は暖かかく感じたはずなのに。
だが、今は違う。
まるで冷たい氷に触れたかのようにその手に触れるのが怖かった。
――この手が、あの人を殺めるかもしれない…!
電流が走ったかのように、梅は手を引っ込めた。
「お梅…さん?」
総司が不思議そうに梅の顔を覗く。だがその視線さえも、梅にはどこか脅威だ。
「な、なんでもあらへん……おおきに。じゃあ」
梅は踵を返すと、小走りに離れへと駆け出した。
怖い、怖い、怖い、怖い。震える、震える、震える、震える。
頭の中にはそれだけだった。

それが、総司との最後のまともな会話だと知らずに。










97
刻一刻と近づく時間に、恐れを抱くことはあっても、恐怖を感じることは無かった。それは一種の武者震いなのか、とも思うがそんな格好の言い形容は似合わないようにも思った。
忍び寄る死――しかし、それは事故のように起こることではなく、むしろ自発的に行うのだ。暗殺という手段によって。
では、なぜそこに恐れを抱くのか。――考えてみればおかしな話だ。
けれども、自分のなかにあるなにかが震えていた。あえていうなら、それは――痛みか。


九月十五日。その日の空は晴れ間が一度も覗かない、薄暗い陽気となった。まるで今の気分だ…と、呟きそうになって、総司は言葉を飲み込んだ。
そんな陳腐な言葉では語れない気がした。もっと深い…誰にも説明なんてできない、言葉にすることさえも躊躇われるこの感情を表わす。それが返って愚行のようなような気がしていた。
総司は縁側に腰掛、憂鬱になりそうな空を見上げた。その右手には猫じゃらしが握られていた。道端で引っこ抜いたまだ青いままの猫じゃらし。
手慰みに取って、猫との遊び相手に――土方は、お前が遊んでもらって
んだろと言うが――と思ったのだがあいにく総司の相手になってくれるような猫は現れず、こうして縁側で待ち伏せをしているというわけだ。
つまり、有体に言えば、いや、見たまんまを述べれば、暇なのである。 むしろ時間を潰しているという言葉のほうが相応しい。
早く時間が経てばいいのに。実際、総司もそんなことを考えているのだから、その通りなのだ。そういえば、時間という概念は誰が考えたのだろう。
総司はふと、疑問に思った。
一刻、とは正確には定まっていないが、それを時間、いくつもの時間が重なった単位だと決めたのは誰なのだろう。そしてその基準はどこから来たのだろう。だって、ほら。時間が経つのはこんなにも遅いというのに。
「……はぁ」
答えが全く出そうも無い。そしてその答えは誰も知らない気がする。つまり、これは、時間つぶしの戯言である、と。
総司は思わず苦笑した。
とにかく時間が経つのを待った。
それか、総司を遊んでくれる猫が仕方ないな、と言わんばかりにやってくるのを待った。


「せんせ」
新見の死から二日が経った。
屯所の雰囲気は相変らずだが、それでも張り詰めた緊張の意図はすこしづつ穏やかになっていったようで梅は少しだけ安心していた。
新見の死の勢いに乗じて、何らかの圧力を掛けられるのではないかと心配していたのだが、事態は終息へ向かっているようだ。梅はやや明るい口調で芹沢に声を掛けた。
「…なんだ」
芹沢はやはり機嫌が悪かった。だが、梅はその様子に少しだけ安心した。
(よかった…いつものせんせや)
酒を飲む姿に安心するとは、自分も案外この人に毒されているのかもしれない。梅は心の中で苦笑しながらも、彼の横に腰を下ろした。
「…花、届けてきたんよ」
「そうか…」
梅がそういうと、芹沢は少しだけ穏やかな顔つきになった。
梅は隣の壬生寺へ出かけていた。両手に菊の花をもって、芹沢のかつての旧友…新見の元へ向かったのだ。新見の遺体はすぐに壬生寺の墓地に埋葬された。葬儀も丁寧に行われたのだが、芹沢は顔を見せなかった。
芹沢を信仰する――つまり芹沢派と呼ばれる――者たちさえも、口々に「無慈悲だ」「情がない」と芹沢のその態度を非難したのだが、梅は理解していた。
(…なんて、恥ずかしがり屋で…不器用な)
自分の悲しむ姿を誰にも見られたくない。それはやはり武士の矜持なのか、芹沢は頑なに新見を送ろうとしなかった。その頑なさが逆に証明した。芹沢にとって新見はやはり無二の存在だったのだと。
そして、二日が経った今朝方。芹沢が急に、梅に告げた。
『この金で花を買って、新見に届けろ』
やはり傍若無人な様子は相変らずだが、その芹沢らしさに、梅は黙って頷いた。そして菊の花を買って新見の墓参りをしてきたのだ。
「慕われとったんやね、新見せんせ。花いっぱいやった…」
「そうか…」
特に関心もなさそうに相槌を打つ芹沢だが、梅は黙って酒を注いだ。
「…あのね、せんせ」
「ん?」
梅は居住まいを正した。
「うち、せんせに話があるん」
「なんだ?」
梅の神妙な面持ちにも芹沢は相変らずで、酒を煽った。
「…その、…あの…」
「なんだ、はっきりいえ」
「ん…」
梅は一度俯いて、そして顔を上げて、まっすぐ芹沢を見据えた。
「うち……やや子ができてん」
恥ずかしさがこみ上げて、最後あたりは聞き取れたかどうか分からない小声になってしまったが、梅は口にした。
そして、ちらりと、芹沢の顔を窺う。梅は、あっ、と声を上げそうになった。
芹沢の顔が、本当に穏やかに、優しい顔になっていたのだ。決して仰々に驚くのではない、ただ表情が緩んだ。微笑んでいるわけでもない、、ただそれよりも感嘆を示した表情。
「…本当か?」
芹沢はそのままの表情で梅に尋ねた。
「……ええ」
梅は涙を堪えて頷いた。
喜ばれはしないのだと思っていた。めんどくさい顔をして一蹴されて、…もういらないと、傍にいては目障りだと、罵られる覚悟さえしていた。
ややこができていると医者から知らされても、素直に喜べなかったのが本音だ。少し嬉しくて、でも寂しかった。けれど、それも吹き飛んでしまった。実際は、ほんの少しでも芹沢が喜びを見せた。梅はそれだけで心が満たされていた。
「冬を越すくらいには…生まれるて」
そう、最近の体調不良は妊娠によるためだったのだ。吐き気やめまい、思い当たることがあって、新見の墓参りのついでに足を伸ばして医者のところへ行った。
すると、子ができているということだったのだ。
「そうか……そうか」
一度目は梅に言って、二度目は自分に言い聞かすかのように、芹沢は頷いた。けれども
「…冬……か」
と寂しげに、儚げに呟いた。


にゃん…
りん、と鈴の音がしたかと思うと、総司の視界に猫が飛び込んできた。真っ黒な毛並みは少し荒れていて野良だとすぐにわかった。
「おいで」
猫じゃらしを餌につってみたところ、黒猫は興味を持ったのか、目で追い始めた。 右、左、右、左、と振り回しても素直にそちらをみる猫に総司は自然と微笑んでいた。
「沖田君」
庭に出ようとしたところで、話しかけられた。
「山南さん」
「何をしてるんだい?……ああ、猫か」
山南は微笑んだ。
「君のそういう姿を見ていると心が和むな。…試衛館にいたころを思い出すよ」
「江戸のほうが猫が多かった気がします」
「京の人は猫を嫌うのかな。おや、この猫は人に懐いているようだね。どこかで飼われているのかな」
「そういえば、山南さん。何か用事があったんじゃないんですか?」
総司が尋ねると、少し沈黙して、山南は頷いた。
「土方くんから話があるらしい」
「ああ……はい」
寂しげな山南の物言いに聞かないふりをして、総司は猫に目をやった。
黒猫はまっすぐ総司を見つめていた。いや、見据えていた。すべてを見透かすような真っ黒の瞳に、総司は息を呑んだ。
けれども、それは一瞬で、黒猫はすぐに目を逸らすと軽々と跳躍し、庭から出て行った。


部屋には、近藤、土方、山南、総司、原田が揃っていた。先日の新見のことでもこの面子が揃っていた。
「…明日、芹沢を殺る」
土方の重い、重い口調だった。新見を殺したときと比較できないほど。 その隣に座り近藤は押し黙り、山南は少し目を伏せていた。
「……そうですか」
総司は頷いた。
「どうやってやるんだ」
いつもと変わらない調子で尋ねたのは原田だ。彼もまた察していたのだろう。
「明日、宴の席をもうける。新見の追悼も兼ねて…まあ、士気をあげるためとでも言うか。きっと芹沢たちは泥酔して帰るだろう。……それを、襲う」
「…暗殺、か」
原田は少し顔を顰めた。けれども、それしかないことはわかっていたので、渋々頷く。芹沢が局長と言う座に座り続ける以上、彼自身の退きが無い限り、その座が開くことは無い。手っ取り早い方法が…暗殺だった。
「芹沢は凄腕の使い手だ。暗殺とはいえ簡単にはいかないだろう。…気を抜くな」
「わかってるさ」
「土方さん」
総司が口を開いた。
「なんだ」
「お梅さんは、どうするんです?」
土方の眉間の皺が深くなった。
「お梅さんは確かに芹沢先生の金策にも関わっていて…処分されるのは仕方ないと思います。けれど、女です。…助け出すことは、できないのでしょうか」
「…そうだね。手を掛けることはあまりにも慈悲が無い」
黙っていた山南が土方に話しかける。
「どうなるかわからないが…助けられるものなら、助けよう」
「…わかった」
土方はあまり乗らない返事をしたが、総司はほっと息をついた。あの人は被害者だ。殺すほどの罪はない。そして何よりも、殺せそうもない。
「決行は明日の夜が深まってから。なんとしても成功させる…失敗は許されない」
土方が重く告げる一方で、総司は空を見上げた。ぼんやりとした曇り空に己の心のうちを比喩するのは簡単だけれども、どういったらいいのかはわからない。
ただその空が開ける頃には。
ただその空から晴れ間が覗く頃には。
すべてが終わっているのだということだけは、誰もがわかっていた。


98
さあ、狂宴を始めよう。終わりの幕を下ろす役目は随分前からお前に託しているんだ。彼は呟くように、微笑むように、語りかけるように、自覚していたように、知っていたように、言う。
今の彼の表情を表現すべき言葉は無い。 どんな言葉も彼の前には陳腐なままで、安っぽいままで、通り過ぎて行くだけで。
つまりは、こういうことなのだろう。
死に際とは――。


「それでは、新見先生を悼んで……」
文久三年九月十八日。島原遊郭角屋徳左衛門の座敷を借り、壬生浪士組の盛大な会合が行われた。
新見先生を偲び、そして士気挙げのための飲み会である…という名目で開かれたものであったので事情を知らない隊士たちは大いに飲んだ。中には気絶するほど飲む者もいて、その場は今までに無く盛り上がった。
普段は訝しげな顔をしている土方や、困った顔をしている山南でさえにこにことしているものだから、彼らの箍が外れたようだった。
酔いに乗じて国事を議論するもの、芸妓や舞子を相手に乳繰り合うもの、高らかに故郷自慢をするもの…様々であった。もちろん、普段から騒がしい芹沢一派もそれに変わりなく、まるで水の如く酒を飲んでいた。傍から見れば愉快な…そして滑稽な時間が流れていた。

「そんな顔するな」
総司に声を掛けたのは土方だった。片手に酒を持ち、総司に無理矢理酌をさせる。
「土方さん、お酒は…」
「中身は水だ」
小声で返事をした土方は、平静を装え、と総司に注意した。
「お前だけ緊張してんのが目に見えてわかるんだよ。悟られたら計画はパーだ」
「わかってますけど…」
総司はちらりとまわりを窺った。
まるで解き放たれたかのように、今日の飲み会は盛り上がっていた。普段だったら咎められる芸や踊りも今日は解禁だと分かると隊士たちは皆はしゃぎまわった。寡黙な島田でさえも酒を飲み、楽しげに同志と会話をしている。
試衛館メンバーと呼ばれる永倉、藤堂、井上、齋藤らはいつものように酒を飲み、そこに混じっている原田は普段の様子と変わりない。彼だって緊張しないわけにはいかないだろうに、ガバガバと酒を煽る様子はいつもの原田だった。
「…でも私の場合ははしゃぐほうがいつもと違うって咎められますよ。だからこうして静かにしてるんです」
「馬鹿。顔に出てるって言ってるんだ。そんな顔するんなら甘酒でも飲んでほろ酔いのほうがまだ良い」
「土方さんっ」
むっと思って総司が牙をむくと、土方は苦笑した。
「そうしてろ」
と。そしてわしゃわしゃと頭をなでる――というよりは掻き毟るようにして総司の前から去っていった。

総司が緊張しているのはもちろん、「芹沢暗殺」という大きな任務だった。 宴の席で芹沢らを酔わせ、八木邸に戻ったところで寝込みを襲い暗殺する。
――それが今宵、決行される。
土方や山南が穏やかなのはもちろんこのためだ。芹沢を気分良く酔わせ八木邸まで送る。そして途端に刃を向け、何の温情も無く殺すため。
それが計画だと分かっていても、総司にはこの状況が痛ましくてならなかった。芹沢が女を侍らせ、上座で飲んでいる。総司はそちらに目をやった。いま視界に映るあの人は、殺される。このいま、酒を持ったこの手によって殺される。
…命とはこんなにも虚しく軽く扱われてもいいのだろうか。
「…ごめんなさい…」
それでも選んだこの道を引き返すことなど、総司にはできそうもなかった。憎まれるのは慣れている。憎まれる覚悟をして京まで上り、人を斬ることを覚悟した。
けれど、どうしてだろう。
芹沢はきっと恨みなどしないのではないかと思ってしまう。
自分がそうでありたいと願うように、
あの人はもしかしたら、自分のなかで一番の理想に近い、武士ではないかと思ってしまうから。傍若無人としか言いようのないことばっかりだった。けれどもその合い間で、自分たちでは為しえない何かを、彼はし続けていたように思う。それは武士のプライドの持続か、矜持を持つことか。 本当は憧れてもおかしくは無いのだ。堂々たる振る舞い、威厳あるその背中に―――。
けれども、
ごめんなさい。
あなたを選べなかった。
あなたの生き方を。


雨が降り始めていた。ぽつぽつ、と最初は気にならない程度であった雨音がだんだんと大きくなり近藤の鼓膜をゆらす。
ぽつ、、ぽつ、、ぽつ、、ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ
何だろう、この耳に障る音は。うるさい、静かにしてくれ、今は静かに黙って、なにも考えたくないんだ。願っても鳴り止まない音。音。音。
この音は、心臓の鼓動に似ていた。
「近藤先生」
座敷を出て庭を眺めていた近藤の背中から声が聞こえた。
「…歳」
幼馴染の声が、どこか懐かしく聞こえた。いつも聞いているはずの声が、無性に泣きたくなるくらいに懐かしく。
「そろそろ座敷に戻ってくれ。あんたがいなきゃ意味が無い」
「………」
幼馴染は至って平然として、言葉を紡いでいく。ざーっという雨音が二人の無言の雑踏となり、沈黙を埋めていった。
「どうした」
「…歳。俺はつくづく嫌気が指したよ」
気がつけば言葉を漏らしていた。雨音に遮られて、きっと土方にしか聞こえない程度の小声ではあるが。
「俺はいつの間にかこんな場で笑える人間になっていたんだな。今から卑劣な手段で殺す相手の前で、平然と…何の感情も無く笑える人間に…」
「……」
「武士っていうのは…こんな人間のことを言うのだろうか。道徳も何も無いこんな人間を…誰が 尊敬するだろうか。誰が組長として従うだろうか。……俺にはわからない。俺は…」
こんな人間になりたくなかった。
という前に遮られた。雨音にではなく、土方の平手打ちに。バチン!と響いた音は座敷までは届かないだろうが、酷く木霊した。
「……歳」
目の前には幼馴染の厳しい顔があった。
「苦しんでいるのが…あんただけだと思ってるなら大間違いだ」
あ、と声が漏れそうになった。
愚痴だった。弱気になってしまった自分を吐露し、すこしでも楽になりたいと願う人間の。同志を殺してしまう、粛清という言葉によって亡くしてしまう重さに耐え切れなかった。
「近藤先生」
「……悪かった。もう大丈夫だ」
近藤は深く頷いた。
何のために殺すのだ。答えは知っている。けれどそれを説明する必要はないのだ。言い訳はしない。弁解する必要も無い。誰に非難されたって自分がしたことを、正しいと信じるのだ。
それが選んだ道だ。仲間と、生きるために。
「……それにしても、思いっきり殴ったな。腫れた言い訳をどうすればいいんだ」
「蚊に刺されそうになってたのを殴ってやったと言うさ」
幼馴染はそういって、微笑んだ。


「それでは、お気をつけて」
山南が手配した籠に乗って芹沢一派は帰路に着いた。八木邸まではそう遠くはないのだが、べろんべろんに酔った彼らを介抱しながら戻るのは長い道のりだった。
一派と呼ばれる平間、平山は気分が乗ったように籠に乗り込むとさっさと出発していった。芹沢も顔を真っ赤にして籠に乗ろうとしたが、一瞬立ち上がった。
「なにか…?」
山南が困惑した顔で尋ねると、微笑んだ。
「いや…美味い酒だった」
背筋に電流が走った。山南は何も答えることができずそのまま芹沢を見送った。
どこにも悪意の無い笑顔だった。どうして彼がそんな顔をするのだろうか……山南には答えが見出せなかった。


「梅、帰ったぞ」
呂律が回っていない様子で戻ってきた芹沢をみて梅は苦笑した。
「んもう、せんせ…またこんなに酔ってから」
芹沢が脱ぎ捨てた上着を拾いながら梅は小言をいいつつも、顔は綻んでいた。
今日は新見を偲んでの飲み会だと聞いていた。堅苦しいことはよくわからない梅だが、こうして上機嫌で帰ってくることは珍しかったので、少し嬉しかった。脱ぐものを脱ぎ捨て、さっさと寝床につこうとする芹沢に苦笑しながら、布団を敷く。
「梅」
「はい?」
こっちにこい、と手招きする芹沢に首を傾げつつ、梅は傍で膝を折る。
「…お前は、何があってもこの子を守れ」
「せんせ?」
突拍子も無いことをいう芹沢に梅は不安を覚えた。
その言葉の意味は……?
答えを見出す前に芹沢が言葉を重ねた。
「俺と、お前の子だ。簡単に死んだりしないだろうが……それでもお前が守れ」
「なにゆうてんの…そんな、不吉なことゆわんといて」
何を言ったら良いのかわからなくて、梅は笑ってみせる。けれども、どくどくと早まる鼓動は消えそうも無くて。
「…そうや、せんせ。前ゆうてたこと……考えてくれた?」
「ん…?」
「一緒に京を出ようて…どこかに行こうて…」
「…ああ…」
取りすがるようだった。どうか、頷いて欲しいと。そうだったな、一緒に行こうと。
この人が、頷いてくれる瞬間を。
「そうだったな…」
芹沢の手が梅の髪を撫でた。するりと、一度だけ。そして見せた笑みはあのときの、子どもができたと告げたあのときの優しい微笑で。梅は安心するとともに、その身を芹沢に任せた。
よかった…
ただその安心感が、梅を包みその瞳を閉じさせた。

次に開いたときに映る光景が、凄惨なものだとも知らず。





99
「私はあなたを殺したくは無かった」
「俺はお前に殺されたかった。ずっと待っていた。まるで恋焦がれるように、自分がどうにかしちまったんじゃないかと思うくらいにお前に殺されたかった」


雨が降っていた。闇に降り注ぐ雨粒は月光に照らされて白く光り、地面に叩きつけられ、鼓膜を揺らす。どこかで虫の鳴き声がした。けれども、雨の音のほうが大きく感じた。
ザーザーザーザーザーザーざーざーざーざーざーざーざーざー。
普段は何てことも無く聞き流しているその雑音が、なぜか大きく、耳障りに感じられた。
――つまり、それほどまでに八木邸の庭が静寂であるということだ。
そのなかで息を潜めている四人は、どこか緊張した面持ちで母屋を見続けていた。その視線の先の、障子に灯った明かりが消えるのをただただ待った。芹沢とその愛妾お梅が寝静まるのを。

「……っ」
誰ということも無く息を飲んだ。芹沢とお梅の部屋の灯りが消え、真っ暗になったのだ。
そしてそれは合図――。


『わかっているな。確実に仕留めるためにも、二手に分かれる。山南さんと原田は平間のいる土間近くを。俺と総司で芹沢とお梅、それから平山をやる。芹沢はとにかく下っ端二人は脱走を図るかもしれない。その場合は深追いはせず逃がせば良い。―――芹沢を殺るのが優先だ。開始は芹沢の部屋の灯りが消えたとき。それが合図だ――』


玄関脇に潜んでいた山南、原田は明かりが消えた途端目で合図を交わし、忍び足で平間のいる土間に近づいた。
息を潜め、お互いが頷いたとき…部屋のなかで物音がした。
(誰かが起きた…!)
山南は咄嗟に気がつき、刀を下ろす。
部屋からふらついた足取りで出てきたのは――化粧を落とし、すっかり生気をなくした女――糸里だった。
糸里は輪違屋の天神で平間の馴染みとして何度か屯所に来ていた。今夜も平間に付き添い、寝間をともにしていたようだ。空ろな目で山南、原田を見遣る。「どないかしましたん?」と言いたげな顔だったが、二人の手元を見た途端、顔色を失った。
「ぁ…っ」
悲鳴を上げそうになった糸里の口を、背後から原田が封じる。そして囁いた。
「…お前は何も見ていない…そうだよな?」
糸里はその意図を素早く察知した。何度も何度も首を縦にふり、助けを請う。原田が「いいよな?」という目で山南を見た。もちろん彼も頷き顎で出て行くように糸里に伝える。聡明な彼女は寝巻きのまま、部屋を出て行く。
そして以後、屯所に近寄ることも、そして遊郭で見ることもなくなるのだが…それは後の話である。
糸里が居なくなった部屋では、平間が大口を開け高らかに鼾をかき寝ていた。隣に居た女がいなくなったこともに気がついていないようだ。…よほど酔っていたということだろう。山南が原田に目配せする。
「平山くんがどうやら芹沢さんと同じ部屋に居るようだ。さきにそちらへ行こう。」
土方と総司だけでは心もとない。確実に暗殺することが大切なのだ。
原田が深く頷き、二人はさらに奥へと進んでいった。


一方。
「…総司」
「はい」
芹沢の部屋の灯りが消えた瞬間、土方が目もあわせず話しかけた。
「許せ」
「…はい」

そして二人は立ち上がると、刀を抜き、土足のままで縁側へと踏み込んだ――。


二組の広間への突入はほぼ同時だった。
山南、原田は手早く平山の首を落とした。…本人に気付かれないほど、一瞬の出来事だった。隣で同衾していた吉栄は「ひっぃぃっ!」と悲鳴を上げると、みだらな格好のまま八木邸から逃げるように出て行った。
そして彼女もまた歴史から姿を消すことになる。
「なんだ、貴様ら…っ!」
さすがに騒ぎに気がついたのだろう。土間近くの部屋で寝ていた平間が抜き身で切りかかった。背中からなら山南、原田を斬ることができると思ったのだろう。しかし、酒に犯された身体は上手く動かないようで足を詰まらせ、あっさり山南に避けられる。
「畜生…!」
目の前に山南の刀、背後に原田の槍を向けられた平間は冷や汗をかいた。二人のうちどちらかと刺し違えることができたとしても確実に自分はやられる。そんなことは明白だった。
「畜生…畜生!闇討ちとは卑怯じゃねぇか…!武士の誇りも、意地もないのか…!」
しかし平間の憤慨も、負け犬の遠吠えにしか、山南には聞こえなかった。 それでは金策をし、民に乱暴狼藉を働いたあなた方は武士だったのかと。理路整然と説き伏せてやりたかった。
だが…山南は刀を下ろした。
「山南さん…?」
驚いたのは槍で威嚇したままの原田だった。山南は戦闘を放棄するかのように刀を下ろしたのだ。
「あなたには死ぬ価値もない」
「……なんだと……っ」
「命が惜しいならこのまま立ち去りなさい。私の刀をあなたの血で汚されるのは真っ平だ」
自分でも冷たい声が出た。目の前の原田も驚いた顔をしている。
けれども、本音だった。金魚の糞のような彼を殺して、何の意味がある。ただ自分に泥が塗られるだけだ。暗殺者という泥。欲しくはない。
「……畜生………ちくしょう…っ!」
平間は馬鹿の一つ覚えのように吐き捨てたが、刀を納め、玄関に向けて走り出す。それをもちろん追うようなことはしなかった。しかし、原田の顔は険しいままだ。
「…山南さん。あんたは優しすぎる。あいつを哀れに思ったのかも知れねぇが…それは優しさじゃねえ。ただ、甘いだけだ。あんたは他人にも…そして自分にも甘い。俺は、山南さん。あんたのそんなところが…いずれあんたに不幸を呼びそうで怖いぜ」
山南はその言葉に頷きも否定もしなかった。
本当に、その通りだ。心の中では高らかと笑っていた。


そしてほぼ同時刻。
土方と総司も芹沢の部屋に飛び込んだ。原田、山南が玄関から入り込んだのと逆で、庭の縁側から。挟み撃ちにする形だった。
障子を開ける。そこには同衾する芹沢と――お梅。
ざわっと胸が騒いだ。安らかな眠りを覚ますのが、こんな残酷で残忍な雑音でいいのだろうかと――。
土方が刀を振り上げる。
だが、それは当たり前のように弾き飛ばされた――
「ぁ…ああぁぁ………」
お梅は声も上げられずにいた。悲鳴を上げるでもなく絶叫するわけでもなく…ただただ震えとともに零れる声が総司の鼓膜を揺らし続けた。部屋の隅で項垂れるお梅…しかし、視線はこちらから外すことは無い。 まるで目に焼き付けるかのように恐怖に震えながら、お梅は見ていた。芹沢と土方が対峙する場面を。芹沢はわかっていたのだ。
今宵暗殺が行われることも、二人がこうしてこの場所に踏み込むことも。
そうでなければ…刀を抱いて眠ったりはしないはずだ。
土方の渾身の刃を軽々と受け止めた芹沢は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。邪気の無い子供のように。
「…土方。お前は分かっていたんじゃないのか。この俺が、すべてを知っていると」
「可能性はあると思っていたさ…。あんたはこんな修羅場を何度も潜り抜けてるはずだからな」
キンッという高い音が鳴って、二つの刃が離れた。
総司は息を呑んだ。
殺されると分かっていながら待っていた男。気付いているだろうと思っていて切りかかった男。
ああやはり、二人は交わることの無い生き物なのだと総司は思った。 あまりに違いすぎる。
「憎しみだらけだな、土方」
「その理由はあんたが一番知っているはずだ」
さもありなん、と芹沢は微笑み、そして総司へと視線を向けた。
「それに比べて…総司。お前はどうした」
「…どうとは…」
「まだ俺への未練があるようだな」
妖しく微笑む口元――闇の中で見える芹沢の表情は読み取りにくいけれども、いつもの彼だった。

降り続ける雨の音。
女の口から零れる、小さな、小さな絶叫。

「私はあなたを殺したくは無かった」
「俺はお前に殺されたかった。ずっと待っていた。まるで恋焦がれるように、自分がどうにかしちまったんじゃないかと思うくらいにお前に殺されたかった」


「お前も俺を殺したいと思ったはずだ。それくらいお前に害を与えた自覚くらいあるさ。お前の中に憎しみや殺意、憎悪、倦怠、恨み…何も知らなかったお前に負の感情を与えたのは間違いなく俺だ。そうだろう?」
そうだ。何度もこの人を憎いと思った。居なければと思った。悔しい思いもした。
けれど、でも、それでも。
「…私には、あなたが殺せなかった」
「何故だ」
「わからない。わからないんです…いま、こうしていてもあなたを殺して良いのかわからない」
「…総司…!」
土方が顔を渋らせる。こんなところまで来て弱気を言うな…そんな顔だった。
「でも」
総司は一度目を伏せ、そして芹沢を見据えた。
「私にとって一番は、あなたじゃない」
そう、それだけは確かだ。
「私は欲張りだったんです。何も失いたくなくて、何もかもが自分にとって大切で…なによりも自分が傷つきたくなかった。後悔もしたくなくて、私は我侭を言い続けて、駄々をこね続けた。全部が欲しくて…」
その結果が、芹沢と過ごしたあの夜だった。
芹沢を失いたくないという願い…それは自分が傷つきたくないという傲慢な願いでもあった。
そして気がついたのだ。
「私には…あなたよりも大切な人が居ます。何を失ってもどんなに傷ついても…悲しい顔をさせたくない人がいる。だから、私はあなたを殺せる。今は…ただ、それだけです」
「…ははっ…」
芹沢が笑った。噴出すように。
「はははははははははっ…なるほど、ああ、そうだな…!お前らしい!…ははははは…っ」
高らかに笑い挙げる姿に、土方は再びかちゃりと刀を向けた。そして総司もそれに習う。
決心が鈍ることは無い。それは刀に現れていた。総司の切っ先は迷い無く、芹沢の喉元をさしていた。
「…はは……そうか、…つまり、俺はお前にふられたということだな…」
芹沢が独り言のように呟いた。そして再び刀を向ける。今度は総司へと。
「総司。お前の理論でいうなら、俺もここで死ぬわけには行かないということになる。俺は…お前よりも大切な女がいるんだ」
その言葉を待たずに土方が飛び込んだ。「やぁぁっ」…総司でさえも久々に聞く、土方の気合。振りかざした土方の刃を芹沢が交わす。巧みな剣捌きで土方の刀を弾くと、部屋を飛び出し、縁側に出た。とても酔っているとは思えない動きで、土方の背後に回る。
危ない!
咄嗟に判断した総司が土方の背中を押し、芹沢の刀を自分の刀で受けた。加賀清光…その剣先が月光に揺らめく。
すさまじい力だった。芹沢の剣が優れていることは何度か居合わせた場で知っていたものの、今の比ではない。殺されると知った人間の姿は…これほどまでに強く、大きなものになるのだろう。
総司が押されたところを土方が背後からせめる。1対2は卑怯だと思うが、今は勝負の場ではない。暗殺だ。
確実に仕留めなければ成らない。
だが、芹沢はその刀さえ交わし、刃から逃れるように隣の部屋へ駆け込んだ。
「芹沢せんせ…!」
お梅の悲痛な声が八木邸に響く。


たとえば運命とかそんなものが決まっていて、それが世の中を動かしているのだとして。
その運命という歯車は誰のために動いているのだろうか。
平等に幸運が分けられている…そんな風に思う人間は少ないだろう。
いつだって幸運は偏っている。
明日をも知れぬ飢餓者や病の者と、健康で商売繁盛の者…その幸運の値が同じだとは思えない。
つまり、いつだって運命は誰かに偏り、誰がために動き続けているのだ。では、運命を味方につけたものは、選ばれた人間なのだろうか。


「…な…!」
それは彼にとって運命だったといえば、それでおしまいだ。


芹沢は机に足を詰まらせた。それは八木家の子息が使っているものであり、普段はそこにはないものだ。
不意にバランスを崩した芹沢がそのまま倒れこむ。足が縺れ、尻餅をつくような形で。神道無念流の免許皆伝である芹沢でも、これ以上に不利な状況はない。
「…っ覚悟…!!」
総司は刀を振り下ろした。
芹沢の心臓へ一直線に。迷い無く、まっすぐに振り下ろされた加賀清光は、一瞬にして真っ赤に染まった。
「ぐぁあぁぁぁぁっ!」
芹沢が絶叫する。雨に木霊したその声は雨音に消され、力なく聞こえた。そして止めを刺すかのように土方のも刀を一閃させた。
「ぁぁあ……ぐ…っあ…」
土方は絶叫する芹沢を見下ろして呟いた。
「……残念ながら、俺にとってあんたは憎しみでしかなかった。あんたが死んでも悲しくとも、哀れだとも思わねぇ。ただただ…憎しみが晴れて行くだけさ…」
自嘲するかのような言葉だった。総司のように感情をもてない自分を蔑むような。
「でも…あんたの願いどおり、総司の刀でお前を殺させてやった。満足だろう?」
血しぶきを浴びた芹沢の顔が、何となく頷いた気がした。
それはただ自分の良いように受け取っただけかもしれないが…芹沢は笑っているように見えた。
「…そ……じ……」
「……はい」
「…うめ…を…頼む…」
ああ。
この高潔な武士が最後に残す言葉が彼女のことだったなんて。誰が予想しただろう。
総司は胸が締め付けられるのを感じた。
感情の無い、ただただ憤怒の鬼のようだと言われた芹沢鴨という男が残す最後の言葉。それがあまりにも人間的で、それが嬉しくも…悲しくもあり…。
「…はい……はい…」
涙が、溢れてきた。


「せんせ……せんせ…」
目が見えなくなった。音は聞こえる。ざーざーざーと…耳障りな雨の音が。ここはどこだろう。光を灯して。あの人という光を灯して。照らして、道を。あの人への道を。
どこにいるの?どこに行ってしまったの。私とこの子を置いてどこへ…?どこへ…見えない、見えないよ。あなたはどこへ…

「…お梅、さん…」
か細い声で呼ばれた梅ははっと我に返った。いつの間にか自分は立ち上がり、気のおもむくままに隣の部屋へと移動していたようだ。あの人を捜して…芹沢をさがして。
「せんせ…せんせ…」
いた。その身を横たえた芹沢が。
「なんや…せんせ。また酔ってこないなところに寝てしもうたん…?」
梅は膝を折り、芹沢に寄り添った。
「さ、お布団もどろ…?こないなとこや、風邪ひいてしまう…」
「お梅さん…」
「なあせんせ…おきて、起きて…」
ピチャっと生ぬるい感触がした。血だ。真っ赤な血。あの人の体温と同じ、真っ赤な血。
「…せんせ、血ぃ、出てはる。もお、怪我したんならはよゆうて…」
梅は何の躊躇いも無く、芹沢に抱きついた。寝巻きが真っ赤な血に染まっていく。冷たくなりかけた芹沢の体に、自らのそれを重ねた。
「せんせ……せんせ、起きて…起きて…。うちと一緒に寝よ…うちはあったかい腕枕が好きや。せんせの腕枕やないと寝れんのよ…だから、ねえ、……せんせ…」
「お梅さん!」
総司の悲痛な声とともに、芹沢から引き剥がされた。
「なにするん?!やめて、やめてぇっ!」
「お梅さん…お願いです、やめてください…!」
総司が背中から梅を抱きしめた。そのとき初めて梅は自分が泣いているのだと気がついた。身体から理解して、今、やっとココロにたどり着いた。
芹沢が死んでいる。
その事実を、涙が一番最初に分かってしまった。溢れ出す涙が止まらない。
「なんで…なんでこないなこと…離して、離してぇぇっ」
「駄目です!」
「あの人を殺した手でさわらんといて!!」
さすがに総司は梅の言葉に怯んだ。拘束していた手を放すと、梅は再び芹沢に寄り添った。そしてそこにいる男たち――山南、原田、土方、そして総司――を見据えた。
「…誰か、うちを殺して」
「お梅さん…」
「うちには……私には、この人しかいない…!私が生きていられるのも、この人がいたからなのに…どおして?!どおしてこの人を殺したの?!私から奪ったの?!親からも兄弟からも捨てられた私を拾ってくれたこの人が居ない世界でなんて、一瞬たりともいたくない…!殺して、殺して、殺して!」
悲痛な叫び声だった。まるで子どもが駄々をこねるかのように殺してと叫ぶ彼女。
総司は思い知った。
彼女は本当に芹沢を愛していたのだと。
そしてその悲しみは…誰にも癒すことができないのだと。
梅は土方に取りすがる。
「…あなたなら、私を殺せるでしょう?!残虐非道なあなたの刀で殺して…!私と、この子を…」
「…あなたは、まさか…」
土方が動揺する。
「せんせが憎いんでしょう!だったら、私のお腹の中に居るこの子だってあなたは憎いはず。じゃあこのお腹に刃をつきたてて、私と一緒に殺して……!」

『…うめ…を…頼む』

死に際にそういった芹沢の声が総司の脳裏に響いていた。
それと同時に、死にたいと叫ぶ梅の絶叫も。

ああ、先生。どうすればあなたたちを幸せにすることができるのでしょうか。

「…わかりました」
「総司?」
総司は加賀清光を強く握った。山南、原田も驚いたように目を向けた。

「御免…!」














100
九月二十日、前川邸。局長芹沢鴨と助勤の平山五郎の葬儀が行われた。喪主の近藤が厳粛に弔辞を読み上げ。葬儀は粛々と進められた。
 あくまで事件は長州藩士の仕業として公表されたものの、隊士のなかでは、意図的に葬られたのだろう、という噂が広まっていた。だが、それを口に出すような愚かな隊士は幸いなことにいなかった。

「上出来だ」
 葬儀の弔辞を読み終わった近藤に土方が声をかけた。近藤の目には涙が滲んでいた。もちろん、不器用な近藤が演技で流した涙ではないことは土方にもわかっていた。だが、こんな声のかけ方しか土方にはできなかったのだ。彼に痛ましい役をさせたのは自分なのだから。
「…すまなかった」
 だが謝ったのは近藤のほうだった。土方は驚いた。
「なぜかっちゃんが謝るんだ」
「いや…。悪者になるのはいつも歳じゃないか」
「それでいいんだ。謝るのはやめてくれ。かっちゃんには陽の元を俺は暗闇を歩く。そういう運命だったんだ。それを俺は不幸だとは思わない」
「だが…」
 土方は近藤の肩を叩いた。
「だから、かっちゃんは俺の手を放さないでくれ。あんたがいてくれるから俺は頑張れる。どんなに酷い所業を為しても、どんなに非常な決断をしても。あんたがいてくれるなら俺は胸を張って生きることができる」
「…ああ」
 土方はそういうと顔を背け、そのまま外に出て行ってしまった。それが彼なりの照れ隠しなのだということは、もちろん近藤にはわかっていた。


 葬儀が終わり、後始末が始まったころ。土方は総司の姿を探していた。葬儀の時はもちろん出席したものの、すぐに姿を晦ましたのだ。
 黒の紋付を脱ぎながら、壬生寺を通りかかるとそこに総司はいた。数人の子供に囲まれて、境内に腰かけている。どうやら遊んでいるらしい。
 こんな時に、呑気な奴だな…と呆れながら総司に声をかける。
「おい、総司」
「土方さん」
 土方、という名前を聞くと、集まっていた数人の子供たちから笑顔が消えた。
「やーい、鬼だー!」
「逃げろ逃げろー」
 子どもたちは悲鳴のような…いや、本気で怖がっているのではなく、鬼ごっこで鬼に見つかったかのように一気に逃げて行ってしまった。
 残ったのは総司と八木家の子、為三郎だけだった。
「ぷ…っ土方さん、よっぽど怖い顔をしてるんですね。皆逃げちゃいましたよ」
「地顔だ。ったく、どうせ、お前がなんか余計なことを言ってるんだろ」
総司は「なんにもいってませんよ」と言いながらもその顔は笑っていた。なにかろくでもないことでも吹き込んでいるに違いない。そのなかで逃げなかった為三郎は、どうやら足を怪我しているらしかった。
「どうしたんだ」
 土方は何気なく為三郎に訊ねた。だが答えたのは総司だった。
「一昨日の…事件の時に。ちょっと巻き添えを食らったみたいで」
「ああ…」
 事件とはもちろん暗殺のことだろう。
あの日、芹沢は隣の部屋に逃げ込んだ。そこは為次郎とその母が眠る部屋で、そこで何かの拍子に怪我をさせてしまったようだ。土方自身、あの日のことは鮮明に覚えている。八木の母子が小さく悲鳴を上げながら部屋を離れたのは頭の片隅にあった。
「そうか…」
 だが、謝罪することはできない。もしかしたら母子は暗殺者の正体が試衛館の面々であると気が付いているのかもしれないが、それを口に出してはいない。
「それは気の毒だったな」
 と為三郎の頭を撫でた。為三郎は「たいしたことない」と頭を振って、走っていてしまった。すこし足を引きずりながら友達のもとへ駆け寄る。
「…悪いことをしたな」
 土方の言葉に「ええ」と総司が頷く。
「そういえば、何の用ですか?」
「何の用ってわけじゃねぇよ。姿が見えなかったから探してただけだ」
 そうですか、と総司は立ち上がり、袴の埃を落とした。
「なあ」
「何ですか?」
「これを」
土方は懐から紙を取り出した。ややくしゃくしゃになったそれを総司に渡す。
「これは…?」
「奴の辞世の句だ。もっとも、これは奴が以前投獄されていた時のものの写しのようだが」
『雪霜に 色よく花の さきがけて 散りても後に 匂ふ梅が香』
「…梅が香…」
 総司の顔が一瞬歪んだ。
 偶然に違いないが、そこに『梅』の言葉がある。それだけで何か運命のような、皮肉なような…そんなものを感じざるを得ない。
土方は間をおいて「ひとつ聞いていいか?」と続けた。
「何故、梅を斬ったんだ」
それは土方がずっと抱いていた疑問だった。
 あの夜。梅の悲痛な嘆きと、その身体に宿る命を知ったとき、土方自身は彼女を見逃すつもりでいた。もともと女を斬るのは後味が悪いし、できれば逃がすつもりでいた。居合わせた山南と原田も同じ気持ちだったに違いない。
しかし、総司は「殺して」という梅の悲痛な願いを叶えた。誰も止める間もなく刀は一閃し、梅は痛みを感じることもなく息を引き取った。土方にとってその選択は意外すぎるものだった。
 総司は少し黙って、答えた。
「それは、私が唯一できることだったからです」
「…」
「きっと私が手を下さなくても、お梅さんは自害されていた。目の前で芹沢先生が殺されたその痛みに、きっとお梅さんは耐えることはできないだろうと思いました」
 総司は空を見上げた。
「きっと、あのまま逃がしたとしても、お梅さんはその痛みをずっと抱えて生きていかなければならない。だから、断ち切った。…それだけです」
「でも、お前がそれを負う必要はなかっただろう」
「負わなければ、私は私を許せない」
 澄み渡った青空から、総司が土方に視線を移す。その目は何の迷いのない。
「…わかった」
 これ以上は聞くまい、と土方は頷いた。
 衝動に駆られて、梅を斬ったのかと土方は思っていたのだが、そうではなく総司は総司なりの覚悟をもって、刀を振り下ろしたのだというのなら咎めることはなにもない。それに、梅の死に顔も穏やかなものだった。芹沢と、そして子と逝けて幸せだったのだろう。
 今はそう、信じるしかないのだ。
「それにしても、お梅さんのご遺体を引き取っていただけて良かったです。ご実家でしたっけ?」
「ああ」
 当初は菱屋にもその前にいた花町の見世にも引き取りを拒否され、無縁仏になる予定だったのだが、遠く離れた地から梅の父だという男がやってきた。下級武士の娘だったということを皆が驚いた。
 だが、総司だけは少し救われた気持ちになったはずだ。
「お前、強くなったな」
「え?」
 土方は総司の頭を撫でた。「もう」と振り払って総司は口を尖らせる。
「そんなこと言いながら、相変わらず子供扱いじゃないですか」
「子供扱いなんてしてないだろ。俺はガキに惚れたりはしないんだ」
「…っ」
 総司は口ごもった。ここ数日の騒動ですっかり忘れていたのだが、土方にそういう対象で見ているのだと告げられたのだった。
「…あの、土方さん」
「ん?」
「その…いつから、そういう風に…」
「いつから惚れてたかって?」
 総司は戸惑いながらも頷いた。「そうだな…」と土方はやや逡巡し答える。
「いつだったか、忘れたな。昔は確かに生意気なクソガキって思ってたのに。はっきりとはわからない」
「そ、そうですか…」
「でも、お前を誰かにやりたくないって思ってたのは昔からのような気がする。子分みたいなのから、弟みたいになって、大切になって、やりたくないっておもったんだよ」
 九月の少し冷たい風が、土方の髪をなびかせる。色男とさんざん持て囃された男の涼しげな目もとに急に目を奪われた。
(変わってない…) 
 いつかの夜。星になって近藤を輝かせるのだと夢見ていたあの時の土方と何も変わっていない。そしてその輝きはこんな凄惨な運命さえも味方につけて輝き続けている。
 そうだ。この瞳に魅かれたのだ。こんな風にまっすぐに、まるで少年のような瞳にいつまでも見つめられてほしいと思ったから、傍にいたいと思ったのだ。人を罰し、孤独になり、ついに暗殺を行った。それでも土方の眼はずっと夢を見続けている。
 …今は、まだ土方と同じ気持ちにはなれない。でもいつか、この人の気持ちにこたえる日は来るのかもしれない。
 そんな総司の心を見透かすように、土方が笑う。
「で、お前はいつ俺に惚れる予定なんだ?」
「そんな予定ありませんっ」
 総司は少しうろたえて、また口を尖らせた。


 この数日後。壬生浪士組は会津松平容保より新たな隊名を賜る。「新撰組」。新たに選ばれた者たちの門出だった。




解説
なし
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