わらべうた





天保十三年(1842年)、江戸麻生白河藩邸。そこで大きな産声を上げた赤子は、八年の後元気な少年へと成長した。

「宗次郎!宗次郎ー!」
少年よりも一回りほど年の離れた姉、ミツは今日もまた弟を捜すべく田圃を歩き回っていた。夕暮れが迫ったにも関わらず、遊びまわっている弟の姿はどこにも見当たらない。このあたりには民家も少なく宗次郎と同じような年の子供はいないので、普段から一人遊びをしている。どこか遠いところまで行ってしまったのだろうか、と姉が危惧したちょうどその時
「なぁに、姉上」
田圃のやや高い茂みから弟はひょいっと顔を出すと、満面の笑顔をミツに向けた。
「姉上、いいものみつけたよ」
「いいもの?」
 ふふん、と弟は自慢げに手を差し出す。それは季節の風物詩だった。
「ほら、たんぽぽ。あ!姉上。種が飛んじゃうよ」
 たんぽぽの綿毛が風で空に舞い上がる。それを必死に捕まえようとする弟にミツは優しく声をかけた。
「いいのよ、飛ばすためにあるのよ」
「えー?」
それでもなお、宗次朗は綿毛を追いかけた。コロコロと変わる子供の表情は、沖田家にとって唯一の光とも言える。

時は嘉永三年(1850年)五月。
世の中は何かと騒がしいが、それは沖田家にとっては全く関係のない話。今は、その貧困の状態からどうやって生活していくか。これがミツにとって一番の悩みだった。沖田家は宗次郎の誕生のすぐ後に、大黒柱であった父を亡くした。続いて流行病で母を亡くし、残ったのはミツ、そしてミツの夫で沖田家の仮当主林太郎。そして幼い宗次郎だった。林太郎は人はよいが、商いが下手で稼ぎは少ない。ミツも内職をして生活を支えるが、成長する宗次郎を満足に食べさせてやることができない。今日も子供のお腹がいっぱいになるのが精一杯の夕餉だった。
沖田家は、貧困を尽くしていた。
「ねえ」そんなことを全く知らない弟はうきうきと姉に訊ねた。
「ねぇ、姉上。赤ちゃんはまだ生まれないの?」
 宗次朗は姉の下腹部を手にした。ミツは第一子を身ごもっていた。
「もう、宗次郎ったら。この間赤ちゃんができたって言ったばっかりじゃない。後一年待ちなさい」
宗次郎はえー!っと大声を上げた。
「宗次郎がお兄さんになるまで、生まれませんよ。遊んでばっかりいないで、お勉強なさい」
ミツは半分しかりつけるような口調で言った。宗次郎は頬をふっくら膨らませて渋々と頷いた。

 夕餉を終えると、宗次郎はミツの言いつけで林太郎から書を習っていた。しかし、しばらくして飽きてしまい、半紙に落書きを始めてしまった。
「こらこら、宗次郎。また悪さをして」
人の良い笑顔を浮かべ、林太郎は宗次郎を眺めている。その様子をみてミツは口を尖らせた。
「旦那様、宗次郎を叱ってやってくださいませ。今日は朝から遊んでばっかりいるのです」
「あはは、いいじゃないか。まだ子供なんだ」
林太郎は、宗次郎に強く叱ることはない。宗次郎が沖田家の跡取りであることも影響しているのかもしれないが、この林太郎の人の良さ故の欠点と言うところである。ミツも林太郎の朗らかな性格に触れ、夫婦になったことを幸運だったと思うことは多いが、弟のやんちゃぶりには嘆息するばかりだ。


 ミツは立派に宗次郎を武士の子として育てることを、冥土に旅立った父と母に約束している。沖田家には三人の子がいるが、男は宗次郎だけで跡継ぎは他にいない。一つ下の妹はすでに嫁いでいる。今はミツに婿養子として林太郎を迎えているものの、周りの目からすれば宗次郎がゆくゆくは後継ぎになるのは明らかだ。本来であれば父が教えるべき武士道と、母が与えるべき愛情を教えなければならない。ミツはそれ故の責任感か、この頃の宗次郎をきつく叱っていた。
それは翌日も同じことだった。
「宗次郎、また旦那様の本に落書きを!」
パンッと大きな音を伴って弾かれた宗次郎の頬は、真っ赤に染まった。
「うわぁぁぁぁん」
 すぐに泣きだした弟にミツはさらに憤った。
「武士の子は泣いてはいけません、宗次郎!」
「ミツ、なにもそんなに怒らなくても、」
 更なる追い打ちに林太郎が仲裁に入る。
「旦那様っ!」
宗次郎は、ミツが林太郎の方を振り返った隙を見て、その場から逃げ去った。
「待ちなさい!宗次郎!」
扉を乱暴に開け、草履も履かず走っていった宗次郎の姿をミツは捕らえることができなかった。

わぁぁぁと、大声を上げながら走ると、何度も転び、何度も泣いた。いつも遊んでいる田園を走り抜ける。涙で目前は霞み、よく見えない。
(姉上はもう宗次郎のことを嫌いになったんだ!)
幼心に、ミツの心情がわかる術はなかった。日野の、田圃ばかりの土地の細道を走って、走って、走って。行き止まりになって後ろを振り返って、ミツが追いかけてきてくれないだろうかと、思う。しかし、そこに姉の姿はなくさらに宗次郎の涙を誘った。その道を引き返すことなく、草むらをかき分けるように進む。ここなら、見つからない。
(死んじゃえばいいんだ!)
このまま、見つかることなく。


「おい」
小さく丸まった宗次郎の体を、太い声を発する男が揺らした。
眠気から霞んだ視界は真っ暗で、すでに日が暮れてしまっていることを知らせた。
「おい、寝てるのか?」
「…姉上…?」
宗次郎は熟睡した眼をこすった。淡い期待を抱いて見上げた声の主は、ミツでも林太郎でもない。背の高い男だった。
「もう夜だ。家に帰らなくていいのか」
「姉上…じゃない…」
宗次郎はがっくり肩を落とした。やはり嫌われてしまったんだと涙を滲ませた。
男は首をかしげながらも、宗次郎の声をしっかり捉えていたようで
「姉さんを待っているのか」
と、尋ねる。宗次郎は首を横に振った。
「家はどこだ」
「…日野…」
「日野?あんな遠くから来たのか?」
男は仰天したように、宗次郎の顔を見た。宗次郎は怖がりながらもコクンと頷いた。しばし男は声を失ったが、うーん、と後ろを振り返る。
「今から日野に帰るのは、無理だな。…よし、俺に付いてこい」
「え?」
男は宗次郎の返事を待たずに、宗次郎の腕を引っ張り立たせた。宗次郎は慌てた。
「待って、だって知らないひとにはついて行っちゃだめだって…」
姉上にそういわれている。男はふうん?と首をかしげる。
「…知らないひと。まぁそうだな。じゃあ、俺は土方歳三だ」
「としぞうさん、」
「これで知らないひとじゃないだろ」
大人の理屈に、宗次郎は反論もできず、引っ張られるまま草むらを出た。
辺りを見渡すと、確かに見たこともない土地で、自分がどちらから来たのかもわからない。男の手を振り払って、日野に帰ろうにも無事に家まで帰れる自信はなかった。むしろ、真っ暗な闇に怯え土方の腕にしがみついた。すると提灯に照らされた男の表情がはっきり見えた。まるで浮世絵に描かれるような美男子だった。ミツと同じかもしくはもう少し若そうだ。
土方は迷いもなく歩き出した。
「としぞうさん、どこに行くの?」
「江戸の市ヶ谷にある『試衛館』っていう剣術道場だ。ここからも近いし、俺の親友がいる。今日はそこに泊めてもらおう」
「しえいかん…」
宗次郎はほとんど日野から出たことがなかったので、市ヶ谷と言われても試衛館といわれてもぴんっと来なかった。すたすたと歩き出した土方を見て姉の言いつけを破るのは不本意だが、とにかく、土方について行くことに決めた。
そして不意に疑問に思った。
「としぞうさん、これなぁに」
宗次郎が指さしたのは、歳三が背負っている駕籠だった。中には宗次郎の背では、なにが入っているかわからない。
「これは薬だ。俺は薬売りでこの辺を商売して回っているんだ」
「薬…」
ザックザックと音がするのは、薬の袋の音だろう。もう数は少ないから売れてしまったのだろうか。
「そうだ、お前、なんていう名前だ」
「お、沖田宗次郎…」
「宗次郎か」
土方が繰り返すと、宗次郎はうなずいた。
「宗次郎…、長いな、宗次でいいだろ」
「そ、宗次?」
 それは誰にも呼ばれたことのない、呼び方だった。
「宗次、お前、何で日野からこんなところまで来たんだ」
 宗次郎は口ごもりながら答えた。
「…姉上に、追い出されたから……」
「追い出されたって…ああ、喧嘩かしたのか」
「喧嘩じゃない!…姉上には今度赤ちゃんができるから、宗次郎はもういらないんだって…」
宗次郎はじわっとにじみ出る涙を止めることができなかった。宗次郎の幼い思考には、ミツが急に厳しくなった理由をこう考えるほかにない。赤ちゃんが生まれるから、自分よりも可愛いから、厳しくされるんだ、と。
しかし、土方は「なんだ、そんなことか」と苦笑した。
「可愛い弟を、そんな簡単に手放すわけ無いだろ」
「…本当に?」
「ああ、俺だって今は姉上にところに居座ってるのさ。俺はさっさと出て行きたいんだが、姉上はどうやっても俺を離したくないらしい。年の離れた姉なんて、そんなものさ。お前の姉さんもきっと同じだ。可愛いから怒られる」
可愛くなかったら、きっと怒られることもない、と宗次郎の頭をくしゃくしゃ撫でる。
「宗次、お前末っ子だろ」
「すえっこ?」
「下に弟とか妹とかいないだろう」
「…うん」
「やっぱりな、甘ったれな末っ子に目がはなせられないっていうのが普通だ。まぁ俺も末っ子だけどな」
土方はクックックッと笑って、宗次郎の腕を引っ張った。
「お前も今度赤ん坊ができるんなら、お兄ちゃんになるんだろう。こんなことで家出したら、赤ん坊に笑われるぞ」


市ヶ谷というところは、本当にすぐそこだったようで土方は慣れた足取りでズンズン進んでいく。
「あそこだ」
土方が指さした先には、小さな明かりが漏れている。宗次郎の家ほどではないが、剣術道場にしてはボロボロで広さもそんなに大きくはなかった。土方は何の躊躇いもなく、玄関の扉に手をかけると
「かっちゃん、来たぜ!」
と、大声で叫んだ。
「おお、歳。やっと来たか!」
ドスドスと大きな足音を立ててやってくる人影に、宗次郎は困惑したように、土方の腕にしがみついた。
「どうした、今日は遅かった…ん?」
目の前にたった大きな男は、土方よりも少しだけ大きく、逞しい人だった。しかし、優しげな土方の面持ちとは違い、やってきた男はまるで鬼の仮面のように険しい顔つきをしていた。思わず宗次郎は縮こまる。
そんな宗次郎を知ってか知らずか、土方はその男の前に宗次郎を突き出した。
「拾ったんだ。今夜はこいつも泊めてやってくれ」
「拾ったって、お前なぁ…」
犬猫じゃあるまいし、と男は苦笑いをすると、宗次郎を見た。「名前は?」と尋ねる。
「お、…沖田宗次郎です」
「沖田…?ああ、沖田ってもしかしてあれか、井上の源さんの…」
と言いかけたところで、もう一人奥の部屋からやってきた。
「宗次郎じゃないか」
「あ、井上の伯父さん!!」
その顔には覚えがあった。何度か宗次郎の家に遊びに来ては、お菓子を持ってきてくれたり宗次郎と遊んでくれたりしていた。
「源さん、知り合いか?」
土方が聞くと、井上はにっこり笑って答えた。
「ああ、日野の沖田ミツさんところの弟だよ。私とは遠縁になるんだ」
「へぇ」
「宗次郎、どうした。姉さんとはぐれたのか?」
井上は優しく、腰を下ろして宗次郎に聞いたが宗次郎は首を横に振った。喧嘩したから家出した。なんて言ったら、伯父に怒られてしまうだろうか。
「ミツさんに言ったりしないから、ホラ、話してみなさい」
「…」
それでも宗次郎は口を噤んだままで、なにも話そうとしない。見かねた土方が
「姉さんと喧嘩したそうだ」
と、説明してしまった。
「そうか…」
何か事情を把握したのか、井上はその一言で納得して
「若先生、今日は泊めてやって頂けませんか」
と、かっちゃんと呼ばれた男に言った。男はえくぼを作って笑い、
「もちろんだ。歳が連れてきたんだ、野放しにすることはできまい」
といってくれた。宗次郎は意外とこの人は笑うと優しい顔になるということに気がついた。


このかっちゃんと呼ばれた男は、島崎勝太という人らしい。
宗次郎を連れて、客間に案内してくれた。土方は先に風呂に入ったらしい。勝太は宗次郎のために布団までひいて、試衛館のあちこちまで説明してくれた。
「明日には姉さんに迎えに来てくれるようするから、今日は心配しないで寝なさい」
勝太は優しい微笑みで、宗次郎に告げた。
「宗次郎」
「はい…?」
宗次郎は勝太と正座をして向き合った。そして少し厳しい表情になった。
「お前は武士の子だろう。武士の子は泣いてはいけない」
「…はい」
ミツと同じ言葉だった。武士の子は泣いてはいけないと何度泣く度に言われただろう。宗次郎はにじみ出る涙を必死に隠そうとした。きっと鬼のように怒られる、と思ったが、勝太はその表情を崩した。
「しかし、宗次郎。人というのはどうしても泣きたい時がある。そんなときは逃げたりしてはいけない。泣くよりも恥ずべきことは、逃げることだ。いいか、宗次郎。武士が泣くのは公方様の為だけだ。お前の姉さんが言っているのは、そういうことなんだ。いいな?」
その言葉はすとん、と宗次郎の胸に落ちた。目の前の男は出会ったことのない父のようだった。優しく、宗次郎の頭を撫でてくれる感触と優しい眼差しは見守ってくれている、母のようだった。そうだ、ミツも父のように叱り、母のように見守ってくれている。
「…はい!」
宗次郎が返事をした相手は、勝太ではなく、天国の父母だったのかもしれない。


「あ~あ、すっかり懐かれちまったようだな」
夕食を食べ終えた、土方が宗次郎の部屋をのぞいた。宗次郎は勝太の膝の中で眠っていた。
「まあな。こんな小さな子は珍しいから、俺もつい可愛くてな」
勝太は苦笑して、宗次郎の寝顔を眺めた。土方も微笑んだ。
 


 2
嘉永三年(1850年)宗次郎は江戸市ヶ谷の試衛館の天然理心流に入門する。これは一種の口減らしで、宗次郎は下働きとして入門するのだが、そんなことは宗次郎にとってどうでもいい。あの勝太と一緒にいられるだけで嬉しかった。
明け六(日の出の三十分前)には起きて、下働きとしての仕事をサクサクこなす。
そして昼からは、勝太直々に剣を教わる。その日々は決して楽なものではなかったが、勝太の言う『武士』に宗次郎はなりたかった。

そして翌年嘉永四年(1851年)宗次郎が十歳はなった。

「宗次郎、もう稽古は終わったのか?」
「はい、若先生。もう下働きの仕事は終えましたし、竹刀は三百回振りました」
にっこり笑って勝太に報告する宗次郎を、勝太はいつも感心するばかりだった。
「あの木刀を…。お前は天賦の才があるかもしれんな」
「てんぷ?」
天然理心流の木刀は、他の流派に比べて太く重い。はじめは肩を壊し、竹刀を持てないほどになる。しかし宗次郎はそんなことはなかった。あの木刀をブンブンと振り回す姿は、門下生よりも逞しく見える。
「ああ、そうだ宗次郎。今日はお前の会いたかった歳が来るぞ」
「え?!」
宗次郎は目を輝かせて勝太を見た。土方と最後に会ったのは、結局家出をしたあの日だけだった。宗次郎はてっきり、ここに入門しているのだろうと思っていたのだが、土方は実家の商いの手伝いをしており、普段は顔を見せるだけだということを聞いて少し落ち込んでいた。
しかも、宗次郎に出会ってしばらくして土方は奉公に出てしまい滅多に日野に来ることもなかった。さらに朗報があった。
「本当に?!」
「ああ。奉公をやめて、正式にうちに入門するそうだ」
「やったぁ!」
宗次郎は飛び跳ねて喜んだが、勝太は苦笑するしかなかった。
土方が奉公を辞めた理由を聞くと、宗次郎でもあきれるだろう。土方は奉公先の女中に、子を孕ませ止めさせられたらしい。とても十の子に聞かせる話ではないので黙っているが、相変わらずだなと勝太はその話を聞いたとき、情けないような懐かしいような心持ちで聞いたものだ。
「さあ、宗次郎。今日は稽古もないから、お前の稽古をつけてやろう」
「ありがとうございます!」
宗次郎は大げさなほど、頭を下げると道場に駆け込んだ。

宗次郎の気合いといったら、三町先まで聞こえるんじゃないかと思うほどだ。子供のうちに教えたのが功を奏したのか、子供はグングンと成長した。型はもう何年も天然理心流を教えられたかのようだし、度胸もある。しかし剣を放すと、子供らしい無邪気なところも多い。勝太はこの宗次郎が可愛くて仕方なかった。そしてこの勝太も末っ子である。
「えいっ!やぁぁ!!」
打ち込んでくる、一本一本が油断ならないもので、勝太は一瞬も油断をすることができない。出稽古よりも気力を使うといっても過言でもない。
(一年でこれほどまでに強くなれるのだろうか)
勝太はそれを考えると宗次郎の『天賦の才』を疑われずにいられなかった。

 稽古が終わり一息入れていた頃。
「宗次郎、宗次郎ー?!」
勝太は宗次郎の姿が見あたらないことに気が付いた。そろそろ土方が来ることを告げようと思ったのに…。
「あ、お養父さん。宗次郎を知りませんか」
勝太の養父、周斎が偶然通りかかったので勝太は宗次郎の行方を尋ねた。今は勝太に道場を任せ、隠居しているが腕はまだまだ立つ。
「ああ、宗次郎なら門のところにいたよ。歳三を待っているのだろう」
周斎は笑っていた。勝太にとって宗次郎は弟のような存在だが、隠居にとっては孫のような存在なのだろう。勝太もつられて笑った。

勝太は門のところに三角になって座っている宗次郎の姿を見つけた。
「宗次郎、もう日が暮れるから中に入りなさい。そんなに心配しなくても歳は来る」
中に入るように促し、宗次郎の腕を引っ張ったが宗次郎は心配そうに門の外を眺めていた。
「…若先生。としぞうさん、本当に本当に来ますか?」
「どうした、俺が嘘を言ったとでも?」
宗次郎は首を横に振った。
「なんだか…モヤモヤするんです」
宗次郎は、暮れていく太陽を少しだけ恨めしく思った。


土方は来なかった。
夜が来て、宗次郎は夕食も食べず待っていたのだが深夜になっても現れず結局宗次郎は何も食べず眠ってしまった。翌日、歳のことだから、と息巻いていた勝太も心配になってきたのか「探しに行くか」と宗次郎に声をかけた。しかし昼から稽古をつけてやらなくてはならなかったのでそれは後回しになってしまった。

昼になって稽古が終わったので宗次郎と勝太は、まず土方の実家に行ってみることにした。そこは宗次郎も行ったことがある、佐藤家の出稽古先だ。
土方は幼い頃に両親を亡くし、宗次郎と同じように姉に引き取られている。姉ののぶは多摩の名家・佐藤彦五郎に嫁いでいて、土方は話していた年の離れた姉というのが彼女のことだ。だから、きっと実家とも言えるこの佐藤家に戻っているだろうと思ったのだが、そこに土方の姿はなかった。姉ののぶも行方は知らないと言う。
宗次郎も落胆した。
「…全く、どこに行ったんだ、歳は…」
勝太はあきれたような顔をしているが、内心心配でたまらない。土方のことだから、きっと何かあったのだろう。

「かっちゃん!」
落胆して試衛館に帰ろうとする、二人の背後から、聞きたい声が聞こえた。
「と、歳!」
「としぞうさん?!」
後方から歩いてくるのは間違いなく、土方だった。背中に竹刀を携えている。
「久しぶりだな。ああ、こっちは宗次か。大きくなったもんだ」
土方は何もなかったように、宗次郎の頭を犬にするように乱暴に撫でた。
「それより、歳!今までどこにいたんだ」
勝太は半分怒ったように、土方に尋ねた。土方は勝太の目を見ることなく答えた。
「喜六兄さんのところだよ」
「喜六さんか…。どうした、なんか用事でもあったのか」
 喜六、と聞いて勝太の興奮は収まったようだが、土方は微笑したままだった。宗次郎も理由を言わない土方を不審に思って、グイグイとあの日のように袖を引っ張った。
「…怒られたよ。まぁ、そうだろうな。奉公先逃げ出してきたんだからな」
「歳…?」
「試衛館に行くと言ったら『お前は武士にはなれない』とさ。はっきり言われると堪えるもんだな。…てぇ、ことでかっちゃん。俺は試衛館にいけない」
「なに?!」
「え?!」
勝太と宗次郎は声を上げたが、土方は微笑したままだった。
「かなわない夢を叶えようとする前に、生活していくことを考えるさ。周斎先生にも言っておいてくれ、手間をかけたってな」
「歳!」
勝太は驚く間もなく土方に手を挙げ、パンッと大きな音を立て土方の頬を叩いた。
「かっちゃん、いてぇ」
「当たり前だ!もういい、お前が決めたのなら好きにしろ!俺は、お前と武士になるのが、夢だったんだ…」
最後の言葉はよく聞き取りにくかった。しかし、その言葉に込められた意味を察した土方は急に弱々しい表情になった。勝太は頬を思いっきり殴った後、スタスタと土方と宗次郎に背を向けた。
「え、あ、若先生…」
呼び止めることもできず、ついて行くこともできず宗次郎は戸惑ってその場に立ちつくした。横には、沈痛な面持ちをした土方が立っている。宗次郎はギュッと土方の袖を引っ張った。
「としぞうさん」
「…全く、俺も中途半端だよな、宗次」
「としぞうさん」
「お前も帰れよ。かっちゃんによろしくな…」
笑って、もう一度土方は宗次の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「…としぞうさん。一緒に試衛館に行こうよ」
「行けれるわけないだろ。宗次。」
「若先生が怒ったのは、としぞうさんが逃げちゃったからだと思います。だって若先生、私に『逃げることは武士がもっとも恥ずべきことだ』って…」
必死に取り繕うとした宗次郎を見て、土方は笑った。
「それはお前が武士の子だからだろう。俺は違う」
「そうじゃな…。武士じゃなくて、男として恥ずべきこと…っていう意味じゃないのかなぁって…」
宗次郎は、この掴んだ袖を離したくないと思っていた。土方もそれに気が付いていた。


「かっちゃん」
「歳…」
宗次郎は無理矢理にも引っ張って試衛館まで土方を連れてきた。初めは渋々付いてきていたようだが、次第に宗次郎に引かれなくてもスタスタと足先を試衛館に向けていた。宗次郎はそれが嬉しくて、歳三の腕を一層強く掴んだままだった。
「…悪かったな」
「歳…」
「俺、居座ることに決めたから。喜六兄さんに認めてもらうためにも、逃げねぇよ」
「そうか…、良かった…っ」
勝太も、一瞬笑った。一瞬笑ったかと思うと大粒の涙が目から溢れていた。
「あ、若先生!泣いてる!!」
宗次郎が指摘すると
「宗次郎、うれし泣きはいいんだ、うれし泣きは」
といいわけを作って、涙をぬぐっていた。土方も照れくさそうに笑うだけだった。
 


 3
安政一年(1854)宗次郎は12歳になり、背丈も伸びた。一方島崎勝太(近藤勇)は20。土方歳三は19。世の中を担う、年頃だった。
この年、江戸へのペリーの再航により日米和親条約が結ばれる。続いて日英和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約が結ばれた。この幕府の弱気な態度に、男たちは不満の声を上げ始める。こうして尊皇攘夷思想が芽生えていくのだが、そんな歴史の表舞台から多摩、試衛館はまだまだ遠いところにあった。


「若先生、若先生、若先生!!」
宗次郎はみっともない位の大声を出して、若先生、島崎勝太の部屋を空けた。春のある日のことだ・
「どうした、宗次郎」
宗次郎は勝太の腕にしがみついた。
「と、と、と、としぞうさんが、教えてくれたんですけど、
 異国の人間は牛や犬やブタの肉を食べて、おなかがすいたときは人間の肉も食べて牛の乳を飲んだり、赤い血のお酒を飲んだりするって、本当ですか?!」
宗次郎がものすごい形相をしているものだから、勝太は身構えていたのだがその話を聞いて唖然とした。
「…歳…」
ちょうど宗次郎を追いかけるようにして入ってきたのは土方だった。
「全く、ガキっていうのは単純だな」
にやっとからかうように、宗次郎を指さして笑った。
「う、嘘なんですか?!」
宗次郎は勝太の顔を見つめた。その顔は真剣そのものだ。
「…半分嘘で、半分本当って言うところだな」
勝太は宗次郎のしがみつく腕を、離した。
「宗次郎。異国の人間は牛やブタの肉は食べるらしいが、人間や犬は食べないよ。それから牛の乳は飲むらしいが、血の酒は飲まない」
と、教えてやると刹那安心したような顔を浮かべたが、すぐに土方をにらんだ。
「もうっ!としぞうさん、嘘ばっかりじゃないですか!」
「嘘じゃないだろ。俺は飲んだことあるが人間の血の酒って言うのは案外うまかったぞ~」
軽い微笑を浮かべると、宗次郎はもっと恐怖に身を縮ませて勝太にしがみついた。
ちなみに、この人間の血の酒というのは『ワイン』である。
「さ、宗次郎、歳は放っておいて稽古を始めよう。」
「はい!」
宗次郎は勇んで、勝太の部屋を出た。「おいおい待てよ」と土方が後に続こうとしたが「としぞうさんなんて一人で稽古してたらいいじゃないですかっ」と宗次郎にあっかんべーっと牽制されてしまった。


「歳、宗次郎をいじめるのもいい加減にしないか。」
お前だってもう19だろう、と付け足すと土方は訝しげな顔を浮かべた。宗次郎は稽古の準備をしている。
「まぁな。でも、あいつ見てるといじめたくなる」
「お前も末っ子だからな。可愛いだろう、ああいう年頃の弟は」
「可愛いなんざ思ったこともねぇ。お前は知らないかもしれないが、あいつは割と強かで、全くを持って、生意気なガキだ」
土方は、眉間にシワを寄せていた。
「知ってるか。俺がかっちゃんと立ちあうとき、あいつ、俺が打たれるたびにクスクスわらっていやがる。俺が負ければ舌を出して変な顔を作ってみせやがる」
土方が文句を言うと、勝太は腹を抱えて笑い出した。まさか、あの神聖な場にそんなことがあるとは知らなかった。
「宗次郎がお前を友達だと思っているからだろう」
「やめてくれ。あんな年の離れたガキが友達だ?そのうち下僕にしてやる」
と、土方は舌打ちをした。

土方と宗次郎のどちらが強いか、と言えばまだまだ土方の方が上だった。
土方は行商の傍ら、剣を自己流で磨いてきた。人に剣を習うのは性に合わないらしい。行商先で道場を見つけては勝負を挑んだり、稽古に参加したり…気ままに腕を上げてきた。流派にもこだわりはないので、土方の太刀筋は色々な流派が混じった土方流というのが正しい。
そんな土方でさえ、宗次郎の腕には驚嘆する点がいくつもある。
まず、その俊敏な早さだった。初めてあったときも日野から出てきた、と聞いたときは驚いた。当時八歳だった子供がこんなところまで来られるのかと。そして、その吸収力。勝太が宗次郎に指南したことは、大抵次の日に身に付いている。子供故の学習能力、といえばそれまでだが、土方はその才能に目をそらすことはできなかった。
「やぁぁっ!」
パンッと弾いた宗次郎の小手は、門下生の手から竹刀と落とすほどに強烈だった。
「…ったく、細ぇ腕のどこからあんな力を出しているんだか…」
土方もその試合を見ていてつい、呟いてしまう。隣にいた勝太は妙なことを言い出した。
「…なぁ、歳。俺は宗次郎には・・百年に一度、いや、それ以上の天賦の才が備わっていると思う。歳、お前はどう思う」
「どう思う…ってなぁ…」
宗次郎は土方にとって『生意気なガキ』という対象でしかない。剣の腕は認めるが…それを素直に勝太に伝えるには、土方の性格は少しねじ曲がっていた。
「あいつは生意気なガキだよ」
「…そうか」
勝太は微笑した。

「としぞうさん」
稽古が終わり汗をかいた土方は、井戸で体を洗おうとしていた。
「なんだ」
宗次郎は汗をぬぐいながら
「としぞうさん、私と勝負してください」
と笑っていった。土方はぎょっとして、
「断る!」
と思わず大声で言ってしまった。そして水で濡れた手ぬぐいを固く絞って、体を拭き始めた。
「どうしてですか。若先生だってとしぞうさんと相手してもらうのが一番いいって言ってたんですよ?」
宗次郎は土方の体を揺すったが、土方は無反応のまま体を拭くままだった。
「あ、もしかして私に負けるのが怖いんですか??」
宗次郎は上目使いで、土方を見つめた。土方はギロっとにらんで
「んなわけねぇだろ」
と、怒鳴って見せたが慣れている宗次郎は恐がりもしない。
「じゃあ決まりですね。試合、今からしましょうよ。今は道場開いてますし誰もいませんよっ」
「わかったから、先に行って待ってろ」
「はいは~い」
宗次郎は跳ねるようにして、道場へと戻っていったが、土方には後悔が残るだけだった。もし、ここで負ければ宗次郎に一生馬鹿にされるだろう。そんなことはもちろん土方のプライドが許さない。


「じゃあ、一本でも先取した方が勝ち。時間制限はなし。これでいいですか?」
「ああ」
こういうことになると、宗次郎は意外にしっかり者だ。土方が仕切る間も与えない。
「じゃあお願いします」
「ああ」
ぶっきらぼうに返事をしたのだが、宗次郎はにっこり笑った。
竹刀を重ね合わせると、宗次郎の目つきは変わる。まるで猫が獲物をねらうかのように、凶暴な目つきをする。その姿は自分の世界に入ってしまったかのようなものだった。この眼に吸い込まれると、そこで終わりだった。
土方はなるべく気にしないようにして、宗次郎の剣先にだけ集中した。
「やぁぁっ!」
宗次郎が自慢の気合いを披露する。打ち掛かってきて、まず胴をねらうのは宗次郎の癖だった。土方はギリギリのところであしらうと、宗次郎の次の太刀をうけた。
ギリギリと責めてくる間合いは、危険だった。土方は間合いをとるべく、宗次郎から離れた。宗次郎も一歩下がると、体勢を元に戻した。ちらりと見えたその眼は変わらないままだった。
「やぁぁぁ!」
次にねらったのは小手だろうか。何の技もかけずに土方の竹刀をねらっていた。まっすぐに突き進んでくる。
「…っ!?」
と、その瞬間、宗次郎の体が崩れ土方の目の前で倒れた。そして土方はその竹刀を宗次郎の面に叩きつけた。

「と、としぞうさん!!」
宗次郎は怒って土方の顔を睨んだ。
土方はあの、宗次郎が小手を狙って打ってきた瞬間に自身の足を出し、宗次郎の足に引っ掛け、宗次郎を転けさせたのだった。もちろん稽古でそんなことは教わっていないし、試合ではかけられたこともない。
「卑怯ですよ!そんなの!」
「馬鹿野郎。これは勝負だって言ったのはお前だろ。道場ではそんな礼儀に習って試合をするのかもしれねぇが、本当の勝負は道場の中じゃないだろう。斬りかかってくる敵が礼儀に沿った剣を振るうと思うか?人を斬るための手段なんか、いくらでもある。」
土方の実践的な理論に、宗次郎は開いた口が塞がらない。
「よく覚えとけ。道場でやることだけが実際に使えることばかりじゃない」
土方はポンッと宗次郎の頭を叩くと、スタスタと道場を出て行ってしまった。土方が言うことはきっと正しい。正しいのだろうが…
「そんなの、言い訳じゃないですか!!」
叫んだ声は、土方に届いたやら、届かなかったやら。

「宗次は生意気なガキだろ」
土方は勝太に念を押すように言った。勝太は首をかしげた。



 4
安政二年(1855)一月。宗次郎は13。勝太は21,土方は20になった。
雪の降る多摩では近所の子供たちが走り回っている。試衛館の周りにも大きな雪だるまが並んでいた。
宗次郎はまだ13。遊び盛りの年頃で、近所の子供たちと遊んでいる。その様子を縁側から見ている勝太、土方は微笑を隠しきれない。

「おい、宗次、宗次ーっ」
土方が呼ぶ声は、試衛館の庭に響いた。
「なんですか、歳三さん」
宗次郎がひょっこり顔を出すと、その顔はすぐにギョッとしたような顔になった。
「またその格好ですね!これから吉原とか言うところにいくんでしょう?だめですよ、若先生が怒ってたじゃないですか」
土方の格好は袴もつけておらず、軽装をしていた。その格好はいつも「よしわら」に行くときの格好だった。
最近馴染みの女ができた土方は、日を置かず吉原に通っていた。女には朴念仁な勝太は足しげく通う土方に「あれくらい稽古に精を出してくれていたらなぁ」といつも呟く。そうすると自然と宗次郎も小言を言いたくなってしまうのだ。
 しかし、今日は展開が違っていた。
「じゃあお前も来るか?」
「え」
宗次郎はぎょっとした。宗次郎の知識の中には、吉原という所が女の人と遊ぶところ、という知識しかない。だから江戸一の遊郭で、男と女がなにをするか、というのはもちろん知らない。ただ宗次郎は女というものと関わりはない。姉のミツ以外に、周りに女性はいなかったし、試衛館に来ても周助先生の奥方ぐらいしかいなかった。
「ああ、そうだ。そうだな。お前もう十三だろう。女と少しは遊んだ方がいい。これも『修行』ってやつだからな」
含みのある笑いをした土方が、宗次郎の腕を引っ張った。
「えっ、ま、待ってください!イヤです!」
宗次郎の必死の抵抗にもかかわらず、土方は強制的に宗次郎を吉原に連れて行くことを決めた。

宗次郎はこの頃、土方の顎ほどに身長は高くなっていた。まだ元服はしておらず、月代は剃っていない。しかし、その方が似合うだろう。宗次郎の髪の毛は細く、女のようだった。きっとミツに似たのだろうと源さんがいっていた。
土方は数年前、家出をした宗次郎を迎えに来たミツを見たことがある。ミツは凛とした、気品の高い女だった。武士の娘とはこういうものか、と土方が納得するほどだった。そのミツに旦那がいると聞いたときは少しだけ落胆した記憶もある。
土方が認めるほどの美しい女性の姉を持つ、弟が不細工なはずがない。母、または姉に似たのか目鼻がはっきりした顔立ち。試衛館の中できらきらと輝いているように見えた。

 目前が吉原という頃。
「宗次、なんだ、緊張しているのか」
土方がからかうように笑ったが、宗次郎はそれどころではない。
「本当の、本当に行くんですか?」
「本当だ」
「よ、吉原って女の人と遊ぶ所なんでしょう?」
宗次郎がおそるおそる聞くと、土方は感心したように宗次郎を見て
「なんだ、知っていたのか」
と、頭をかき撫でた。宗次郎は「もう!」と土方から少しだけ離れた。
「知らないことがあれば教えてやるぞ。吉原ってのはなぁ…」
と、土方が吉原について語ろうとしたところで、二人の足が止まった。前方から大きな悲鳴が聞こえたからだった。
「なんだ!」
「いってみましょう!」
二人は勇んで、その悲鳴のあった方に走った。

そこには死体があった。
宗次郎よりも一歩先に着いた土方は、後を追ってやってきた宗次郎の目を覆った。まだ死体を見せるのは、早いだろうと判断したからだった。しかし、宗次郎は暴れて
「な、なんですか!土方さん!」
と、眼を隠した土方の手を必死に引きはがそうとする。
「馬鹿。ここにあるのは死体だ。今日のお前の夢に出てきてもしらないぞ」
と、土方が忠告すると宗次郎はおとなしくなった。
「なんだ、全く物騒だなぁ」
「どうやら、吉原の芸子だそうだ。可哀相になぁ」
「辻斬りだろうか…」
人々が噂する中、死体は役人によって引き取られ、その場はとにかく収まった。
「…歳三さん?」
宗次郎は土方の様子がおかしいことに気が付いた。何か考え事をしているのか、宗次郎に問いかけにも答えない。しかし実際は吉原から土方の足が離れていくことに、少しだけ喜んでいたのだが。
「歳三さん」
「うるせぇ、宗次。黙って歩いてろ」
身勝手にそんなことを言われ、宗次郎はふてくされながら横を歩いた。


「ふうん、そんなことがあったのか」
夕餉の時、勝太は興味をそそられるわけでもなく、聞いていた。
宗次郎は吉原に行かず済んで良かった、とは思っているのだが土方の様子がおかしいことが気に掛かって仕方ない。空気は重苦しく、夕餉の箸もあまり進んでいないようだ。ついには、箸を手元に置いてしまった。
「…それで、だ。かっちゃん。その殺された女。俺の馴染みだったんだよ」
「え?!」
勝太は橋で掴んでいた、卵焼きをポトッと皿に落とした。宗次郎は『馴染み』の意味がわからず、首を傾げている。
「それで、お前と関わりがあるのか?!まさかお前…っ」
「大丈夫だって。俺には関係ない」
勝太は思わず大声になって聞いたが、土方は冷静に答えた。
「ねぇ…はずだ。まぁたいそう美人な芸子だったからな。恨まれでもしたのか…。最近妙な浪士が屯していることも多いから、なんともいえねぇが…だがな、かっちゃん」
「なんだ」
「斬り口があまりにも綺麗だったんだよ。…不謹慎だとは思ったがな」
「…なかなかの、使い手ってことか…」
勝太も黙り込んでしまった。
そして。宗次郎はというと、その話題に全く入っていけず、今は夕食の焼き魚を毟るのに懸命になっていた。今日の魚は骨が多くて困る。
「まぁ、関わる気はねぇよ。かっちゃんも忘れてくれ」
土方は宗次郎の様子を見て。まじめに考えていた自分が馬鹿らしくなったのかそんなことを言った。
「まぁ、信じてるさ」
勝太も、落とした卵焼きをほおばった。
「おい、宗次。お前不器用にもほどがあるぞ」
と、いうと土方は宗次が奮闘していた焼き魚をひょいっと取り上げ、口の中に入れてしまった。
「ああああ!!」
宗次郎は大声を出したが、土方はごくんと飲み込んだ。
「ほ、骨がやっと全部とれたのに…!」
涙ながらに訴え、土方の魚を見るがそこに姿はなかった。


その芸子が斬られた事件はその後、試衛館にも伝わった。この事件がきっかけで吉原への客が少なくなったという。しかし、そんな噂も七十五日。噂が消えようか、という頃。また多摩に雪が降った。大粒の雪は、降り積もり、辺りに雪の層を作り出していた。
宗次郎は誰よりも先に起きて、試衛館の雪を踏んだ。第一歩を土方よりも先につけておくのが宗次郎の冬の秘かな目標だった。キシリ、キシリと鳴る雪の音が心地よく宗次郎は雪を踏み続けた。そのうち土方が起きてきて
「なにしてんだ」
と、話しかける。長い襟巻きをした宗次郎はにっこり笑って
「秘密です」
と、べーっと赤い舌を出した。土方はむっとしたが、堪え、
「お前、暇だろう。もう炭がない。買いに行くか」
炭は冬の必需品だった。それがないと冬は越せない。雪ですっかり冷え切っていた宗次郎は大きくうなずくと、玄関で土方と待ち合わせして町へと出かけた。


「お前、その襟巻き大きくないか」
「若先生の昔つかってたものをもらったんです!」
と、嬉しそうにいう宗次郎に土方は何故か舌打ちをしてしまった。しかし、目の前の光景にすぐそのことを忘れてしまった。
町がそろそろ見えるか、というころ。目の前に刀を持った男が三人立っていた。もうその刀は抜いていて明らかに宗次郎たちを睨み付けている。
「…なんだ、」
土方がギロッと抜刀した浪士たちを睨むと、浪士たちはにらみ返すように
「土方歳三はお前か!」
と、近所迷惑なほどの大きな声で叫んだ。土方は堂々と答える。
「ああ」
「…吉原の芸子、雅(みやび)はしっておろう?」
「ああ」
返事をすると、刀を土方に突きつけた。
「雅がな、言ったのさ。もう歳三様以外にお相手はできません、とな。」
「ほぉ、そりゃ名誉なことだな。だから、斬ったのか」
歳三は素早く自身の刀を抜くと、打ち掛かってきた一人目の男を峰打ちで胴を払った。峰打ちだと気付かない男は、どさっと宗次郎の目の前で倒れた。
「宗次!お前は向こうに行ってろ!」
土方の怒鳴り声に、宗次郎はそそくさと、雪の深い方に逃げた。二人目に斬りかかってきたのは、さっきから土方に話しかける男。その男が主将らしい。刀を打ち合うと、土方は思いっきりやつの腹を蹴飛ばした。雪に倒れた男は、土方の突き出す刃先を受けた。
「馬鹿め。あの女はいいのか」
「女…?」
土方は疑問に思った。吉原に馴染みの女は確かにいるが、そこまで趣味が一緒だったとは思えない。
「どいつのことだ?」
「お前が今、名前を呼んだ女じゃないか」
キンッという音と共に間合いをとって土方は考えた。
今、名前を呼んだ…。
「歳三さん!」
後方から宗次郎の叫び声が聞こえた。土方は振り返った。
宗次郎の首には刀が突きつけられている。もう一人の男が、苦し紛れにとった行為だろう。
それにしても、女と見間違われるとは思わなかった。土方は笑いを堪えられない。
「…てめぇも女を見る目がないな。雅は確かにいい女だったが、人を見る目がなかったのが運の尽きだったんだろうかな」
「なに?」
「一応言っておく。今お前の仲間が捕らえてるあのガキ。あいつは男だ」
「…え?」
目の前の浪士は、まるで刀を落とすかのように力が抜けたようだった。
「それも、試衛館一の使い手だ」
土方は腰に差していた脇差しを宗次郎の方に投げた。
「しっかりやれよ!」
にやっと笑った土方に、宗次郎も
「はい!」
と大きく返事をして脇差しを受け取った。
宗次郎は脇差しを抜くことなく、刀を突きつけていた男の腹に力一杯脇差しを刺した。急所をついたのか、男はガクッと倒れ意識を失った。
「…さぁて、どうする。逃がしてやってもいいがな。」
男はひぃひぃと、その場から立ち去った。


「それにしても、お前、女と間違われるとは情けねぇな」
「そ、そんなの私のせいじゃないです!」
宗次郎は炭を買った帰り道、ずっとふてくされて歩いている。
「それにしても、お前。意識をなくす急所ってのはどこなんだ」
土方にとってこんな小さな子供に、一瞬にしてやられたあの浪士が気になっていた。宗次郎が大層な技を使ったようには見えなかったし、…と、いうより宗次郎がどこの急所をついたのか。それが気になっていた。
「…急所、っていうわけじゃないですけど。腹を脇差しで、突いてやったら倒れ込んじゃって。それでも意識があったから………………アソコを思いっきり蹴ってやったんです…」
「…なるほど」
土方はそれ以上、聞くことを止めてやった。
顔を真っ赤に染めている。土方はどんなに技が優れていてもやっぱり宗次郎は子供だと、確信した。



 5
試衛館の近くの桜の木が満開になった。安政二年春。

「若先生、若先生、わかせんせい~~!!」
試衛館の古びた廊下を、ドタドタと走り、勝太の部屋を勢いよく宗次郎が開けた。
そこではちょうど勝太と土方が囲碁をしていた。
「なんだ、宗次郎?」
「うるせぇな」
土方は不機嫌そうに言った。きっとまた囲碁に負けているのだろう。土方は勝太に囲碁では負けるが、将棋では負けたことがない…と、自慢していたような気がする。だが、宗次郎にはそれよりも火急の用件があった。
「若先生、大変です。お客様が…」
「お客?」
「おっきな、男の人が若先生を呼んでくれって…」
「なんだぁ?道場破りか」
「とにかく、行ってみよう」
囲碁をそのままにして、三人は宗次郎を先頭に玄関へと向かった。


「ああ、これは桂先生」
勝太はその客人を見た瞬間、安堵の息を漏らした。
「ご無沙汰ですな」
桂、と呼ばれた男は勝太に愛想笑いを浮かべた。
土方はその男の愛想笑いを、軽く舌打ちして流した。そして宗次郎を連れて元の部屋に戻る。
「歳三さん、さっきの人は…」
「練兵館の桂小五郎だ。一度位見たことがあるだろう。よく助太刀にくる男だ」
「あ!」
宗次郎の脳裏に浮かんだのは、先月の試合でのことだった。
先月試衛館へと勝負を挑みに来た男を外見から「強そうだ」と判断した勝太は
練兵館に助太刀に井上源三郎をやった。本来ならば、その道場の道場主や塾頭、門下生が相手をすればいいのだが、もしも道場主が負けたとき、その道場の看板を持って行かれる。そうなれば、その道場の名誉に傷がついてしまう。最悪、道場自体をたたんでしまうことにもなりかねない。
そうならないために、他の道場から腕の利く男を連れてきて相手をさせるのだ。
試衛館のような小さな道場では仕方がないことだが、土方にとっては気に食わないことだった。試衛館はとくに練兵館に助けを求めに行くことが多かった。その中で、確か先ほど訪れた桂小五郎とか言う男もやってきたことがある。
「…いけ好かない野郎だ」
土方は宗次郎にも聞こえないような小さな声で、呟いた。
「でも今日は別に助けを呼んだ訳じゃないのに…?」
宗次郎は不思議そうに首を傾げると、土方は「ばかか」と言わんばかりに鼻で笑った。
「ふん、どうせ見せしめだろうよ」
宗次郎はその言葉の意味もわからず、もう一度首を傾げた。


「歳、宗次郎、」
勝太が部屋に戻ってきたのはそれから四半時ほど後のことだった。桂が退席した様子はない。
「で、なんだったんだ。桂サンは」
「それが…」
勝太はちらっと宗次郎の方を見た。
「宗次郎を…練兵館に引き取らせてくれないか、とな」
「はぁ?!」
大きな声を上げて、土方は持っていたお茶をあやうくこぼしそうになった。宗次郎も訳もわからず、勝太の顔を見ていた。
「いや、もちろん断ったんだが…。こういうのはお義父さんが決めるものだからな。
今、義父さんの所に行ってるよ」
勝太は少しばかり疲れたような顔をした。よっぽどしつこく言われたのだろう。急に土方は不思議に思った。
「なんでったって、宗次がほしいんだ。別に普通のガキだろ」
「それが、お前が先日炭を買いに行くときに出くわして奉行所に届け出たことがあっただろう。あの場面を練兵館の門下生が見てたようでな。その時に宗次郎のことが練兵館に伝わったらしいんだ」
先日の、というのは土方の馴染みに芸子、雅が殺されたという事件のことだった。町に近かったため、野次馬は確かにいたが二人は全く気にとめていなかった。
「ったく。面倒なことになったな」
土方はあからさまに嫌な顔をした。宗次郎は急に心配になって
「私は練兵館に行かなきゃいけないんですか?」
と、勝太に尋ねた。勝太は宗次郎を安心させようとにっこり笑って
「まさか。そんなことはしないさ。宗次郎は大切な門下生だからな」
勝太がそういうと宗次郎も一安心した。

しかし、話は段々と大きくなってしまったらしい。桂は強気に周斎に圧力をかけた。練兵館には日頃助けてもらっているので周斎もはっきりとは断れなかったのだろう。桂はしつこいことに、客間に居座って返事を聞かせて頂かない限り、帰らないといい試衛館に居座っている。

「おい、あんた」
周斎と勝太が話し合う中、土方は客間を尋ねた。桂はじっと正座をして目を瞑っていた。
「ああ、君が土方君か。噂には聞いているよ」
桂は無表情のまま土方にそんな相槌を打った。(どんな噂なんだか)と土方は桂の目の前にドンっと座った。
「悪いが、帰ってもらえるか。残念ながら宗次を練兵館に渡すことはできねぇ。あいつはここにいることを望んでいるからな」
試衛館が感じている練兵館への引け目を全く無視し、土方は喧嘩を売るように言った。しかし、桂は薄く笑い、
「そんなことはどうでもいい。ただ沖田君を一流の剣士に育てるのなら練兵館で 学んだ方がいいと言うことです。それが何よりも沖田君のためになるのですから」
「残念だが、試衛館でも一流の剣士は育つ。かっちゃん…近藤だってだって誰にも負けたりしねぇ。てめぇみたいな男に宗次を育てるつもりはない」
きっぱりいいきると、桂はその鋭い目でギロッと土方を睨んだ。
「…それが証明できますか。こんなボロ道場で。」
本音、というのがそれだろう。所詮試衛館はそんな対象でしかないのだ。土方はそう悟ると、この桂という男が大層憎く思えた。
「…いいだろう、証明してやる」
土方は挑戦的な微笑を浮かべた。

 場所は道場に移動した。
「だから、何でこんなことになるんですか…」
宗次郎はあきれた眼で土方を見たが、土方の不機嫌そうな顔はちっとも変わらない。何故か桂と試合をすることになった宗次郎は、ぶつくさ文句を言っていた。
「お前は俺を信じてりゃいいんだよ」
土方はそんなことを言うが、宗次郎には理解できない。防具を身につけ、竹刀を握らされるともう逃げ場はない。
目の前に立つ桂は近藤よりも少しだけ背が低い。そして竹刀をあわせると、その神進無念流らしい特徴が見られる。練兵館で一番の使い手は、この桂小五郎だ、と聞いたことがあった。流派にそった忠実な型で、まるで隙がない。端で見ている土方はもちろん、勝太も心配そうにその試合を見守る。
「いぃやー!!」
桂の気合いと共に、宗次郎の面が打たれそうになるが宗次郎は寸前のところでそれをかわす。桂も宗次郎の俊敏な動きに驚いている。
「これは、ますます…」
桂が呟いたその一言に、土方はむっと眉間にシワを寄せた。もしかしたら、逆効果だったのか…。
しかし今更後戻りはできまい。
頼むから、勝て。と今は祈るだけだった。
「いやーっ!!」
桂の気合いと共に、宗次郎の面がまたもや狙われる。宗次郎は途端に身を屈めた。
――危ない、
土方はそう感じ、身を乗り出した。
しかし、宗次郎はそこまで簡単に面を割られることはない。
身を屈めると、桂の足に足を引っかけ桂をつまずかせた。その瞬間にできた隙をみて桂の小手を狙った。しかし桂も宗次郎の突きにできる隙を狙い胴を払った。
――その瞬間は同じだった。
「あ、相打ち…!」
勝太は口を開けたまま、ポカンとしている。今、宗次郎の竹刀は桂の面に辺り、桂の竹刀は宗次郎の胴に当たっていた。
「…ひ、卑怯ではないか。試合にも作法というものが!」
宗次郎の実践向きとも思われるその行為に、桂は激怒したが、面をはずした宗次郎は至って冷静に、
「でも剣は実践でのみ役立つものですから。道場の作法なんて結局は道場の中だけで使うもので、何にも役には立たないんですよ?私はそういう剣術をここで学んだんです」
と、どこかで聞いたことのあるような台詞を言った。土方は、腹を抱えて笑いを堪えている。桂はむっとしているがそれに反論できず、おとなしく面をはずした。
「…仕方ない。沖田君はあきらめよう」
と、桂がおとなしく負けを認めたのは、宗次郎に本気で激怒した大人げない自分への戒めだったのかもしれない。
試合の後出される菓子にも手をつけず、桂は小走りで試衛館を帰っていった。


「大活躍だな!宗次郎!」
勝太は大喜びで宗次郎を抱きしめ、桂に出すはずだった菓子に大福を宗次郎に二つやった。宗次郎は単純にそれを喜び、ほおばっている。勝太もよほど試衛館の門人が練兵館の桂を倒したのが嬉しいらしい。土方が思っている以上に、勝太も歯がゆい思いをしていたのだろう。
土方も微笑を携えたまま、塩豆をかじる。土方は素直に宗次郎を褒めるでもなく、ただ見守るだけだった。


 6
安政四年(1857)、宗次郎が15、勝太が23、土方、22となったとき。
勝太は天然理心流免許を与えられた。免許ともなると、もう立派な剣士ともいえる。


「改名?」
土方が訝しげに、嬉しそうな勝太の顔を見た。
「そうだ、この間免許をいただいたからそろそろ近藤家の跡取りとして改めようと思う」
宗次郎と違って農民の子供に産まれた勝太は、そのころ宮川勝五郎といった。日々の稽古に励み上達する勝五郎のその才能に目をつけた周助が勝五郎を養子にした。それが嘉永二年(1849)のことだった。それを機に、勝太と改め天然理心流の道場主になるまでは取り敢えず周助の旧名『島崎』を名乗っていた。これは周助の妻、ふでの提案だった。ふでは勝太のことをあまりよく思っていなかった。大人になった今はそうでもないが、養子に入った頃はよく虐げられていたらしい。
免許を得て、道場主として認められつつあるこの機会に改名をしようと言い出したのだ。
「かっちゃんってのは結構呼びやすくていいんだけどな」
土方が将棋を差しながら言った。
今日の情勢は土方が有利だった。土方が言うには『軍隊動かすのと同じだ』とか。
「まぁ、なんか呼びやすいのがあったら教えてくれ。それより宗次郎はどうしたんだ、今日は顔を見ないな」
「ああ、宗次なら道場だろ。あいつももう中極位目録。次はかっちゃんとおなじ免許だ。ったく、あんな才能はどこから生まれたんだか」
土方はふん、と拗ねたように言った。勝太は吹き出して笑い、
「歳はまだ序目録しかもらってないからなぁ。まぁ悔しいのはわかるが」
「悔しくなんかあるか、」
土方がパチンッと将棋を差した。


宗次郎は道場の近くの庭で、近所の子供たちに剣を教えていた。その辺の枝をとって、竹刀代わりにしてブンブンと振ってみせる。子供たちがやりたいといえば、手を添えて型を教えてやる。宗次郎に寄ってくる子供の数は、もう十人以上になる。
宗次郎、十五。もう青年とも言える年頃なのだが、一番楽しいのは稽古と、子供と遊ぶことだった。
「ほら、君次郎。手が逆だよ」
「ねー宗次郎、これでいい??」
「もっと腕を伸ばして。ああ、ほら。ここが曲がってるよ」
「宗次郎ー、鬼ごっこしよう」
子供たちが口々に言う要求に一つずつ応えるのは至難の業だが、それが楽しかった。
そんな少し大人になったとも思われる宗次郎だが、試衛館の中では相変わらず子供扱いだった。それを不満に思い始めるのもこの頃からだった。

「ああ、宗次。ちょうどいい頃に来たな」
宗次郎が子供と一緒に遊んだときにでた汗をぬぐっていた井戸に、土方がやってきた。土方は庭で木刀を振っていたらしい。
「ったく、子供と遊んでいるんじゃあお前もまだまだ子供だな」
「また『子供』ですか。私だってもう15なんです。」
宗次郎は口を尖らせたが、土方は見向きもあせず井戸の桶で水をくんだ。
土方との背丈の差はまだ少しあるが、宗次郎も少し背丈が伸びて成長した。精悍になりつつある年頃のはずだが、肌も白くて細い。さすがにもう女に間違われることはないのだが、『美少年』に成長したな、と土方は思う。ますます姉のミツに似ているような気がする。ミツはちょくちょく試衛館にやってきては宗次郎の成長に驚いている。傍にいる土方や勝太でさえも驚くのだから、久々にあった弟を見たミツはさぞびっくりするだろう。
「もう15、な。まだ、十五だろう。まだ色恋もしらねぇくせによく言う」
「う、うるさいです!そんなこと知らなくても私は剣だけで生きていけるんですから、いいんです」
プンッと宗次郎は顔を逸らしたが、土方はこれも気にせず桶に張った水に手ぬぐいをつけた。
「つまんねぇ人生だなぁ…。まぁそんなことはいい。後からかっちゃんの部屋に来い。大事な話がある」
「若先生の部屋?」
宗次郎は去っていく土方の背中を見送った。


「新しい名前…ですか」
宗次郎はキョトンッとした顔で、勝太の顔を見た。
どんな大事な話かと思って、興奮しながら部屋に入ったのだが少し拍子抜けしていた。しかしこれは確かに重要だとも思った。
「『つよし』とかどうだ」
土方は言った。
「…つよし、ってそのままじゃないか」
勝太は苦笑した。
「ったく、文句言うなよな…。宗次、お前はなんか無いか」
宗次郎はう~んと、首を傾げた。
「太郎?」
「太郎はないだろ」
土方は苦笑、というよりあきれた顔で宗次郎を見た。宗次郎はまたむっとした。
「…はじめ。」
「一…うむ、簡単すぎないか」
勝太はぴんと来ない、という表情だった。
その後も『勝太郎』とか『一丸』とか、『強次郎』とかいう名前がでたが、勝太の表情は冴えないままだった。宗次郎も考え込んでしまった。
「ったく、じゃあ勝太のままでいいじゃねぇか」
土方は飽きてしまったのか、そんなことを言った。勝太はふぅっとため息をついて
「そんなわけにはいかん。もうお義父さんにも言ってしまったしな…」
「考える前から言ったのか?!馬鹿だなぁ…」
土方はガクッと肩を落とした。勝太も言い返すことができない。
宗次郎はポンッと手を叩いた。
「いさむ!いさむがいいです!!」
「いさむ…?勇気の勇という字か」
「いいじゃないか、歳」
若先生の嬉しそうな表情に、宗次郎もつられて笑った。土方は文句を言うように
「いさむ、じゃあ面白味がねぇ。いさみ、にしないか」
「いさみ…、いいな、それにするか」
勝太は大きく頷いた。宗次郎はふくれっつらをつくった。


「何怒ってんだ」
土方は勝太が出て行ってしまった部屋で、宗次郎と向かい合った。勝太は義父、周助のところに報告に行ったらしい。勝太が部屋から出て行ってから、宗次郎は無言で怒った表情をしている。
「歳三さんって私のこと嫌いなんですか」
「は?」
宗次郎はキッとと土方を睨んだ。
「私がせっかく『いさむ』っていう名前考えたのに、どうしてそれを変えるようなことをするんですか?!」
何を言い出すかと思えば、宗次郎はそれが悔しかったらしい。
「別にお前のことを意識した訳じゃねぇ、いさむ、よりもいさみ、のほうがしっくりくるから言っただけだ。お前、勘違いしてんじゃねぇ!」
土方が怒鳴ると、宗次郎は身を小さくしたがすぐに土方につかみかかった。
「…どうせ、私のことを子供だからって思ってるんでしょ!私の意見位一人前に聞いてください!」
宗次郎は土方の胸ぐらにつかみかかった。
「お前、いい加減にしろよ!勘違いもいいとこだ、馬鹿!」
土方は乗りかかっていた宗次郎を、畳に押し倒した。宗次郎は身が軽い。畳に押さえつけられると、もう動くことはできなかった。両手を頭の上に固定され、十分に動くことさえままならない。
「お前は子供だ、まだ十五で、人を殺したこともない。」
「人を殺せば大人になれるわけじゃないです!歳三さんだってまだ人を…!」
「殺したことくらいあるさ」
土方は急に冷たい顔になった。宗次郎は言葉を失った。そんな答えを予想していなかったからだ。
「お前は結局何も知らないガキなんだよ」
「っ、ガキガキ言わないでください」
宗次郎の目に微かに涙がこぼれた。悲しいのではなく、悔しさから来る涙だった。
しかし土方はそんな涙もまともに見ず、
「自分が大人なんだと思うなら、俺をこの体勢から退かせてみろよ。」
土方がからかっているのだ、と思った宗次郎は、両手は不自由になっているので両足で土方の太股当たりを蹴った。しかし土方は少しも動ぜず、宗次郎を見ている。
宗次郎は頭の上にある両手から土方から逃れようとした。しかし土方の片手に収まっている宗次郎の両手は、しっかりと捕まれていて離れることができない。
「っ」
「ほら見ろ、お前はまだまだ子供なんだ、背伸びばっかりしてんじゃねぇ」
「こ、子供子供言わないでください!私だって早く若先生の役に立ちたいんですから…!」
「かっちゃんの?」
宗次郎がポロポロと泣き出した。手は固定されているので涙をぬぐうこともできずポロポロと泣いている。
「若先生はなにがあっても相談するのは歳三さんだし、私のことなんて、子供だと言って頼ってくれない。剣は歳三さんよりも上なのに…頼りにしてるのは歳三さんなんです…!」
 八つ当たりのような宗次郎の言い分に土方はあっけにとられた。
「…お前、それが悔しくてこのところ怒ってばっかりなのか?」
宗次郎は少し沈黙したあとに、コクンと頷いた。土方ははぁとため息をついた。
そして固定していた両手を離してやった。
「お前、よく考えればわかるだろう。改名って言う大事なときに頼りにならない弟子をわざわざ呼んだりするわけないだろう。」
「え…」
宗次郎はゴシゴシ涙をぬぐった。
「ちったぁ頼りにされてるんだ、自覚持てよ。まあ、俺ほどじゃないけどな」
と、土方は宗次郎の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ま、また子供扱い」
「色恋もしらねぇやつは、大人とはいわねぇ」
宗次郎はプッと笑った。
「それ、歳三さん論でしょう?」
まぁそんなところだ。と土方が答えると宗次郎はクスクス笑った。土方はむっとして、宗次郎の顔をグイッと引っ張った。
「な、なんですか!」
「大人への第一歩だ、よく味わえよ」
土方はにいっと笑うと、宗次郎の唇に自分のそれを合わせた。
「ん?!」
宗次郎はバタバタと手足を動かしたが、ぴったりとくっついた土方の唇は離れず息は苦しくなるばかりだった。

「…し、し、信じられません!!!!!!!」
宗次郎はゴシゴシと自分の袖で、唇を感触が無くなるまで拭いた。土方はからかうように笑って
「バーカ、だからガキなんだ、お前は。色気もなんもねぇ」
と、指を差して笑う。宗次郎は口をパクパクされたまま、反論することができなかった。

こうして、『島崎勝太』から『島崎勇』へと勝太は改名する。



 7
安政四年の夏は厳しく、炎天下の中の稽古はつらい以外の何者でもない。今日は勝太、改め勇が出稽古に出かけ試衛館に残ったのは宗次郎と土方だけだった。

「若先生は大変だなぁ。こんな炎天下の中、出稽古だなんて…」
宗次郎は手に持った扇をパタパタと自分に向けて仰いでいる。
「試衛館はボロだから、風通しはいいだろ」
土方は微笑を持ってそんなことを言っている。きっと冗談なのだろう。宗次郎もつられて笑った。そして「今日は暇だなぁ」と、庭を見た。
「水浴びでもするか」
土方が宗次郎に声をかけた、宗次郎はにっこり笑って大きくうなずいた。男ばかりの試衛館だから、裸になって叫ぶのは周斎の妻ふでくらいだろう。そのふでも出かけているから、今日は水浴びの絶好の機会だ。

袴を履いた状態で上半身だけ脱ぐと、少しだけ涼しい。宗次郎、土方の二人は桶で水をくむと自身の体にかけた。地下で冷えた水は、気持ちいい。
「次は俺の番だろ」
といって土方は桶を奪った。宗次郎は濡れた上半身をてぬぐいで拭いた。
が。
バシャンっと水しぶきと共に、宗次郎の頭から水がしたたり落ちた。土方が桶に入った水を宗次郎に丸ごと掛けたらしい。宗次郎は上から下までびしょびしょだった。
「と、歳三さん!!」
怒って土方をポカンッと殴るが、土方がダメージを受けている様子はない。宗次郎は近くにあった小さな桶を持ってきて水をくみ、仕返しとばかりに土方に水を掛けた。ちょうど背中越しで、宗次郎の行動が見えてなかった土方はその水をさけることができず宗次郎と同じように、上から下まで水で濡れた。
「宗次!!」
「歳三さんが先に手を出したんでしょう?!夏場だからって冷えて…」
宗次郎がすべての言葉をはき出す前に、土方は桶に汲んであった水を真正面から
宗次郎に被せた。
「と、歳三さん~!!!」
クックックッと宗次郎を見下して笑う土方に、宗次郎はむっとして井戸の桶を汲もうとした。しかし
「あの、」
と、声を掛けられ宗次郎の敗北ですべて終わってしまったのだが。


声の持ち主は、土方よりも少しだけ大人に見える、刀を差した男だった。穏やかそうで、紳士っぽく、宗次郎の周りにいないタイプの人物だった。二人は水浸しになった服を着替え男を玄関に通して、その用件を聞いた。するとその男は試衛館にふらりと立ち寄ったらしい。
「私は剣術修行をしているものでして。山南敬助と申します。道場主の近藤周斎先生にお会いしたいのですが」
物腰穏やか。そんな山南という男は宗次郎に好印象を与えた。
「少しお待ちください」
と、土方は宗次郎を残して周斎の所に行ってしまった。残された宗次郎は急に挙動不審になる。いつもはこういったとき勇が相手をするか、土方が会話に参加するかで、宗次郎がアクションを起こすということは全くなかったため、どう接していいのか、よくわからなかった。いっそ土方について行こうとしたのだが
「君は、門下生ですか」
と、話しかけられてしまった。
「は…はぁ」
曖昧に返事をすると山南はにっこり笑った。
「結構できますね」
「な、なんでそんなこと、わかるんですか…?」
 たどたどしく尋ねると山南は微笑みを絶やさず「良い眼をしているので」と答えた。お世辞なのかもしれないが、宗次郎はまっすぐその言葉を受けとり、何やら恥ずかしい気持ちになってしまった。山南はさらに訪ねて、
「お名前を聞かせて頂けますか」
「沖田…宗次郎です」
「宗次郎君」
山南は繰り返すと、覚えておきます、と言った。


その後周斎の部屋へと山南は入っていき、土方と宗次郎はふでもいないのでお菓子やら、お茶やらの準備をした。
「あの人、優しそうな人だなぁ」
宗次郎が呟くと、土方はケッと不機嫌そうな顔をした。
「ああいう完璧そうな人間は、俺は嫌いだ」
「またそんなことを言うんですか。歳三さん、好き嫌い多いですよね」
前、桂が来たときもそんなことを言っていたような気がする。宗次郎はクスクス笑って
「歳三さん、お茶はここですよ」
と、お茶っぱを探し回っている土方に戸棚を差していった。

しかし二人の準備は無駄になり、山南は客間に寄ることなく、すぐに道場に向かった、と周斎から聞いた。
「宗次郎、山南さんの相手をしてほしい」
「私が…ですか?」
宗次郎は呆気にとられた。周斎はこの頃体の具合が悪かったため、勇に道場のことは任せっきりだった。だから今日は若先生がいないからきっと立ち合いは断るのだろうと思っていた。
「山南さんが是非に、ということだ。山南さんは北辰一刀流の免許。何が勉強になることもあるだろう。なに、心配はするな、山南さんは道場荒らしの類じゃないからな。負けても、看板は持っていかれんよ」
周斎に言われるまでもなく、山南という人からは道場破りのような野蛮さは感じていなかった。



お互い防具をつけ、面と向かって座った。審判をするのは土方だった。土方は声を掛ける前に、山南に
「北辰一刀流、免許皆伝と聞きましたが…」
と、聞いた。山南は頷いて
「ええ。他にも小野派一刀流なども修めています」
と、穏やかに返事をした。こういうところが土方に気にはくわないようだ。
そしてそんな空気の中、試合が始まった。宗次郎は平青眼で構えた。先日習った型だった。そして山南の剣には北辰一刀流の特徴的な型の雰囲気があった。前につきだした竹刀の先は揺れ、相手を挑発する。宗次郎がそれに乗るわけではないが、どうしても気になる、竹刀の先だった。
「やぁっ!」
挑発に自然と乗らされたのかもしれない。宗次郎は自身から仕掛けると山南の小手を狙った。しかし北辰一刀流免許皆伝は一筋縄ではいかず、払ったはずの小手は
いつの間にか宗次郎の後方にあった。
「く…っ」
宗次郎は再び間合いをとると、竹刀を再び平青眼に構えた。
そして、一か八か、突きをしてみることを決断した。パンっと宗次郎の面が竹刀に衝突する音が道場に響いた。突きにできた隙を山南は決して見逃さず、宗次郎の面を狙ったのだった。
「それまで!」
土方が声を上げると、山南は一歩下がって礼をして防具をはずした。宗次郎も呆然としながら、座り、防具をはずした。
「…宗次郎君、君はやっぱり強い」
宗次郎の耳にその言葉は入っているのか、土方にはわからなかった。


その後、勇が出稽古から帰ってきた。そして再度試合をすると勇が勝利した。宗次郎はその様子を見ているのか見ていないのか、呆然とした様子だった。

振舞酒に、夕食。その日の夜のメニューは山南を振る舞って豪華だったが、宗次郎は少しだけ箸を付けると客間を出た。夏の夜の風は涼しかったので、宗次郎は縁側にぽつりと座った。しかし足が届かないので、ブラブラと揺らした。
負けて悔しいのはもちろんだが、自分の矜持が崩れたような気がした。自分だけが持っていた、その武器が誰かのものになったような気がした。宗次郎はもちろん、自分が一番強いとか、そういうことを思っているわけではない。むしろ、尊敬する人の方が多い。しかし、目の前に置かれた現実は宗次郎にとって過酷なものだった。
一番勇のお役に立ちたい、と思っていたのだがその地位はもしかしたら山南に奪われてしまうのかもしれない。山南は知識、教養もある。先ほど、振舞酒を飲んでいたときも勇と意気投合していた。もしかしたら、勇の片腕になってしまうかもしれない。
山南を嫌いになったわけではなかった。むしろ好きな類だった。
でもそんな風に邪な目で見てしまう自分に宗次郎は嫌悪を感じた。

「宗次」
声を掛けられると、宗次郎はびくんっと肩を揺らした。
「なんだ、落ち込んでるのか」
土方は笑いながら宗次郎の隣に座った。
「歳三さんはお酒を飲まないんですか」
次郎は顔を伏せたままで聞いた。土方は鼻で笑って
「さっきも言っただろう。俺はああいうやつは好かないからな」
「山南さん、優しいのに」
「お前だって、いま山南のことでふてくされてるくせに」
そういわれると宗次郎も何も言えなくて、もっと顔を伏せた。
「負けて落ち込むのもいいが、勇さんをあんまり心配させんなよ。たまにはおまえ負けろよ。勝ちすぎなんだよ」
「…はい」
宗次郎が素直に返事をすると、土方は立ち上がった。
「お前は15。あいつは25。勝たせてやったって思っておけばいい」
慰めなのか、そうじゃないのか。そんな曖昧な言葉は宗次郎の気持ちを少しだけ楽にした。
こうして、近藤と意気投合した山南は試衛館に食客として居座ることになる。




「山南さんはどうしてそんなに難しい本を読んでいるんですか」
宗次郎が物珍しそうに尋ねると、山南はにっこり笑った。
「時代が動いているんだ。今こそ、私達は力を合わせなければならない。その下準備に、こうして世の中を学んでいるんだよ」
ペラペラと動くその山南の口を、また珍しそうに見ると宗次郎はふーんと何気ない返事をした。
「宗次郎君、君も一流の剣客になるためには、こうして国事も頭に入れておいた方がいい」
まるで、ミツのような口調に宗次郎はははは、と愛想笑いをした。昔から勉強は嫌いだったし、ミツに言われて始めたそろばんもよくわからないまま終わってしまった。唯一好きな剣はこうして続けられたのだが。
これ以上小言を言われてはたまらない、と
「じゃあ、山南さん。将軍様と天子様はどちらが偉いんですか?」
宗次郎は安易な質問をしたが、山南は以外にも眉をひそめてうむ、と考え始めた。
「天子様をお守りするのが将軍様のお役目…ということだから、天子様の方が…偉い、というのだろうが…」
「へぇ…」
宗次郎は曖昧な返事をした。
しかし勇は目をきらきらと輝かせて
「今、世の中はどうなっているのでしょうか」
などと、尋ねる。それに山南が丁寧且つ、詳しく答えるものだから宗次郎の入っていく隙はない。だから宗次郎は部屋を出た。
安政四年の秋は、学問の秋になりそうだ。


「宗次、まだ勇さんは山南さんとお国のお勉強か」
皮肉めいた言葉で宗次郎に話しかけたのは、やっぱり土方だった。
「歳三さん、そんな言い方しないでくださいよ。若先生だって今一生懸命勉強しているんだし…」
宗次郎が山南を庇うようなことを言うと、さらに土方の機嫌は悪くなる。
「何が国事だ。こんな田舎道場に国事も何も必要ないだろ。お前も興味無いくせに」
と、唾を吐くように言った。宗次郎は苦笑するしかなかった。
あの試合から、宗次郎はすっかり山南に懐いてしまった。一時は不貞腐れもしたが、山南は見た目通り優しくて、若先生の尊敬する人で、決して怒ったり、いじめたりなんてしない。誰かさんよりはよっぽど善人だし。だいたい兄弟子っていうのはこういう人なんじゃないかと思ってしまうのだが。
「ああ、宗次。そういえば今日は縁日だ。行くか」
「行きます!」
宗次郎の顔は俄に明るくなった。こういう兄弟子も一人いてもいいのかも、と思ったりもする。また。こういう時まだまだ宗次郎は子供だと、土方は再確認する。

夏の名残を惜しむように、縁日は人があふれかえっていた。夏の祭りは景気が良く、もっと賑やかだ。しかし宗次郎は今年は夏の縁日にはいけなかった。ミツの子供、芳次郎に会いに日野に行ったからだ。生まれてから会うのは初めてで、緊張した面持ちで会いにいったのだが、芳次郎は7歳に成長しており宗次郎にもすぐに懐いた。そして帰ってきたのがつい先週なので、夏の縁日は見ることさえもできなかった。

「歳三さん、歳三さん。射的してください!」
「ああ?なんで『してください』なんだ。お前がすればいいだろ」
宗次郎は土方の裾を懸命に引っ張った。
「銃を持つのは苦手なんです!ほら、早く!!」
「仕方ねぇなぁ」
土方は『仕方ない』とも言いつつ、店主に金を払い銃に手を掛けた。手慣れたようにもつ土方に不思議を感じつつ、宗次郎はその銃の弾の行き先を見届けようとした。三弾のうちの一弾目ははずれたが、次にはもう、ダルマの顔が描いてある扇を打ち落としていた。
「すごい、歳三さん!」
宗次郎は大喜びで景品を受け取った。ダルマの顔が少しだけ笑っているようにも見えた。そして土方が最後に当てた景品をもらい、二人は店を後にした。

「どうして、最後の景品がこれなんですか」
行き交う人混みの中で、宗次郎は土方から最後に打ち落とした景品を渡された。緋色の簪(かんざし)。
「お前に似合うと思ったんだよ」
土方は顔に笑い顔を作っている。
「似合わないですよ。私は男ですから!」
語尾を強めて言うと、土方はその簪を宗次郎の手から奪い宗次郎の髪を結んでいたところに女のように差した。
「似合うな」
「似合いません!」
口を尖らせて、その簪をとろうとしたのだが髪の毛が絡まってうまくとれない。
土方はポンポンッと宗次郎の肩を叩いて
「まぁそのままでいろよ」
と、笑った。
「本当ならお前みたいなお子様じゃなくて女を連れてきたかったんだからな」
「だからって私を女扱いしないでくださいっ」
 宗次郎は叫んだ。

その後宗次郎は勇からもらったお小遣いで、リンゴ飴を買った。土方の分と、それからおみやげに勇と、山南の分も買った。土方は怪訝な顔をして「買わなくていいのに」と、言ったのだが宗次郎はそんなわけにいかないから、とおみやげに買った。


縁日は夏ほどの活気がないので、夕日が沈み掛けるとすぐに終わってしまった。
店の人々が片づける中、宗次郎と土方はブラブラと歩いた。
「宗次、お前山南のこと好きか」
土方が突然そんなことを聞いたので、宗次郎はびっくりして土方の顔を見た。どうやら冗談ではないらしい。
「好きですよ。だって優しいですし」
誰かさんと違って、とか付け足してみたら土方は訝しげな顔になった。
「歳三さんは?」
「…俺は、」
と、土方が言いかけたところでその言葉は次の衝撃によって妨げられた。前からふらりと歩いてきた男が、土方の肩に掴まりそして倒れ込んだのだ。
「おい!どうした?!」
土方がその腕を引くと、腕からは血が大量に流れている。
「手当を!」
と、宗次郎が言う前に男は宗次郎の口をもう片方の手でふさいでしまった。
「んっ」
「できれば誰にも見つからないまま助けて頂きたい、」
と、小声で土方に耳打ちした。
どういう理由かはわからないが、土方はとにかく近くの廃屋まで男を庇うようにして連れて行った。


廃屋は蜘蛛の巣が、夕日に映えるほどに多く腐り果てていたのだが、こういう緊急事態は仕方ない。
男のその腕は折れているらしく、近くに落ちていた木っ端で腕を固定した。土方のこういう時の行動力はとても早い。昔から行商人をしながら剣を磨いていただけある。
「…すまないな」
男は痛めた腕を押さえながら言った。
宗次郎はこの男が怖かった。黒い肌に、さっき塞がれた手の平んぽゴツゴツさ。そして声も聞いたことがない位に低く、迫力がある。存在感、というのはこういうことを言うのだろうか。
「理由は聞きませんが、この怪我だと直るのに一ヶ月以上掛かる」
「そうか」
背は土方ほど大きくなく、宗次郎よりも少し大きい位なのだが男っぽさという感じは土方よりも長けていた。もっとも、土方は女のような綺麗さもあったのだが。
「名前は聞かないで頂けるか、こちらは狙われている身だ」
男は土方が問う前に言った。土方もだいたいのことが察し突いたのか、何も聞かずうなずいた。宗次郎は身を小さくしていた。
「すまないついでに、もう一つ。周囲の様子が知りたい。」
「わかりました」
土方は返事をすると、廃屋の扉を開けて外に出た。
「え、歳三さん!」
宗次郎もついて行こうとしたのだが、「お前はそこにいろ」と扉はガタンっと閉められてしまった。
「……」
宗次郎は、身をもっと小さくして男の姿を見ないようにした。
「お前、男か」
男は宗次郎に声を掛けたらしい。宗次郎は小さく頷いた。
「じゃあどうして簪なんて差しているんだ。…ああ、もしかして稚児か」
土方との関係を疑われたのだろう、宗次郎はびっくりして首を横に大きく振った。
稚児、とは男色関係のことを表す言葉だと、誰かから聞いたことがあった。男は小さく笑うと、
「まっすぐな目をしているな」
と、言った。それは前に山南に言われた言葉と同じだ。だがどうしてか、同じように聞こえない。男の声の低さか、雰囲気の重さか。
「俺とは違う、真っ白な目だ。さぞ、汚いものを見ていないんだろう。人の死んだ姿も、人の殺し方も知らない。そんなところか」
男の目が、ぞくっと宗次郎に悪寒を走らせた。何もかも、その通りで見抜かれている。
「…汚してやりてぇなぁ、その目」
「っ…」
宗次郎は目をそらした。
「いつまで、その目のままいられるか…。また逢えたときが楽しみだ」
男は含みのある微笑をした。宗次郎はここから逃げ出したい衝動に駆られたのだがちょうど土方が廃屋に戻ってきたところだった。


その後、その男に周りの状況を伝えた。男は短くお礼を言うと廃屋から姿を消した。宗次郎たちも早く帰らねば、と帰路を急いだ。

「歳三さん」
「なんだ」
「どうして、あの人を助けたんですか…」
宗次郎は、土方の袖をぎゅっと掴んだままだった。
「どうしてって、別に理由はない。追われてるなら見過ごせないだろ」
「…」
気ままま土方の優しさになんだかなぁ、と宗次郎はもっと下をうつむいて、土方の隣を歩いた。袖を掴む手にももっと力を入れたらしい、土方の腕が重くなった。
「…なんか、あったのか」
「そういうのじゃないんです。ただ…怖かったから」
「まぁ、気味の悪いやつだったな。血の臭いで臭かった…」
土方も、眉間にシワを寄せて見せた。腐乱した臭いは血だったのか、と宗次郎はその時初めて知った。
日はもう暮れてしまったので周りに明かりはない。試衛館まではそんなに距離はないのに、どうしてか長く感じる。暗闇の中に、その男の顔だけがくっきりと写り、そして言葉を繰り返す。
「汚してやりてぇ」と、確かにあの男は言った。そしてまたその言葉を聞くような気がしていた。



 9
安政四年、冬。今年の冬もまた雪が降った。
下働きから正式に門下生として、試衛館に居座ることになった宗次郎だったが雪かきを朝起きて一番にする。下働きの頃の癖だ。
「ふぅ、」
今日は雪の量も少なく、宗次郎は試衛館の門を少し出た先も雪かきをしようと試衛館の門を出た。試衛館をでると雪が試衛館の中よりも多く積もっていた。
「わぁぁ!」
まだ誰も起きていないだろう、雪は真っ新でまるで違う世界にいるようだった。少し嬉しくなり、宗次郎はその第一歩を踏み出した。
「ん?」
一歩目から、どうやら山のような所を踏んだらしい。しかし二歩目も凸凹していて足下が不安定だった。おかしいな、と思ってその足元を見た。
「え?」
宗次郎が踏んだのは、雪で埋もれた人の体だった。


「若先生、若先生、若先生~!!!!」
宗次郎は大声だし、若先生、勇の部屋を開けた。否応なしに開けられた障子に、勇は驚いた。
「な、なんだ?宗次郎か、どうしたんだ、そんなに急いで」
勇はまだ目が閉じそうな表情をしている。
「急いでください!行き倒れの人がいて!」
「なに?!」
勇は宗次郎の案内で試衛館の門まで裸足のまま出て行った。


雪に埋もれた男の体を起こし、勇は脈を確認した。
「…大丈夫だ、脈はある」
「良かったぁ…」
宗次郎はほっとすると、勇が抱えた男の体を支えて台所まで連れて行った。

台所ではもう周助の妻ふでが朝餉に支度をしていたので竈の火はたかれている。とにかくそこに男の体を転がして、体を温めることにした。宗次郎は自分の部屋から毛布を担いで男の体に被せた。
「大丈夫ですかね…」
宗次郎は不安げに言った。勇はその不安を解消しようと
「大丈夫さ、脈はあるし結構体も逞しい。もうじき目が覚めるだろう」
と、宗次郎の頭を撫でてやった。踏んでしまったためになにか悪いことになったらどうしよう、と宗次郎は別の不安も感じていたのだが。
「なんだ、なにしてんだ」
そこへやってきたのは、この騒ぎで目を覚ました土方だった。寝起きで不機嫌そうな顔をしている。
「ああ、歳。宗次郎が門で拾いものをしたんだ」
「拾いものだと?」
土方が不機嫌な顔のまま見たのは、横たわって寝ている男だった。
「雪に埋もれて倒れていたんです」
宗次郎が説明すると、土方はだるそうな顔をした。「どうせ、食い倒れかなんかだろう」と面倒そうに言った。

そのうち山南も起きてきて何事か、と土方と同じように聞いたので宗次郎はもう一度同じようなことを教えた。


宗次郎たちが、すぐの囲炉裏の周りで朝餉を食している頃。男がむくり、と起きあがるとキョロキョロした。そしてちょうどその様子を見た宗次郎と目があった。
「?」
宗次郎が首を傾げると、男も同じように首を傾げた。
「…うまそう」
そう呟いた。そしてものすごいスピードで宗次郎たちに近づいたかと思うと真ん中に並べてあったたくあんをひとつまみで5,6個つまみ口の中に投げ入れた。もちろん極貧道場、四人で分け合うたくあんだ。
「お、お気づきになられましたか…?」
唖然となる勇たちをさしおいて、山南がその男に尋ねた。
「お気づきになったのはいいが、腹が減って仕方ない。なんか食わしてくれ」
男はにっこり笑った。勇は頷いて、ふでにもう一組朝餉を作ってくれるように頼んだ。

勇と宗次郎の間に座り、朝餉が運ばれると、男はまるで何かに取り憑かれたかのようにほおばった。口の周りに飯粒をつけたまま「うまい、うまい」と笑う。男の血色も良くなってきた。

「ぷはー!!うまかった!ごちそうさん」
男はパンッと手を合わせた。勇は、持っていた箸をお盆の上に置いて畏まって尋ねた。
「あの、まずお名前をお聞かせ願えますか?」
「おっ?ああ、そうだったな。俺は原田左之助!行き倒れの浪人ものよ」
にかっと笑うと、いきなりガッハッハと大声で笑い始めた。朝餉を囲んでいた4人は唖然として、その原田とか言う男の顔を見る。
そして原田とか言う男は
「伊予松山藩脱藩、原田左之助!種田宝蔵院流、今は旅をしている!よろしくな!」
といって勇の手をがっしり握った。勇も「はぁ」と原田に圧倒されている。山南は興味をそそられたのか
「種田宝蔵院流、というと槍ですね」
と尋ねた。原田は大きく頷きながら
「そう!俺は日本一の槍使いだ!」
と、また大きく笑った。宗次郎もつられて笑うと、土方は胡散臭そうに鼻で笑い、
「あんた、行くところでもあるのか」
と聞いた。すると
「ねぇな」
と、即答した。宗次郎は首を傾げて
「じゃあどうして旅なんて…」
「別に、目的なんてないさ。放浪の旅だ」
と、隣にいた宗次郎の頭をガシリと掴んで髪をくしゃくしゃにした。
「と、言うわけで俺はここに当分居座るから」
「はぁ?!」
四人が同時に原田の顔を見た。
「別に今更一人増えようが、二人増えようがかわんねぇだろ~。と、言うわけでよろしく!」
軽く原田は頭を下げると、ガッハッハともう一度大笑いした。


「ったく、胡散臭ぇのが増えたな」
土方は不機嫌そうに将棋の駒を進める。今日の相手は宗次郎だった。原田はあの後、宗次郎の部屋に入ってきて布団に入った途端いびきを立てて寝始めた。宗次郎は居場所が無く、こうして土方と一緒に将棋を差すことになってしまった。将棋は苦手だった。
「でもおもしろい人ですよ、原田さん」
宗次郎は顔をほころばせる。試衛館にいなかったキャラだ。
「お前はいつもそれだな」
「え?」
土方はふてた顔をしている。
「誰でも好きになって、すぐに信じるんだな」
「そんな訳じゃないですけど」
宗次郎は口ごもってしまった。突然どうしたのだろう?と土方の表情をうかがう。
宗次郎は基本的に好きな人、嫌いな人はいない。山南だって土方は嫌っているようだがああいう知的な人は、きっと勇にとって力になってくれると思う。桂だって宗次郎にとってはただの練兵館の人、としか思わないがやっぱり土方は嫌っている。むしろ、土方にとっての好意をもつ人物というのは少ないと思う。
「誰でも好きになる、誰でもいいんだろ、結局」
「そんなことないですけど…」
宗次郎はおずおずと将棋の駒を進めた。
「…若先生は大好きだし、歳三さんも山南さんも、原田さんも好きですよ」
「結局、俺はそこにいるんだな」
「…?」
宗次郎は首を傾げた。土方はそんな宗次郎に舌打ちすると立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
「歳三さん!まだ将棋、終わってませんよ!」
宗次郎は土方を呼び止めたが、土方は振りかえろうともしなかった。「大手っと」


「いやいや、悪いね、」
原田は夕方頃に起きた。本当に感謝しているのだろうか…。宗次郎は「おはようございます」と取り合えず答えた。
「君は、宗次郎君だっけか。じゃあ宗次郎でいいか?」
宗次郎はコクンとうなずいた。原田はにっこり笑うと、急に自分の上半身を脱いだ。
「え?あ?えぇぇえ?!」
宗次郎は驚いた。原田はにっこり笑うと見てみろ、といわんばかりに腰に手を当てて腹を突き出した。
「これ、切腹傷ですか?」
宗次郎は突き出された腹にくっきりと付いた刀傷に目を見張った。
「そうよ!俺はな、故郷の松山であるくそったれな男と口論になってな。 『切腹の作法も知らないやつめ!』と馬鹿にされたんだ。腹が立ってさぁ、『知ってらこの野郎!』って腹を切ってやったんだよ」
「はぁー」
宗次郎は唖然とした。
切腹というのは武士が死ぬことで一番名誉なことだ、とミツに聞かされていた。ミツは死ぬときは向かい傷を受けるか、もしくは上様の命で切腹するときだけだ、といって宗次郎に聞かせていた。だから、こんな喧嘩とかで腹を切る原田が珍しくも感じた。
「あの、それで、どうしてそれを私に…?」
「ん。これ、おれの自己紹介変わりなの。しばらく世話になるし、お近づきのしるし」


「歳三さん」
「なんだ?」
「私ね、変わった人が好きみたいです」
「…は?」



 10
「…つくづく、馬鹿なやつだな」
土方が半ばあきれるように、そこに横たわる男を見た。宗次郎でさえも苦笑する。
『正月だ、めでたい!』と、大騒ぎして試衛館を走り回り、集まった親戚の類に酒を注ぐ。そして、つきたての餅をひょいひょい頬張ると、また酒を飲む。
『酒を、茶のようにグイグイ飲む人なんて初めてみましたよ』宗次郎はそういって笑ったが、もちろん、その男の胃袋はそこまで頑丈ではなくバタッと倒れるかと思うと、ぐぅぐぅと鼾を立てて寝始めた。
もちろん、その男は言うまでもなく原田左之助。
そんな安政五年(1858)の春は、騒がしく明けた。沖田宗次郎16。島崎勇24,土方歳三23。加えて言うと、山南敬助25,そしてこの「おおたわけ」、原田左之助は18の年である。


「明けまして、おめでとうございます」
と、正月を過ぎた頃やってきたのは宗次郎の姉、ミツだった。ミツが試衛館を訪れるのは久々だった。
「姉上、あけまして、おめでとうございます」
ミツはにこっと笑うと
「貴方からの年賀状は、試衛館に行って以来一度も来ませんから、こうして会いに来たのですよ」
と、一言小言を言ったがそれが懐かしくもあり、宗次郎は
「はい」
と素直に返事をした。
そこへ、勇がやってきてあけましておめでとうございます、と挨拶をした。
「いつも宗次郎がお世話になっております」
「いいえ。こちらの方が助けてもらうことばかり。まぁ、おミツさん上がっていってください」
勇の招きにミツは「では、お構いなく…」と、試衛館に上がった。


「…随分と、賑やかなのですね試衛館は」
ミツが苦笑したのも無理はない。客間へ行く途中の廊下で、大の字になって原田が寝ていたのだ。
「す、すみません。不躾なもので…!」
勇はあわてて、原田を起こそうとしたが、ミツがそれを止めた。
「いいえ。お休みになっているようです。わたくしは構いませんので、どうかそのまま」
と、述べたので勇は少し苦笑して申し訳ありません、ともう一度言った。


「お前の姉さんは本当にできた姉さんだな」
と、後方から声がして宗次郎が振り返ると、やっぱり土方だった。
「一応武士の出ですから、ああいうところはきちっとしてるんです。でもひとたび家に帰ると、こんなものじゃありませんよ、鬼というのはこういう人を言うんだと 私は昔から教えられてきたんですから」
宗次郎はそんなことを言った。。
「美人だな」
「残念ですけど、旦那持ちですよ」
「知ってるさ」
土方が吐き捨てるように言ったので、宗次郎はもう一度笑った。


ミツは、今日中に日野に帰るというので宗次郎はできるだけミツといる時間をとろうと、試衛館を案内した。ミツは挨拶に来ただけ、と言うがもちろんそれだけでなく、なかなか文を寄越さない弟が心配で見に来たのだろう。
宗次郎はそういう風に思っていた。
「ほら、ここが道場。ギシギシいってボロだし汗くさいけどね」
と、道場に案内するとミツは
「ここでいつも練習しているのね」
と、見渡していった。ここで、こんなにも成長したのか、と思っているのだろう。
姉の温かな眼差しに穏やかな気持ちになっていた時。宗次郎はのどに痛みを感じゴホゴホと咳をした。
「どうしたの、」
ミツは苦しそうな咳をする宗次郎を心配したが
「大丈夫だよ、ちょっとむせただけ」
と、もう一度咳をした。ミツは宗次郎の言葉だけでは安心していないのか、表情は曇ったままだった。
「本当に?今、江戸では今コレラという病が流行っているのよ、」
「コレラ?なんか変な名前…」
「異国の船がやってきたでしょう?だから異国の病だと聞いているわ。ここの方が黒船に近いのだし、体だけは気をつけてちょうだい」
ミツは子供に言い聞かせるように言うと、宗次郎の頭を撫でた。気が付けば、宗次郎の背丈はミツよりも少しだけ大きかった。


ミツが帰ると、気が抜けたようで宗次郎はぼんやりとしていた。
「宗次。お前顔色悪いぞ」
ミツを少し先まで見送った宗次郎が玄関に戻ると、そこにちょうど土方が通りかかった。
「そんなこと無いです、ちょっと肌寒いだけで」
「ちょっと来てみろ」
宗次郎は土方に手招きされるままに、草履を脱いで玄関の石段を上がった。すると、土方が引き寄せてその大きな手を宗次郎の額に当てた。
「…冷たい」
「お前が熱いんだ。すげぇ熱があるぞ、とにかく横になれ」
宗次郎の手を引くと、土方は宗次郎の部屋を目指した。が、そこには当然のように原田が寝ていてスペースはない。「ちっ」と土方は舌打ちし、仕方なく土方は自分の部屋、もとい客間に連れて行くことにした。
「おい、しっかりしろ、」
「…大丈夫…ですって…」
遠くなる土方の声を、懸命に聞こうとするがそれもままならない。宗次郎は土方に手を引かれるまま、布団に転がるとそのまま意識を失った。
「おい、宗次、しっかりしろ」
という最後の言葉を聞いて。


 土方は勇の部屋に駆け込んだ。部屋に山積みにされていた書物が少し倒れる。
「かっちゃん…じゃねぇ、勇さん、宗次郎が大変だ」
あわてているのか、土方は勇の名前を間違えたが、そんなことを気にしている場合はない。山南と一緒に、国事について語っていたのか勇はキョトンッとした顔をしている。
「宗次郎がどうしたんだ」
「すげぇ、熱だ」
と、土方が言うと勇は額がはずれたかのように、驚き、
「宗次郎は今どこにいる!?」
と聞いた。
「俺の部屋だ、今は寝てる…いや、意識を失っている」
土方は深刻そうな顔で言った。「とにかく医者と」と、立ち上がった勇。そこへ、山南が口出しをした。
「もしかして、コレラじゃないのか」
「コレラ?」
勇と土方は二人して顔を見合わせた。
「なんだ、それは…」
「異国の病で、黒船来航から広まったと言われています。流行病です」
山南は顔色を変えながらも、冷静にそう諭した。
「…死ぬのか?」
「いや、そうではありません。ただそういう話もあります。玄武館にいた頃に有名な医者の話を聞きました、もしかすると治療の仕方を知っているかもしれません…」
「そうか!じゃあ行こう! 歳、宗次郎を頼んだ。俺は山南さんと一緒にその医者の所に行ってくる」
「おう」
短い会話をすると、二人は素早く試衛館を出て行った。


土方は桶に水をたっぷりと、手ぬぐいを持って宗次郎の眠る部屋に行った。周斎は出稽古へ、そしてふでもまた出かけているようで試衛館には土方と、原田しか残っていない。土方は手ぬぐいと、水と桶を宗次郎の枕の隣に置いた。手ぬぐいをギュッと絞ると、宗次郎の額に掛けてやった。冬の水はもの凄く冷たい。そして手を握った。
「…熱いな」
土方の体温の二倍ほどあるのではないかと思われる、その熱さに土方はさらに焦った。コレラ、だとしたら、異国の病だ。山南曰く死に至ることもあるような病気だ。その治療法は難しいのではないだろうか。そういう悪い予感が、消えないでいた。
「…と、しぞうさん?」
宗次郎は半開きにも満たない瞳で、土方を見た。熱のせいで目が潤んでいるようだ。
「気が付いたか?今勇さんと山南が医者を呼びに行ってる。時間は掛かるが辛抱しろ」
「医者…?」
「異国の病で、コレラとか言うのに掛かったのかもしれない」
「これら…」
宗次郎はその言葉に聞き覚えがあった。確か、ミツが言っていた…。しかし、そう言葉にするのもつらいので何も言えなかった。
「なんか欲しいものはないか、何でもいえ」
「…ないです…けど」
「けど…?なんだ」
「…歳三さん、手が熱い…」
はっと、土方は宗次郎の手を離した。握っていたままだったらしい。汗もぎっしりかいている。しかし、この汗が宗次郎のものか、土方のものかそれは定かではなかった。
「…熱い…、あつ……い」
小さく言った宗次郎の声を、土方は聞き漏らさなかった。その後すぐに宗次郎の目が閉じた。呼吸は先ほどよりは乱れていないので、大丈夫だろうと思ったが体の熱さが尋常ではなく、予断を許さない状況に置かれていることは理解できた。
「仕方ねぇ…」
小さく呟くと、土方は左手をその冬の冷たい水の中に入れた。ヒリヒリと冷たく、まるで熱湯の中に入れたように感じた。そしてその手を宗次郎の顔にぎゅっと押しつけてやった。宗次郎ははじめはびくっとしたが、そのうちその冷たさが気持ちいいのかすやすや寝息を立てる。
土方はその動作を何度も繰り返した。冷たくなった手を顔だけでなく首回りや、手のひらなどに当ててやった。その度に、眠っているにもかかわらず気持ちよさそうな顔を見せる宗次郎に土方は終始満足しながら呟いた。
「この貸し、高く付くぞ」


その後、宗次郎順調に回復し、薬を渡すと医者はそそくさと帰っていった。医者の話ではコレラではなくただの高熱だということだった。「よく寝て、よく食べるように」と忠告を残し去っていった医者に一同は安心し、見送った。
「…宗次はもう大人に見えるか?」
土方は眉を顰めたまま言った。勇は唐突な問いに首をかしげたが、すぐに笑った。
「歳、そういうなって。あいつももう十六。元服したっておかしくない」
そうですよ、と山南も念を押すように言ったものだから土方はもっと眉を顰めた。
「そういえば歳。どうしたんだ、手が霜焼けになっているぞ」
と、不思議そうに言った。土方の手は真っ赤になっている。
「なんでもねぇ」
土方は腕を組んで隠してしまった。


「んあ?何があったのさ」
原田が目を覚ましたのは、その少し後。




解説
なし
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