わらべうた





11
安政五年(1858)の四月。暦の上ではもう夏になってしまうのだが、まだまだ桜の花は咲かない。しかし江戸の人というのは気が早いものでもおう花見気分で酒を飲んでいたりする。その良い例が試衛館、食客原田左之助である。試衛館の酒の消費量は、どう考えてもおかしいとふでが機嫌を損ねる。
そんな、春日和の試衛館。

 その、稽古場。
「ってぇ~…なんだよ、もっと優しくしてくれよ」
原田が情けない声を出して、倒れ込んだまま立とうともせず面をはずした。
「全く、左之助さんは槍だけじゃなくて刀もちゃんとしておかないといけないですよ?」
そして同じく面をはずしたのが、試衛館門人沖田宗次郎。原田よりも二歳したの十六歳。しかし剣の腕では二段以上宗次郎の方が上だ。
「るせぇな~、俺は槍専門だからいいの!お前こそ、槍やれって言われたらできねぇだろ!」
原田は二歳下の宗次郎にムキになる。宗次郎はにやっと笑って、
「いいんです。原田さんの槍には刀で十分ですから」
「お前っ 言ったなーっ」
 原田は槍を持ち出して宗次郎に向けた。「冗談ですよ。冗談っ」


「辻斬り?」
土方は山南が言った言葉に、眉を顰めた。山南はまじめな顔で
「最近江戸の町で辻斬りが横行しているんです。もう何人もの人が斬られたとか…練兵館の門人でさえ一刀両断だった話です」
山南は心配そうに勇を見た。勇の困惑した顔で山南の話を聞いている。
山南の話では、もう五人程がその辻斬りにやられ、街では警戒ムードが漂っているようだ。試衛館は遠くへ出稽古にも行く。そのことを山南は心配しているのだろう。しかし土方にとってそんなものはどうでもよく、
「けっ練兵館っつっても、建前だけの奴らだ。斬られても仕方ねぇ」
と、微笑した。勇は怒った顔をして
「歳!」
としかりつけたが、土方は赤い舌を出した。
実際、土方がむかついているのは辻斬りではない。山南だ。完全に試衛館の方が格下だと思っているに違いない。ふん、と鼻を鳴らした。もちろん、山南にそのつもりはないのだが。
「山南さん、ご忠告ありがたい。宗次郎にも伝えておこう」
勇が山南に感謝の意を示すと、山南も安心したように微笑した。

その話はすぐに宗次郎に伝えられた。
宗次郎は若干、十六にしながら出稽古に出かけている。中位極目録、にすぎず免許もまだもらっていないが、宗次郎の腕はもう勇と同じくらい、もしくは技に於いては宗次郎のほうが上ではないか…という程になってた。勇も安心して宗次郎の出稽古を任せることが多い。
「そうですか。危ないなぁ…」
宗次郎はまるで他人事のように聞いた。


その翌日がちょうど宗次郎が出稽古に出かける日だった。勇は脳天気な宗次郎のことを心配したのか、もしくは子供扱いしたのか土方を同行させることにした。宗次郎はふくれっ面をして
「…何で歳三さんまで付いてくるんですか」
と、言った。道場のことは任せてくれるようになったのに、と拗ねているのだ。
「仕方ねぇだろ。お前はガキなんだから。勇さんだって心配なんだろ、愛弟子が」
土方も憎まれ口を言ってやった。宗次郎は
「もうちょっと位、信用してくれてもいいのに」
と、呟いた。
「でも何で言ったって、歳三さんなんですか。辻斬りに襲われたって、犠牲者が増えるだけじゃないですか…」
はぁとわざとらしく、宗次郎がため息をついたのでむっとした土方は宗次郎の首に手を回し、ギュッと締め付けてやった。
「安心しろよ、お前の線香なら俺があげてやる」
「それはこっちの台詞です!!」
宗次郎は息苦しそうに、土方に手を離すようにバンバンと叩いた。

その日は出稽古が終わった後、二人で小野路村の小野家に出かけた。勇が取りに行って欲しいものがある、というから顔を出したのだが、そこにあったのは古い武具だった。
「勇さんにあげる約束をしているんでね」
と小野家の当主、鹿之助は言った。しかし武具はもちろん大きく二人でギリギリ運べるほどだった。どうやら辻斬りの心配と、この荷を二人で取りに行くというのが、勇の思惑だったようだ。中には多くを占めた鎖帷子、胴具やどこから手に入れたのか小さな仏像もあった。日の暮れないうちに試衛館に帰ろうと、二人はさっさと小野路村を後にした。
「重い…」
先に愚痴をこぼしたのは宗次郎だった。小野路村から約一里。それでももう三里ほど歩いたように感じる。辺りの景色も単調な繰り返しで、宗次郎は飽き飽きとしていた。土方はそんな宗次郎を笑って
「お前の敬愛する師匠のためだろ。愚痴なんか言ってないでさっさと歩けよ」
「愚痴なんて言ってません!重いって言っただけじゃないですかっ」
宗次郎はむっとして土方よりも早い歩幅で歩き出した。

やがて江戸の繁華な方に入り、試衛館は目の前か、と思われる頃。土方よりも先を歩く宗次郎が、突然目の前で転けた。
「おいっ!」
ガシャンガシャンッっと大きな音を立てて崩れた武具に紛れて、宗次郎の姿があった。土方は手早く道の端に持っていた箱を置くと、宗次郎に掛け寄った。
「おい、大丈夫か」
「はいぃ…ちょっと腰打っちゃった位で」
宗次郎は苦笑して土方が差し出した手に、自分の手を被せて立ち上がった。パンパンッと袴を叩いて、砂を落とすともう一度土方に苦笑した。
しかし、の顔は一瞬にして崩れた。
「歳三さん!!」
宗次郎の声に素早く反応した土方は、すぐ後ろにある気配を察しして振り返った。目の前に現れたのは、紫の頭巾を口元までした怪しげな男。その男が土方たちに斬りかかってくる姿だった。
「危ないっ!」
宗次郎はとっさに土方の前に出て、体を一杯に広げ、土方を守ろうとした。
「宗次!お前が下がれッ!」
その姿に驚いたのは土方の方だった。年下で頼りないはずの宗次郎が身を犠牲にして自分を守ろうとしている。しかしまさか、守られてやるわけにはいかない。
宗次郎の後ろ襟を掴み、バッと自らの背中めがけて宗次郎を投げた。
「歳三さんッ!」
投げられた宗次郎はドンッと尻餅をついた。しかしそんな痛みを気にしている暇はない。宗次郎はすぐに立ち上がる。
一方、土方は自らの刀を抜こうとしたが、間合いが近すぎた。刀を抜く前に、右肩を一太刀浴びてしまったのである。
「…ッ!」
土方は顔を歪め、斬られた腕を庇いながら頭巾の男と間合いをとるべく五、六歩下がった。
「歳三さん!」
宗次郎は刀を抜いて、土方の側に駆け寄った。血に染まった腕を見て、竦んだ。
「宗次お前は逃げろ!」
「嫌です!」
「お前まで斬られたらどうするんだ!」
「嫌です!絶対歳三さんを置いて逃れません!」
「馬鹿野郎!どこまで馬鹿なんだ!てめぇは!」
土方が怒鳴りつけたが、宗次郎はいっこうに引く気配はなく、
「だめですっ!」
と泣きそうになるまで首を横に振る。
そのうち頭巾の男が、ガチャリと刀を向ける。土方は「ちっ」っと舌打ちした。
「仕方ねぇ…斬るまでだ」
「…」
先程までの宗次郎と違い少し黙り込んでしまった。あれだけ、逃げることを躊躇ったのに、今度は斬ることを躊躇っている。
「…心配するな、俺が斬る」
「そんな腕で…」
できるわけ無い、という言葉を宗次郎は口にしなかった。土方が浴びた一太刀でこの男がただの愉快犯ではないことはわかる。
「私が…斬ります」
「宗次!」
 宗次郎が土方の持つ刀を自らの手に置いた。その時。
「…おい!」
すると、頭巾の男の後方から太い声がした。
「お相手なら私がしよう」
スタスタと歩調を変えず、こちらに近づいてきたのは浪人風の小柄な男。しかし顔は武芸者の顔をしている。肌は黒く一見、目鼻がどこにあるのかわからなかった。
「…」
頭巾の男はくるりと振り返ると、その男の顔を見た。浪人らしい男はいつの前にか刀を抜いていて、殺気も先ほどまでと全く違う。
(できる…)
土方はそう感じた。
頭巾の男は何を言っているのか、わからないほどの気勢を上げて浪人風の男に切り込んだ。浪人風の男は、軽々とその刀を交わすと、一刀にして男の体を首から背骨をザクリと斬った。男は即死だった。そしてその光景は夢のように、あっという間に終わってしまった。

「ご無事か」
浪人風の男、よく見ると無骨な感じもする男は、土方の斬られた腕に慣れた手つきで血止めの布を巻いた。
「かたじけない」
と土方が感謝の意を示すと男は小さく微笑んで、「お互い様です」と、言った。宗次郎は土方の背中の後ろに隠れているままだった。そしてそっとのぞき込むようにして、男を観察している。男はその宗次郎に気が付いて
「もしや、人を斬った姿を見たのは初めてだったか」
と尋ねた。宗次郎は恐る恐る頷くと男は申し訳なさそうな顔をして
「それは申し訳なかった。こちらも余裕がなかったので斬ってしまった」
少し後悔した風に言ったので、宗次郎は首を横に振って
「いえ、ありがとうございました。貴方がいなければ…」
と丁寧に頭を下げた。いなければ、きっと斬っていた。
「ところで差し支えなければあなた方のお名前を教えてくださいませんか。」
男は急に話を変えた風に言った。宗次郎への気遣いだったのかもしれない。
「俺は土方歳三、そしてこっちは沖田宗次郎です。すぐそこの試衛館に食客として居座っているものです」
土方は丁寧に答えると、男はなんだか嬉しそうな顔をした。
「試衛館!ああ、そこの門人だったのですか。私は試衛館を訪ねる所だったのです」
男の笑った顔に、宗次郎は緊張がほぐれていくのを感じた。
「天然理心流、近藤周助先生に是非にお会いしたいと思いまして。玄武館の山南さんをご存じですよね、あの方が入門されたと聞いたので…」
要するに山南の知り合いだったらしい。
「失礼ですが、お名前は」
「ああ、これはすみません。蝦夷松前脱藩、永倉新八。神道無念流を修めています」
神道無念流…それは土方が先日馬鹿にした練兵館と同じ、流派だった。
「…つかぬ事をおたずねしますが、どちらの道場で?」
練兵館では、メンツが立たないではないか、と土方はドキリとして聞いたのだが
「撃剣館です。」
と永倉が答えたので少し安心した。

永倉は勇の武士道に共感し、山南、原田に続いて三人目の流派の違う食客となった。周助の妻、ふでは嫌そうな顔をしたが、土方の恩人と聞いては勇も追い出すわけに行かない。

オチとしては。土方は永倉が自分よりも年下だと言うことを聞いて、落胆のだった。

12
安政五年(1859)八月。
後の近藤勇は嶋崎勇義武と称し、日野宿八坂神社へ額献。それには沖田宗次郎春政と称した宗次郎の名前もあった。


「あっち~…やってらんねぇ…」
原田が夏の暑さにブツブツと文句を言う。
「でも原田さんほど涼しい格好をしている人なんていませんよ」
宗次郎はクスクス笑いながら原田の隣に座った。原田は縁側で団扇を仰ぎながら寝そべっている。服ははだけているし、きっちりと服を着た永倉や山南や宗次郎よりも幾分か涼しそうに見えるのだが。
「まったく、食客として居座っているのだからもう少し礼儀を持ってだな…」
永倉の説教が始まると原田は、ふぁぁと欠伸をして、
「そ~れにしても、つまんねぇなぁ…」
と呟いた。宗次郎はわらって
「でも試衛館はずーっとこんな感じですよ。暇なときの方が多いんですから。」
と、先輩のような口ぶりで言う。山南が
「このご時世に、こんなにゆっくりとした時間が過ごせるなんてここだけでしょうねぇ…」
と、褒めているのか、また難しそうなことをいう。
「それにしても女っ気がねぇのはいけねぇ。そうはおもわねぇか、宗次郎!」
原田は同意を求めるように宗次郎を見るが、宗次郎は口ごもっている。宗次郎にとって女とは未知の生物だし、関わりを持とうとは思ったこともない。女と言えば姉のミツぐらいで、きっと原田のいう「女」とは違うのだろう。
「私は別に…」
「それは男としてどうかと思うぜ、宗次郎!いつか土方さんに遊里でも連れて行ってもらえ!」
同情めいた声で言うものだから、宗次郎も、「はぁ…」と、返事をするしかなかった。
「それがいい。悪い女に騙されないコツは女という生き物を知っておくのが一番だからな」
「おっ、永倉さん話が合うじゃねぇか」
本当に、試衛館は賑やかになったなぁとおもう宗次郎だった。


「土方さん、土方さーん」
その食客でにぎわう部屋から出て、宗次郎は土方を捜した。
食客部屋はすっかり猥談で盛り上がってしまって宗次郎はそそくさと立ち去ったのだ。山南がそれとなく宗次郎に目で合図をしたのもあったのだが。
宗次郎は試衛館を歩き回り、最後に勇の部屋に到着した。耳を澄ますとやっぱりこの部屋から若先生と土方の声がしたので、障子に手を掛けた。
と、その時。
「歳、やっぱりこの話は受けてはくれないだろうか…」
勇が真剣な様子で土方になにやら頼んでいる。
「当たり前だろ。誰が婚約なんぞするか」
(…婚約?)
宗次郎は心の中で反復した。
「しかし、歳。会うだけでも会って」
「そんなことより、自分の方を考えたらどうだ、勇さん」
土方はうんざりしたような、声を出した。どうやら土方に婚約の話が持ち上がっているらしい。二人の会話がそこできれたので、宗次郎は恐る恐る障子を開けた。
「…あの、」
「あ、ああ、宗次郎か。どうしたんだ」
宗次郎が恐る恐る土方の顔を見ると土方はやっぱり不機嫌そうな顔をしている。
「宗次郎からも頼んでくれ」
「おい。勇さ…」
「そ、そんな…」
「全く歳は遊んでばっかりで仕様のないやつだと小野路村の鹿之助さんに言われたんだ。吉原でもお前の噂が絶たない言われたぞ。少しは身を固めろ。鹿之助さんがせっかく縁談を持ってきてくれたんだ」
「うけねぇって言ってるんだ!」
土方が突然大きな声を上げた。宗次郎もびっくりして目を見張ったが勇は怯むことなく
「会うだけでいいんだ!受けろ!鹿之助さんの面子も考えろ」
と言い返した。土方はむっと勇に少し圧倒されると、「ちっ」と小さく舌を鳴らした。
「…会うだけでいいなら会ってやる。でも俺は断るからな」
「まぁそれでいい。相手は地元で一番の美女と聞いた。期待して損はないぞ」
口論で土方を任して満足げにわらう勇を、土方は悔しそうにふんっと鼻を鳴らした。そして何故か
「お前も来い!」
と宗次郎の腕を引っ張った。
「え?は?!ちょ、ちょっと!」


「ったく、勇さんも勝手だ」
「歳三さんの方が勝手ですよ…」
宗次郎はうんざりして文句を言ってやったが、土方はそれを無視した。
縁談話というのは今日行われるものだったらしい。
土方の話によると、勇は昨晩その話を初めて土方に切り出し、了承を求めたという。そんな急な話、受けられるか、という口論が先ほどまで続いた、ということだ。「急にそんな話されても困るだろ」
しかし、土壇場でやっぱやめる、と言いかねない土方には勇のようなやり方が正しいのだと、宗次郎も知っていた。そして今、土方は何故か宗次郎を連れて小野路村に向かっている。
「お前だってどうせ暇だろ。試衛館は暇な所だからな」
「…どっかで聞いた台詞…」
宗次郎は土方の勝手さにあきれるだけだった。

程なく小野路村に着き、宗次郎は強制的に鹿之助と会うことになった。
「土方先生、ああ、宗次郎君まで!」
鹿之助は土方が来てくれないんじゃないか、とよほど心配したのか土方の姿を見るとわかりやすいくらいの安堵の表情を浮かべた。
「もう先方はお着きですから、急いでください」
鹿之助は慌ただしく客間に戻っていった。玄関には見たこともない女の履き物があった。
「じゃあ歳三さん、私はここで待ってますから」
「は?何言ってるんだ。お前も来い」
「はぁ?」
宗次郎はまさか自分までも縁談に巻き込まれることになるとは思っていなかった。親戚が同席するならまだしもただの門下生がその場に居合わせるなど考えられない。
「や、やですよ!なんでそんな」
「なに、お前が気に入ったらお前がもらえばいいだろ」
「か、買い物じゃないんですから!」
いいから早く来い、と土方は強く宗次郎の腕を引っ張った。


「琴でございます」
丁重に頭を下げて、土方に挨拶をした女は琴と言った。宗次郎は土方の隣に座り、やや緊張した面持ちで琴の顔を見た。
勇が美女、というだけあって可愛らしい、女の人だった。面立ちはほっそりと首元はすっとしている。目鼻がはっきりとしていて美しい女の人だった。宗次郎は見たこともないような美人に、見惚れていたが土方は違った。
「歳三さん。お琴さんは江戸では人気の芸者でね、こんな美しい女の方は、そんなに出会えるものじゃあありませんよ?」
「し、鹿之助様」
些か照れた様子の琴に、土方は少しため息をついた。
「…私はこの縁談を受けるつもりはありません。剣を極めるものとして、まだまだ未熟ですから、このような美しい女性を妻にはできません」
「そんな台詞初めて聞きましたよ…」
ボソッと宗次郎が呟くと見えないところで尻を抓られた。
「まぁまぁお互いまだまだ何も知らないでしょう。私達は別室へ移動しますから。お二人はごゆっくり…」
鹿之助の奥様がそういって宗次郎は『助かった』と素直に思って、鹿之助らと共にその場を去ろうと立ち上がったが、
「お待ちください」
と、土方の強い口調で立ち止まってしまった。
「申し訳ありませんが、私にはもう言い交わした者がおります」
「なっ」
鹿之助は顔が青ざめた。琴の方も彼女の父君も「え?」と驚いた顔で土方を見た。もちろん宗次郎も宗次郎でそんな話は聞いたことがなかった。遊里にはよく遊びに行っているようではあったけど、真剣につきあっている人がいるとは微塵にも思わなかった。…女性問題を起こしたという前科もあったので。
「土方先生、それは…」
「ええ、全く可愛いやつでして。他の女など目に入らないのですよ。契りも結んでいますし」
と、言いかけたところで土方がちらりと宗次郎を見た。「え」と宗次郎が動揺した瞬間、土方は宗次郎の手を引き、自らの胸に抱き寄せた。
「こいつです」
「は?」
鹿之助、琴をはじめ仲介人が目を丸くした。抱き寄せられているのが間違いなく、男の宗次郎で契りも結んだという。唖然として、言葉にならない宗次郎は顔を真っ赤に染めた。
「全く、心配で私の見合いにも付いてきたのですよ」
「ちが…っ」
と言いかけたところでもがっと手で口をふさがれた。
「土方先生、ご冗談を」
鹿之助がはははと小さく笑ったが。土方はふんっと鼻で笑って「信じられないと言うのなら証明しましょうか」と、笑って宗次郎を見ると宗次郎が抵抗する前に宗次郎の唇を己の唇でふさいでしまった。
「…あっ」
琴は目を逸らしたままでこっちをみず、鹿之助や仲介人は目を見開いた。
「ん、ん…っ?」
宗次郎は息悶えていた。前に冗談で口づけされたときは軽く触れられる程度で、宗次郎も触れている間に何も考える暇はなかったのだが、今回は見せつけるように長い口づけ。
「…ん?」
土方が宗次郎の歯列を割って差し込んできたのは、土方の舌だった。小さく重なり合う音が聞こえ、宗次郎はますます顔を真っ赤に染めた。
「ひ、土方先生、もう…」
鹿之助の止めでようやく宗次郎は解放された。
「そうですね。これ以上は、こいつが照れますからやめておきましょう」
と、さらに宗次郎が恥ずかしがるようなことを言う。仲介人は琴を率いて、
「こ、小島殿、このお話はなかったことに…」
仲介人は鹿之助に小さく言って、そそくさと立ち去ってしまった。


「怒るなよ」
「これを怒らなくて、いつ怒れというんですかっ!」
あの後宗次郎はは真実を鹿之助に話したが、信じてもらえれたのか定かではない。
「あの女の人と婚約すれば良かったじゃないですか。どうしてあんな綺麗な人…」
「俺の勝手だろ、」
「その歳三さんの『勝手』に巻き込まれた私をどうしてくれるんですかっ」
はぁと大きくため息をついた宗次郎を、土方は
「いっそ結婚でもするか、宗次郎」
とからかったのだが
「いやです!」
という答えが返ってきたのはもちろんだった。そしてその後、勇が三日間土方と口を訊かなかったというのも、当然のことだった。



13
安政五年十二月。
確実に食客の数が増えつつある試衛館は、今年も大晦日を迎えた。振舞酒だ、新年だ、とドンチャン騒ぎの試衛館食客たちに一番迷惑しているのは勇の養母、ふでだ。彼女は水のように流れていく酒を黙って持っていくしかなかった。
もちろん、ガシャンッと嫌みを強調しておいていくのだが。
宗次郎は新年で17,土方歳三24,勇25。みんな一つずつ年を取ろうとしていた頃。


雪がしんしんと降り、大変趣深い朝となった安政五年の十二月三十一日。
土方は庭に出て腕組みをしてブツブツ言いながら、なにやら考え事をしていた。
「…おもしろき…ぅん?」
そんな土方の様子を偶然目撃してしまったのが、ハタキを持った宗次郎だ。宗次郎は大晦日前の大掃除を手伝ってもらおうと、声を掛けようとしたのだが
「としー…」
というところで終わってしまった。一人でなにやら真剣に考え込んでいるのを見たのは初めてだった。
「…?」
ブツブツ何かを呟いているようだが、遠く離れた宗次郎の耳には聞こえない。しかも土方は宗次郎に気づいていないようだった。
(変なの)
宗次郎はそのまま声を掛けられないまま、去ってしまった。

しかし宗次郎はどうしても土方の行動が気になったので、まず、大掃除の手伝いをしていた山南に声を掛けた。あれがこうで、こうなんだ。と話すと山南はう~んと腕組みをして
「それは土方君が学問をしているからではないか」
とまたまた難しいことを言った。
「? 学問をしたら、あんな風になんにも喋らなくなっちゃうんですか」
「いや、日本の歴史などを学ぶと、感慨深くなってしまうものなんだよ。私も学問を学んだときはそうだった」
なにやら、雲行きが怪しい。
「…がんがい?」
「土方君は学問をしているのか、そうか…」
うん、うん、と嬉しそうに頷く山南は、「ありがとう」と、訳のわからないことをいい嬉しそうに大掃除の手伝いをするべく、去ってしまった。
「?」
宗次郎は傾げた首を元に戻すことができなかった。

「そうか、土方さんがなぁ…」
次に出会ったのは永倉と原田のペア。二人はふでに言いつけられて食器の整理をしているらしい。原田の手つきが覚束ないのが心配だ。
「なんだか、一人考え込んでて。心配事でもあるのかな」
宗次郎がまじめな顔をして言った。真剣に聞いてくれるのは永倉だけで、原田は鼻歌交じりに聞いている。永倉は馬鹿らしいほど真剣に、
「そういうのは土方さんに聞いてみるといい。君には心を許しているようだから すぐに教えてくれるさ」
「ばっかだなー」
永倉の意見を笑ったのは原田だった。
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは。」
「そんな、土方さんが悩むことって言ったらよぉ、こ・れ・以外ないだろー??」
原田が宗次郎に見せつけるように差し出したのは、右手の小指。
「?」
「こゆび、こゆびと、こいびと。恋人ってことだ。女のこと以外あの人の頭にあることはないのか~??」
ふふふと、なにやらこちらはこちらで話の雲行きが怪しい。
「そうなのか」
永倉はこれまた真剣に聞いた。
「だってよぉ、あの人がヤらせてくれっていって足を開かない女はいねぇだろ。今度はどの女にするか。考えてるんだよ」
「…」
「そうなのか」
永倉はただまじめにその話を聞いていた。

「女の人か~…」
宗次郎はやや落ち込み気味に呟いた。これだけ心配したのにその理由が『女』というのはなにやら腑に落ちない。
「…私が、女の人だったら」
そういう対象になるのだろうか。そんな風な方向に思考が行ったところで、宗次郎ははっとなった。
「な…っ!そんなこと考え…」
そんな馬鹿な。きっとこの間の縁談騒動でなにか悪い病気にかかってしまったに違いない。なんてこと考えているんだ、宗次郎。お前は男で男なんだから男だ!
宗次郎はポカポカと自分の頭を叩いた。歳三病出ていけ!と願いながら。
「あ~っもうもうもう!!」
「…なにやってるんだ」
と、そこへ現れたのは悩みの元凶の土方だった。
「えっ…何でもないです!」
「そうか、ならいい。掃除は終わったのか」
「はい、歳三さんがいなくても終わりましたっっ!」
宗次郎は口を尖らせて通り過ぎた。こっちがこれだけ心配をしているのにっと。その様子に土方は首を傾げた。

宗次郎はバタンバタンと足音を激しく立てながら庭先に出て、箒を持った。ちょうど手にした箒が室内用の箒だったので部屋を掃除しようと思い、また部屋に戻った。
「あ」
土方の部屋を通り過ぎたとき、その部屋が荒れていることに気が付いた。
「もうっもうすぐ新年だって言うのに!」
部屋が荒れてる!女のことは考えてる!
宗次郎はそのすべてに嫌気が差した。そしてせめて部屋だけでも綺麗にしようと
部屋に進入したところ。
「…うわぁ…」
入ってみれば、さらに感じるこの荒れた様子。何かあったのか、と思えば女のことが頭をよぎる。
「もうっ!」
自分の苛つきを掃除に向けるべく、宗次郎は掃除を開始した。…が。
「?」
文机から落ちたのは一冊の冊子。普段から本を読まない人だから本らしいものがあるのは珍しかった。
「なんだろう…」
宗次郎がぱらっと開くとそこには土方独特の文字が敷き詰めてあった。
「??『春の草 五色までは 覚えきり』『玉川に 鮎釣り来るや ひがんかな』
 『願うこと あるやもしれぬ 蚊取虫』・・・」
どうして春の草は五色までした覚えられないんだろう。その気持ちはわかる。
鮎釣りに?歳三さん。釣りは嫌いだっていってたのに。願うこと?蚊取虫に。あるのな。あんなに容赦なく叩いているのに?
宗次郎にとってこの『俳句』は不思議で仕方がない。こんな下手な俳句を好んで写す人なんて少ないだろう。ということは。
「宗次郎!!」
やや悲鳴にも似た声が部屋に響いた。
「と、歳三さん」
「見たな?!」
 鬼のような形相に、宗次郎は思わず素直に「はいっ」と答える。
「み、見ました。もしかしてこれ、歳三さんが…?」
土方は頬を赤く染めた。
「誰にも言うなっ 言ったら殺すぞ!」
「は、はいぃ!」
その目は本気だった。宗次郎は箒を投げ捨てて急いで逃げた。
そんな宗次郎の異変を感じた勇が声を掛けたのだが「なんでもありません」とうつむいたまま宗次郎は走り去った。
それにしても、そんな趣味があったなんて。じゃあ庭先で考えていたのは俳句?
そう考えるとすべてに合点がつく。ぶつぶついっていたのも。そうしてできた句はきっと最後の欄にあった、『おもしろき 夜着の列や 今朝の雪』だったのだろうか。

「土方君」
「あ?山南さん?」
突然の珍客に土方は驚いた。
「こんな夜更けに…?」
「いや、君が学問をしていると聞いたものだから」
「は?」
「私の古本だが『日本外史』。是非読んでみてくれ」
土方は何故自分が学問書である『日本外史』を受け取らされたのか、生涯知ることはなかったという。



14
安政六年、春に限りなく近い冬。試衛館にもまた新しい春が訪れようとしていた。

「困った」
「全くだ」
「困りました」
「申し訳ないな」
「ったく、どうするかねぇ」
大の大人が四人囲炉裏を囲んで井戸端会議・・・というよりは囲炉裏端会議を開いている。そのメンバーは勇、土方、山南、永倉、そして原田だ。そのやや引いてしまうような光景を目にしたのは宗次郎だった。
「…あの?」
通り過ぎるわけにも行かず、宗次郎は声を掛けた。
「宗次か。お前もちょっと来い」
豊玉宗匠…ではなく、土方は眉間にシワを寄せて宗次郎を手招きする。それに逆らうわけにもいかず、仕方なくその手に引かれてみることにした。
「ど、どうしたんですか」
宗次郎はまず、隣の土方に聞いた。しかしその答えは山南から帰ってきた。
「お金がね、ちょっと足らないんですよ」
「お金?」
宗次郎は首を傾げた。すると次は永倉が口を開く。
「…試衛館は門下生の割には食客が多いですからね。食客がこれだけいるといろいろ苦労があるらしく。お金の面ではふでさんに任せきりだったが…」
なんだか話がよくわからない。
「ったくよぉ、何でこんなに居候が多いんだよ」
原田がぼやくようにいった。
「お前もその一員だろ」
つっこんだのはもちろん永倉だ。

話を簡潔且つ、簡単にするとこうなる。
試衛館は前々から金銭的に苦しく、そしてさらに近年食客が増えたこともあり試衛館の財政は苦しかった。その窮乏に絶えかねた勇の養母ふでが家出をしてしまったというのだ。夫である周斎がその行き先を探しているが、そう簡単には見つからない模様。ふでがいなければ食事の支度もままならない。
仕方なくこうして井戸端…もとい、囲炉裏端会議を開いているというのだ。

「まぁ、俺は料理はできるけどさ」
「え?!」
五人一斉にその声の主に目を向けた。その声の主が原田だったのだ。
「なんだよ、その顔。俺様は放浪の旅でよく自炊をしてたんでな。まぁ任せろって!うまいもん食わしてやるからよぉ」
調子に乗った原田は腰に手を当てて、がっはっはと笑っているが事態はまだ解決していない。
「でもお金はどうするんですか」
「稼ぐしかないだろ」
土方はきっぱりと言った。
「そうだな、これだけの人数がいれば数日の金は稼げるだろう」
永倉も土方の意見に賛同した。
「これから夕方の間に職探し、というのはどうです」
山南の意見に皆頷いた。
「ただし、勇さんは手を出すなよ」
「なっ?!」
「大将に職探しなんかさせられるか、いいな?」
その意見にも皆頷いた。納得いかなそうな顔をしているのは勇だけだ。


かくして。
二手に分かれ職探しが始まった。当然のごとく宗次郎と一緒なのは土方だった。
キョロキョロと辺りを見渡して職探しをする宗次郎に対して、土方はただ歩いているだけだった。
「もうっ、探してますか??」
宗次郎が拗ねた顔をすると
「探してる、探してる」
と適当なことを言う。宗次郎は半ば呆れていた。
「…お前」
「なんですか?」
「元服はしないのか」
「…そういう時期じゃないと思うんですけど。っていうか、そんな呑気な話…」
土方は突然宗次郎の紙をクシャクシャッと掻き回した。
「なっ」
「このザンバラ髪。どうにかしたらどうだ。女みてぇに長ぇじゃねぇか」
「~~~~っ」
言い返す言葉が無くて、うーうー唸っている宗次郎を見て土方は笑った。
宗次郎は最近身長が伸びた。とはいっても土方ほどではなく、勇ほどでもなく。
ただ土方が頭を撫でたり、頬をつまんでやったりすることができない位の身長になったのだ。それでもその容貌だけは変わらなかった。姉のミツによく似た、漆黒の髪と目鼻がハッキリとした顔。『可愛い』というよりも『美しい』という言葉がよく似合う。
「まっ、勝手にすればいいけどな」
「…何なんですか、一体
宗次郎には土方の行動がよくつかめない。
最近はよくこういうことが多いと思う。俳句を作っていた…というのはとにかく。
優しいと感じたら、すぐに殴られたり。婚約者になるはずだった女の前で、接吻して見せたり。
「…」
本当によくわからない。

土方は『急募』という張り紙を見つけた。というより見つけてしまった。
『急募 用心棒求む』
詳しいことはこの大店で聞けということなのだろう、それだけしか書いていない。
宗次郎にはこの役は重すぎる、と感じた土方は振り向き、宗次郎に帰るように伝えようとした。
「…宗次?」
しかし後ろに付いてきていたはずの宗次郎が、そこにいない。
どこへ行ってしまったのか。


「みっつけた~」
宗次郎が嬉しそうに眺めている張り紙は『給仕・洗濯 若者大歓迎』という張り紙の付いた大きな屋敷の前だった。どっしりとした建前は威圧感さえある。
「給仕、洗濯っていうことはお手伝いさんってこと…かな」
さらに若者歓迎、とまである。土方がいないことに罪悪感はあったが、宗次郎はその中に入ってみることにした。
大きな門を開けるとすぐに大きな庭が広がっていた。松を貴重とした和風で、盆栽が立ち並んでいる。
「えっと、どこから入れば…」
宗次郎が右、左をキョロキョロしていた、その時。
「オイ、お前!」
と太い声がした。
「えっ はいっ!」
「ここで何をしている」
男の睨むような眼差しに、宗次郎はびくびくしたが
「あの、表の張り紙を…」
と、言いかけたところで男は「ああ」と納得してくれた。
「まあ中に入れ、主人がそこにいるさ」
丁寧に道まで案内してくれるものだから、宗次郎はすっかり安心して「ありがとうございました」と頭を下げた。

「よし、今日から働くといい」
老人っぽい主人は宗次郎から「試衛館門人 沖田宗次郎」と聞いただけで働くことを了承した。宗次郎は嬉しくて「はいっ」と元気よく返事をした。
そして連れて行かれたのが、宗次郎と同じか、それより下の年の男の子ばかりが集う部屋だった。放り投げられるように入れられると、中にいた三、四人の男の子が近寄った。
「あの…?」
「お前、どうしてここに?」
宗次郎よりもやや幼い男の子が宗次郎に尋ねた。
「どうしてって…働こうと思って」
そういうと、回りの男の子が全員顔を曇らせた。
「お前もだまされたのか」
「だまされた??」
宗次郎と同じ位の男の子が説明をしてくれた。
「俺も最初は働こうと思ってここに入ったんだ。でもここはそういうところじゃねぇ。…ここの主人は稚児好みで、そういう目的で俺らを働かせるの」
「…って、つまりここ」
「そう、遊女みてぇにあの老人に『体売って』金稼ぐところ。」
宗次郎は血の気が引いて、冷や汗が出るのを感じた。辺りを見渡すと、確かに艶めかしい男の子たちばかりだった。今、話をしている少年も
「さらにここは俺らの売却までしてるんだ」
「ばいきゃく」
手が震える。まさか、そんな馬鹿な。
「…逃げなきゃ」
宗次郎は立ち上がった。が、少年に止められた。
「馬鹿、逃げられるわけ無いだろうっ、見張りがいるんだ」
そういえばあのしかめっ面の男は…見張りだったということか。
「じゃぁ、どうすれば…」
「そんなの、もう道は一つしかないさ」
がくんっと膝が砕けた。まさか、まさかそんなことになるなんてと、まだ現実を受け入れられない。
「さらに言わせてもらうと。あんた綺麗な顔してるし、あの老人の好みっぽいし。危ないかもな」
「…そんな…」
想像しただけでも震えが来る。今まで土方とは色々とあったがまさか他人に好き勝手される日が来るとは…。
「…歳三さん」
都合良く現れるほど、現実は甘くないのだと再確認した。


「お前、名前は?」
色々と説明してくれた少年が話しかけた。
「沖田…宗次郎」
「ふぅん、俺は弥彦。父ちゃんに売られてここに来たんだ」
「え?」
そんな哀しいことを笑って述べる少年に、宗次郎はひどく違和感を感じた。
「病がちな妹がいてさ。結構病が重いから金がかかるんだ。そのために、俺は・・・」
「…そか」
経緯を聞くと、少年…弥彦のイメージが変わる。そして先ほどまで自分が世の中で一番不幸だという意識はなくなった。
「まぁ何回か我慢すれば老人も飽きるしさ、それまでがんばれよ」
「…そうだね」
何の解決にもなってないけれど、何となく宗次郎は嬉しく感じた。


一方。
「ったく・・・どこ行きやがった」
不機嫌そうな顔を全面的に出すと、その美しい容貌が壊れる。土方は歩き回っても見つからない宗次郎の行方がまだつかめない。
「職でもみつかったのか、馬鹿野郎め」
と、大きな屋敷の前を通り過ぎた。
「ん?」
土方の目に飛び込んだのは『張り紙』。
「…給仕・洗濯…ふうん。なるほど」


「宗次郎、お呼びだよ」
顔がくしゃくしゃで不細工な老婆が、大きな声で宗次郎を呼んだ。
「ほら、最初は痛いけど慣れたら大丈夫だって!」
励ましの言葉も、まったく励ましにならない。
「う。うん…」
宗次郎は重い足を上げた。

女は庭先の心地の良い部屋に連れて行った。そこには当然のごとく、老人が待ちかまえるように座っている。
「…あの」
「宗次郎だったか、ここに来なさい」
宗次郎は老人に近寄った。優しい微笑みとは裏腹に、近寄った宗次郎を扱う仕草は卑しかった。目の前に座るとまず感触を確かめるかのように首筋に触れる。
そして一瞬の間に上半身が露わになる。
「…っ!」
その動作と同時に目に入ったのは目の前にある、刀。
老人は自分の横に護身用だろうか、高級そうな刀をおいている。
(これさえあれば…!)
宗次郎はその刀を取るべく、老人を押し倒した。老人は何を勘違いしたのか嬉しそうによがる。
そして瞬く間にその刀を手にして、抜いた。
「ひぃ?!」
「…斬られたくなくば、私から離れてください」
精一杯のにらみをきかすと老人はすすっと離れた。宗次郎はまず乱れた自分の着物を着直すと立ち上がった。
「誰かー!!」
その隙に老人は人を集めるべく、大声で叫んだ。
「!」
その足音の数は尋常ではない。その声は屋敷中に響き屋敷にいる見張りが全部集まってくるのだから。…が。
バコンッ、ドカッとやや道場で聞き慣れた木刀の音の方が大きかった。
「歳三さん!」
庭先に目を向けると、見張りを何人突破したのか、土方がそこに立っていた。その手には木刀。
「生きてたか、お前も相当悪運が強いらしいな」
「お互い様っ」
宗次郎は裸足のまま、庭に飛び降りると土方に近づいた。
「待てっ逃がすな!」
老人の声と共に数人のしかめっ面の男たちが宗次郎らを取り囲む。
「ったく、面倒だな」
「喧嘩の血は騒がないんですか?」
宗次郎がにぃっと笑った。土方も
「騒ぐさ」
と返事をすると、敵に向かって木刀を振りかざした。どちらに軍配が上がったのか、言うまでもない。


「ああ、よかった、よかった」
宗次郎は夕焼けを眺めた。
「よかった。じゃねぇよ。馬鹿が。給仕・洗濯をするのに何で『若者』か考えなかったのかっ」
「え?」
「給仕・洗濯ってのはな、稚児が『奉仕』することを意味するんだっお前のその薄っぺらい辞書にたたき込んでおけ!!」
宗次郎は「はい」と小さく返事をした。今日、その話題はもう止めてくれと思いながら。
あの屋敷に捕らわれていた少年たちは皆解放された。出会った弥彦も番所が別の働き口を見つけてくれるらしい。これで一件落着…というわけではなく。
「…職探し、できなかったですね」
「まぁ、山南さんや永倉がやってるだろ…」


土方がいったとおり、山南と永倉は無事に職を見つけて試衛館に戻った。その金で買った野菜と果物、卵らはすべて原田に預けられた。が…野菜のザンバラ切り、ゆで卵、果物の盛り合わせ。そして粥に近い米。…こんな夕食はもうごめんだと原田以外、誰もが思った。



15
安政六年、五月。うららかな春の陽気に誘われてか、試衛館もなにやら騒がしい。


「…まさか、そんな」
「ついに…やったな…!」
信じられない、と驚愕するものと、ついに、と予測していたもの(原田)と。試衛館でその知らせを受けての反応は二つだ。みな、土方の顔をじろじろと見ている。
大半は(信じられない)という思いで見ているが、原田だけは(ついに、やったな!土方さん!)と、拳を握らせている。
「…俺にはおぼえはねぇ」
土方は小さく否定する。その可能性が0では無いからだ。

試衛館に久々に帰ってきた土方は、現在両腕に赤子を抱えている。もちろん土方が産んだわけではなく。吉原の遊女から預かったのだという。『歳さんの子供ぇ』と。確かに好意に思っていた女だったが、まさかそういうことになるとは思わなかった。全くを持って、覚えがない。
 以上が土方の言い分だった。
「…いつかやるとは思っていたが…歳…」
「はぁ?!だから違うっていってんだろ、いさ…」
「全く、日頃の行いが悪いからこうなるんですよ」
「黙れっ。そー…」
「どうしましょうかねぇ…」
冷ややかな目線に土方は、戸惑った。赤子は目がくりくりとした女の子で、ぎゃぁぎゃぁと土方の腕のなかで泣く。まだ生まれて半年にも満たないだろう。
「もう、かしてください、歳三さん」
赤子を不憫に思ったのか、宗次郎は土方のかわりに抱いた。
「べろべろばぁーっ」
それを何度か繰り返すと、赤子は泣きやみついにはキャッキャッと笑うようになった。
「…お前、手慣れてるな…」
「歳三さんが怖い顔しているのがいけないんですよ。可愛いじゃないですか、ね~?」
赤子は言葉がわかったのかのようにキャッキャッ笑う。土方は「ふんっ」と鼻で笑うと、ドスンと座った。
「で、土方さんどうするつもりなんだ」
この状態で一番冷静なのは永倉だった。
「女に返しにいくさ」
「どう言って?」
「俺の子じゃねぇってな。」
むすっとした顔で土方は言うが、そんなに簡単な話ではないだろう。遊郭で赤子を育てることは極めて難しく、また一度引き取ってしまった以上、女が引きとることはないだろう。
「歳は育てる気がないんだな?」
「当たり前だ。俺の子じゃねぇ」
いまいち、信用ならないという勇だったが、ため息をついて重い口調で言った。
「仕方ない、里親を捜すことにしよう。引取先は…」
「え?そ、そんなの可哀相じゃないですかっ!」
勇の「里親」の意見に、大きく反応したのは宗次郎だった。赤子を抱いた手の力が抜けそうだった。
「可哀相って言っても、お前、女じゃないだろ。乳は出ないし」
原田がからかい口調にそういうが、宗次郎の耳には入っていない。
「親子で育てるべきですっ!ましてや、お母さんの方が生きているんなら尚更・・・」  
宗次郎の言葉はそこで止まった。宗次郎の大きな声に反応して、泣きやんでいた赤子がまたワァワァと泣き出したのだ。
「あ~、いい子だから、いい子だからぁぁ~」
「とにかく、里親を捜そう」
宗次郎が赤子をあやしている間に、その議論は決まってしまった。


赤子は宗次郎の膝の上で、すやすやと眠っている。ふでに預けようとしたのだが、赤子は「嫌だ」というばかりに泣くし、ふでも嫌そうな顔をする。仕方なく宗次郎はこうして縁側で赤子の世話をしながらぼーっとしている。
「宗次」
そこにやってきたのは土方だった。
「土方さん、もう少し小さな声で喋ってくださいよ、やっと寝てくれたんですから」
すると土方は黙って宗次郎の隣に座った。土方はじぃっと赤子の顔を見た。
「…これ、似てると思うか?」
「ん~…あんまり似てないと思うんですけど…」
正直なところ、土方には似ていない。目もくりくりとして大きいし、髪質も違うし、何よりも青味掛かった瞳をしている。少し異人の血も混じっているのかもしれない。
「でも可愛いでしょ、」
「そうか・・?」
土方は信じられない、という風な顔をしたが、宗次郎は自信たっぷりに頷いた。
「…お前、何で里親探しにそんなに拘るんだ?」
土方は本題を述べるかのように、突然そんな話をした。
宗次郎は「え?」っと初めは何も言えなかったが、「えっと」と言いづらそうにいった。
「私は、親の顔なんて覚えてませんし、姉上に育てられましたから…。それが不満でも、不自由でもなかったんですけど。時折、両親のこととか言われると、顔が出てこない自分が…寂しかったり、するんです。せっかく親が生きているのに、本当のお母さんじゃないところに連れて行かれるのって可哀相じゃ…ないですか?」
宗次郎が真摯にそんなことを言うので、土方は答えられなくなった。
「この子が…お母さんに元で暮らすのが一番だと思うんです」
生きているのなら。
「…まぁ、俺もお前と同じ境遇だからな」
「え?」
しばしの沈黙のあと、土方がそう切り出した。
「俺もお前と同じで姉に育てられてるんだよ、知らないか?両親が肺病で死んだからな…。父は見たこともない、俺が生まれる直前になくなった」
土方がふと、遠い目をした。
昔のことでも思い出そうとしているのだろうが、それがどんなにつらい思い出か。宗次郎も知っている。両親がいないことで近所の子からからかわれた日々もあった。土方も、同じだろうか。
「…土方さんは、この子、どうしようと思っているんですか?」
宗次郎は静かに聞いた。同じ境遇の土方が出す答えなら、何でも従おうと思った。でもきっと、答えは同じだと思っていた。
「…女に返すさ」
土方は立ち上がった。


宗次郎は寝ている赤子を揺らさないように抱きかかえ、試衛館を出た。もちろん土方も一緒だった。そして向かうのは夜の「仕事」を迎える前の吉原だ。
「土方さ、まって、待ってくださいよ」
宗次郎は息を切らしながら、土方の跡を追った。赤子を抱えているせいか、腕は痛むし揺らさないように気を遣うので精神的にも疲れる。
「仕方ねぇなぁ…」
「な、何ですか、そのめんどくさそうな顔!そもそも土方さんが悪いんですからねっ!何でも人に押しつけて…どれだけ迷惑か!」
と文句をはき出していると
「ったく、赤子が起きるから静かにしろっていったのは誰だよ」
と嫌みに言われた。宗次郎は口を噤むしかなかった。

既に吉原は人混みで溢れていた。
こういうところに来たことがない宗次郎だったから、大層戸惑った。土方はもちろんこういうところには慣れているため、何食わぬ顔で目的地へ向かった。この赤子の母親の元だ。
吉原の隅にある置屋『青楼』は質素な店構えで、人混みも多くはない。しかし色艶やかな女性たちが中にいるのは宗次郎にもわかった。女の化粧の臭いがする。
「土方様」
ズカズカと店に入ると店主が慣れた声で土方に話しかけた。その後を付いて入ってきた宗次郎には気が付いていないようだった。
「鶴はいるか」
「へえ、二階の奥座敷です。呼んできます」
店主が二階に上がり、土方と宗次郎は女将に案内され『月の間』に入った。
「お鶴さんというんですか?」
「ああ、」
へぇと、短い会話をすると宗次郎は辺りを見渡した。店構えが質素なら中身も質素で、落ち着いた佇まいだった。どこか試衛館に似ている気がする。
「なんだ、落ち着かないのか」
土方はこういう場所に来たことのない宗次郎をからかうように笑った。宗次郎も言い返す言葉が無く、口ごもっていると
「鶴です」
と女の声がした。
スッと開いた障子から中に入ったのは、目が細く、どこか浮世絵に似た女だった。
大層美人というわけではなく、宗次郎の印象としては洗濯物を干してそうな姿が似合う、生活感がある女。
「土方様、…そちらのお方は?」
女は落ち着いた声で宗次郎を見た。
「こいつは同じ道場にいるガキだ、沖田という」
「が…ガキって…」
「…そうですか。それで、ご用件は?」
お鶴は宗次郎の腕にある子供に見向きもしなかった。土方は質すようにいう。
「この赤子は俺の子、というのは誠か?」
「…はい」
お鶴の言葉には躊躇いがあった。
「でも目や髪は少し青色で、あんまり歳三さんには似てません、…どこかの異人の子供じゃないんですか?」
宗次郎の言葉に、お鶴はうつむいてそれでも「いいえ」と答えた。
「お鶴、お前はどこから見ても異人には見えない、そうなると父親が異人じゃ…」
「ちが…います。この子は歳様の子供です。」
「お鶴、」
「……」
土方に眼差しにお鶴は耐えきれなくなったのか、言葉で否定の言葉を述べなかった。
「…あの、この子が異人の子供であることを責めているわけじゃないんです。ただ…本当の母親の側にいることが…」
宗次郎がお鶴を慰めようと掛けた言葉だったのだが、
「貴方に何がわかりますか!」
と、お鶴は涙を浮かべて宗次郎を睨んだ。
「遊女の女に育てられた子供が、どんな人生を歩むか!もう、生まれたときから決まっている、この子はあたしと同じ、こんな仕事をすることになる、そんな…可哀相でしょう…?」
初めは勢いよく話をしていたのだが、最後の方になるとお鶴はわぁわぁ泣きだしてしまった。宗次郎はポカンッと口を開けたまま放心状態になってしまった。
さっきの慰めるつもりで言った言葉は、このお鶴にとっては『子を捨てた親』への責めでしかなかった。
「…それでも、お前はこの赤子の母親だろ?」
土方は宗次郎の腕に眠る赤子を抱き上げ、お鶴に抱かせた。
「この赤子がどんな人生を歩むか、それを見届けなくてもいいのか?遊女として働くことになればお前が助けてやればいい、…母親だから、お前が守れ」
「…歳様」
お鶴は赤子の顔を見た。安らかに母の腕で眠っていて、その顔はどこかしら微笑んでいる。
「初めて見た…」
宗次郎は呟いた。母の体温を再び感じられた赤子は、一層気持ちよく眠っているのだろうか。
「…っ」
お鶴はポトッとその赤子に涙をこぼした。そしてギュッと抱きしめた。その顔は母の顔だった。


「もうこんなことはごめんですよ」
宗次郎は空になった自分の腕の中を物寂しく思いながら、口を尖らせた。
「そもそも歳三さんが女遊びばっかりしているからいけないんです。これからはもう少し考えて行動を…」
「ったく、うるせぇな。俺の人生だ、俺の好きにさせろ」
「その『歳三さんの人生』で『私の人生』まで迷惑が掛かっているんですよ?!今回はこうやって無事にことが片付いたから良かったものの…!」
「はいはい」と適当な返事をして土方は、宗次郎の手をつないでやった。
「?なんですか」
「お前、寂しいんだろ?」
「……」
見事に見抜かれている。
(どうやったら歳三さんに勝てるんだろ…)
今回ばかりは情けない歳三さんに勝てると思ったのに、そうはいかないみたいだ。
つながれた手に温かさとぬくもりを感じてしまったから。



16
安政七年(1860)三月十八日。
『安政』を改元してこの日より万延元年となった。そして万延元年三月二十日。試衛館は賑わいを増しつつ、また男臭さも増しつつ新しい春を迎えた。例年変わらぬ騒がしさで、これもまた変わらない原田の酔いっぷりにはふでは閉口していた。
そんな春うららかな試衛館にその知らせは飛び込んできたのだった。


「…ご結婚…!?」
宗次郎は試衛館メンバーの中に埋もれる形で、その知らせを聞いた。
「それはおめでたい。」
「おめでとうございます」
「なんだよぉ、早くいえって近藤先生~」
永倉が勇としっかり握手を交わし、山南はいつもの冷静な顔を取り乱して微笑み、原田はからかい口調で笑う。そんな中宗次郎は満面の笑みで「おめでとうございますっ!」と祝福したのだった。
何がおめでたいかというと。
試衛館の総大将、近藤勇のもとに二合半坂の西、飯田町に住する清水家の家臣松井八十五郎の長女、つねを娶ることになったのだ。もちろん、相手は武士の家柄。これは勇が武士として相手方に認められたことをも意味する。
「良かったじゃねぇか、勇さん。相手は清水家。しかもその女は一橋家祐筆も務めてたっていうじゃねぇか。」
「歳、別に俺は家柄を気にして娶ったわけじゃあ…」
「え?!じゃあなんだって?!いい女ってことだな?!」
原田が丸出しの期待の眼差しを向けた。
「原田さん。そういう話は…」
「まぁいいじゃねぇかよっ!山南さん。あんたも興味あるだろー?」
いや、別に。と山南は顔を顰めたが気にする原田ではない。
「ってぇと、近藤先生惚れたのか?惚れたんだな?!」
「う…、まぁ、そういうことに…なるか」
「なんだよ~っ照れるなよ~」
原田は勇の肩を易々とバシバシ叩く。勇は戸惑い気味だ。
「でも近藤先生。その…つねさんというお方はいつ嫁がれるんですか。結納もまだですよね」
「…それが、今日が結納だ」
「は?」
原田を覗く試衛館メンバーは顔を見合わせた。
「いや、急にこんなことになってしまって悪かった。言い出せなかったというか・・・。
花見の席で言おうと思っていたんだが、どうも酒が回っていて忘れていた。」
勇は本当に申し訳なさそうに頭を下げたが、宗次郎にとって別に迷惑なことではない。
「え?!じゃあ今日来られるんですね」
「まぁ、そういうことになる」
「おおぅ!そりゃ楽しみだ!」
原田と宗次郎はぬか喜びに喜んだが、他の三人の表情は硬い。
「てぇと、かっちゃん。まさかこれから準備とかじゃ…」
「…そうだ」
荒れくれたこの試衛館で結納をする。
春だと騒ぎ回り、そこら辺の障子が破れている。それに原田が普段からゴロゴロしているせいで掃除だってまともにしたことなど、ここ最近ない。

「…ちなみに、かっちゃん。その嫁さんはいつごろ…」
「二刻ほど後」
こうして年末の大掃除をやらなかったツケが回ってきたのだった。


ドタドタと小走りに全員が試衛館を駆け回る。
山南は玄関回りの掃除をしているし、永倉、原田は破れた障子を貼り替えている。土方は勇の結納の手伝いに。そして宗次郎はドタドタと一番大きな足音を立てて、廊下を拭いているのだった。雑巾を水につけ、堅くなるまで絞り丁寧に四角に折りたたみそれを自分よりも前方に置き、腰を下げ、一気に廊下の隅から隅に走る。もちろん前方の視界など確かめていないので、当然のごとく壁や柱にぶつかる。そして時には
「うわぁっ!宗次、お前ちゃんと前見てやれ!前を見ろ!」
土方にぶつかり、もちろん他の試衛館メンバーにもぶつかる。
「ご、ごめんなさいっ!」
「お前、額に痣ができてるぞ」
ひょいっと土方は宗次郎の前髪をかき上げ、その痣の具合を見た。そして人差し指で、ついてみると
「いたっ」
と宗次郎が剽軽な声を上げた。
「ったく、この間抜けが。間抜け顔がますます間抜けに見えるぞ」
「なっ!なんてこというんですか!」
宗次郎はプクッと頬を膨らませたが、実際そんなことをしている暇はない。
もう、いつ結納が始まってもおかしくない時間なのだ。


「つねと申します」
試衛館の訪れたのは仲人、そしてつねの両親。そしてつねだ。そして顔を合わせには近藤家現当主、周助、そしてふで。それから勇だ。
つねは凛とした美しさの中に気品を持つ、いわば『さすが武士の娘』といったところだろう。どきまぎしているに違いない勇とは違って、落ち着いた風も持つ。
「ありゃぁ、いい女だな」
土方は庭越しからさらに、原田、永倉が塞いだにもかかわらず開けた障子の穴を通して見えるつねをそう評価した。
「歳三さんっまさかっ」
宗次郎が心配そうに土方の顔を見たが
「馬鹿。人の嫁さんに手を出す程、俺はもてあましちゃいねぇんだ」
ふっと笑った顔は、自信に満ちあふれている。「もう」宗次郎はため息をついた。
しかしその不安が解消されたわけではない。
「いい女だなぁ、新ぱっつぁん」
今にもヨダレを垂らしそうな原田が、つねを舐めるように見ているのだ。
「ちょ、原田さんっ」
宗次郎が慌てて穴から原田を引きはがそうとしたが、全く無駄でその体はビクともしない。
「原田さん、ちょっと相手は近藤先生のお内儀になる方ですよ!?」
山南が宗次郎の様子に気がついたのか、共に引き留めようとしてくれたのだが
「決めた。俺はあの女をものにする!」
「はぁぁ?!」
宗次郎と、山南と永倉とが剽軽な声を上げたが原田は全く気にもとめない。
「いんやぁーいい女だな、近藤さんが惚れるのもわかるぜ」
「わ、わかっているならそんなものにするだなんて!」
「…人妻って響きもいいよな」
ますます妄想はヒートアップ。こうなればもう誰も止められない。
「歳三さん!」
宗次郎は土方に助けを求めたが、土方は耳の穴を穿って大して深刻そうな顔もしないで「そりゃ大変だな」といった。
「つねさんは近藤先生のお内儀なんですよ!?」
「野暮だな、宗次。俺は人の恋路を邪魔する程の男じゃねぇ」
「原田さんは人の恋路の邪魔してますって!!」
宗次郎は必死に言うが、土方はまじめに取り合ってくれそうもない。この状況を楽しんでいるのだ。
「…もういいですっ!」
宗次郎は身を翻して、原田の説得に向かった。
「原田さんっ!相手は近藤先生のお内儀ですよ!冗談もほどほどに…」
「冗談?!冗談なわけないだろ?!惚れたものは惚れたんだ」
「そうだ、原田さん。沖田君の言うとおりだ 人妻はとにかく、相手は近藤先生のお内儀。あきらめたまえ」
山南は諭すように言ったが、今まで人の言うこと聞かずに生きてきた原田がそんなことを聞くはずがない。人の話も聞かずに、切腹をしたような男なのだから。
「あきらめねぇったらあきらめねぇ!」
大声を出すと、そのまま部屋を飛び出してしまった。
「あ!原田さん!!」
『まっすぐな男・原田』が向かったのはもちろん、結納が行われている離れの座敷だ。


バシンッと障子が壁にぶつかり合う音が座敷中に響く。その座敷に無礼も千万、原田がズカズカと乗り込んできたのだ。
「左之助!?」
原田が眉をつり上げ、いつになく、というか今まで見たことの無いようなまじめな顔でこちらに向かってくる。困惑しているのはもちろん勇だけではない。ふでが素早く立ち上がると、原田を制止しようと
「お待ちなさい!」
と声を荒らげ、原田の腕を掴もうとしたが掴めなかった。
つねの両親が「なんなのだ、君は」と驚きの表情を浮かべる中、原田はつねの白く細い手を握った。
「あ、こら、左之助…!」
「つねちゃん、俺と結婚しよう!」
唐突な言葉に面食らったのは、つねではなく勇だ。
「左之助!お前!」
「なぁ、俺あんたに惚れたんだ。こんな無骨なおじさんは止めてさ、俺にしようよ~」
これは冗談の域を超えている。勇はそう感じ、原田の方を引くがつねから離れる気配はない。
「左之助っ!」
ちょうどそこに駆けつけたのは試衛館メンバー。辺りはもっと騒然となる。ぎゅっと握って離さない原田の手を、つねは優しくほどいた。
「…お気持ちは嬉しくおもいますが、わたくしは既に近藤家の嫁。人妻になった以上貴方との不義は許されません」
つねは誰よりも冷静な瞳だった。
「それでも、とおっしゃるのならわたくしはここで死ななければなりません。嫁ぐと決めた以上、その決意を裏切れば『不覚悟』。武士の娘として潔く死にましょう」
「…」
こういわれてはさすがの原田も、肝が冷えるような気分だった。
「い、いやつねちゃん、俺は・・・」
騒然となった辺りも、この言葉には皆黙り込んでしまった。つねは『凛とした武士の娘』の代名詞だったのだ。


試衛館の辺りの野花が、何故か消えていた。
春なのでいつもなら試衛館にたんぽぽくらいはいつも生えているのだ。だが、そのたんぽぽの亡骸は何故か試衛館の庭に広がっていた。
「…原田さん」
宗次郎は半ば呆れたように原田を見た。
原田はつねに『振られた』あと、ダッシュで座敷を出たと思うと、そこら中のたんぽぽなどを引き抜いてこうして縁側で「好き、…嫌い…好き」と繰り返しているのだ。原田曰く『花占い』。
「もう『振られた』んだから、そんなことしても無駄じゃ…」
「うるせぇ!宗次郎!!食うぞっ!」
食われるわけ無い。いつも冗談だと思って聞き流しているはずの宗次郎も、今回ばかりは一歩後ずさった。原田に本当に頭からかじられそうだった。

こうして結納が終わり、試衛館に唯一とも言える色気が生まれた。
原田の失恋の傷は翌日には癒えていたという。



17
万延元年六月。いつもならじめじめとした空気が、部屋中の汚臭を伴って試衛館中に流れ試衛館の誰もが(原田を除く)病がちになる例年だったが
今年は違う。
部屋中が隅から隅まで小綺麗になっており、いつもの悪臭はない。黒だったものが白に変わるかのような豹変ぶりに誰もが驚いた。もちろん、見事に試衛館を変えたのは近藤勇の妻、つねだ。つねは誰もが頷く、見事な武家の妻だったのだ。そしてつねのこの大活躍により、宗次郎の下働きの仕事は皆無に等しくなり、宗次郎も大分剣術に打ち込められるようになった。
そんな、試衛館らしくもないような夏…。


「歳三さんが?」
宗次郎は出稽古先から帰ってきて、一番に勇の困ったような顔を見た。何かあったのかと聞くと「歳が剣術を止めると言い出した」とのこと。
「また、どうして…」
「宗次郎、歳の実家が薬の行商をしていることを知ってるな?」
勇は宗次郎に尋ね、宗次郎は大きく頷いた。
石田散薬。土方の実家が営んでいる薬の行商で扱っている薬の名前だ。打ち身、切り傷…とにかく、色々なものに効くらしい、と土方が言っていたのを宗次郎は覚えている。だが宗次郎はこの薬の効き目はよくわかっていない。確か頭痛や腹痛に効くものもあるとか聞いたが、同じ薬がそんなたくさんに効き目があるとは思わないし、苦くて美味しくないのだ。『良薬口に苦し』というのが土方の持論で、土方さえも実際はその効き目はわからないのだろう。
土方家、もちろん歳三は試衛館に入門する前までは、この石田散薬を行商していた。そして行商をしながら、我流剣法を生み出したのだ。
「その、歳の実家の当主の喜六さんが体調を崩されたそうで歳もその手伝いに実家に帰っているんだが…」
「そのまま、実家に帰っちゃうんですか?」
宗次郎は出稽古に三日程行っていた。しかしその三日前の土方の様子に何ら変わりはなかった。きっと急なことだったのだろう、まだ土方の荷物が残っている。
「歳は最初喜六さんが元気になれば、帰ってくるといっていたんだが…。喜六さんの症状が思わしくないのだろう」
勇は小さくため息をついた。
「…そんな」
まさか。と疑いたくなるような事実だった。
喜六が回復しない限り、試衛館に土方は帰ってこない。その回復だっていつになるかわからない。もしかしたらそのまま…。
思考をグルグルと展開し、うまくまとまらないが胸の中には空虚感があった。ぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな感じがした。
「まあ、まだわからんさ。歳も帰ってきてくれる」
勇は宗次郎を元気づけるようにそういってくれた。宗次郎もこれ以上勇に心配は掛けられない。「そうですね」と無理矢理な笑顔で返した。


「はぁぁ…」
夕方になると胸の空虚感が、ますます広まった気がした。夏の夕暮れは遅い。だが、その夕暮れがさらに遅く感じた。
「…いつになったら、帰ってくるんだろ」
宗次郎は縁側で足だけブラブラとさせて、夕焼け空を仰いだ。いつもならこの時間は、夕食の手伝いを土方と一緒にしているか将棋をして土方に負けているような時間だった。
「いつも苛めてくるから、いない方が楽だと思ってたのに…」
思ったのに、本当は違っていた。この開いた穴を埋めることができるのは、一人しかいない。
「…よし」
宗次郎はぶらぶらと落ち着きのない足を、急に止めた。


「…それで、わざわざここまで来たのか」
土方は半ばげんなりした顔で、宗次郎を迎えた。
宗次郎は勇に断りをもせず、試衛館の誰にも伝えずここまで来たという。もう十七歳であるから別に夜の一人歩きを心配するでもないが、いつも『若先生の言うとおり』な宗次郎と見ていた土方は、この行動がまるで不思議だった。宗次郎は満面の笑顔で
「私なら当分出稽古もありませんし、私一人いなくったって試衛館にはスバラシイ人がたくさんいらっしゃいますし」
「…他の流派のな」
土方は苦笑した。とにかく、玄関先でペラペラ喋っても仕方ないので宗次郎を土方の部屋に案内した。宗次郎はキョロキョロしながら、土方について行った。
土方の実家に来たのは数える程の回数しかなくて、前に来たときは中にいれて貰えなかった。土方の実家は「お大尽」と地元の民に呼ばれることもある程の、裕福な家だった。門作りから立派で、太い柱が目立つ大きな家だった。廊下は広く部屋も数え切れない程ある。だが庭は天然の庭という雰囲気で、何の施しもされていないがそれもまた夏の夜の景色にあった。
土方の部屋に到着すると宗次郎は土方に習って、部屋に入った。部屋は試衛館の周助の部屋程の大きさだった。
「…勇さんから理由は聞いてるだろ。俺の兄貴が倒れて、しばらく俺はここにいなければならない」
「わかってます。そうじゃなくて、いつになったら帰ってくるのかを教えて欲しいんです」
「そんなのわかるわけないだろ」
「…そんな突き放したいい方しなくったっていいじゃないですか」
宗次郎はつんっと唇を尖らせたが、動揺する土方ではない。
「まるで、もう帰ってこないみたいじゃないですか…」
小さく呟くが、聞こえているはずの土方は何も答えなかった。
「だから、本当に本当に帰ってくるのか、教えてくださいっ。お兄さんの容態が良くないのは知ってます。だけど、だけど、私は…」
『一緒にいたい』・・・そんな本音は口には出さないけど、きっと伝わっているはず。宗次郎はそう信じて、土方の裾をぎゅっと握った。土方は間をおいて、答えた。
「さあな」
その理不尽な答えに、宗次郎は顔を強ばらせた。
「…なんですか、それ」
「なんだってんだよ」
「人がここまで来て理由をまじめに聞いているのに、貴方はいつもそうやって私に本音を教えてくれない。それに、出ていくこと位私に教えてくれたって・・・っ」
「ちょっと待て、俺が出ていくときはお前は出稽古で…」
「本当に意味がわからないんです…っ!からかってるのか、優しさなのか、それとも子供扱いなのかっ」
宗次郎は土方の胸板を強く掴んだ。そして目線を逸らす土方に、宗次郎はその手を振りかざし拳で土方の頬を殴った。
「なっ…!」
土方は面食らって宗次郎を睨んだ。
「試衛館を出ていくのも、剣術を止めるのも構いませんっ…だけど、だけど一言位相談してくれたっていいじゃないですかっ」 
「てめぇ、さっきから何を訳のわからないことをっ!」
土方は先程のお返し、とばかりに宗次郎の頬をひっぱたいた。
「訳がわからないですって?!もう老化現象ですかっ!?」
宗次郎は土方にのしかかると、力の限りを尽くし土方を押し倒した。
「こ、近藤先生には相談して、私には一言もなしってどうゆう了見ですかっ馬鹿にしないでくださいっ 私をいくつだと思っているんですか?!十七ですよ?!」
宗次郎は爪を立てて、猫のように引っ掻いた。もちろん、押し倒された土方も負けてはいない。
「だから!!お前はなに一人で騒ぎまくっているんだ?!」
「騒いでないですっ意見を言っているだけです!鬱憤を晴らしているだけですっ!」
宗次郎は手をバタバタとして、時には髪を引っ張ったり、また時には土方を引っ掻いたりとにかくやりたい放題。土方もついに堪忍袋の緒がきれて、
「いい加減にしやがれっっ!」
と、宗次郎の両手首を掴んだ。宗次郎は息を荒くしている。
「何を怒ってるんだ、」
「…だって、」
理由を述べようとしている宗次郎の顔が歪んでいることに、土方は気がついた。
そして次の言葉を出す前に、宗次郎はボロボロと土方を押し倒したまま泣きだしてしまった。
「な、何だよ、お前…」 
全くをもって行動がつかめない土方は、ただただ動揺した。どんなに苛めても、決して泣かなかった宗次郎が一人で取り乱して泣いていた。その原因は自分でしかない。
「ゆっくり話せ、ゆっくりだ」
「若先生が、歳三さんが帰ってこないって言って…。歳三さんが剣術止めるって言った。もう、帰ってこないって聞いて、それで…」
落ち着きを取りも出した宗次郎が答えたのは、単文だったが大体の意味はつかめた。
「.…お前は、俺がお前に相談しなかったことを怒っているのか」
土方が聞くと、宗次郎はゆっくり頷いた。それでも、泣きやむこともせず思うままに泣いていた。
「…剣術ができなくなるって勇さんに言ったのは、本当だ。」
ビクッと宗次郎が肩を震わせた。
「だが…決めたわけじゃねぇ。俺は中途半端なのが嫌いなんだ。兄の容態がすぐに良くなったら帰るつもりだ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするんだ」
やっとその言葉で、宗次郎は泣きやみ、涙を啜った。
「じゃあ、じゃあ、いつか帰ってきてくれるんですね?!」
「容態が良くなったらな」
そういうと宗次郎は急に安心した笑顔を見せた。
「第一、俺は試衛館を出るなんて言ったこともねぇし、剣術を止めるのだって決めたわけじゃねぇ。なに一人で暴走してるんだ、馬鹿」
「…ごめんなさい・・・」
全く、と言わんばかりに土方は宗次郎をよけて起きあがった。
「ったく、みろ、この傷」
「あ、え、あ…!そうだった!ごめんなさい」
思えば無心に土方につかみかかっていたせいで、土方の身体には無数のひっかき傷があるし、殴った頬も紅く腫れている。宗次郎は駆け込むように土方の姉の所へ駆けていき、傷箱を借りてきた。

「お前は俺に試衛館にいて欲しいのか」
宗次郎が土方の傷の手当てをしているときに、ふいに土方が宗次郎に聞いた。
「…だって、つまらないですもん」
「そうかい」
土方はふんっと鼻で笑った。
「…それに、ちょっとだけ、寂しいです」
宗次郎はちょうど背中の傷の手当てをしていたので、土方の微笑には気づかない。
「…仕方ねえな」


土方が試衛館に帰ってきたのはそれから一ヶ月の後だった。
容態が心配されていた喜六も、今は元気になって行商に復帰しているとか。その喜六が快方、開口一番に土方に言った言葉は
『奉公先で女性問題を起こすようなお前に、我が家伝の石田散薬医が任せられるかっ』だったとか。
喜六は行商先で石田散薬によって、自分の病気が直ったのだと風潮しているらしい。そのおかげで、石田散薬の売れ筋は上昇したとか、しないとか。



18
万延元年秋。試衛館にも秋が訪れようとしていた。辺りの木々の葉が力無く落葉し、何となく物寂しい。だが、そんな情緒に耽るほど彼らは趣深くない。
試衛館は季節が移ろいでも、その騒がしさを忘れない。


「お、つねちゃん、いいもん持ってるなぁ?」
先日振られたことなど露忘れ、原田は出かけ先から戻ってきたつねに声を掛けた。
つねは近藤勇の妻で、武家の出身である。本来なら不躾な原田を忌み嫌ってもおかしくない生まれだが、このつねはむしろそのような庶民的な雰囲気の方が気性に合うらしい。騒がしい試衛館の面子ともすぐに馴染んでしまった。気安くつねちゃんと呼ぶのは原田だけだが。
「これは小野路村の小島さんからいただいた、福助堂のお饅頭です」
つねは手の上に載せていた菓子を、懐紙を取って見せた。
「おおおおお~~っ旨そうだなぁ…」
今にもヨダレを垂らしそうな原田。しかしつねはにっこりわらって
「これは勇様とお義理父様にお渡しするように頼まれたものなので、差し上げれませんよ」
「なにー??」
つねの義理父というのはもちろん、天然理心流三代目宗家の周斎のことだ。
「いいじゃんか、近藤先生はとにかく、大先生はこんな甘いもの食べると胃を悪くするだろー?」
ちなみに福助堂の饅頭というと、江戸中で知らない者はいない。京都に本店を持ち、その甘みは薄口味の好きな京都人はもちろん、大胆な味付けが好みの江戸人の口にもあった。そんなわけで大人気の甘味屋なのだ。
「原田さんっ何しているんですかっ」
と、そこへ通りかかったのは宗次郎だった。
「またつねさんにちょっかい出してるーっ!つねさんは近藤先生の奥方なんですからねっ!」
「ちげーって、宗次。お前もあれ、好きだろう??」
『あれ』といって指さしたのはつねの手元。宗次郎の目にもその饅頭が飛び込んだ。生来の甘い物好きの宗次郎もごくりと喉を鳴らさずにはいられなかった。
「ガキなんだから我慢するなよっ。欲しいんだろ??宗次郎ちゃん」
「変な呼び方しないでくださいっ」
宗次郎がふくれた顔で抗議したがしかし、それがあながち嘘ではない。宗次郎には饅頭が光り輝いているようにしか見えなかったのだ。と、そこへ。
「なんだい、いいにおいがするね」
くんくんと鼻を鳴らしながら近づいたのは試衛館で唯一とも言える、穏和な剣客、山南敬助。片手には『江戸甘味処全集』が偶然にも侍らせてある。
「ほう…もしかして、福助堂の」
山南の目も密かに輝きつつある。饅頭の競争率が高くなる。さらにそこへ。
「なんだ、なんの騒ぎだよ」
顔を出したのは永倉だった。永倉の目にも饅頭が飛び込んだがたいした感想もなさそうに
「饅頭の取り合いってか?おもろそうだな」
と、野次馬的なことを言った。
迫る視線に、つねは危機感を感じたのか、
「これは勇様とお義理父様の…」
と、言ったが聞く連中でないこともつねは知っている。
「よーしっ!じゃあ第一回試衛館青空剣術大会 ~走って転んで目指すは饅頭~ を始めるぞっ!」
原田が調子よく変なタイトルを付け、その『第一回試衛館青空剣術大会~走って転んで目指すは饅頭~』が開催されることになった。
試衛館の落ち葉の舞う庭で。


「…ったく、馬鹿集団め。呆れる。」
出稽古先から戻ってきた土方は、この『第一回試衛館青空剣術大会~走って転んで目指すは饅頭~』の開催根拠を知って、もちろん閉口した。
いい大人が何をしているんだ、と怒鳴りつけてやろうかと思ったが山南までもが参加しているのだから土方には言いようがない。山南とは気が合わないわけでもないが、論じたいと一番思わない相手だ。だからといって嫌いではない。言葉で表せば、苦手。なのだ。剣道着に着替えた宗次郎は
「土方さんは参加しないんですか?」
と聞いた。土方はふんっと鼻で笑って
「そんなガキみたいな真似できるかよ。寄りによって饅頭なんかのために体力を使うなんて、もったいなくて仕方ねぇ」
「ああ、もう歳ですもんね」
宗次郎がからかうと、土方はその頭を度付いた。

かくして近藤勇は不在のまま『第一回試衛館青空剣術大会~走って転んで目指すは饅頭~』が始まったのだ。
ルールは一本先の先取した方の勝ちという至ってシンプルなルールだ。審判は甘いものに別段興味はなく、野次馬気分で参加している永倉である。くじ引きで対戦相手が決まった。一回戦・沖田 対 原田 二回戦・山南 対 土方
「…ちょっと待て、なんで俺の名前がある」
土方は眉間にシワを寄せた。
「なんだよっ土方さん参加しないのかよ」
原田が不評の声を上げたが、
「誰が参加すると言った?!こんな茶番つきあっていられるかっ」
「まぁいいじゃねぇかよ~…ここで逃げたら『負け』だぜ?『負け』ちまうから参加しないなんて意気地のない男だよな~?まぁ『負け』るのが怖いんなら仕方ねぇよなぁ、『負け』るんだから」
原田の挑発の言葉に、土方はむっとなり
「…仕方ねぇな、その代わり、本気でやらせてもらうからな」
「おうっそうこなくっちゃ!」
新たな参加者を加え、大会が始まるのだった。

一回戦 沖田対原田。
「…原田さん、それ、槍じゃないですか…」
宗次郎はくるくると器用に槍を回す原田を見た。
「ん?何か問題でもあるか?」
「剣術大会でしょう?!何で槍なんて…」
槍の方が長さがある分有利だ。それに宗次郎は槍との稽古などしたこともなかった。
「お前と竹刀でやって勝てるわけないだろー?これくらい妥協してくれよ、宗次郎ちゃん」
「だから変な呼び方しないでくださいってばー!!」
…と、やや宗次郎不利の中、試合は始まった。
種田宝蔵院流の特徴のある構えの原田は、なにやら真剣だ。食べ物への執念は稽古の時とは断然違うらしい。宗次郎はやや下段に構えた。
「いくぞ…、やぁー!!」
原田が掛け声をかけた。宗次郎真正面に槍を振りかざす。宗次郎はその槍を振り払うかのように右に払って一歩下がった。続いて原田は足を払うかのように横振りにして、ビュンッと言う音を立てたが宗次郎の反射神経の方が上手で見事に避けられてしまった。そして次は自分の番だと言わんばかりに宗次郎が仕掛け始めた。

「…見事だな」
永倉が審判がてら、土方に話しかけた。永倉は神道無念流の免許皆伝者である。その永倉が感心して言うのだからその剣技は本物だろう。
「宗次か」
「とても十八歳にはみえん。天性の才能の持ち主ということか…」
それは土方も気が付いていた。嘗てこんな若年でこれほどの剣技を見せる者がいただろうか。その剣技は鋭さの中に落ち着きがあり、荒々しいと思ったら細かい動きを見せ、迫力があると思えば華麗な部分がある。立ち回りは、美しいとしか言いようがない。
「それでいて、顔が美男だから言いようがないな」
永倉は苦笑した。

外野がそんな会話をしている間に、勝負の決着は付いた。圧倒的な強さで宗次郎の勝ちだった。槍の長さなど全く関係がなかった。
「くっっっそーっ!!少し位手を抜けよっ 年長者に気を遣え!!」
「はいはい。ごめんなさい。」
原田が本当に悔しそうに面を脱いだ。汗が噴き出るようにして出ている。菓子への執着はすごい。かくして原田が破れ、宗次郎は決勝へと駒を進めたのだった。

二回戦 山南対土方。
「まあ、がんばってください。山南さんに勝てたらもうちょっと土方さんを尊敬しますから」
「ったく…口のへらねぇガキだな」
宗次郎に冷やかしを受けながら、土方は面を着けた。
北辰一刀流と言えば、剣を遣う者で知らない者はいないだろう。有名だからこそ、土方には鼻につく部分がある。行商をしていた頃、飛び入りで剣術の試合をさせてもらったが、そのやり方が土方には気にくわない。
剣先をブラブラと振り、相手を挑発させて撃つ。作戦としては上等。ただ、そのやり方が気にくわないのだ。何度となく山南と土方は立ちあったが勝った試しがない。
「よろしく頼みます」
「ああ…」
お互いが竹刀を合わせ、土方がふっと息を吐いた刹那「始め!」という永倉の鋭い声が響いた。
例の如く、北辰一刀流の独特の構えから土方への鋭い一撃が放たれた。

 宗次郎はため息をついた。
「…ああ、もう。まっすぐ行くことしか考えられないからだめなんですよ、土方さんは」
「お前ら、本当に仲がいいよな…」
原田が感心したように呟く。
「仲がいいですか?」
「ま、どっちかというと兄弟みたいに見えるけどな」
「そーかなー…」
山南には一瞬の隙もない。これは宗次郎と立ちあったときとも同じだった。隅々まで洗練されたその剣技は、宗次郎に近しい。だが繰り出される技の発想力が山南と宗次郎には雲泥の差がある。どちらかといえば山南は同じ技を繰り返し、相手の油断を誘うタイプだ。だが、そんな山南に及ぶわけがなく土方はあっさり小手をやられてしまった。
「ほら、土方さんは隙がありすぎて、まっすぐ直球で勝負をするからいけないんですよっだから鸚鵡返しになるっ」
「うるせーなってめぇが言うな!」
重々承知だが、口に出されると土方も頭に来る。しばらくの口論が続いた後、やっと二回戦が終了したのだった。

決勝 沖田対山南。
「あいつらが試合なんてそんなに見たことがないな…」
土方が呟くと原田は同意したように頷いた。
「始め!」
北辰一刀流の構えと宗次郎の構え。二人の構えは相反するものだがその基本に忠実な二人だからこそ天然理心流と北辰一刀流の違いが分かりやすい。
先に攻撃を仕掛けたのは宗次郎だった。大抵相手が仕掛けるのを待つことが多い宗次郎だったので珍しいことだった。のど元を狙った突きは、山南にかわされた。すぐに払いに転じた宗次郎の竹刀は弾かれるように山南の竹刀によって払われた。
次は山南が仕掛けた。宗次郎の胴を狙った払い打ち。宗次郎が易々と打たれるわけがなくひょいっとかわした。そしてお互いが間合いをとり、試合は振り出しに戻った。
…と。
宗次郎の構えがやや下段になり、素早い動きによって突きが繰り出された。もちろん、山南はかわすが、何ともう一度突きが繰り出された。山南は二度目の突きをギリギリの所でかわしたが、体勢が崩れた。
そこへ、宗次郎は三度目の突きを繰り出したのだ。その突きは見事に山南ののど元で止まり、
「参った…」
と、山南に言わせた。

土方は目を見張り、圧倒された。土方だけでない。攻撃を受けた山南も、審判をしていた永倉も、そして試合で負けたことによりやる気が失せていた原田も。
誰もが、言葉を失い、誰もが、その力に押された。突きは三度繰り返されたようだが、素人が見れば、この宗次郎の突きは一段にしか見えないだろう。足の動き、突きの速さ。そのどれもに隙などなかった。
「宗次郎君…今のは…」
言葉を失っていた山南が、とぎれとぎれに尋ねた。
「三段突きです。必殺技にしようと思って今まで隠して練習していたんですけど…山南さんがあまりにも本気だから、つい…」
笑って「ごめんなさい」などというが辺りは騒然としていた。三段突き。この突きを止められる者は、おそらくこの世の中に存在しないのではないか。皆をそう過信させるものだった。

かくして『第一回試衛館青空剣術大会~走って転んで目指すは饅頭~』は終わったわけだが。その優勝商品はもう既に勇の胃袋の中にあったりもする。



19
万延二年はあっけなく終わった。というのも万延の年の二月十九日には改元され「文久」となった。文久元年四月。沖田宗次郎十九歳。土方歳三二十六歳。近藤勇二十七歳。試衛館の面々もまた一つ年を取り、新しい春を迎えようとしていた。

そして、試衛館に新しい歴史が刻み込まれようとしている。

「四代目襲名披露?!」
宗次郎が歓喜の声を上げると、勇は満足そうに頷いた。いつもはそうでなくても不機嫌な土方の顔もなにやら嬉しそうだ。
小島様という豪農から持ちかけられた話だった。
勇は周助の跡取りとして十六歳の時に養子に迎えられている。当時五十八歳で実子のいなかった周斎のたっての希望だった。それから約九年間。周斎を支え、また天然理心流を支えた勇は評価され、前々から襲名披露を勧められていた。だが『まだ自分は未熟者だから』といつも断り続けていた勇だったが、小島様からの申し出には断り切れず、頷いてしまったという。
「いい機会じゃねぇか。勇さんも三十路が近いだろ」
「歳三さんだって、もうすぐ腰も痛くなる三十路じゃ…いたっ」
宗次郎の頭を気持ち良い程の音立てて殴ったが構わず、土方は話を続けた。
「それで、いつ、なにをやるんだ」
「うん。まぁ細かくはお義理父さんと相談しないといけないが、夏ぐらいがいいと思っている。どこかの神社を借りて野試合を行うんだ。紅白に分かれて」
「だ、そうだ。宗次」
「え?」
頭をさすっていた宗次郎に、土方は目を向けた。
「お前もいい年だろ。丁度いいじゃねぇか」
「いい年って…まだ十九なんですけど」
「ばか、そこじゃねぇよ」
「はい?」
「お前も、もう元服の時期だろうが」
元服。つまりそれは成人として認められた証。
「ああ、そうだな宗次郎。これを機に!」
勇は手をポンッと叩いて土方に同意する。宗次郎は困惑した顔を浮かべた。
「元服って…」
「お前に月代はにあわねぇからな。それは止めとけ」
と、言って土方は苦笑した。いつもなら馬鹿にされた、と怒っているところだが、
それについては宗次郎も思っていたことだった。いかにも童顔で、どちらかといえば女顔な自分はきっとあのような月代は似合わないだろう、と。
「髪型なんて、近頃はザンパラや長髪なんかがいるからな。左之助はいい例だ」
原田は短くそり上げるような髪型をしている。まるで坊さんがしばらく髪の毛を剃っていないままのびているような感じだ。それにこの頃は、幕府に反抗する武士も多く、そういう仕来りをわざと無視する例もある。また、「そんなことにかまっていられるか」という男たちもいる。つまり、どうでもいいのだ。
「問題は名前だ。宗次郎じゃあ安易すぎるだろ」
「安易って、失礼な人ですね」
ムッとして宗次郎は土方を見たが、土方は既に脳内を活発に動かしている。どうやら土方が考えるようだ。


「元服?」
宗次郎がそのことを告げると試衛館食客部屋はちょっとした騒ぎになった。
「それはおめでとう、沖田君」
山南はまじめな顔をして、優しい眼差しで祝福し、永倉は
「これでやっと大人の仲間入りだな」
と肩を叩いてくれた。だが原田だけは
「でもなぁー。その顔で月代は似合わないんじゃないの??」
と鋭くつっこみを入れられたので、宗次郎はすぐに月代について説明をした。
「へぇ。まぁお前はそっちのほうが似合うんじゃね?めでたいめでたい」
と、半ば納得したように頷いた。しかし
「じゃあ大人の仲間入りってことだよな」
と、次には不敵な笑みを浮かべていた。ギクッとちょっとした嫌な予感を感じ、宗次郎は一瞬身を引いたのだが、原田の俊敏な動きに逃げることなどできなかった。
原田が自分の荷造りから取り出した、本が数冊。
「なんですか、これ」
宗次郎さえもその本の表紙さえ見れば分かる。
「春画本だっ 俺からの祝福の気持ちだ!貸してやるから受け取れよっ」
宗次郎は思わず目を背けてしまった。山南もこのような本に馴染みがないのか目を逸らす。些か興味がある永倉は、宗次郎が受け取らされようとしている本を先に捲った。
パラパラと宗次郎の前で捲ると、嫌でもその春画の内容が目に入る。
「刺激が強すぎるんじゃないか、」
永倉は表情を崩さない。内容は女が縛られていてとか。また女が…で…とか。
「いっいらないですっ!遠慮しますってば!!」
「まぁ参考になるから受け取れよ。ああ、そうだ、こういうのもあるんだ!」
原田は宗次郎に構わず春画本を押しつけ、次なる春画本を取り出そうとしている。
逃げようか、どうしようかと迷っている宗次郎に差し出されたのは表紙が真っ黒な本。
「え?これは…」
宗次郎は原田がまじめな本をくれるのかと、頁を捲った。が。
「女がだめなら、こっちだろ。」
内容は先程とは全く違って、男同士であれこれだ。
「いっ、いらないですよっ!っていうか、どうしてこんなもの?」
「まぁ、入手先は置いておいて。参考になるだろ、土方さんとの」
「は?」
「だから、土方さんとのあれこれに。まぁあの人のことだからさぁ、別に俺が教えてやらなくてもいいと思うけどさ。百戦錬磨の手管はどうなのさ、宗次郎ちゃん」
さっきまでそっぽを向いていた山南が、仰天の眼差しで
「そ、そういうことなのかい…!?」
と声をひっくりがえして宗次郎に尋ねる。永倉は納得したように頷き、「やっぱりそうか」と呟く。宗次郎は首をブンブンと振って「違います!」と否定の言葉を口にするが、こうなってしまっては誰の言葉も聞かないのが、試衛館食客。
「男も女もいけるなんてよぉ。床技ってのを教えてもらいたいものだよな~」
原田がやや関心気味に頷く。
「だからっ!違うって言ってるじゃないですか!」
宗次郎は真っ赤になって否定するが、顔を赤らめてしまってはもう遅い。認めたも同然。いつもは冷静沈着でそういう色恋に薄い山南でさえも、書面を捲り、
「いや、男色というのは誠の恋だ。沖田君。男同士は絆がなければ結ばれることはない。織田信長公の小姓の森蘭丸然り、武田信玄孝の高坂禅正然り…!女との恋情よりも遙かに、堅く、結ばれるものではないか…!」
もう収拾がつかなくなっていることを、宗次郎はうっすらと感じた。


その日の夜。精神的に参ってしまった宗次郎はいつもよりも早く床についた。だが、すぐに訪問者がやってきた。
「…歳三さん」
「あ?なんだ、その不満そうな顔は」
「なんでもないです」
土方自体になんの罪もないのは分かっているが、噂の元凶だと思うとむかつきが収まらない。
「それよりこんな夜遅くになんのようですか」
「安心しろ、夜這いじゃねぇよ」
からかい半分でもそう言う冗談は止めて欲しい。
「お前の元服後の名前だがな」
「はぁ…」
「沖田総司、だ」
「………あんまり変わらないじゃないですか。しかも既に土方さんなんてそう呼んでるじゃないですか…」
手抜きじゃないかとやや不満げに返事をすると、土方は苦笑しながら
「まぁ、聞けよ。これには深い意味があるんだ」
「意味?」
「『総司』の『総』は『すべて』という意味で『総』だ。それから『司』は『司る』という意味で『司』」
「…総てを司る。」
総司。もう一度心の中で復唱すると、案外すっぽりと自分の頭の中に入った。
「こんな時代だ。今日か、明日か何が起こるか分からない時代だろ。俺と勇さんには武士になるという夢がある。その為なら何でもやる。…そう言うときに、ずっと一緒にお前にもいてもらいたいってことだ」
「え…」
「勇さんも了解してくれた。分かったな。じゃあ早く寝ろよ」
土方は決まり悪げに部屋を出て行こうと背中を向けた。耳が赤く染まっている。
宗次郎…総司は口に笑みが浮かぶのを止められないまま
「ありがとうございます」
と、言った。すると土方は何も答えず、総司の部屋を出た。月影に照らされた影は、総司の部屋を足早に出て行ってしまった。


『ずっと一緒にお前にもいてもらいたい』
この言葉を、一生忘れないだろう。



20
文久元年六月。
勇の天然理心流四代目襲名も近くなってきた梅雨。着々とそれに向けた準備も進んでいた。


「白軍、紅軍に別れて野試合をする。それぞれ頭を決めてその頭を討ち取ったら即刻試合は終了だ。問題はその頭だが…」
「この襲名披露に大きく資金的に貢献してくれている佐藤家の彦五郎様、小島鹿之助様に頼もうと思っている」
勇と土方が手早く説明をするのを宗次郎改め総司はそわそわした、落ち着かない気持ちで聞いていた。それは同じく聞かされている試衛館食客も同じだった。佐藤家の彦五郎というのは、土方の姉の嫁ぎ先の豪農で天然理心流の道場を庭先に建てて剣術を指南するなど、大変天然理心流の発展に努めてくれている人だ。土方のおじに当たる。
「しかし、軍の頭はとにかく、指揮官として誰かを立てないといけないでしょう。」
山南は鋭く尋ねた。近藤は大きく頷くと
「それはこれから決める。紅軍の総指揮は歳…土方に頼もうと思っている。それから白軍の総指揮だが…山南君に頼もうと思っている」
えっと誰もが驚いた。前者の土方は納得できるとしても、白軍の総指揮が山南だとは思わなかった。山南は元々北辰一刀流の出であるし、天然理心流に入門したと言ってもまだ年数は浅い。山南自身も返事に躊躇っている。その場にいた土方、近藤以外が考えたのは
「え~。総司じゃないのかよ」
もちろん総司だった。
試衛館生え抜きの門人である上、勇さえも脅かす剣技の持ち主。土方よりも入門は年数的にも早い。年齢では一番下だが、入門歴で言えば勇に継ぐ長さなのだ。
「え、あ…」
「総司はまだ若い。総指揮をする程じゃねぇ」
きっぱりと言い切ったのは勇ではなく、土方で総司はムッとした。
「だそうですよ」
「しかし、私は…」
山南は躊躇いを持って勇の顔を見たが、勇は大きく頷き
「君は軍教に長けているし、経験も多い。剣術の技もそして勉学もあなたに学んだことはとても多い。どうだろうか、引き受けて貰えないだろうか」
「…そう言うことでしたら」
山南は了承した。
「白軍、紅軍の分け方だが…白軍に永倉君、紅軍に原田。源さんも紅軍だ」
「どういう分け方なんだ?」
原田は首を傾げた。
「お前、褌の色が赤だろ。」
「そう言うことかよ」
ちなみに土方が紅軍総指揮なのは、剣道着の面紐が紅…だからかも知れない。
「それから、総司だが…」
総司はむくりとうつむいていた顔を上げた。
「太鼓役」
「…は?」
「太鼓役だ。名誉な役だろ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっそんなおもしろくなさそうな…じゃなくて、そんな役、どうして私に…」
「一、お前がどちらに入るかで戦力が大きく変わるから。一、お前が手加減できそうにないから。一、お前は精神的にガキだから太鼓をおもしろそうに叩く微笑ましい光景がみたいらしいから…ああ、ちなみに最後のは周斎先生からの注文だ」
総司はガクッと肩を落とした。
総司の稽古は評判が悪い。もちろん態度が悪いとか、人柄が悪いとかそう言うことではなく稽古でまったく手加減をしないのが、総司のやり方だったからだ。まだまだ人に知られてはいないが、総司は生え抜きの天才剣士。敵う門人など、数えることもできない。
周斎は勇に家督を継がせることで、すっかりおじいさん気分になったのか、前にも増して総司を可愛がるようになった。
「そんな理由、納得できませんっ!」
総司がつかみかかろうかという勢いで土方に抗議したが
「はいはい、じゃあ解散だ。」
と強引にも話を終わらせてしまった。


庭先に落ちていた小石を、拾っては投げ捨てた。そんな動作を繰り返していると、空はすっかり夕方の色へと変わっている。口を尖らせたまま、総司はその仕草を止めた。土方がひょっこり顔を出したからだ。
「歳三さん」
「なんだ、まだ落ち込んでいるのか。だから子供だって言ってるんだ」
「…」
それは否定できなくなってしまった。もう半日も庭先の石ころを弄くりながら、拗ねていたのだから。
「歳三さんはいいですよね。紅軍総指揮」
「なんだ、やきもちか。太鼓役も名誉な役だろう」
「太鼓ですよ!?ず~っと試合の間、聞こえもしない太鼓を叩くなんてつまらなすぎます!」
ぷいっとそっぽを向いたが、土方は苦笑したままだった。
「そうかい、じゃあそう思ってろよ。」
「…だいたい。襲名披露ってお祭りみたいなものなんですから手加減位しますし、私がいるといないで戦力が変わるわけないじゃないですか。永倉さんだって山南さんだって免許皆伝なのに…」
聞こえないような小さな声で、ブツブツ文句を言うと土方が鼻で笑った。
「お前がどれだけ価値が高いか、まだわかってないのか」
「え?」
「桂小五郎に練兵館に誘われた、その価値だ」
「それは…昔の話です」
総司はその昔、桂に練兵館の入門を進められたことがある。
その時は試合をして、総司の勝利という形で断ったのだが、桂が気まぐれで総司を練兵館に誘うようなことはしないだろう。あくまで宗次郎だったあの時の実力を評価したのだ。それが僅か十三歳のことだったのだ。
「幾度となく、俺はお前の剣技を見てきたが、俺はお前ほどの剣客を見たことがない。この間の原田が思いつきの時の試合もそうだ。永倉も言っていたがー…お前は天賦の才能を持ったお子様だ。戦力に関係ないわけがない」
「歳三さん・・・」
土方がこれほどまでに他人を褒めたことがあっただろうか。少し気持ち悪いくらいだ。
「…変だなぁ、歳三さん、どうして私なんかをそんなに持ち上げるんです?」
思わずぷっと吹き出して笑うと、土方は半ば呆れた顔で総司を見て
「まだ、意味が分からないのか」
と尋ねた。総司は首を傾げてしばらく悩んだが、答えはない。
「ったくガキはこれだから。仕方ねぇ。道場の襲名披露の太鼓役ってのは、大抵塾頭が務めるものだ」
「塾頭?」
塾頭とは道場主に続く、道場の大黒柱だ。
「ったく、その太鼓役に選ばれてなんの不服がある。」
「…そうですね」
総司は満面の笑みを浮かべた。塾頭。その言葉が新鮮で。でも大きな役目を任されたということだけは、よくわかった。
「じゃあこれで正式に歳三さんより私の方が「格上」ということですよねっ 嬉しいなぁ」
「てめぇっ 調子に乗りやがってっ!!」
パコンッと叩かれた頭も、なにやら嬉しくて痛みさえも感じられなかった。





解説
なし
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