わらべうた





21
文久元年七月。
四代目襲名も迫り、何かと慌ただしい中。勇に任された出稽古に「塾頭」として赴いた総司は蝉の声に耳を馳せていた。単調な中にも違いがあり、決して飽きない蝉の鳴き声は総司の夏の暑い帰路を、いくらか涼しくさせた。そんな帰路。


野道の中、ダダダダっと足袋の激しい音が総司の耳に入る。しかもその音は段々と総司に近づき、やがて視界にも入ってきた。小柄な男を、二、三人の男が追いかけている。どう見ても鬼ごっこには見えないし、かけっこにももちろん見えない。
追いかけてられている男の形相は明らかに必死。また追いかけている男たちも鬼のような形相をしている。
助けなければ。そう、勝手に手が動いた。
もちろん、腰に刀は帯びていたのだが、何故か気が引けて出稽古の道具で背負っていた木刀を取り出した。ついに目と鼻の先程になってくると、逃げている男が総司の方を向いた。
「こちらへっ!」
総司は木刀を振りかざして言うと、逃げている男は頷いた。
「かたじけない」
「いえ…」
男、というよりは総司とほぼ年齢は変わらない程の青年だった。だが、顔は気品のある顔をしている。身なりも決して質素ではない。軽装で、刀を帯びていたので彼はその刀を抜いた。追ってきた男は、息を切らせ、青年を庇う総司に向かって
「どけっ!小僧! その御方を渡せ!」
御方?多少言葉遣いに気になる部分はあったのだが、
「黙れっ!今更城に上がるつもりはない!!」
その本人の意志を尊重すべく、総司は木刀を男たちに向けたままだった。
「平助殿!!」
「お戻りくだされ!」
男たちは口々にそういうが、総司の背後で刀を抜く青年は決して譲らず、
「帰れ!まだ私に関わろうというのなら斬るぞ!」
男たちは帯びている刀を抜かない。言葉遣いからして君主と部下のようだ。
「その、えっと、この人たちと一緒に帰るつもりは…」
「ない」
戸惑って聞いた総司にきっぱりと言い切った青年に、総司はうなずき、
「では、貴方は手を出さないでください。」
と、青年の動きを静止した。総司は木刀を捨てると、腰に帯びた鞘からすっと刀を抜いた。
「なにっ!小僧、我らを斬るつもりか?!」
「小僧には関係ないっ!そこを退かねば斬るぞ!」
総司相手には刀を抜くらしく、男たちはほぼ同時に刀を抜いた。
「…言いつけなんで、一応名を名乗っておきますね。私は試衛館塾頭 沖田総司」
出かけるたびに土方に言われていたのは、「活躍する場面があれば名を名乗れ」との指令。そうやって試衛館の名を広めるのだという。
突如、男の一番右端が総司に斬りかかった。総司は横払いに男の腹部を斬る。もちろん、峰打ちだ。しかし男は気を失い、倒れた。それでも引かない別の男は斬りかかるが、総司に刀を弾かれ、一瞬のうちに峰打ちの返り討ちにあった。
最後の二人は一気に総司に斬りかかるが、その動きは鈍く隙だらけだ。
一人を胴払いに、もう一人も目に見えぬ速さで峰打ちにしとめた。
「あ~あ…やっちゃったなぁ…」
大柄の男が四人も倒れている。殺してはいないがこれは言い訳のしようがないではないか。
「…貴方は」
「試衛館の沖田総司です。詳しい話は後にして、この場を逃げませんか?面倒なことになる前に」
「はぁ…」
青年は総司の屈託のない照れ笑いに、戸惑ったままだった。


「私は藤堂平助と申します」
道中で青年は、名を名乗った。
「先程の様子からして、どういう高貴な御方なんです?」
「…さる城主のご落胤だと」
「え…」
早足に動いていた足が、止まりそうだった。
「ご…ごご、ご落胤…?」
「助けて頂いたのも、何かのご縁です、お話しします。
 母には幼少の頃より聞かされていた話だったのですが、母は嘗て藤堂家の下女として働いていて、藤堂和泉守のお目に掛かり、私を授かったのだと」
「そ、それ…大変なことじゃないですか…」
総司は一歩下がって土下座をしたいような気分になった。もう少し言葉遣いや、行動に配慮した方が良いのかととっさに考えたのだが
「気など、遣わないでください。私とてそれを母の戯れ言だと思っていました。そして母が亡くなり 私が放浪の旅を続けていると…突然あのような男たちが」
「…なるほど」
あの男たちは藤堂家に仕える家臣だったらしい。名乗ったことは間違い…だったのではないか。そんなことが頭を過ぎったが、藤堂は話を続けた。
「沖田様。助けて頂いた上に、このようなことをいうのもなんですが…」
「さ、様はいらないです、様は…」
「あなた様の道場…試衛館と言うところに私を置いてはいただけないでしょうか」
「…ええぇ?!」
総司は声をひっくり返して驚いた。
「私は元々放浪の者。先程の話はどうぞ、お忘れください。只単なる放浪者として居座らせて頂ければ…」
「うちみたいなボロ道場に…!そう言う所じゃなくて北辰一刀流とか神道無念流とかそういう道場に行った方がいいのでは…」
冷や汗をかきながら、総司は慌てた。試衛館はお世辞にも広いとも、綺麗とも言えない。仮にも藤堂和泉守のご落胤ともあろう人が、居座るには申しわけなさすぎる。
「いえ、試衛館といえば、天然理心流。私は貴方の先程の剣技に惚れました」
「そ、そんな…」
天然理心流を知って頂けでも光栄なのに、剣術が学びたいとまで。そこの塾頭は総司であるから、総司は教える羽目になる。とてもこんな身分が空よりも
高いだろう人に教えられない。
「と、とにかく試衛館に行きましょうか…」
「はいっ」
藤堂は嬉しそうに微笑んだが、とても一緒に笑うことなどできなかった。


試衛館には勇はいなかった。それに付き添いで山南と永倉も出払っている。試衛館に入って、まず目に飛び込んだのは原田が春画本を身ながら薄笑いを浮かべている様子。
「は、はは、は、原田さんっ!!」
「お、総司、帰ったのか。…ん?誰だ、そいつ」
総司は急いで原田の持っていた春画本を背後に隠した。
「始めまして、藤堂平助と申します」
「藤堂?そりゃ、偉い高貴な名字だな」
「たまたまでございます」
「ございます・・・試衛館ににつかわねぇ言葉だな・・・」
原田は藤堂の妙な高貴なムードに追いつかない様子だった。
「なんだ、総司帰ったのか。」
次に顔を出したのは土方だった。隣の部屋にいたらしい。
「ん?」
「藤堂平助さんです。なんだか、試衛館で天然理心流を学びたいとか…」
「ほぉ?」
酔狂な奴もいる者だ、と土方は思ったのだが
「先程、沖田先生の剣技を拝見して是非にと教えを乞うたのです」
「だから「先生」なんて止めてくださいって…!」
「総司の剣技…ねぇ」
土方は満足そうに笑みを浮かべると
「総司、上がって貰え」
「歳三さん!」


土間で茶の準備をする総司の元に土方がやってきた。今日はふでまでもいないので、丁寧な振る舞いができるかどうか、不安でならない。
「どこから、拾ってきたんだ。あの言葉遣いからして普通の武士じゃねぇな」
鋭い土方は総司にからかい気味で言った。そこで総司は苦笑を浮かべて「実は…」と事情云々を話した。
「…ご落胤だと?!」
詳しい事情を聞いた土方も頓狂な声を上げた。普段は物事に動じていても表情に出さない人であるからこういう土方は珍しい。
「藤堂和泉守…半端じゃねぇ。そんな奴が食客を願い出るなんてな」
「でしょう?だからお引き取り願おうと思うんです」
「そうか? 別に害はなさそうだし、別にいいじゃねぇか、食客の一人や二人」
「もう私もいれて六人目ですよ…」

総司はできるだけ死力を尽くして、丁寧にもてなした。原田にも事情は話したが、もう半時もすれば気遣いなく意気投合。言葉遣いがめちゃくちゃで総司はずっとハラハラしたままだった。
その中で藤堂について知ることが出いたのは、彼が北辰一刀流の免許だと言うこと。土方曰く「高貴な身分の者はそれ相応の剣術を学ぶもんだ」とのこと。
そして夕刻になると、四代目襲名披露の準備から帰ってきた勇、永倉、山南が現れた。勇が藤堂について尋ねる前に
「山南さん!」
と藤堂が感激の声を上げた。
「藤堂君ではないか…!どうしてここに…!」
「あの…お知り合いで?」
総司が藤堂に尋ねると
「北辰一刀流の道場の先輩です。免許皆伝を得てからお会いできなかったので心配していたのですが、お元気そうで何よりです」
「君こそ、」
二人はがっちり握手を交わした。

事情云々を話すと、最初は皆驚いたものの藤堂を食客として迎えることを決めた。
山南のたっての願いだったと共に、藤堂は総司のことを大変慕っている。そんな藤堂は総司よりも二歳年下の十七歳だった。
夏が迫り、暑さが増すそんな頃だった。



22
文久元年八月。
四代目襲名披露も間近に迫り、試衛館は慌ただしい日々を送っていた。普段は何の役にも立たない原田でさえも、襲名披露の準備にかり出されている。さて、先日試衛館に加わった藤堂も覚束ないながらに動き回っているのだが。


「長曽根虎徹」
その名を口にした、次の瞬間総司の口から出るのはため息だけだった。
「沖田先生、欲しいんですか」
「だから「先生」は余計ですってば…」
その総司の隣で、じっくり刀を眺めているのは新入りの藤堂平助。今日は襲名披露の際に配る手ぬぐいを受け取りに来たのだ。『試衛館四代目 近藤勇』太ぶとく書かれたその文字は浅黄の下地に、白で染め抜かれている。
両手一杯にその手ぬぐいを抱えたまま店前で立ちつくす様子は、とても目立ってしまっている。
「虎徹は、値がはるし手に入れるのは難しいですけど…」
「そうですよねぇ…」
もちろん、総司が自分の腰に帯びるためにかうのではない。四代目を襲名する勇への、贈品だ。勇が時折口にする『虎徹』を贈品にするのが良いと、単純に総司は考えたのだが、知れば知る程『虎徹』は遠くなる。最低でも五十両はする代物だったのだ。
刀は普通、刀工の名前を取って名付けられるものだが、『虎徹』の作者は『長曾根虎徹興里』という江戸時代初期に活躍した名工。『虎鉄の棒ぞり』とまで言われ、反りが浅いのが特徴だ。
「近藤先生が『虎徹』にあこがれる思いは分かります。『虎徹』は着物で言うならば『高島屋』『大丸』ほどの高級感がありますから」
「はぁ。やっぱりだめかなぁ…」
試衛館の食客から金を募る、という手もあるのだがそれでは自分からの贈品にならない。総司は何としても、『自分から』という名目が欲しかった。
「別の方法を考えた方が…」
藤堂が総司を励ましたが、彼の持っている刀を見れば、誰でも思わずため息が出るだろう。
『上総介兼重』。作風は『虎徹』に似ているが、これは藤堂家のお抱え鍛冶である。
彼が藤堂家のご落胤だというのも、こういう事実からも納得できるのだ。
「襲名披露まであと一ヶ月もないし、これからお金を稼ぐなんて…」
総司は絶望的な状況に、やはり別の贈品を考えようと頭を切り換えようとしたのだが、
「ああ、いい手がありますよ!」
「…は?」
藤堂はポンッと手を叩いたのだった。

藤堂がスタスタと、総司を率いて足早に歩く。その町並みは些か、総司に見覚えがあった。まだ昼なので、活気はないが土方が通うというあの場所だ。
「…もしかして、吉原?」
「その通りです」
藤堂は口元に笑みを浮かべて、ハッキリと答えた。
吉原は江戸で一番、関東で一番といっても良い程の活気のある遊郭だ。吉原は廓という特殊な形態の町で、外部とは遮断されている。塀に囲まれた方形で、出入り口は大門一カ所しかない。そこにある番所を抜け、大門からの一直線に伸びた道を
慣れた足取りで歩く藤堂に、総司は半ば感心しながらついて行った。総司よりも二歳若年の藤堂も、こういう所に来たことがある…ということに。総司は土方に無理矢理連れて行かされたくらいしか、ここには用がない。女に興味もないし、貧困の試衛館のどこからそんなお金が出てくるのか、よくわからない。そんな総司にとって『異世界』の吉原の町をしばらく歩くと、藤堂がやっと足を止めた。
「ここです」
「ここは」
吉原角町 二丁目、『大隅屋』。土方からも聞いたことがある、老舗だった。
「ここで、働けばいいんですよ!」
「はぁ?!」
藤堂の突拍子のない言葉に、総司は顎がはずれそうになってしまった。
「ここなら、たくさんお金稼げますし…。沖田先生は顔がいいからバレませんって」
「そういうことじゃ」
「今、私達の所持金は二人合わせて十両。あと四十両稼げばいいんですよ」
「そりゃそうですけど」
藤堂に押し切られる形で、総司は見世の中にいれられてしまった。
藤堂は以前もこうして、金を稼いだ経験もあるらしい。主人とは顔なじみだった。藤堂は史実にも残る程の美男という証言が残っている。鼻筋の通った美男子だ。女装したところでごまかせる。主人は藤堂の申し出に、断るどころか、笑みを浮かべて
「助かりました!ちょうど芸子がおらんで困っていた所!」
と、二人を受け入れてくれた。
総司の意志は無視のまま、二人は芸子として『大隅屋』で働くことになったのだ。


吉原の芸子と遊女はハッキリ分けられている。
後の新選組の活躍の場である、京都では芸子と遊女の区別が別段無く、
芸子が体を売るのもありえることだった。江戸では禁じられているので総司はひとまず安心した。しかし、芸子というのはその名の通り『芸』に秀でた女のことなのだろう。そのことを藤堂に相談すると
「大丈夫ですよ。お酒を注いだり、話の相手をするだけでいいんですから」
と、総司に教える。

こうして、夜はやってきた。
「わぁ、沖田先生。さすがですね!」
「はぁ」
総司は赤を基調した着物を身にまとい、恥じらい気味にあるいた。
女の着物というのは、こうして歩きにくいものだと、初めて知った。一方藤堂は慣れた足つきで、着物を着こなしている。緑を基調としていて、よく似合う。藤堂は元服していて髪を剃っていたのだがなんのその、カツラがあれば隠れてしまった。
大隅屋の主人も「よぉ、似合いますなあ」と、うっとりしている。

吉原は夜になって急に賑わった。大隅屋も老舗で評判なので客が多い。遊女も、芸子もかり出され、総司たちが呼ばれてしまった。総司ははぁと大きくため息をつくと、藤堂と主人について行く形で立ち上がった。

藤堂に教えてもらった『しなやかな歩き方』を意識しながら、総司は歩いた。
スススッと歩いた方が、いいらしい。
「お待たせいたしました。ツカサです」
ツカサ、というのは総司の『司』の訓読みから。もちろん、本名など名乗るわけにはいかない。藤堂も続いて
「籐子です」
と、挨拶をした。もちろん藤堂の『籐』から。丁寧な挨拶の後、部屋にはいるのに顔を上げるとそこには五,六人の男たちが、なにやらご機嫌そうに総司たちを見ていた。もうお酒が入っているのか、顔が真っ赤だ。
「初めて見る顔だな」
男の内の一人が、総司の顔をよく見た。総司は精一杯の笑顔で
「そ…そうですかぁ?」
と、しおらしい女を演じた。もちろん、易々と引っかかった男どもは総司を引き寄せた。
「べっぴんさんじゃねぇか。酒ついでくれよ」
「は、はい」
総司は急いで酒を注いで、ちらっと男の顔を見た。細長い顔で、垂れた目。関東の侍の典型的な型だ、と思った。男の内の別の一人がまた、総司に言い寄った。
「ホント、綺麗な女じゃねぇか。芸子ってのが残念だな…」
と、総司の身体を舐めるように見る。事情を知っている年増の芸子が
「残念ですねぇ。そう言えば、旦那様…」と間を割って、話題を変えてくれた。


数刻程経って、男たちがガーガーと鼾を立てて眠り始めた。藤堂が水のように飲ませたせいか、酔いが回るのも速かった。もちろん、飲ませるだけではいけないので総司も藤堂も飲んだが、総司は酒も飲んだことのない下戸。
ただただまずくて、目が回って仕方なかった。
そんな総司にも眠気がやってきて、体がだるくなってきた頃に酒に強いらしい男が総司を持ち上げた。『お姫様だっこ』というのを初めて味わったが、男が向かう先を考えれば眠気に気を取られているわけにはいかない。
「お、おやめください」
抵抗したが、男は図体がでかく、酒に少しだけ酔っているようで
「芸子とはいえども、金が欲しいのならくれてやるさ」
と、総司を連れて少し離れた個室へと移った。藤堂に助けを求めるが、彼もすっかり酔っているようで気がつかない。
男に抱えられて着いたのは布団だけが引いてある部屋。その先はいわずとも、分かる。
「ま…っ待ってください」
総司は自分が今、女であるということさえ忘れて、精一杯の力で男の胸板を押した。だが、総司よりも一回り大きい男は、びくともせず
「よいなぁ、よいなぁ」と総司を自分に引き寄せる。総司は何とか逃げようと辺りを見渡すと、そこには薙刀が飾られていた。戦闘用ではなく、あくまで飾り、ということだろう。
男が帯を解くことに夢中になっている中、総司はその薙刀に近づき手に取った。男が帯を解き終えた瞬間、総司は男の脳天に薙刀を打ち付けた。
「っっうぎぇ!?」
男は、立ち上がった総司を見上げた。薙刀を突きつけ
「離してください」
と解離を求めたが、男は痛みさえも酔いで紛れているのか、
「よいなぁ、気の強い女は好きだ」
などと、総司にまとわりつく。と、男はあることに気が付いた。だが次の瞬間には薙刀は男の腹にぶつかっていた。バタンッと倒れた男は、薄らぐ意識の中で
「お前…男…」
と、呟いて目を閉じた。もちろん、死んでいるのではない、峰打ちだ。
「…はぁ」
総司は脱力して、その場に座り込んだ。男は総司に胸のふくらみがないことに気が付いたのだろう
姿は散々だ。
と、そこへ藤堂が部屋に入った。
「うわぁ…。派手にやりましたね」
「お客さんなのに…。いいんですかね」
総司が気に病んでいると、先程、総司を助けてくれた年増の芸子が笑いながら
「いいんだよぉ、そいつら、酒癖悪くて困ってたんだ」
と、総司をフォローし、男の持ち物から、財布を抜き取って総司に渡した。
「ほら、持っていきなよ」
「え、でも…」
「この男たちはね、詐欺まがいの連中でさ。ここの女の子たちも花代払ってもらえないって泣き寝入りしてたんだ。いい気味さ」
年増の芸子は総司の手の中に、男の財布を握らせた。
ズシリと重く、少し躊躇したが年増の芸子曰く「こいつらが一文無しで困る姿がみてやりたい」とのこと。
それでも納得いかなかった総司だが、「あんたに手を出すんなら、これ相当の金がいるさ」と芸子は笑いながら言ったので、とにかく納得した。

財布の中には三十両という大金が入っており、また他の酔いつぶれた奴らの財布からも五両という大金を得た。申し訳ないような気分になったのだが、これも自業自得、と主人に言われ金を受け取ることにした。それから夜に芸子として二人で稼いだ五両。合わせて五十両の金を得た。それに合わせて総司が日々ためていた金もあるので、十分すぎる予算で虎徹を得ることができた。
総司は藤堂に口止めをして、極秘に試衛館に持ち帰り、虎徹を自分の行李の中に大切にいれた。
襲名披露まであと、十日と迫っていた。



23
「わぁぁ」
一番歓声を上げたのは総司だった。
万延二年八月二十七日。ついにその日を迎えたのだ。試衛館四代目襲名披露。
主役はもちろん、近藤勇。場所は府中六所宮(現・大国魂神社)だ。


巨大なセットに、大きな広場。前に視察に訪れたことはあったが当日になると
何故か総司は興奮が冷めやまらない。それはもちろん、他の試衛館メンバーも同じだった。
既に古参となった原田や山南や永倉はもちろん、つい先日試衛館に入門した藤堂も嬉しそうに目を輝かせている。勇の兄弟子である井上源三郎は涙ぐんでいる。
勇はまるで五月人形のような豪華な甲冑を付け、堂々たる貫禄を見せる。天然理心流の門下生達もいそいそと準備をしている。野次馬も多い。

だが、総司の気分はすぐに暗くなった。皆が頭に“かわらけ”を付け始めた頃だ。
このかわらけを割られると、死んだこととなる。白軍、紅軍に別れてお互いの“かわらけ”を割あい、最後に大将を討ち取った方が勝ちというルールだ。もちろん、太鼓役の総司は付ける必要がない。
「…いいなぁ…」
総司がつい、つぶやくと側にいた土方はふんっと鼻で笑って
「太鼓役は太鼓役らしく、おとなしく太鼓叩いてりゃいいんだよ。試合のことは任せとけって」
「いちいち、そんなこと言わなくて良いですから!」
ぷんっと拗ねると、土方は苦笑した。百名以上が参加する今回の襲名披露には、姉のミツもいた。どうせなら、ちゃんと剣をが上達した所を見せたかった。
「どうせ、太鼓の音なんて誰も聞かないのに」
「まぁ、そうだろうな。でも始め、の音はお前が出すんだろ?…まぁ、終わりの音なんて誰も聞かないがな」
「…どうして一言多いんだろう…」
総司はがくり、と肩を落とした。

まもなく試衛が始まることになった。総司は勇の側で太鼓を叩くことになっている。紅軍大将は土方。次に原田。この両人は面紐や褌の色で選ばれたのだと皆は思っている。白軍大将は山南。次に永倉、藤堂。原田は槍専門だし、山南や永倉は北辰一刀流、神道無念流の皆伝者である。白軍の方が有利かと思われる試合だが、土方はあくまで実践向きの剣法を持っている。試合の行方は、さっぱり分からない。
「総司」
勇の声が掛かり、総司はバチを持った。ふうと、息を吸い込んでドンッと大きな音を鳴らす。
すると軍が一歩前進する。そして次の音で試合が開始された。
「おおおおおっ!」
「いやぁぁぁぁっ!」
威勢の良い掛け声の元、始まった試合はもちろん太鼓の音など何の役にも立たない。気合いでかき消されてしまって、最初は面白がって叩いていた総司だったがすぐに飽きてしまった。
「おい、総司」
「だって、若先生。これじゃあ叩いても、叩かなくても同じじゃないですか」
総司が拗ねた風に言うと、勇は苦笑した。
試合はほぼ互角に進んでいた。お互い、門下生から打ち合う。次々と戦線離脱し、残ったのは門下生が数人、そして師範代に当たる山南、土方、原田、永倉、藤堂。
「藤堂さん、すごい気合い…」
「魁先生って言われているらしいぞ。出稽古先で」
「へぇ」
藤堂は自分のみを省みず、イノシシのようにまっすぐ進む。その威力に気合い負けした門下生がつぎつぎと“かわらけ”を破る。
「まだまだだめだなぁ、気合いが足りん」
勇はそんなことを呟くが、試合は終盤へと縺れ込んだのだ。

一歩前に出たのは藤堂と、原田。原田はいつの間にか木刀だったのが槍へと変わっている。
「俺の方がせ・ん・ぱ・い、だからな。勝たせてもらうぜ!」
「そう簡単にはやられませんよっ!」
そんな会話がなされ、二人の撃ち合いが始まったのだが何度か打ち合った末、
藤堂のかわらけが割られた。藤堂は原田の槍に慣れていなかったのだろう。
「若先生は、どちらが勝つと思いますか?」
総司が試合を眺めながら聞くと、勇はう~ん、と考え込み
「さぁ、わからんな。歳はまだまだ目録に過ぎないが実践向きの剣だからな。 だが、それだけで山南さんや永倉君に勝てるかどうか…」
「私も、そう思います」
土方がいくら実践向きだとは言っても、それだけで免許皆伝に勝てるかどうか。
普段から立ちあうのを嫌う土方だから、総司も見当が付かない。

そんな会話がなされている間に、原田の“かわらけ”が割られてしまった。普段から立ちあうことが多い、永倉に割られたようだった。子供のように痛がり、悔しがる様子を見て、総司はまた試合に参加できないことを拗ね始めてしまった。

そして永倉と紅軍大将である土方が立ちあうことになったのだ。野次馬も静かになってしまったのは、二人が本当に真剣な顔をしているからだろう、殺気まで伝わってきそうだ。
先に打ち込んだのは永倉だった。神道無念流は実践的な剣術で、荒稽古が有名だった。永倉の剣もいくらか荒れているが、その正確さはさすが免許皆伝者だ。…だが、土方も簡単に負けるような剣の腕ではない。鋭利な眼差しで剣先を見つめると、荒い剣術に必ずや現れる隙をすかさず突く。そして、実践的な剣法で足を使って永倉を蹴り倒し、“かわらけ”を割ってしまった。
その土方の剣法には皆、仰天だ。襲名披露という場所でまるで子供の喧嘩のように足まで出したのだから、大人げないとしか言いようがない。だが、それが当たり前だろう。剣法とは自分の身を守り、そして相手を殺すためにあるのだ。
「総司」
はっと、総司は我に返った。引き込まれるように見ていたようだ。
「加勢してやれ」
「え?!」
総司の表情が、ぱぁっと明るくなった。
「そんな恋しい顔をされると、可哀相になって来るじゃないか」
勇はまったく、歳に後で馬鹿にされるな、と呟いて総司に加勢することを命じた。
「でも、だけど、どっちに加勢すれば」
総司はずいっと辺りを見渡した。門下生の数が多いのはどちらかといえば紅軍。
「じゃあ白軍に…」
加勢しようとした、その瞬間
「きゃぁぁぁっ!」
と、客席の方で悲鳴が上がったのだ。
「?!」
四代目襲名披露に参加する総ての人が、悲鳴のした方向に釘付けになる。試合も止まってしまった。

悲鳴の湧いた野次馬から、見たこともない男がよろよろと表に出る。その男は場に似つかわなく、腕から血を流している。そして首筋にも傷を負い肌の部分よりも血の部分の方が多いのではないかと、錯覚してしまう程だった。
「何者だ!」
勇よりも先に叫んだのは土方だった。だが、男は何も答えない。よろよろと歩いているかと思うと、急に倒れ込んだ。
「あっ…!」
総司は思わず駆け寄った。土方は
「近寄るな!総司!!」
と叫んだが、その声は総司の耳に入らない。
「お気はありますか?あの!」
男の身体を総司は起こすが、男の意識はすでにない。山南が駆け寄って、男の手首をもち脈をはかる。
「大丈夫、死んではいません」
「じゃあ・・・」
「ただ、出血が多いですね。だれか、救護箱を!」


試合は自然と中止になった。
原田などは悔しそうにしているが、人の命を放っておけない人の良い勇は直ちに中止にしたのだ。勇らが傷の手当てをする中、総司は土方から小言を怒鳴られていた。
「お前、油断がありすぎるぞ!倒れたのがこの男のはったりだったらどうするつもりだったんだ!!」
「そ、そんな。私は」
「殺されていたかもしれないだろう!?いいか、むやみに危ない男に近寄るな!」
「そんなの、おかしいじゃないですか!私は武士です。それが使命で、仕事です!」
むっとした総司は言い返す。この土方の子供扱いな所が、総司は気になる。
もう元服もしたし、塾頭にもなったのに何故そんなことを言われるのか。その答えを得られないまま、土方は「ふん」と笑ってスタスタと総司の前から、去っていってしまった。
途中で試合を遮られたので、不機嫌なのかな、と総司は思ったのだがそれを横で見ていた原田がクスクスと笑う。
「…なんですか?」
「いや、まるで兄弟…いや、恋人みたいな会話だと思って」
「え?」
「俺だったらああいって貰えないぜ。総司は土方さんにとって特別。愛されてるよなぁ??」
原田は「くそぉ」と、総司を羨ましそうに見る。総司はただ、首を傾げるだけだった。


さて、その怪我をした男は意識がないまま試衛館に運ばれた。順番に看病をしていたのだが、丁度総司の時にその男の目が開いた。
「あ、気がつかれましたか?」
総司が声を掛けると、男ははっと起きあがってキョロキョロと辺りを見渡す。
「大丈夫です、ここは江戸市ヶ谷の試衛館。どういうわけか知りませんが貴方が襲名披露の際に血を流してお倒れになったのでお連れしたまでで…」
「襲名披露?それは、とんだ厄介を…」
男は記憶を思い出したのか、丁重に総司に頭を下げた。総司が粥を差し出すと男は初めは遠慮して口にしなかったが、総司が進めると、ぺろりと平らげてしまった。
と、そこへ勇を初めとする試衛館食客が集まってきた。
原田はもう酒で出来上がっているのかそこにはいない。
「皆々様、ご迷惑をおかけしました」
男は深々と頭を下げた。
「いや、いいんだ。もう襲名披露も終わりかけていた頃だ。それよりも訳を聞かせてはくれないだろうか」
勇が尋ねると、男はうつむいたまま暗い声で経緯を話し始めた。
「私は、斉藤一と申します。明石藩脱藩で…金を稼ぐため、高利貸しの手先となり金を集金する役目として働いておりましたが、…このような次第で、」
「つまり、働き先がヤクザだったってことか」
永倉は納得したように呟くと、斉藤と名乗った男は頷いた。
「追われている所、人の賑わう場所に身を潜めようとした訳で。このようなことに」
「そうか…」
つまり、高利貸しと表したヤクザから抜けようとしたのだが、失敗し後を追われているという。
「匿って差し上げることはできませんか?」
藤堂が申し出た。勇が判断を決めかねていると、土方が口を挟んだ。
「ったく…ここには曰く付きの奴が集まるらしいな」
と、苦笑したのだ。勇も続いて苦笑した。
「匿おう」
「よ、よろしいのですか…?」
斉藤は申し出る前に、勇が承諾したことに驚きを隠せないでいた。
「これも何かの縁だ。しばらくは試衛館で身を潜めるのが良いだろう」
斉藤は深く、深く頭を下げ、勇の広い心に感激し
「ありがとう…ございます!!」
と、お礼を述べたのだった。こうして、試衛館にまた新たな一人が加わるわけだが、この斉藤が実際に試衛館にいた期間は短いこととなる。



24
文久元年冬。
夏に試衛館に加わった斉藤一は異色の食客だった。そもそも襲名披露の際、助けられ試衛館に入り今も匿われている身。試衛館に遠慮を持つのは仕方ないが、彼は驚く程無口で、無表情なのだ。食事の際、原田が冗談を言ってもちっとも反応がない。そんな彼に試衛館食客メンバーはどう接していいかわからないでいた。気が付けばそこにいて、刀の手入れをしているか庭を眺めているか、なのだ。そして冬が訪れ、庭に雪が積もる頃そんな斉藤に異変が起こったのだ。


「…なんだ、これは」
久々に道場を訪れた土方が絶句した。出稽古帰りの土方は勇に無理矢理連れられて道場に来たのだが、その光景に立ちすくんでしまった。
道場で稽古をしているのは斉藤と総司だった。
稽古と言うには勿体なく、これは試合といっても良かった。気迫がまるで違うのだ。殺気さえも帯びているように見える。
「歳が出稽古に言っている間に、何かあって総司と斉藤君が意気投合したようなんだが…」
勇も困惑気味に呟いた。
「へぇ。総司が落としたのか」
「…お前はそういう言い方しかできないのか」

やがて試合が終わり、二人が別れた後井戸で水を浴びる総司に土方が話しかけた。
「おい、どうしたんだ」
「どうしたって、何がですか?」
「何がじゃないだろ。いつの間に斉藤と仲良くなったんだ」
総司はきょとんッとした顔をした。
「別に仲が悪かった訳じゃないですよ。斉藤さん、おもしろい人だし」
「おもしろいだぁ…?」
意外な言葉に土方は唖然とした。
どう考えても「好青年」では無い斉藤のどこがおもしろいというのだろう。二人は勇を慕っているようだから、意気投合したのだろうか。
「刀のことについても詳しいんです。色々教えてもらうんですけどあれは専門家以上ですね」
「へぇ」
土方は遠目に見えた斉藤をチラリと見る。また刀の手入れをしているようだ。
「…なぁ、前から気になっていたんだが」
「なんですか」
総司は水浴びし終わった身体を手ぬぐいで拭く。
「いや、襲名披露以来お前の機嫌が悪くないか?」
「…」
総司は何も答えなかった。こういうときは図星だと言うことを土方は知っている。
ここのところ、総司はみんなが集まる場所では楽しそうに話をするが一人になるとうつむいて、何か考え事をしているばかりだ。
「何怒っているんだ。襲名披露は確かにお前は太鼓役として参加したが、別にお前も納得して…」
「そのことじゃないんです」
総司はきっぱり言い切った。土方は後は思い当たることもなく
「じゃあ…」
と、理由を促す。
「…襲名披露は確かに無事に終わりました。だけど…斉藤さんのことで中断してしまったでしょう?若先生はお優しいから…襲名披露を中止にして斉藤さんを助けた。だけど、私はきっと、心が狭いからかな…」
「襲名披露を中止させた斉藤に腹が立つって?」
土方がはっきりいうと、総司は戸惑い気味に頷く。
「…嫌いとかそういうことじゃなくて…ちゃんとしたかったな…って」
「…そうか」
総司には少し頑固で几帳面な所がある。襲名披露自体は野試合は斉藤のことで潰れてしまったものの、その後の周斎から勇への襲名や宴会は滞りなく進んだ。
しかし、何年も前から弟子入りし、尊敬してきた勇の襲名披露を中止にさせる、ということになってしまった原因の斉藤を恨められずにはいられないでいるのだ。
「何とか、恨みを解消しようと思って斉藤さんと仲良くしようと思って…たんですけど」
「なるほど…な。それからお前は体を張って手に入れた虎徹を渡す機会も無くしたんだからな」
「え?!」
総司は剽軽な声を上げた。
「お前が俺に隠し事ができると思ってるのか?甘いな」
土方は微笑して総司を見る。総司は悔しそうに口を尖らせた。総司は夏、藤堂と共に『体を張って』名刀、虎徹を手に入れた。それもこれも襲名披露のお祝いとして勇に渡すつもりだったのだ。
「…勝手に人の行李を見たんですね?」
「見たんじゃねぇ、見えたんだ」
「…」
総司は言い返すことさえしない。
「仕方ねぇ、そう言うときは…」
「…え?」
土方は微笑する。


「果たし合い?」
斉藤は刀に打ち粉を払いながら、土方の申し出を聞いた。総司が必至に「止めてください」と袖を引っ張るのだが土方の口は止まらない。
「こいつがどーしてもお前と打ちたいんだってさ」
「…はぁ」
斉藤は曖昧な返事をする。よく内容を掴めていないのだろうが、それは試衛館食客も同じ。山南の時勢についての話を聞いていた藤堂は
「え?それは楽しみですね」
と、振り返る。山南も頷いた。永倉はいないのだが、縁側でくつろぐ原田も
「おもしろそうだな」と不敵に笑う。こうなってしまってはもう最後。誰も止めることなどできないのだ。


果たし合い、の真意を斉藤が理解しているか否かはわからないが、試合は始まった。勇がいないので審判は土方が務めることになった。野次馬は山南、原田、藤堂とおなじみの食客達だ。
そして、土方から渡されたのは真剣だった。
「ちょっと、歳三さん、これ…」
総司は真剣を土方に突き返した。
果たし合いというのはあくまで名目で、本当に殺そうとか思っているわけがない。
そもそも斉藤などは意味さえも分かっていない。
「大丈夫だ、歯引きしてある。それにお前らなら寸前で止められるだろ」
「はぁ…」
信頼しているのかされていないのか…総司は刀を抜いた。ひらりと光る剣先が、酷く光っていた。防具も付けないように指示されたので二人はいつもの袴に着物、というシンプルな格好だ。
「始めっ!」
土方の鋭い掛け声で、試合は始まった。二人は間合いを取ってなかなか打ち合うことはない。斉藤はいつもながらの無表情で分からないが、総司はなにやら怖がっているようにも見える。真剣を向けることなど、一度もなかった。
「沖田君は、一度も人を斬ったことがなかったね」
山南がぽつりと呟いた。隣にいた原田が
「ああ。土方さんが過保護だからなぁ」
と答え、二人で苦笑する。隣にいる藤堂が不思議そうな顔で
「ではお二人はお斬りになったことがあるんですか」
と尋ねた。
「俺は武者修行で彷徨ってたからな。金をつまれりゃ人も殺したことがある」
「私は無いですが、刀の試し切りを死体でしたことがあります」
と二人は答えた。
まだ、人を斬ったことの無かった藤堂は「へぇ」と呟いて、試合に目を向けた。
細身の剣が触れあうたびに、キンッという鋭い音が交錯する。よく、折れないものだと感心する程に力強い。だが二人には決定的な違いがあった。
「斉藤君は、人を斬ってきた剣だなぁ…」
山南は納得したように頷く。「わかるんですか」藤堂が尋ねると、山南はうなずき
「殺気が違う。それから斉藤君は確実に死ぬという急所ばかり攻めている。その逆で沖田君はできるだけ相手に怪我をさせないように、と気をつかって攻めている。
…まだまだ経験が浅いのは沖田君だ。彼は生きようとする剣の使い方を知らない」
「…」
藤堂は改めて二人の撃ち合いを見る。
斉藤には大胆で尚かつ鋭い所があり、総司にはしなやかに柔軟に対応する所がある。それは、もしかしたら決着が付かないで終わるのではないか、と疑ってしまう程だった。

冬の道場に汗が飛び散り、異常とも言える程室温は上がっていた。時が経つにもかかわらず、二人の剣の交わりは終焉を見せようとしない。それどころか、どこまで続けられるかの勝負をしているようにも思えた。だが、その終焉は突然やってきた。総司の刀が一閃したかと思うと、斉藤の頬を掠ったのだ。
「それまで!」
土方が静止すると、二人は間合いを広げる。斉藤の頬からは一筋の血。
「歳三さん!これは歯引きした刀だって…!」
「お前なら寸前で止められると思ったんだよ。…ただ、斉藤」
礼をした斉藤が無表情なまま、土方をみる。
「総司の馬鹿とは違って、お前は刀の目利きだろう。これくらいの刀なら歯引きしていないのがわかっていたんじゃないのか」
土方が意外なことを言うものだから、総司は慌てて斉藤を見る。斉藤は土方の問いに素直にゆっくりと頷いた。
「…真剣でお受けする理由があると思いましたので」
斉藤の言葉に総司はピクッとなった。
「おそらく、襲名披露のことでしょう」
斉藤の言葉に、総司は戸惑いながらうつむいた。
「…斉藤さんに悪気がないのはわかっています。ただ…」
「襲名披露は貴方が心酔していた近藤先生の晴れの場でした。
 血で汚してしまったことは本当に申し訳なく思っております。…それを責めず、ましてや私を食客として迎えてくださった近藤先生のお心の広さには、感激しております」
「…」
「…沖田さんが納得されないと言うのなら、今ここで土下座をしても良いし、出て行けといわれれば出ていきます」
「えっ、あ…そうじゃなくて」
総司は困った顔で土方を見た。総司が自分の気持ちを素直に言葉に表すことが苦手だと言うことは、土方も知っていた。土方は
「斉藤、そう言う意味じゃねぇんだ。今の果たし合いで総司もすっきりしただろう。お互い蟠りを残したまま生活を続けて欲しくねぇから、俺が仕組んだんだ」
と、代弁した。総司も
「そうです。私は…ただ、鬱憤を晴らしたかったのかもしれません」
「そうですか」
斉藤は安堵の表情を浮かべた。
「正直、これが歯引きした刀でないと気が付いた瞬間は、果たし合いをお断りしようと思ったんです。沖田さんに恨みに思われているなら、本気で殺されるだろうと思いましたので」
「そんな…」
総司は笑った。


「…またやってるのか」
数日後土方が試合をのぞきに来ると、総司と斉藤が打ち合っている。勇も苦笑して
「何があったのかはしらんが…まぁ、総司も良い稽古相手が見つかって良かったんじゃないか。斉藤君も凄腕の剣客だ。稽古相手に不足して総司にとっていい友達になるんじゃないか」
という。まさか自分が原因で、果たし合いをし、意気投合したなど夢にも思ってないだろう。
「…あんたは、脳天気だよな」
「ん?」
「いや、なんでもない」
25
文久元年、年の暮れ。
何かと騒がしかった文久元年の年が終わろうとする頃。例年の如く庭に雪が積もり、試衛館食客達は総出で雪かきをする。だが、そこに加わらなければならない男がいない。
「あれ?斉藤さんは?」
また一波乱ありそうな年の暮れだった。
原田がキョトンッとした顔をして総司を見る。総司は首を横に振る。
「…そういえば、今日の朝、斉藤さんいましたっけ?」
藤堂はうーんと、首を傾げる。そして皆が考える。
「…いたっけ?」

総司は雪かきをひとまず皆に任し、斉藤を捜すべく町に出た。土方も近藤さえも知らない、斉藤の行き先。まったく見当が付かない。
「…そもそも、どこの人かも分からないし…」
雪がまだ降っていたので総司は笠をかぶった。肩に雪が掛かってしまうが気にする程でもない。だが、歩いていては体温も上がらず寒いままだったので総司は小走りに斉藤を捜すことにした。
年末で年の賑わう、街。門松やお正月の準備に忙しい人々。人混みの中見つけるのは至難の業だ。そう感じ、総司ははぁと小さくため息をついた。

…と。
「……え?」
人混みの中、総司の横を通りすがった男が総司の目に止まった。
笠もかぶっていなかったので、その顔をハッキリ見ることができた。総司よりも大柄で皮膚は黒く、目はギロリとしている。だが殺気と威圧感は感じることができた。そして、総司は前にもこの男にあったことがある。
「…あ」
そう、それは総司が幼少の頃のことだ。
総司が嘗て宗次郎だった頃、土方と共に縁日に連れて行ってもらったことがあった。何をしたのか覚えてはいないが、楽しかったのを覚えている。だが、その帰り道。土方に助けを求めた男がいた。今通りすがった男だ。男は怪我をしている様子だったので、土方もやむを得ず助けたのだが、宗次郎にはただただ怖かった。そして男は宗次郎に言った。『汚してやりたい』と。
結局名前も聞けず、あのまま会うこともないだろうと思っていたのだが
「…」
総司は無心に踵を返し、その男を追っていた。
興味があるというわけではない。むしろ、今でもあの時睨まれた顔が目に浮かぶと怖い。だがそれ以上に何かその男に感じるものがあった。男の足は速かった。どこかに向かっているのだろうか、寄り道もしない。そしてやがて、街をはずれた。
人混みがなくなった途端、突然男は振り向いた。
「何か用か」
「…え…」
用か、と聞かれると困る。だが男は殺気を帯びていていつその刀を抜くかどうか分からない。単純な理由であったとしても説明しなくては。
総司はそう思いありのままに
「昔…会ったことがある方だと思いましたので」
と述べた。男は眉間にシワを寄せて、少し離れた総司を凝視する。
「…ああ、あの時の童か。随分綺麗に育ったんだな」
「私は男です!」
ふん、と笑った顔は昔と変わらなかった。そして「あの時は世話になったな。」と付け加えた。
「まだ、汚れてない目をしているな」
「…!」
昔のやりとりを覚えている。
「そういう目ぇ見てるとな、腹が立つんだよ。俺とはまったく正反対だ」
男は持っていた酒をグイッと飲む。
「この世の汚いもの全部を見せつけたくなるんだよ。苦しみも、憎悪もな」
「…」
総司は言い返せないでいた。この殺気と睨みに。
「名前を聞いていなかったな。俺は芹沢鴨だ。お前は?」
「試衛館塾頭、沖田総司…」
「塾頭・・・?若い塾頭だな。試衛館とやらには人手が足りないのか?」
芹沢はからかうように笑う。
「まぁいい。付いてこい、暇だろう」
と、芹沢は勝手なことを言って踵を返す。断ろうにも何も言い返せないような芹沢の威圧に、総司はついて行くしかなかった。

街から離れ、次第に人気のない神社へと到着した。
間合いを開けて歩いていた総司だが、その神社に物騒な気配を感じられないでいた。神社と言うにはもう腐敗してしまっている。
「俺が仲間と会う場所だ。人気もなく誰もこんな不気味な場所に寄ってもこない。…絶好の、場所だ」
芹沢の微笑が、場所のせいか酷く物騒に感じられる。
「あの、それで何の用ですか」
「…綺麗なものは愛でるものだ。愛でた後に汚すものだ」
急に芹沢が総司の腕を強く掴む。
「?!」
「…人をまるっきり信用しやがって。そこが純粋で腹が立つ」
掴まれた腕に強く力が加わる。折れるのではないかというほどの握力だった。
「離して、離してください!!」
総司はもう片方の手で解離を試みるがその手も、芹沢によって塞がれる。
「塾頭なんだろ?もっと抵抗したらどうだ」
「…ッ!」
総司の手は芹沢の片手によって易々と掴まれてしまった。そして芹沢は空いたもう片方の手で総司の袴に手を差し入れる。
「…なっ…!」
「おやめください!!」
と背後で声がした。芹沢は手を止め、振り返る。
「…斉藤か」
え?と思った総司がその芹沢の視線の先に目をやる。そこにいたのは紛れもなく斉藤だった。
「斉藤さん!」
「…なんだ、知り合いか?」
芹沢は総司の手を離した。総司は急いで斉藤に駆け寄る。
「斉藤さん、どうしてここに…」
「それはこちらの台詞です、沖田さん。どうして芹沢さんと一緒に…」
「私はただ、斉藤さんの行方を捜して…」
「お前、その試衛館とやらに入り浸っていたのか」
芹沢が口を挟むと、斉藤は睨むようにして芹沢を見る。
「芹沢さん。私は…もう江戸に留まることはできない。それで私達の縁もこれまで」
斉藤が真摯に言うと、芹沢はふん、と鼻で笑う。
「どこへでも行け。もうお前は必要ない」
「そうですか、それはよかった」
斉藤は短く返事をすると総司を見て
「行きましょう」
と声を掛けた。斉藤は強引に総司の手を引っ張った。総司はチラリと芹沢を見たが芹沢は微笑したままで、総司達を追うこともなかった。


人出のある所に来た所で斉藤が声を荒げて言った。
「沖田さん、近藤先生にお世話になったとお伝えください。決してこのご恩は忘れないと。」
「斉藤さん?!」
「また皆さんに会うときに…また理由を話しますから」
「…わかりました」
総司は斉藤にもう時間がないのだ、ということを感じた。そして同時にまた会えるのだということを確信じみたものも感じていた。
「それでは」
斉藤は踵を返して総司に背を向けた。その背中にさよならという言葉はきっと似合わない。
「また…!」
 総司は叫んだ。


「何?あの時の男に…?」
斉藤の件を皆に報告した後に、総司は土方に芹沢について話した。土方もあの時のことを覚えていたらしい。
「芹沢という男だったんですが」
「お前、何かされなかったか?」
「え…っ!?」
総司はあからさまな程、同様をしてしまった。
「なんだ、その反応は??」
「ななな、なんでもないです!」
「何でも無くないだろ!?なんだ、何されたんだ!!」
まるで過保護すぎる母のようだ。それに問いつめるのも何だか強引で、心配されるのが痛い程感じる。正直に話した方が良いと思った総司は
「…実は、不覚を取られてしまいました。手を掴まれて…こう、袴に手を…」
「なに!?」
「ででで、でも何もなかったんです!斉藤さんに助けて頂いたので!!あ、でもごめんなさい!私「試衛館塾頭」って名乗ってしまって…!」
総司は「試衛館塾頭と名乗った上、不覚を取る」という結果に申し訳なく思ったのだが土方の心配する場所は別にある…というのはこの総司には分かっていない。

斉藤の試衛館滞在は、半年に過ぎなかった。



26
文久二年、二月。第十四代将軍家茂が和宮と婚儀されたことにより、江戸はお祝いムードが漂う。何かにつけておめでたい、と人々が口ずさむ冬。
沖田総司二十歳、土方歳三二十七歳、近藤勇二十八歳。世の中を担う年頃へと成長していた。そしてまた新しい出会いが生まれるのである。

斉藤一が去年の暮れに試衛館から離れたことにより、食客部屋は少しだけ広くなった。…とはいえども、ぐうたら共が居座っていることに変わりなく、勇の養母であるふでの機嫌は悪くなるばかりだ。
永倉新八は仏頂面で、本を読んだり出かけたりすることが多く原田左之助は縁側で寝転がり、黄色本を読みあさっている。それに相反して山南敬助は正座をしたまま、難しそうな国事書物を読みあさる。藤堂平助は総司に稽古を付けてもらったり、食客の先輩である永倉、原田などとともに行動したり。そんなありきたりな日々が、どこまでも続いていくのだろう。そう思いながら総司は縁側で黄色本を読む、原田の隣で空を眺めたりしていたのだが。
「御免くださーい」
という青年の若々しい声で、はっと我に返った。
食客部屋に皆いることはいるのだが、それぞれが何かに集中しているようで玄関まで出るつもりは全くない。仕方ない、と総司は小さくため息を付いて玄関に向かった。

そこには総司と同じくらいの年齢と見ゆる、青年が清々しい笑顔で立っていた。
どこか品があり、身に付いている衣服なども高価そうなもので、どこかの御曹司だと察することができた。
月代があるせいか、総司よりも随分と大人びて見える。
「試衛館というのはこちらですよね。土方さんはいらっしゃいますか?」
「え?歳三さんですか」
総司は青年の意外な訪問者先に驚いた。
「歳三さんは…今、出てるみたいなんですけど」
本当のところ、きっと吉原に遊びに出ているのだろうと思っていたのだが、まさか口にするわけにいかない、と口を噤んだ。が。
「ああ、吉原に行っちゃってますか。まったく…」
仕様のない人だと呟いた。彼は土方の本性を知っているらしい。口調もどこか親しい様子だった。
「あの…」
「ああ、すいません。伊庭八郎と申します」
「い、伊庭…」
総司が絶句したのは、先日、永倉から町での噂を聞いたからだ。

土方が例の如くいない、夕食で永倉が興味津々、という具合に話したのが伊庭道場の御曹司の話だった。
「剣術を初めたのが十六歳で、たった二年の間でめきめきと成長して、今は『伊庭の子天狗』とも言われてるらしい。まったく、そんな天賦の才を持った奴、拝んでみたいものだな」
「伊庭道場の御曹司といえば、伊庭八郎殿のことでしょう」
と、山南が付け足した。
総司は「へぇ」と適当な相づちを打っただけで、そんなに興味が湧くわけではなかったのだが山南と永倉が隣で真剣で話すものだから、頭に焼き付いてしまった。『伊庭八郎』という名が。

「え?俺のこと、なんか聞いてます?」
伊庭がキョトンッとした顔で、総司の顔を見る。総司は慌てて
「え、あ、そ、そんなんじゃないんです。歳三さんのお友達って珍しい…なぁと思って…」
「そうでしょうねぇ…。あんな偏屈に友達だなんて…」
伊庭が苦笑する。土方を偏屈呼ばわりするということはよっぽど土方とは仲がよいのだろう。総司が対応に困っていると、伊庭は「あっ」という剽軽な声を出した。
「あ!そか、貴方が沖田総司さんじゃないですか?」
「え?」
総司が困惑しながら頷くと、伊庭は笑顔を浮かべて
「やっぱり!土方さんがよく貴方のことを話してくれるんですよ。あんまりにも熱弁するものですから どんな方かと思ったら…」
伊庭は総司をずいっと見る。
「あーなんか、わかりますね。」
何がだろう。総司は心の中で首を傾げた。
彼は土方を待つ、というので客間に通した。急用とかではなく野暮用だという。総司はいそいそとお茶を出し、土方が帰ってくることを願うがその様子は全くない。
総司が話題に困っていると、伊庭はさりげなく自分から話しかけてくれた。
「塾頭なんですよね」
「え、ええ…」
「そのお年で塾頭なんて、やっぱりよっぽどの腕の持ち主ということですよね。土方さんから色々聞いてはいるんですが、今度俺と一度試合しません?」
「はぁ…」
人懐っこく話しかけてくれるものだから、総司はすっかり安心した。
伊庭は土方と同じくらいの美男だった。凛とした顔つきははやり御曹司の凛を持ち合わせているし所作もきっちりしていて見習いたいくらいだった。
「ところでおいくつなんです?」
伊庭が唐突に尋ねる。
「二十歳ですけど…」
「あ、じゃぁ俺よりも年上ですね。俺は十八ですから、伊庭とでも呼び捨てで構いませんよ」
「そんな…」
総司がまさか伊庭の御曹司を呼び捨てになどできるはずもなく、とにかく『伊庭さん』と呼ぶことにした。

「まったく、人との約束を破っておいて、何でこんなに帰ってくるのが遅いんでしょうねぇ」
伊庭は拗ねた口調で言う。
「あの、伊庭さん。歳三さんにはどういう用件だったんですか?」
「刀ですよ。あ、沖田さん近藤先生のために虎徹を買われたらしいですね。今度拝見させてくださいね。」
そんなことまで…。総司はガックリと肩を落とした。
「土方さんの刀が結構ボロボロで。俺も一応刀には五月蠅いものですから一緒に刀を探そうと約束してたんですけど…。まったく」
伊庭は大層ご立腹のようだが、まだまだ帰る気配はない。
「こうなったら、夜まで居座っちゃって良いですか」
「構いませんけど…」
「よかった」
「あの、そのかわり…とかじゃないんですけど、聞いても良いですか?」
総司にはどうしても気になることがあった。伊庭は総司から話しかけてくれたことが嬉しかったのかにっこり笑う。
「あの…歳三さんとはどういうお知り合いですか?」
「え。どういう…。うーん。悪所仲間って奴ですかね。俺が伊庭の御曹司だって知った瞬間にあの人、少し遠慮して接してくれるのかと思えば、まったくそんなことなくて。 そういう人は珍しかったんで付き合ってみようと思ったんですよ」
「へぇ…」
確かに土方は如才なく振る舞う所もあるし、年下のものにも好かれるタイプだ。土方に彼のような友人がいるとは聞いたこともなかった。どうして教えてくれなかったのだろう、と少しだけ悔しく思った。

夕方になって、そろそろ土方が帰ってこようかという頃。
昼見世はもう終わっているので、帰ってくるだろうと伊庭は言うが総司にはよく分からない。総司に分かるのは、きっと彼らは吉原に通う仲間なのだと言うことだ。
「…所で、沖田さん」
「はい」
「土方さんとは…どういう仲なんです?」
総司は持っていた湯飲みを落としてしまった。
「なななな、なにを…」
総司はたちまちに真っ赤になり、その顔を隠すかのようにいそいそとこぼれてしまったお茶を拭いた。この台詞を聞くのは何度目か。
「だって、ずっと俺気になってたんですよ。土方さんって自分のこと以上に他人のことなんて気にしない性格でしょう?なのに沖田さんのことばっかりはペラペラと…。これは色恋が絡んでるなーと踏んでましたので。」
伊庭は総司のあわてふためく表情を見ながらにやにやと笑う。
「別に、歳三さんはただの食客仲間ですっ それ以上でもそれ以下でも…」
「あーやーしーい。俺としては恋人未満友人以上という推理なんですが。」
「こここ、恋人って…」
「あの人のことだから、恋人だとしたらもう手を出してる所ですよね??なんかされました??」
「な、なんか…って。なにも…」
総司は動揺した。土方を確かに友人だと思ったこともないが、まさか恋人だとも思ったことがない。
だが、当てはまる言葉が見つからない。
「…なんて言うか、空気みたいな感じです。歳三さんがいないと…苦しいし、いるだけで安心するし」
「はー」
それを恋とは…。
伊庭は内心そう思ったが、余計なことはいうまい思って「そうですか」と、納得してあげることにした。
「沖田さんって」
「はい?」
「可愛いですよねぇ」
「はぁ?」

「お前、何でこんな所にいるんだ」
夕食の時間寸前に帰ってきた土方は、客間にいる伊庭の顔を見て驚いた。しかも総司と親しげに話をしている。
「酷いですよ。土方さん。先日一緒に刀屋に行こうって言ってたじゃないですか」
「刀屋…。ああ、そういやぁ…」
「まったく、まだ二十七歳だというのにもうその脳はご老体ですか」
「てめぇ。好き勝手いいやがって」
この会話はどこか兄弟じみている。総司がくすっと笑うと、土方は「何笑っていやがる」と総司の頭を叩いた。頭を抱えてわざと大袈裟に痛がると、土方が鼻で笑う。伊庭はその様子に苦笑して、話を続けた。
「まったく。じゃあ又今度出直しますから、その時はきっといてくださいよ。まぁ、でも今日は沖田さんに会えたから由とします」
「何だ、お前ら意気投合したのか?」
「そ、そんな…」
総司は自分が伊庭に対してどういう振る舞いをすれば良かったのか、まるで分からなかった。失礼をしてしまったのではないか、と思った総司だが、伊庭はそんな総司を気にする様子もなく
「まぁそんな所ですよ。親友以上のかたーい結束で結ばれたんです。又来ますね」
と言って試衛館の門をくぐった。


試衛館食客部屋で夕食が始まった頃。隣に座る土方に少しだけ目を向けながら、総司は煮魚を箸でつついた。
「歳三さんにああいうご友人がいたなんて初耳です」
少しだけ口を尖らせると、土方は苦笑する。
「お前が吉原に通いたいっていうんなら、紹介してやったんだがな」
「まさか」
総司は魚を毟ったのを口に運ぶ。
「いつか立ちあってみろよ。『伊庭の子天狗』って云われるだけあって、あいつの腕は確かだ。お前とは同等の試合ができるんじゃないか」
「それは御免です。今日だって何だかもう伊庭さんに負けちゃったような気分で…」
「はぁ?」
土方は茶を口に運ぶ。
「伊庭さんって私より年下なのに…。所作も言葉遣いも、何だか仕草一つ一つが私よりも落ち着いていて…。あわてふためく私が何だか情けなかったです」
総司が目を伏せながら云うと、土方は苦笑して言う。
「お前ががさつで大雑把じゃなかったら、おもしろくないだろ」
「…慰めているつもりですか」



27
文久二年 三月。
土方の遊び仲間だという伊庭に出会って一ヶ月。その顔は馴染みの顔となっていた。土方…というよりも総司に興味があるらしく、総司に会いに来るようになり、次第に試衛館面々とも顔見知りとなった。
意外にも伊庭は原田と話が合うらしい。だが総司が入りきれない方面の話題なのだが。
そんな試衛館の様子にふではご立腹…かと思いきやそうでもないらしい。伊庭が手土産に、と持ってくる肴の数々で試衛館食客の胃は潤っているのだ。
そんな、桜が咲く季節直前の春。

「沖田さんと買い物だなんて、嬉しいなぁ」
ご機嫌の様子の伊庭が総司の隣を歩く。
「全然嬉しくないですよ。歳三さんのお使いだなんて」
「沖田さんは俺と一緒だと嫌なんですか?」
「だから、そうじゃなくて」
伊庭がからかい気味に笑う。総司は伊庭のそう言う所が苦手だった。結果的に笑われるのに、どういう返答をして良いのかわからないのだ。今日は土方のお使いで茶菓子を色々と買いに町に出ているのだ。勇が土方に頼んだらしいが、土方はそれを総司に押しつけて自分はどこかに行ってしまったのだ。
「まぁどうせ土方さんのことですから吉原辺りって所でしょう」
と伊庭は言うのだが、最近どうも吉原に行きすぎている気がする。馴染みの女ができた、といわれたら納得するのだが土方は何も言わないのだ。
「…伊庭君は吉原によく行くんですよね」
総司の伊庭への敬称が「くん」になったのは、日頃から試衛館に通うようになったからだ。
「よく行きます…という訳じゃないんですけどね。一応伊庭家の顔もありますから
程ほどに通うようにしてますけど。」
「へぇ…」
総司にとって、吉原とか妓がどうとかそういうものは眼中にないのだ。だから知識も乏しい。
「伊庭さんは…その、馴染みの女とかいるんですか」
「そうですねぇ。まぁ俺の場合は「裏」で終わるんですよ」
「うら?」
総司はその専門用語に首を傾げた。
「太夫とかいういわゆる「高い妓」を買うときはなかなかお近づきになれないものでして。一回目にあうことを「初会」、二回目を「裏」。そして本懐を遂げられるのが三回目の「馴染み」というわけです。
 俺の場合は一人の女をずーっと相手にするほど持続力がないんで、二回目でお別れということにしてるんです。「馴染み」になるともうその妓以外には通ってはいけないんでね」
「へぇ…」
伊庭は「常識ですよ」と付け加えた。
確かに伊庭のような武士はそういう所に通うものかも知れない。もしかしたら、そういう所に通うからこそ『大人』と評されるのかも知れない。
「もしかして吉原とか、興味あるんですか?」
総司の胸に引っかかるのは、いつまでも土方が大人扱いしてくれないこと。元服をしても、よく頭を殴られるしこうやって使いっ走りにするし。
「…はい」
「えぇぇっ」
総司の答えに驚いたのは伊庭だ。
「伊庭君!」
総司は伊庭を真摯な眼差しで見つめる。
「今度…吉原とかいう所に、連れて行ってくれませんか?!」
大人扱いされないのなら、せめて行動だけでも起こしておかなければ。総司の胸中にあるのはそれだけで、そのあと伊庭がどれだけ困惑したかなど、考えもしなかった。


数日後。
試衛館に訪れた伊庭だったが、総司の張り切りぶりにはこちらが土方に申し訳ないような気がした。総司が何を考えているのかなど伊庭にはさっぱり分からない。
土方曰く「総司は女にも興味がねぇただのガキだ」ということで、きっと初な人なのだろうと思っていたのだが。
もしかしたら自分の発言が元で、総司が興味を持ってしまったのだとしたら。
「…筆おろし役が俺だなんて。責任重大ですよねぇ…」
「え?何か?」
「何でもないです…」
やや後ろめたいような気がしながら、伊庭と総司は試衛館を後にした。

「土方さんには報告したんですか?」
「まさかっ。報告なんかしたら、もっと笑われます」
「…あはは…」
本気で笑えない道中を経て、総司達は吉原へたどり着いた。
立派な大門をくぐり、二人は吉原内に入っていった。もうすぐ夜も近く、客は多い。早い見世では提灯までついている。そんな薄暗い吉原の仲の町通りを通っていると
「御茶屋さんばかりですね」
と、総司が興味津々に呟いた。
「仲の町通りには茶屋が多いんです。」
「へぇ…」
吉原は廓という特殊な形態の町であり、外部とは遮断されている。塀に囲まれた方形で出入り口は今総司達が入ってきた大門一つしかない。塀に囲まれたそこは、まるで一つのテーマパークのようなものである。
「右手から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目。そして左手は伏見町、江戸町二丁目、角町。京町二丁目。ああ、それから江戸町二丁目と角町の間に細い道があって、そこが堺町です」
「はー…」
総司は圧倒されて、キョロキョロと辺りを見渡す。
「取り敢えず、今日は俺の馴染みの見世がありますから。そこに行きますか」
「はい…」
総司は辺りの光景に圧倒されたらしい、俯いて伊庭の後を追った。
と、いうのも総司には見慣れない、往来でのいちゃつきがどうしても目に付いてしまって仕方ないからだ。

「伊庭先生、お久しぶりでございます」
人の良さそうな女将が、伊庭に丁寧に頭を下げた。伊庭が案内したのは、江戸二丁目にある「角谷」という見世で、老舗らしいのか建て住まいは厳格がある。だが、女将の微笑んだ様は暖かみを持っていた。
「おや、お珍しい。お連れ様ですか」
「ええ。」
「では、お腰のものお預かりします」
女将は慣れた手つきで伊庭と総司の刀を手に取ると、若い女に案内するように言い渡した。そして付け加えるように
「ああ、伊庭先生。いつものお連れの方がいらしてますが」
「え…ああ、別で良いです。それから、その人にも内密ですよ」
「はい」
そのやりとりが総司の耳に入らなかったわけではないが、総司の思考はそれどころではなかった。なにやら、大変なことをしでかしてしまった、という後悔の念に苛まれている。

「…沖田さん、失敗したーって思ってるでしょ」
伊庭がまたからかうような目つきで総司を見る。
「…思ってます」
「やっぱり。だから本当は俺連れて来たくなかったんですよねぇ」
総司は部屋の隅で正座で固まってしまった。そして部屋に用意してある一組の布団に、唖然としてしまった。そして我に返ってしまったのだ。
「今更、帰りたいっていってもだめですよ?」
「…わかってます」
それでも、心の中では『帰りたい』と思わずにはいられなかった。あの時、もう少し冷静になって考えていれば良かったと、今では痛いほどわかる。
「…伊庭君は、どうするんですか」
「俺は酒だけ飲んで、沖田さんを見届けたら帰りますよ」
「えっ!」
「だって、邪魔にも程があるでしょう?」
「…あの、その。歳三さんにも原田さんにも…それから試衛館のみんなにも言わないで欲しいんですけど」
「はい?」
「なにを、どうすればいいのか分からないんですけど」
「……はい?」
総司は顔を急に赤らめた。そして羞恥に駆られながらも口調だけは早く
「て、手管とかそんなの全然わからないし、近藤先生に聞けるわけもなくて。原田さんに教えてもらうことなんて、できるわけないし、ましてや歳三さんにだなんて…」
「…ははぁ…。でもそんなことは口で説明できるものじゃないんですけど…」
相当、過保護に扱っているらしい。
伊庭はそう直感する。顔を赤らめて焦っている総司は年下の伊庭でも、とても二十歳には見えない。
「じゃあ妓を呼んで俺が抱きますから、それを見学したらどうですか?」
「そんなことできるわけないじゃないですかっ」
人の情事を覗くなど失礼極まりない。総司はむしろ伊庭の発想に驚いた。
「じゃあ知識もなしに、女を抱くつもりですか?」
「う…」
まさかそんなこともできない。
総司は自分が随分子供だと感じられずにはいられなかった。そしてまた冷静な判断ができないまま、思いがけない言葉を発してしまったのだ。
「…じゃあ伊庭君が私を抱いてください」
「………………………………………は?」
伊庭は用意されていた酒を、手から落としてしまった。
「合理的で、良いと思いますけど」
「沖田さんっそんな焦ってるからって無茶苦茶な・・・」
「どうしても、だめですか?」
「だめっていうか…。なんて言うか」
伊庭とて、総司の美貌に目がくらまないわけではない。陰間茶屋できっと総司のような美男は評判の売れっ子にでもなれるくらいなのだ。愛していないとか、対象ではないという以前に「抱いてください」と言われれば頷いてしまう。
一方総司は大人の仲間入りがしたいという、それだけの強い思いだった。
「…本当に、いいんですか?」
「はい」
「男同士じゃ、ちょっと違うんですけど」
「大丈夫です」
「…はぁ…」
まさか、自身が手を掛けて総司の筆おろしに付き合う羽目になるとは思わなかった。伊庭はまんざらでもないため息を付くと、隣の部屋に総司の手を引いた。

「まず、女の着物をゆっくりと剥いで…」
「あ、伊庭君それくらいは」
自分でやると言いだした総司だが、
「だめですよ。これは模範練習なんですから」
「…はい」
と、止められてしまったので伊庭の思うままになる。布団は柔らかく寝付いてしまいそうな温かさを持っていた。だが、身体はそうはいかない。何故か強ばってしまっている。
「まず口吸いを何度も、何度も。それからゆっくりさするように肌に触れていって…」
「あ、わっ」
伊庭は「練習練習」と総司に口付けする。その手管は巧みだった。そして手がやがて首筋に達する。
「…ま、っ…」
総司の静止にも関わらず、伊庭は手を動かし続ける。
「少なくとも妓は沖田さんよりも場数を踏んでいますから、あれこれ迷ってる場合じゃないですよ」
そして伊庭は胸板に触れた。
「ちょ、たんまっ伊庭くんっ!ちょっと待って…っ」
総司が慌てて、静止を続ける。と。
「…何やってんだ、お前ら」
聞き覚えのある声が、がらりと開いた障子から聞こえた。
「と…歳三さん?」
土方は最初はじゃれて遊んでいると思っていたらしい。その光景を目の当たりにするに順って土方の剣幕が鋭くなる。
そして強引に部屋に入ってくると、伊庭の胸ぐらを掴みその頬を一発殴った。
「てめぇっ、総司になにしてんだっ!」
「まっ…!歳三さん、勘違いです!勘違い!!」
もう一発、という土方の腕に捕まり必死でその動きを静止した。
総司の必死さに土方は冷静になったのか、辛うじてその一発が伊庭の頬に落ちることはなかった。
「伊庭くんっ、だ、大丈夫ですか?」
「いたた。もう、手加減くらいしてくださいよ…」
「…どういうことか、説明してもらわねぇと、もれなくもう一発だ」
「だから、歳三さんっ…」
自分のせいでこのような事態になったというのに、伊庭に当たるのはお門違い。
総司は懸命に説明しようと思うのだが、慌てているのかどうも旨く言葉が出てこない。土方の表情は未だに硬いままだ。
「…見たまんまですよ。土方さん。」
と、伊庭は何を思ったのか話を遮った。
「俺が吉原に沖田さんを誘ったんです。いい女がいないから、なんか沖田さんを見てむらむら来てこういうことになった。ってことです。わかりました?」
伊庭は微笑さえも浮かべている。総司は困惑するばかりで、土方の表情も厳しくなっていく。もしかしたら、このまま二人の間に溝ができてしまうかも知れない。
総司はそれだけは嫌だ、と思い伊庭が庇ってくれたことを感謝しつつ、本当のことを話すことにした。
「今、伊庭さんが言ったことは全部嘘です。吉原に連れて行って欲しいって言ったのも私で…こういう事態になったのも私が元凶です」
「どういうことだ」
伊庭ははぁと肩を落とした。
(半分くらい真実だったりもしたんだけどなぁ…)と心の中で苦笑する。
「…そもそも歳三さんが悪いんです」
「は?」
「歳三さんがいつまで経っても私のことを子供扱いしてばっかりで。だから、見返してやろうと思って私が伊庭くんに吉原に連れて行って欲しいと頼んだんです。 それで…」
「それで?」
「私が女のことについて何も知らないから、伊庭さんに教えてもらおうと思って。
でも口ではなかなか説明できないってことになって…」
「じゃあ実践でってことか」
「…はい」
総司は俯いたまま、土方の顔を見上げることもできない。乱れかけていた服を着直すと、伊庭は苦笑する。
「というか。沖田さんが誰と恋をしようとも勝手じゃないですか。そもそも、沖田さんは土方さんのものじゃないし、恋人じゃないですよね。誰に足を開こうが、それは沖田さんの自由ですよ。」
鋭い指摘をいれると、土方は何も言わなくなった。総司も何故この状況を土方にとがめられる必要があるのか、と聞かれればわからないし何故こんなに必死に訳を説明しているのか、と聞かれてもわからない。だが、誤解されたくなかった。
「…歳三さん」
「…そうだな。総司、お前の好きなようにすればいい。」
そう突き放した言い方をして土方は総司に背中を向けた。総司はどうすればいいのかわからず、俯いていたが急に着物の乱れを直すと
「ごめんなさいっ!やっぱり、私は…」
「はいはい。わかってますって。この借りは必ず返してくださいよ」
伊庭は総司を微笑で見送った。
「あーあ…。明日から土方さんに睨まれる生活を送らなきゃなぁ…」
と、酒をグイッと喉に押し込んだ。


「歳三さん、歳三さん」
夜町は人が賑やかで、土方の背中を何度も見失いそうになった。吉原の大門をすぎ、やっと二人だけになった小道で土方は呟くように言った。
「お前は俺のもんじゃねぇよ」
また突き放された言い方をされ、総司は俯いてしまった。
「お前がどう生きようが、どんな女とヤろうが俺には関わりねぇ」
歩調が早くなり、総司は必死に土方について行く。
「だが、お前は俺の弟のようなものだ」
「…え…」
「一度も言ったことはなかったかも知れねぇが、俺はお前を本当の兄弟よりも大切だと思っている。」
思わぬ言葉に総司は返事ができなかった。
「過保護になりすぎだな…。お前の色恋に手を出すほど俺とお前の関係は深くねぇ…」
「…そんなことないです。私だって、姉よりも何よりも…」
それが愛情とかに繋がらないにせよ、大切に思っている。家族よりも脆い絆であるはずだが、家族よりも強く結ばれている気がする。
「…正直、お前が吉原に来て焦った」
「え?」
「俺は…まだ身体だけ成長したガキ。そしてお前はもっとガキだ。…そう思っていたからこそお前がこういう所に来て、俺よりも大人になるのが怖かったんだ」
「…」
いつも腰に手を当てて、威張りくさりしているのに。総司はそう思うと苦笑してしまった。
「なに笑ってんだ」
「いえ。何だか嬉しくて」
「あ?」
「…私は歳三さんの背中を追って生きていくことを決めているんです。決して前に進んだり、後ろで離れたりしたくない。だから…」
安心して良いですよ。と付け加えると調子に乗るな。と怒られた。いつもの土方だ、と思い、総司は嬉しく感じた。
空を見上げると、満天の星。
まだ、子供でも良いかな、と感じてしまった。


「ったく、お互い恥ずかしいだろ」
「恥ずかしいのは歳三さんです」



28
文久二年。冬を終え幾度もなくすぎる新たな春を迎えようとする試衛館にその知らせはやってきた。

「なんだって・・?!」
一番大きな声を上げたのは土方だった。
「本当なのかよ、近藤さん」
「まさか、何かの間違いでしょう・・」
口々に試衛館食客達は言うが、近藤は決して首を縦には振らない。痛ましい笑みを浮かべながら「間違いないんだ」とむしろ宥めるように言う。
「全部、お流れになったよ」
近藤は微笑するだけだった。

と、言うのは近藤が講武所の教授方として推挙されるという話だ。四代目襲名と共に、天然理心流宗家となった勇は講武所の教授方として練兵館の桂小五郎に推され、その位を確実なものにしていた。しかし就任間近、という所でこの話はなしになったという。
「何故だ、今更になって…」
土方がまるでつかみかかりそうな勢いで、勇に問う。勇は土方に相反し、取り乱すことなくゆったりと
「俺がここの養子で、元は農民の倅だと言うことが知れたらしい」
言った。
「それはおかしい。近藤先生は正式に天然理心流宗家を継いでいらっしゃいます」
珍しく興奮した山南が声を荒げる。
「いや、そうはいっても農民の倅だ。」
「ですが…」
「所詮、農民の子だ。時代がこれだけ乱れていても武士になるなんて、大きな野望はそうそう、叶わないものだよ」
あくまで冷静に答える勇だが、その瞳の影に暗い色が隠れていることに、総司も気が付いていた。土方はチッと小さく舌打ちすると、部屋を立ち去った。
総司は自然に土方を追いかけていた。

 土方は試衛館を出ていた。
「歳三さんっ!」
「お前は試衛館に戻って、かっちゃんを宥めてやれよ」
「歳三さんはどこに行くんですかっ」
「うるせぇな」
土方の早い歩調に、総司はついて行くのがやっとだった。
体格差はあまり無くなったものの、怒りに燃えている土方の歩調は走るほどに速い。いつもは長い、と呟いていた河原も一気に通り過ぎてしまった。
「どこに行くんですかっ!」
「桂ん所だ」
しつこく聞く総司に土方はついに口を開いた。
「桂先生…?」
「奴に『先生』なんてつけんじゃねぇ。奴はかっちゃんの生まれを知らないはずがねぇ。だとすれば、今回の件、かっちゃんを騙すためにやったとしか思えねぇ」
土方は勇について必死になると、『かっちゃん』と呼ぶ。そんなことを脳裏で思いながら、総司は過去へと回想した。
桂が試衛館に恨みを持つきっかけとなったのはそう言えば自分かも知れない。
まだまだ幼く、宗次郎と名乗っていた頃。桂は宗次郎の才を小耳に挟み練兵館へと引き抜こうとしたのだ。その時は宗次郎と桂が立ち合いをして、宗次郎が反則とも思える手段で桂に勝利した。確かそのころから、桂は何かと試衛館を恨みに思い、道場破りが来ても他の者を使わし、自分は決して試衛館に足を踏み入れようとはしなかった。
「四代目襲名でかっちゃんが斉藤を助けたことによって、試衛館の評判は上がった。
そのことが奴には気にくわねぇのさ。」
「…なるほど」
勇の人の良さは、四代目襲名の際に露わとなった。理由は怪我をした斉藤を自らの晴れ舞台をやめてでも助けた姿勢が、民衆に評価されたのだ。
つまり土方は、桂は勇を一度講武所に推挙し、間近になってから公の場でその『農民の子』であることを発表した、というのだ。これは勇を陥れる目的以外に考えられない。だが、これは推測にすぎない。
「あいつをぶっ殺す」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ!いくら何でも、歳三さんに…」
「無理って、いいてぇのか?」
土方がふと足を止めた。
「…お前、全然取り乱してなかったよな」
「…」
確かに勇から講武所の話がなくなった、という事を聞いても、自分が一番冷静でいたのではないだろうか。土方や試衛館食客のように、熱くそのことを否定しようとしただろうか。
「…私だって、残念に思ってます。でも若先生の実力ならまた良い話がでてくるかもしれないじゃないですか」
だが、その中にあきらめの気持ちがあったのも確かだったかも知れない。ふっと、黒い影が頬に近づいた。パンッと弾けた音がしたと思えば、自分の頬が痛み出した。土方に叩かれたらしい。
「…歳三さん」
「お前、本当にそう思ってんのか?そんな冷静な顔して、どっか心の中で笑ってんじゃねぇのか?熱くなってる俺を見て、嘲笑ってんじゃねぇのか?」
「ち、違います!」
痛む頬を両手でさする。だが、それよりもその言葉が痛かった。。
「お前は武士の出だ。俺たちの気持ちが、分かるわけねぇか」
「そんな…」
冷たい。拒絶の言葉を投げかけるのだろう。
「もういい。付いてくるな」
冷たくて、痛くて、一気に離れていってしまった気がする。

「土方さーんっ!!」
と、そこへ野暮とも言える剽軽な声で声を掛けた人物がいた。
「伊庭…」
「どうしたんですか、辛気くさい顔しちゃって…」
「うるせえな。お前はどこに行くんだ?」
両手いっぱいに酒の肴になるようなものを抱えた伊庭を見て土方が尋ねた。伊庭は苦笑しながら答える。
「いやぁ、試衛館に…といいたい所ですが、しばらくは顔を出さないことにしました。なんか…講武所の方で色々あったようですね」
「まぁな…」
伊庭はちらっと総司の顔を向ける。総司は叩かれた頬を押さえたまま、俯いているだけだった。
伊庭と講武所の関わりとしては、心形刀流の御曹司で伊庭の実父、心形刀流八代目伊庭軍兵衛秀業が八郎が幼い頃に隠居し、その門下生であった堀和惣太郎が九代目を継いでいる。つまり事実上の八郎の養父になった。その後しばらくして伊庭惣太郎と名を変え、講武所の剣術方となった。そして最近、講武所剣術師範並に昇進している。
つまり、講武所とはゆかりが深い家となるのだ。なので、伊庭は勇に気を使い、顔を出さないらしい。
「だから、肴だけおいて帰ろうと思っていた所です。それで、あなた方はどこへ行かれるんですか?まさかとは思いますけど…」
「そのまさかだ」
「やっぱり」
伊庭は苦笑した。


土方の向かっていた所は講武所だった。
総司は付いてくるな、と言われたものの伊庭が顔を出し、帰りづらくなってしまったため、ついに講武所まで付いてきてしまった。伊庭が慣れた口調で話を通し、土方と総司を客間に通した。彼はよく講武所に通っているのか、数人の役人が軽く会釈をする。通された客間は風通しが良く、質素な感じもしたが高い花瓶がどどんっと真ん中においてあり少しだけ緊張感を持たせた。飾ってあるのは早咲きの桜か。
そんなことを総司が考えていると、足音がした。頭を下げ、足音だけでその人物を判断する。足音から言って出向いたのは二人。「頭を上げられよ」とのお言葉で三人はゆっくりと頭を上げた。と、そこには桂もいたがその隣には講武所の最高席者である松平主税介の顔があった。
「伊庭の子天狗殿、久しいな」
松平はまず、伊庭に目を向けた。一目置かれた存在らしい。
『子天狗』というのは伊庭の渾名だった。そもそも彼が剣術を始めたのが僅か二年前。それが今では心形刀流を継ぐだろう、最有力候補なのだ。その生まれ持った実力に、人々は『子天狗』という渾名を付けていた。この渾名を伊庭は別段気にする様子もなかった。
「お久しぶりでございます。」
伊庭は丁重に頭を下げる。いつもおちゃらけているばかりで、こういうシーンに出くわしたことのない総司にとって、伊庭が大人びて見えて仕方なかった。
「それで子天狗殿、わしに用件とは何事だ?わしも多忙な身で…」
扇をパタパタとするのは土方と総司への嫌みだろう。
「隣におりますのは、わたくしの友人である土方君と沖田君です。どうしても、松平様に進言したいことがあるとのことで、連れて参った次第です」
「ほぉ…」
松平は二人に初めて目を向けた。
(歳三さん…)
隣でまっすぐに土方が松平を見つめている。いや、それは蛇が獲物を見つけたときの睨みに似ていた。
「私は試衛館師範代、土方歳三。隣は塾頭の沖田総司」
手短に自己紹介をすませると、すっと下げていた頭を上げた。
「単刀直入にお聞きします。講武所教授方から何故、近藤勇を落としたのですか」
丁寧な口調の中にも強さがある。
「…近藤勇?ああ、あの農民の倅…。土方君、と言ったか。よくよく考えてみられよ。幕府に直属に仕える武士の身分を持ったものが、農民の倅に剣術を教わるだと…?甚だおかしいとは思わないか」
松平はふんっと鼻で見下すように笑い、桂に「そうだろう?」と語りかける。桂も「おっしゃる通りです」と頷いた。総司はいつ土方が爆発するのかとハラハラしながら見守っていたが、それは杞憂に終わってしまった。
「そうですか。それはよかった」
「なに?」
桂が眉間にシワを寄せる。土方は得意満面な顔で、ハッキリと告げた。
「近藤勇は、講武所なんかに勿体ねぇ」
と、言い切った。総司がチラリと見ると、そこには堂々と宣言する土方がいた。
「何だと!?」
桂と松平が口を揃えて唖然としている。
「聞こえませんでしたか?『近藤勇は講武所には勿体ねぇ』あんたらのような阿呆役人が居るから、世の中が乱れるんだ。危ない所だったぜ、勇さんをその一味にするとことだったんだからな」
土方は無理矢理総司の手を引いた。
「と、歳三さ…」
「用件はこれだけだ。失礼する」
足早に立ち去った土方に手を引かれ、総司も部屋を出る。とても怖くて、桂と松平の表情を覗くことなど、総司にはできなかった。

「ったく…。野蛮な」
桂が嘲笑う。
「子天狗殿。ご友人は選ばれた方がよろしいのでは?」
何も言い返せなかった皮肉だろう。顔が少しばかり引きつっている。伊庭は丁重に頭を下げ、詫びの一言…と思いきや。
「わたくしの友人がご無礼なことをしました。ですが…間違いだとは思いません。わたくしもこのような講武所に務める気はさらさらありませんし」
きっぱりと言い切った伊庭に目を丸くしていた松平だが、みるみる顔が赤くなりまるで赤鬼のように感情をむき出しにしている。
「なっ!伊庭の倅が調子にのりおって…!」
「桂先生」
伊庭は続いて桂に目を向けた。
「…たかが貧乏道場の主を好敵手としてみる、貴方の態度からして近藤先生には見るべき所があると思えます。貴方は、近藤勇という男を怖がっている」
「…っ!」
「では。失礼しました」
松平の皮肉も、桂も歯がみもまるで聞こえていないかのように、伊庭はその部屋を去った。さわやかに、まるで何事もなかったかの用の澄ました顔だった。


「すっきりしたな!」
背伸びをして、帰り道の清々しい空気を吸う土方の様子からして、先程の総司との修羅場は忘れてしまったようだ。確かにあれほどまでに言い切れば気持ちいいの一言以外に何も言いようがないだろう。
だが、総司の中で何かしっくりこない気持ちが残っていた。それが何か、総司自身もわからないでいた。

29
文久二年、四月。桜満開のこの季節にある事件が起こる。
寺田屋騒動。
薩摩の過激な攘夷派が九条関白と京都所司代の酒井様の闇討ちをもくろみ伏見の寺田屋という宿に泊まった。そこに討手の薩摩藩が踏み込み、大騒動となったのだ。
少しずつ、攘夷への動きが強まる中、蚊帳の外とも言える田舎道場は相変わらず。


「そもそも土方さんがいけないんです」
さも、拗ねたような顔を作り、試衛館の門を叩いたのは伊庭八郎。すっかり食客とも言えるほど入り浸っている。
だが、今日は何日かぶりの訪問だった。京に行っていたのだという。
「だから、何をいってんのかさっぱりわかんねぇって」
伊庭の言いがかりに土方は不機嫌な様子で話を聞く。茶を運んできた総司も、伊庭に言われ何となくその話しに耳を傾けることにした。伊庭が土方に不満を持つ理由は、数日前にさかのぼる。

土方と伊庭が並んで歩けば、町で目立たないことはない。
お互い史実に残るほどの美男だし、愛想程度で微笑んだだけで女共が悲鳴を上げるアイドルみたいなものだ。歩いているだけで尾びれのように女が付いてくる、という噂さえもちらほらある。
だが、大抵そう言う男を気に入らない連中というものがある。
伊庭は名の知れた「伊庭の子天狗」。そうそう手は出せないが、土方はそう言うわけにはいかない。何度と無く喧嘩に巻き込まれてはよく試衛館に、駆け込んできていたものだ。
「この間また喧嘩に巻き込まれたでしょう?あの喧嘩に実は松平主税介様の妾子が加わっていたんです」
「は?」
松平主税介は講武所の教授方の総大将のようなもので、先日、勇の講武所教授方の話が流れた際土方と総司は直訴し『講武所に近藤勇は勿体ねぇ』とまで暴言を吐いてしまっている。もちろん相手が好印象を持ったわけではないだろう。
「その子が主税介様にとっては末の子で。可愛がられているんですよ。ところが、あなたにお気に入りの女を取られてしまって…」
「待て、誰が取ったって?」
「もちろん、貴方ですよ。もう何人も女を相手しているから、わからなくなってるようですけどね。末の子はまぁ『父上、父上』と泣きついた。そしたら取られた相手があの土方だって言うじゃないですか。」
「はぁ…」
面倒くさそうに、土方は頭をかく。
「しかも、これもきっと覚えていらっしゃらないでしょうけど。アナタ、その妾子に怪我までさせてるんですよ。主税介様、かなりのお怒りです」
「だからなんだってんだ」
半分開き直ったように土方が聞く。
この間の件については一切反省の色を見せない。まったく、自分が悪いことをしたなどとは思わないのだ。
「講武所も腐ってますからねぇ。松平主税介様が貴方を殺せと行って金を積めば
 講武所の門下生は何でもします。」
「そういうことか…」
全部父から聞いた話ですけどね、と伊庭は付け足した。簡単に言えば、伊庭は土方が命を狙われていることを告げに来たらしい。
「歳三さん、素直に謝った方が…」
「お前は黙ってろよ。大体、この間の件、俺は悪いことをしたなんて一切思っちゃいねぇ。それから女の件だが。…結局、その妾子が女に惚れて貰えなかっただけの話だろ。言いがかりだ」
自信のある男しか使えない台詞だ。
「と、言うことらしいですよ、沖田さん。一応、この人の身辺には気を付けておいてくださいね。」
「はぁ…」
伊庭がにっこり笑う。
「といっても、いつ女遊びに出かけるか、わかったものじゃないですけどね」
「黙ってろ」
伊庭の頭が、快く鳴った。


「伊庭がああいったからって、お前が側にいる必要はねぇぞ」
土方は隣に座る総司に言う。
「でも心配ですよ。歳三さん、どこに行くか分からないし」
「ったく、人をガキみてぇに…」
文句を言いながら土方が本の頁を捲る。総司はその隣で、買ってきた砂糖菓子を頬
張っていた。
縁側を開けていると、数枚の桜の花びらが舞う。試衛館に桜木はないので、きっとどこからか舞ってきたのだろう。そんなことを考えていると、土方が口を開いた。
「なぁ…。お前、最近口数が少なくないか?」
「そうですか…」
意外な指摘をされ、驚いたのは総司の方だった。
それは図星に感じられる。
この間の講武所の事件から、自分は変だと思っている。
『お前は武士の出だ。俺たちの気持ちが、分かるわけねえか』
土方にとっては何気ない一言だったのだろう。だが、総司には重く感じられた。
お前は、俺たちとは違う。
優劣を付ける意味で言ったのではないだろう。だが、それ以上に離れてしまった気がする。その言葉が、トゲのように刺さって抜けなかった。


「だから、付いてくることはねえっていってるだろ」
土方が眉間にシワを寄せ、腕を組んで怪訝そうに総司の方に振り返る。伊庭の言ったとおり、総司はできるだけ土方の側を離れなかった。…いや『伊庭の言ったとおり』というのはただの口実にすぎなかった。
心のどこかであの言葉で感じた距離を、埋めたいと願ったのだろうと思う。

土方の行き先は酒屋だったらしい。伊庭が肴を持ってきてくれるのだが、肝心の酒がなければ箸が進まない。できるだけやすい酒を、と買いに来たらしい。
「肴は酒が無くても美味しいと思いますけど」
「馬鹿だな。そう言うのは酒を飲んでから言えよ。お子様に大人の味なんてわかるわけねぇんだからな」
いつものからかい口調。いつもなら怒って一発殴っている所だがそれさえも、出なかった。

「土方か?」
酒を持ち帰ろうとする二人の背後で、どす黒い男の太い声がした。
総司が振り返ると、そこには大柄の男が五、六人。そして総大将と見える一番大柄な男が刀を抜いて二人の前で悠然と構えている。
「そうだが、何か」
土方が冷静に酒を安定した場所に置き、刀を抜いた。総司もそれに続く。
「あんたに恨みはないが、十両という金は欲しい。…死んでもらう」
――松平の手先…!
総司は一瞬でそれを理解し、伊庭の言葉を思い出す。忠告が現実になったのだ。
男達は一気に二人を取り囲んだ。そしてあろうことか、一気に攻め込んできたのだ。これは勝負ではない。殺人だ。
「総司、逃げろっ!」
「冗談っ!」
大柄の男達と刀を交わらせる。土方は手加減などせず、急所を外しながら斬るが
総司は違った。決して相手を傷つけることなく、峰打ちでかわす。
 試合のときはそれでよかったかもしれない。だが、相手は殺す気で襲ってきている。総司のその行為は命取りになる。
「総司っ!死ぬぞ!斬れ!!」
土方の大声が耳元で、響く。
講武所関係の男達とあって、確かに峰打ちではなかなか気を失う事はない。
「総司!」
斬れ。
土方が名前を呼ぶ。それは懇願のようにも聞こえた。だが、刀の柄は何故か反対を向いたままで、人を殺そうとしない。なのに敵だけはその力を増す。
斬ることと斬られること。
どちらも知らない総司は、戸惑いを隠しきれない。
「総司!!斬れ、死ぬな!!」
「…ッ」
総司は刀を一閃させた。目の前の男が一瞬、身体の動きを止めた。まるで時間が止まったかのように。そして血飛沫を上げて総司の足下に倒れた。
「…ぁ…」
血が、草履から身体に伝わる。
ぬるくて、どろどろしていて。
「総司!」
名を呼ばれはっと気が付いたときには、もう一人目が総司に斬りかかろうとしていた。刀を構えていない。間合いをとれていない。
――斬られる。
そう感じた刹那、キンッという金属音がその刀を投げ倒した。
「…伊庭くん」
「大丈夫ですか?」
まるでヒーローのように現れた彼は、眉をつり上げいつもよりも殺気を帯びている。伊庭に気が付いた男達は、斬るのを止めそそくさと立ち去った。辺りには二、三人の死体。総司の足下は真っ赤に染まっていた。


「しばらくは大丈夫でしょう、これで」
伊庭は安心した顔をして見せた。
「ああ、まったく。昼まっから斬り合いなんぞ、一生御免だ」
つくづく疲れた、という顔をした土方だが、その次にはもう顔色が変わっていた。
「…あいつには悪いことをしたな」
「沖田さんですか?」
総司はあれから、すぐに部屋に閉じこもるように入ってしまい、出てこなかった。
「…人を斬ったことがなかったんですね」
「俺が斬らせないようにしていたからな…」
「そうなんですか?」
伊庭が意外そうな顔をした。だが、すぐにうんうん、と頷いて
「なんだ、やっぱり過保護にしてるんですね。」
と苦笑した。
「あいつ、泣きそうな顔してたな…。まさか、俺のために、俺のせいで人を殺させることになるとは思わなかった」
酷く後悔している声で、土方が呟く。握られた拳が、一層強く握りしめられていた。
「…いつかは通らなくてはならない道ですよ」
伊庭が遠い目をする。初めて人を斬ったときのことを思い出しているようだ。
「武士であることを望んだ以上、いつか通らなければいけない道です。ましてや、沖田さんは元々武士の子でしょう。そういうことは幼いことから学んで来ていることです。大丈夫ですよ」
本当にそうだろうか。土方の中で解消しきれない、思いがあった。武士であることだけで、その道を容易く通ることができるだろうか。

「…総司は、まだガキだ」
きっと泣いているのだろう。



30
文久二年。桜の花びらがようやく散り、梅雨の兆しが現れた頃。
総司の足は、懐かしい日野へと向いていた。


「土方さん、沖田さんはどこにいらっしゃるんですか?」
試衛館食客達に紛れて、伊庭は土方に聞いた。
「ああ、総司なら実家に戻ってるぜ」
土方よりも先に、軽い口調で答えたのは原田だった。伊庭が土産に、と持ってきた春画本に機嫌を良くしているらしい。
「実家?ああ、日野の方ですか。土方さんと喧嘩でも?『実家に帰らせて頂きます!』みたいな?」
「ったく、あいつとは夫婦でも恋人でもねぇぞ」
土方が口を挟む。
「気落ちしてたみたいですからねえ…」
心配そうな口調で呟いたのは藤堂だ。年が近い分、同年代の心情には敏感らしい。
「へぇ…」
 伊庭は土方を見たが、彼は眼をそらした。


涼しい風が頬から全身に伝わる。涼しいとはいえども、もう湿った風な風だが懐かしい香りが充満していた。
約十年ぶりの故郷帰りだった。今までは試衛館が一番に帰り場所だと思っていた。もちろん、本当の家族は大切だと思っているが、今はそれよりも大切な何かを知っている気がする。『帰りたい』と思ったのは初めてだったかも知れない。
この数日、人を斬った感触がいつまでも手に嬲り付いているような気がしてならなかった。人を斬った。その事実を考えるだけで苦しくて仕方ない。一閃した刀の跡から、吹き出すように出てきた血の色を、総司の瞳はしっかり覚えていた。
どうか成仏してほしい、と震える夜もあった。
そんなときに浮かんだのが、故郷、日野のことだった。あのころは武士になることも考えず、人を殺めることも知らなかった。
あの頃に戻りたい。
それが不可能であることは分かっていたが、あの頃に少しだけ浸りたい。総司がその旨を近藤に伝えると、近藤は快く了承してくれた。


「変わってないなぁ…」
相変わらずのボロ屋に、総司は苦笑してしまった。総司が試衛館にやってきたのは元はといえば、口減らしのためだった。一人、いなくなった所でこの家の生活は変わっていないらしい。
「…宗次郎?」
背後から女性の声がした。振り返ると、懐かしい面差しがそこにいた。
「ミツ姉さん」
母の面差しに似ていて、何年も会っていないととても恋しく感じられる。ミツも同じ事を思ったのか、畑道具を投げ捨て駆け寄った。
「宗次郎なのね?!大きくなって…」
涙までこぼしそうだ。
「やだなぁ、そりゃもう二十歳ですから」
「帰ってくるなら、手紙でもくれればいいのに…。もう、まめじゃないんだから」
その口調は昔と変わらない。厳しさの中に優しさがある。
「…おじちゃん?」
ミツにぴったり寄り添うように、二人の子供が立っていた。
緊張しているのか、怖がっているのか、よく分からないがのぞき込むようにして総司を見る。
「もしかして、芳次郎といしちゃんかな」
慣れた口調で総司が話しかけ、目の高さを合わせてやる。子供達は安心して、総司に笑顔を見せた。
「そーじろーおじちゃん」
「うん」
「おじちゃん」
「うん」
おじちゃん、と言われると少しくすぐったいが、嬉しかった。
ミツに子供ができた、と知らせは受けていたのだが今まで一度も帰ってきたことがなかった。始めてみる甥と姪はずいぶん幼く見えた。
「貴方が帰ってこない間に、芳次郎は九つ、いしは七つよ」
「へぇ…」
随分長い間帰ってきていなかったんだな、と実感しながら総司は家に通された。
家のなかもあまり変わっていないが、落書きが多いのは子供が多いからか。ミツは「何もなくて御免なさいね」と言いながら、総司に白湯を差し出した。
「ああ、そうだ。去年元服して宗次郎から総司に改名したんです」
「近藤先生の襲名に合わせて?総司、いいわね」
微笑む様子に、総司はすっかり心が穏やかになるのを感じた。
遠くの庭で兄妹二人が遊んでいる声が聞こえる。鳥の声さえも耳を澄まさずとも聞こえ、試衛館の騒がしさとはまるでちがう田舎ののどかな風景が感じられた。
「それで、どうしたの?突然帰ってくるなんて。貴方のことだから、一生帰ってこないのだと思っていたわ」
「酷いなぁ。私だって故郷が恋しくなるときくらいあるんです」
「へぇ?十年に一度しかないようだけどね」
ミツは苦笑する。
「…何か、悩み事でもあるのかしら」
「わかる?」
「宗次…総司は昔から顔に出る子だったもの」
「そっか」
総司は微笑した。
「…人を、斬ったんです」
「…」
総司は軽く微笑したまま告げた。ミツも別段声を上げたり、驚くこともなかった。
「歳三さんが斬られそうになって…。私よりも大柄の男を、一振りで殺しました。 相手もこのことを公にできないらしく、大事にはならなかったんです。…ですが、人を斬ったことに変わりはありません」
「そう」
ミツは簡単な相づちを打つ。
「気持ち悪くて、何度も吐きました。一週間も部屋に閉じこもって何も口にしなかった。どれだけ、近藤先生やみんなに心配を掛けたか…わかりません」
目を瞑れば、真っ赤な血が。目を開ければ、現実が総司を襲う。
怖かった。
本音はそうだった。心の中で何度斬ったあの男が、浄土へいけますように、と願ったことか。
「それで、貴方は武士を止めますか?」
「姉さん」
ミツは顔色一つ変えなかった。弟が人を殺めたといっても、まっすぐ弟を見る目は強く、変わらない。
「総司、試衛館に帰りなさい」
「……」
「ここは逃げ込み寺ではありません。ましてや武士の貴方が泣き言をいう場所でもない」
「わかってます、けど…」
ミツの口調が厳しくなる。
「貴方は武士の子です。人を斬った時の覚悟くらいいつでもしておくように、幼き頃から言いつけていたはずです。心構えができていなかった、自分を恥じなさい」
「…」
ミツがすっと立ち上がり、総司の腕を引いた。
「試衛館に戻りなさい。そして悩んで、悩んで、悩み抜きなさい。人を斬ることは、どういう事か。幼き頃に学んだ事をおもいだしなさい。そして近藤先生に教えを乞いなさい。貴方の師でしょう」
ミツが強い力で背中を押す。
「ここには、戻ってこないように。」
「…姉さん」
ふりほどけない力ではなかった。だが、ミツの手が小さく震えていることに気が付いていた。
ミツは、精一杯の強さで総司を追い出した。
芳次郎といしは心配そうな顔で、総司とミツのやりとりを見ていた。ミツの冷たくも思われる言葉一つ一つが、愛情であることはわかっていた。
わかっていた…。


日野の生家がもう遠くに見えた。幼い頃によく見ていた山に夕陽が罹り、空が蜜柑色に変わる。
足取りが重い。このままでは今日の内に試衛館に戻れないことはわかっているだが、本当はこのままどこかに消えてしまいたかった。自分は心の奥底で、日野を逃げ場所としていた。そして慰めて貰えるものだと、甘えた心があった。
それが絶たれた今、どこに行っても同じ。そう感じられずにはいられない。いつのまに、こんなに弱くなってしまったのだろうか。泣きたい、と。そんなことを感じたことは一度もなかったのに。
「総司」
俯いて歩いていた総司を呼ぶ声がした。
「…歳三さん」
そこには提灯を持った土方がいた。
「どうして」
「伊庭に言われたんだよ。迎えに行かないと、お前が帰ってこないって脅されたもんだからな」
「伊庭くんが…」
「ほら、帰るぞ」
さっさと背けた背中が、照れ隠しであることは歴然だった。
だが、それ以上に土方の顔を見た瞬間に感じた安堵感に、総司の目に熱いものが込み上げていた。
「…っ」
「あ?なんだ?」
突然泣きだした総司に、土方は驚いた。幼い頃は何度も泣いた姿を見ていたが、随分久々に感じる。
「…ぅ…っ……く」
「…ったく」
その涙を拭うこともせずに、ポロポロと泣く総司を土方は自らの胸の中に収めた。
「ほら、泣くんなら泣いちまえ。」
「っ、っく、…」
溜まっていたものが、一気に溢れてしまった。
「言いたいことがあるなら、言えよ」
「…っくぅ…怖い」
「ああ」
「…気持ち悪い…っ」
「ああ」
「…もう…こんなのは…やだ…」
「ああ」
あふれ出す感情を、止める術など総司にわかることはなかった。
ただただ、思うままに泣き、思うままにその苦しみを言葉にし、思うままに抱きついた。すべてを受け入れてほしいと、何度も願いながら。


「姉さんの言っていた意味が、やっとわかりました」
提灯をかざし、暗い夜道を歩く総司と土方。総司の目にもう涙はなかった。
「あ?」
「もう帰ってくるなって。ここは逃げ込み寺じゃないんだって。…私が帰る場所は日野じゃなかったんです。私が帰る場所はやっぱり試衛館で。苦しみや、悲しみをはき出す場所も…やっぱり試衛館だって、姉さんは言っていたんだと思うんです」
「…そうか」
暗い夜道を、二人で歩く。
満天の星が、提灯よりも明るく二人の行き先を照らしていた。




解説
なし
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