宿鴉は眠らない 徒花8
1
負傷兵とともに雪深い会津へ到着した俺は、先んじて着任していた松本良順のもとへ隊士たちを預けて
「俺は江戸へ戻ります」
と早々に宣言した。近藤局長から頼まれていた文も届け、土方の言う通りに負傷兵を引率してここまで来た…これ以上不満はないだろうと思ったのだが。
「何言ってるんですか!斉藤先生!」
声を上げたのは梅戸だった。天満屋で怪我を負い、無理を押して伏見と甲府の戦に参戦した梅戸は目の不良を訴えており療養が必要な立場だが、子供のように喚く。
「まだついたばっかりで、先生も怪我をしているのに!長旅でお疲れでしょう、少しはここで安静にするべきっす!」
「そんなことより江戸が気がかりだ」
「そんなことなんて!松本先生も何か言ってくださいよ!」
傍らで聞いていた松本法眼は成り行きを見守りながら小さく笑っているだけだ。
「まあ、確かに怪我は大したことはないし、手当てをして本人が良いというのなら俺ァ別に構わねえと思うぜ」
「そんなぁ」
「斉藤、近藤と土方に宜しくな」
「はい」
幸運にも松本法眼は俺を引き止める気はないようで、快く見送ってくれる。まるで俺が最初から会津へ長くとどまるつもりがないことがわかっていたかのようだ。
「ああ、それから…安房守には気を付けるように伝えてくれ。悪い人じゃねえがあの口車に乗って酷ぇ目に遭いかねないからな」
「承知しました」
「じゃあ気を付けて。時間があったら沖田にも会いに行ってやれ」
「はい」
俺は脱いだばかりの草履をきつく結び深く笠を被る。この期に及んでも梅戸は名残惜しそうにしていたので、
「梅戸、隊士たちのことはお前に任せる。必ず一人も欠けずに合流しろ」
と命令した。梅戸自身も重傷ではあるのだが俺がそのように言いつければたとえ不本意な命令でも梅戸が遂行するとわかっていたからだ。予想通り梅戸は嫌そうな顔をしながらも、
「わかりました。そのかわり…約束通り俺を傍においてください。そして絶対、また俺たちと戦ってください」
と見送った。
俺は雪の舞い散る会津城下を後にする。
会津では来る戦に向けて洋式の軍事調練が取り入れられているが、あちこちで槍や薙刀を持った市井の人々が戦支度を始めていて、威風堂々とした鶴ヶ城が会津の人々を励まし後ろ盾となるように大きく構えているように見えた。
「…」
俺は城を見上げて立ち止った。
(きっとまたここに来る…)
俺は確信をもって会津を後にした。
江戸への道中は思っていた以上に過酷だった。
『世直し』の言葉は国中に広まりあちこちで打壊しや一揆、さらには「ええじゃないか」の流行も相まってとにかく騒がしくて治安が悪い。会津近辺の藩はまだ幕府への佐幕意識が根強く官軍も手を焼いているようで、力づくで民衆を抑え込もうとしている地域もあった。
会津西街道を抜けて水戸街道へ合流する。この辺りからは東征軍(官軍)に抵抗する佐幕勢力の間で諍いが起こり、特に結城のあたりは警戒する必要があった。
俺は思い至って、野宿していた廃寺で髪を切り落とした。かつては父に倣って髷を結っていたが、若様の件で自分の身辺が危うくなって江戸を離れてからいつの間にか総髪となってそのままだったのだ。
(髪を切ったほうがそれらしく見えるだろう)
東征軍のふりをするつもりはなかったが、身軽で楽になった。
俺は切り落とした髪をどうしようかと思ったが寺の境内に埋めた。どうせ土の肥やしになるのだと安易な気持ちだったが、そうするとまるでここが俺の墓のように思える。
「…ちょうどいい」
誰もいない、忘れ去られたような仏のいないたただの廃屋。誰も手を合わせることなくこのまま朽ちて消えていく…それが自分に相応しいだろう。
すると背後からガサガサと枝葉が擦れ合う音が聞こえた。俺は咄嗟に隠れられるところを探したが見つからず交戦覚悟で身構えたところそこに一人の男が現れた。男は髪を切り終えた俺とは正反対に、月代こそないものの凛々しい髷姿をしていて、俺を見据えたあと
「東征軍か?」
と警戒して訊ねた。
「…いや…」
「では何者だ。結城のものか?それとも水戸か…」
俺は男が一人であることを確信し、
「新撰組だ」
と答えて柄を強く握った。嘘をついて取り繕うよりも、この男を斬り伏せるほうが楽だと思ったからだ。
すると男の目の色が変わる…しかしそれは敵意ではない。男は好奇心むき出しで近づくと
「新撰組か!私は唐津藩士松川精一と申す」
「唐津…」
唐津は官軍への恭順を示したが跡継ぎの小笠原長行が老中を長く務めていたため赦されず、長行が姿を眩ませてしまったと耳にしていた。
「新撰組が何故こんなところに?」
「…会津から江戸へ戻るところだ」
「なら私と同じだ。別邸の巣鴨へ向かう…良かったら一緒に行かないか?」
「…」
一人旅で不自由をしていない俺にとっては引き受ける理由もなく、率直に(面倒だ)と思った。精悍で利発そうな優男だが年上で気を使う。それに互いに素性を知らない。本当に唐津藩士なのか…もちろん信用はできない。
「…断る」
「つれないことを」
「いかにも侍と言わんばかりの貴公と一緒では目立つ」
「ああ、確かに」
松川は納得して手を叩くと、自らの脇差を抜いてあっさりと髷を落としてしまった。
「…なにを…」
「君の言うとおり髷姿は目立つ。良い機会だ」
松川は俺が投げ捨てた枝を使い、また同じように境内に穴を掘って髷を埋めた。
「士分などいまさら意味がないが、これが武士としての私の墓だ。…なんだか生まれ変わるようで心地良いな」
「…宜しいのですか」
「ああ。我が主君をお守りすることが私の使命…姿形などどうでも良い、墓標も要らぬ」
「…」
薄暗闇のなかで、松川の眼差しは澄み切った水晶のように見えた。そして彼が俺と同じように髪を切り捨てたことで、松川に対する俺の警戒心は少し解けてようやく柄から手を離した。
「…俺は新撰組副長助勤の山口次郎だ」
「…山口、か。それは偽名だな?」
彼の言う通り…『山口』は本名ではあるのだが、偽名に等しい。しかし初対面の松川に何もかもを晒すほど愚かではない。それに、
「貴公も偽名でしょう」
と訊ねると、松川は少し驚いたような顔をしたあとに小さく笑った。
「侮れない男だ。これはなかなか面白い連れを得た」
松川は嬉しそうにして「行こうか」と歩き出した。その無防備な背中に呆れつつ、俺は後を追った。
人気のない道を選びつつ水戸街道を江戸へと進む。一人の方が悪目立ちする場面でも松川との二人だと怪しまれず難なく進むことができたが、松川はよく喋った。ほとんどがくだらない雑談や得意の漢詩の話だったが、彼の目的は江戸での情報収集と人探しだという。
「胖之介様は我が主君の義弟で…まあ義弟といえども三十ほど離れている複雑な間柄だが、我が主君は胖之介様を可愛がられ常に目をかけておられた。しかしこの度の大政奉還、王政復古…ついに江戸へ官軍が攻めあがることとなり、恭順を決めた我が藩は高輪の藩邸に籠り国元へ戻ることとなったが胖之介様が密かに逃げ出されたらしいのだ。おそらく藩内の数名の同志とともに彰義隊へ加わるつもりではないかと…」
「彰義隊…その御方は若いのですか」
「十七だ」
彰義隊は『薩賊』『尽忠報国』のため幕臣や武士だけでなく、町人から博徒の輩まで続々と集まっていると聞く。今は『江戸市中取締』の任務を与えられているが、いつ暴動を起こすかわからない危うい部隊であるが江戸では民から熱狂的に支持されているため、若さ故に正義感に駆られて藩邸を飛び出しかねないと容易に想像できた。
「そうだ、新撰組に加わっているということはないだろうか。胖之助さんは眉目秀麗、賢く、剣や槍、特に馬術に秀でていらっしゃるのだが心当たりは?」
「…あり得ないことではありません。しかし残念ですが、俺は会津にいましたので」
「ああ、そうか…。ではもしそれらしき者がいたら藩邸へ知らせてほしい。我が主君の義弟であり、私の教え子でもあるのだ」
「わかりました」
話せば話すほど、この松川という人物が実は唐津の大物なのではないかという気がしてくる。『主君』の『義弟』を指導する立場にある…しかし知ってしまった時に巻き込まれるような気がしてそれ以上深く聞くのをやめた。
「それにしてもなぜ山口君は会津へ?新撰組は江戸に駐屯しているという話を聞いていたが」
「会津の名医の元へ負傷者を送り届けてきました」
「松本良順先生か、城下でも噂になっていたなぁ。しかし君も怪我をしているだろう?」
「…もう治りました」
松川が俺の怪我を見抜いていたことに驚いた。俺自身にはもう痛みはなく些細なぎこちなさしかないのだが、それが松川には違和感に見えたのだろう。
(やはり只者ではない…)
「松川殿こそ何故会津に?唐津は…」
「しぃ」
松川は突然口元に人差し指を当てた。そして彼が指さした方向を見ると、三、四人の男たちが抜刀した状態でこちらへ駆け込んできた。
(官軍?いや、博徒の類か?)
俺は正体がわからなかったが、明らかな敵意を向けられていたのですぐに抜刀したものの、
「何をしているんだ」
松川に腕を掴まれて別の道へ逃げ出す羽目になる。
「あの程度の輩、すぐ斬り伏せられる!」
「無駄な殺生をすべきではない!」
(馬鹿な)
松川は追いかけてくる輩に目もくれず一心不乱に逃げる。俺は彼に剣の心得があることは察していたので恐怖心から逃げているのだとは全く思わなかったが、逃げる理由はわからなかった。
そうして山間の畔道にやってきて姿が見えなくなった頃にようやく足を止めた。
「…何故逃げたのですか」
「刀を抜けば殺すことになってしまう」
「何を悠長な…今は戦時中です。我々は身を隠して江戸を目指す身…危険があれば斬り伏せるべきです」
「それが新撰組のやり方か?」
「…俺のやり方です。唐津は随分、悠長なのですね」
俺は敢えて嫌味っぽく返したが、松川は気分を害した様子はなくむしろ笑い飛ばした。
「そう、私は争いを好まぬ。それにあの者たちはおそらく私を狙うために金で雇われた連中だ」
「…何故貴方を」
「我が主君の所在を探しているのだ」
「…では官軍の?」
「いや…どうかな…」
松川は曖昧に濁したので、俺はそれ以上尋ねられなかった。
2
あれから何度か刺客のような連中を撒きつつ江戸を目指し、ようやく十日かけて松川の目的地である高輪の近くへ辿り着いた。さすがに藩邸まで供をするわけにはいかず、手前の泉岳寺のあたりで別れを告げる。
「いやあ、助かった!君のように腕の立つ者に出会えて幸運だった!」
松川は晴れ晴れとした様子だったが、俺はどこか芝居じみているように感じた。
「…もしや、俺のことをご存じだったのでは?」
「まさか。何故、そのように思う?」
「偶然にしては出来過ぎではと…」
確かな根拠があるわけではなかったが、新撰組へ戻るために江戸を目指す俺に何の迷いもなく声をかけて同行を申し出たことが今になって用意周到な気がしてきたのだ。
松川は少し笑った。
「確かに、我が主君は松本良順先生とのお付き合いがある故に新撰組の一部が会津へ滞在することになったのは耳にしていた。だから新撰組と鉢合わせしてもさほど驚かなかったけれど…山口君に出会ったのは本当に偶然だ。君の面構えを見て、すぐに信用出来る人物だと思った。君は目的を果たすために苦労を厭わない…揺らがない信念をもって行動する男だ」
「…大袈裟です。俺は個人的な、勝手な理由で江戸に戻っただけで…」
「だが最後まで付き合ってくれた。君の目的地よりも随分遠回りになってしまっただろうに…私を見捨てずに同行してくれた。恩に着る」
「…」
「ではまたどこかで会おう。ああ、もし胖之介さんのことがわかったらすぐに知らせてくれ」
松川はにこやかな笑みを浮かべて、気軽に手を振って背中を向けた。
俺は最後の最後まで松川の本当の名や彼が狙われている目的、彼の主君…何もかも掴み切れずに見送るしかなかった。
(もう会うことはあるまい)
俺はそう思いながら踵を返し、本来の目的地である浅草へと向かった。
俺が会津へ向かったのは半月ほど前だが、江戸の雰囲気はその時とは少し変わっていた。江戸城総攻撃に戦々恐々とした雰囲気であったが、勝安房守の手腕により回避されて一旦は棚上げとなったことで落ち着きを取り戻していた。しかし佐幕派の兵たちはさらに勢いづき、浅草にほど近い寛永寺を拠点とする彰義隊には続々と兵が集っているという。戦を恐れて江戸を離れた民も多く、町には空き家が目立ち、居残る家もひっそりと閉ざされている。嵐の前の静けさ…そんな不気味さが漂っていた。
俺が浅草へ向かったのはもちろん沖田が療養しているからだ。むしろ彼の顔を一目でも見るために五兵衛新田ではなく先に江戸へ足を向けた…なんて松川にはとても言えない、俺がひたすらに江戸を目指す不純な理由だ。
とにかく俺は松本先生の別邸で療養している彼の元を目指した。
(しかし松本先生には振り回されっぱなしだ…)
まさか松川の主君が松本先生と繋がりがあるとは思わなかった。幕府の御典医なのだから顔は広いのだろうが、やはり松川の主君は幕府の大物なのだろう…。
そうして俺はあれこれ考えながら浅草へ到着し、沖田が療養している松本先生の別邸を覗いた。しかしそこには沖田どころか、人の気配がなく門は固く閉ざされていた。念のため扉を強く叩いたが物音ひとつしない。
(留守か…?)
俺は裏口へ回るがやはり誰もいない。隙間から覗くとどの部屋もぴったりと雨戸が締まり生活をしているような雰囲気すらない。ここには沖田や英、それどころか誰もいない…固く閉じられた錠前がそれを表しているようで、急に気が急いた。
(まさか)
沖田の身に何かあったのではないかーーー。
「…っ」
俺は裏手の透塀に手を伸ばしよじ登ろうとした。築地塀よりも足を掛ける場所があって容易に乗り越えられるだろうと思ったのだ。
しかし
「何をしている!盗人か!」
と俺を咎める若い男の声が背後に響いた。焦っていた俺は周囲の確認を怠っていたため気づかれてしまったのだ。
俺は塀を飛び降りる。すると二、三人の男たちがこちらに駆け寄ってきたのですぐに逃げ出した。
「待て!待てー!」
幕藩体制が崩れ統治する者が存在しないこの城下町で、素直にお縄に付く必要などない。俺は顔を隠しながら松本先生の邸宅を離れてあちこち走って男たちを撒き、空き家と思われる家に飛び込んで門家に身を隠して外の様子を伺った。
ハァハァと荒い息をする彼らは「どこへ行った?」「わからない」「見失った」と口々に話していたので、どうやら逃げ延びたようだ。
「市中取締の任を受けている我々としては不甲斐ないが、きっと盗人の類だ。放っておこう」
彼らの中心人物であろう若者が悔しそうに吐き捨てる。
(市中取締…彰義隊か)
ここ浅草は寛永寺に程近いのでおそらく彰義隊だろう。俺はこのまま彼らが去るまでやり過ごそうとしたのだが。
「危険な真似は止しましょう、胖之介さん」
と、一人が口にしたので驚いた。
(胖之介だと…)
松川が探している若者だ。俺は戸板の隙間から様子を伺ったところ、胖之介と呼ばれた若者は確かに十六、七の眉目秀麗の利発そうな男で、他の二人とはどこか違う高貴な雰囲気を纏っていた。
(こんな偶然があるのか…)
「我々の敵は薩長であり、盗人ではありません。それに目立つ真似をしては…」
「ああ、わかっている。しかし黙って見過ごすわけにはいかなかった。…ひとまず、盗人も逃げたのだからそれで良かろう」
「戻りましょう、胖之助さん」
二人は胖之助の背中を押してここを離れていく。俺は安堵のため息を漏らしながら、門屋を出て浅草から離れることにした。
『胖之助』のことは気になったが、それ以上に今は沖田の行方が気になって俺は市ヶ谷の試衛館にやってきた。しかし以前聞いてきた通り局長の妻と子は屋敷を離れており、浅草同様閉め切られていた。塀を乗り越えるような真似は謹んで、俺は屋敷を一周して離れた。
(ここにもいないなら、日野か…)
しかし甲府の負け戦から日野あたりは官軍に睨まれており、いま沖田が身を隠すには危険な場所になっているだろう。
俺は当てがなく試衛館から離れてぶらぶら歩いた。俺は何度か隊士募集のために江戸へ下っており、その際には試衛館にも足を運んでいたのでさほど懐かしいと思う光景ではないが、一度も帰郷しなかった沖田にとっては感慨深い景色だっただろう。俺が試衛館で過ごしたのはわずか半年の間だったが、沖田が手練れの食客達とともに天然理心流を自由に使いこなし道場を飛び回る姿と、剣を置けば天真爛漫に振る舞い仲間に囲まれる姿はよく覚えている。
(俺が持っていないものを、何もかも得ていた…)
いつも俺はどこか遠くから、彼を羨んでいたように思う。その気持ちが時を経て名前を変えていくことになるとは…江戸にいた頃は思わなかったが。
俺は内藤新宿方面へ向かう。沖田の所在を探るというよりも甲州街道の様子を窺うのが目的であったが、その途中の四ツ谷で人だかりに出くわした。野次馬たちが集まって誰かを囲んでいる…俺が近づくと、
「ゴホッゴホッ…!」
という聞き覚えのある咳が聞こえた。
(まさか…?)
どくんと胸が締め付けられて身体が強張って、俺が急いで野次馬をかき分けて進むとそこにいたのは、やはり沖田だった。
なぜか羽織に袖を通した着流しの姿で一人で咳き込んでいる…英や他の者がいないことや、何故四ツ谷にいるのか疑問が浮かんだが、野次馬たちが「労咳だ」「うつるぞ」「医者を呼んで来い」と騒ぎになる寸前だった。俺は野次馬を飛び出して沖田に駆け寄った。
「大丈夫か?」
声をかけたが、沖田は虚ろな表情で苦しそうに咳き込むだけだ。おそらく俺のことにも気が付いておらずどうにか喀血しないようにと必死に抑え込んでいるように見えた。
俺は沖田の肩を引き寄せて支え、
「この者は私の知人だ」
と周りに告げる。そのことによって野次馬たちは興味が失せたように一気に散っていき、沖田も気が抜けたのか意識を失ってしまった。俺はひとまず彼を抱き上げて人気のない場所に移動しようとしたところ、
「そ、そ…宗次郎!」
幼い女の子と中年の女が駆け寄って来た。幼女は俺を睨みつけて顔を真っ赤にして怒る。
「宗次郎をどこへ連れて行くの…!」
「…宗次郎?」
「そっ宗次郎はうちに一緒に帰るの!うちの子なの!返して!」
幼女は俺の衣服を引っ張る。俺を人攫いだと思っているようだ。
『宗次郎』が彼の幼名だということは知っていたが、幼女の顔にはさっぱり見覚えがない。「お前こそ何者だ」と問い詰めたいが、幼女はあまりに必死に縋ってきた。俺が困り果てていると中年の女が首を傾げつつ状況を説明した。
「あのぅ…あたしは産婆で、この子は植木屋の柴岡さんのお宅の娘で…その御方はいまは一緒にお住いの親戚の方だと聞いてます。今、柴岡さんの奥様が急に産気づいて戻るところで…ああ、とにかく早う戻らな」
「かか様が大変なの!早く宗次郎を返して!」
幼女は必死だが、沖田は意識がなく返そうにも返せない。色々と訊ねたいことはあったが、産婆の口ぶりでは急いでいるようだったので
「わかった、屋敷まで一緒に行こう」
俺が提案すると幼女はようやく納得した。
俺は二人の先導のもと小走りで四ツ谷から南下して千駄ヶ谷へ向かった。すると途中で幼女の父だという植木屋の主人と見習の若い男と合流した。
「大変だ!弥兵衛、加也先生と英先生を呼んできなさい!」
「はい!」
と若い男が慌てて駆け出していく。加也と英…二人の名前を聞いてようやくどうやら沖田がこの柴岡という者の家で療養をしているのだと悟った。彰義隊が彷徨いている浅草よりは静養できる土地だろう。
そうして到着したのはまるで庭園の中に屋敷があるような四方を花々に囲まれたような場所だった。
植木屋の主人と娘、産婆たちは一目散に屋敷の中に駆け込んでいき、俺は沖田を抱えたままその場に取り残される。妻が産気づいたというなら当然だろうと、俺はそのまま屋敷には入らずに何となく庭へと足を向けた。庭には植木屋らしく草木は整っており、中心に大きな梅の木があった。もう散ってしまっているが立派な花を咲かせたことだろう。
(そうか、ここにいたのか…)
俺は目を閉じた沖田に「随分探した」と声をかけたが、やはり彼は起きなかった。俺はしばらく痩せ細った身体を抱き抱えてその体温を感じながら庭を見渡した。
屋敷を囲う桜の蕾が春の息吹を待ち焦がれている。花園のようなここに、まるで自分と沖田しかいないような…そんな錯覚をしたが、都合の良い妄想でしかない。
俺は開けっぱなしになっている離れにやってきた。寝床も荒れていて、きっと産気づいたと聞いて大慌てで娘と屋敷を飛び出したのだろう…なんとなくその光景が想像できて苦笑してしまった。
「相変わらずお節介だな」
ゆっくりと寝床に寝かせると、彼の首元から小さな音を立てて鎖と指環が零れ落ちた。細くなってしまった指先から無くならないようにと渡したそれを肌身離さずつけている…俺は彼の白く細い手を握った。
「…また来る」
聞こえていないと分かっていてもそう言い残して、俺は裏口から出ていった。