ふたあい




寄り添うように重なった手のひらの同じ場所に黒子が刻まれている。疎い者なら気が付かず、めざとい者なら内心ほくそ笑むような印を視界に収めつつ、伊庭は寝不足の頭と身体をまだ甘やかすことにする。
(ああ、やらかした…)
手紙を書いている途中から記憶がない。他愛もない会話を交わしていたはずの幼馴染が、肩に触れて口づけをせがみ、もつれ合うように身体が絡み…あとは朝を迎えて正気となった今では思い出すのが気恥ずかしい。
相方は未だに夢のなかのようで腕枕を差し出しつつ無防備に眠っていた。
(官吏のくせに、腕枕が硬い)
剣の腕は比べるまでもなく伊庭の方が数段上なのに、本山の腕は太くて逞しい。固い枕を好む伊庭にとって悪くない枕だが、大して鍛えてないくせに生まれつき筋肉質なのは羨ましい限りだ。
慶応三年、夏の兆しが見え始めた江戸。
目まぐるしい情勢に翻弄される幕臣の一人であるが、
(…こんな呑気にしてて良いものか…)
伊庭は天井を見上げながら苦笑した。
さまざまな出来事を乗り越えて晴れて友人から恋人へと昇格したものの、伊庭は上洛した将軍に付き添い都で過ごす日々の方が長かった。離れ離れとなった本山と頻繁に手紙のやり取りをしていたが、結局若き将軍が突然亡くなるという悲劇とともに江戸へ帰還を果たすことになってしまい、素直に喜ぶことはできなかった。
「…八郎、起きてたのか」
あれこれ考えているとようやく本山が目を覚ました。身体を起こしつつ、着崩れた胸元を隠そうともせず大きなあくびをする。
「さっき起きた」
「まだ朝早い。もう少し寝よう」
「嫌だ。お前のせいで文が途中だ」
伊庭が書きかけの文を指差すと、本山は「すまん」と頭をかいた。
昨晩、本山の部屋を訪れた伊庭は酒に誘われたが「これを書いたら」と文机に向かったものの、先に飲み始めた本山に早々に絡まれるろくに筆を取ることができなかった。
「悪かったよ、急ぎの文なのか?」
「…急ぎってわけじゃない。ただ…少し考えたかっただけだ」
伊庭は少し深刻な表情を浮かべながら曖昧に濁したので、本山は
「土方さんか?」
と尋ねる。こういう時だけ察しの良い本山をわざわざ誤魔化す必要はないので、伊庭は頷いた。
新撰組の近況は当人たちだけではなくさまざまなところから耳に入ってくるが、どれも誇張してあったり尾鰭がついて定かではない。それ故に土方からの文はいつも伊庭の好奇心をくすぐるものであったが、今回は違う。
「…沖田さんが、労咳に罹ったそうだ…」
「労咳…か…」
面識のない本山も流石に言葉に詰まった。
伊庭は本山の元を離れて着崩れた襟を整えて、土方からの手紙に再び目を通した。いつもと同じ近況のついでのように淡々と書かれた彼の労咳の知らせは、冷静な文言だからこそ土方自身の動揺や悲嘆が伝わってくるようで痛ましい。
「数日前に届いたが…どう返せば良いのか、わからない。過剰な励ましも、不必要な心配も…何もかも蛇足のような気がする」
「…そうだな…」
行き詰まった伊庭は昨晩、本山に助言を求めようとしたのだが、ひさしぶりに部屋を訪ねた伊庭を歓待し、まるで犬が尻尾を振るように喜ぶ本山に水を差すことができなかった。
清々しい朝を迎えたはずなのに空気が重くなってしまったのを感じ取ったのか、本山は
「はは、ようやくわかった。お前が最中にどこか気がそぞろになっていたのは、そのせいか」
と笑った。自覚があった伊庭は素直に謝る。
「…それは、悪かったよ」
「いや、許せないな。他の男のことを考えていたなんて。仕切り直しだ」
「まったく…」
本山の指先が伊庭の頬に触れてそのまま後頭部へと回った。引き寄せられて口付けし生々しい感触と体温を共有する。
「…俺も考える。一人で抱え込むな」
「ああ…」
初夏の朝に清々しい風が流れていく。
本山の肩口に顔を埋めながら、できることならこうやって何にも囚われずにこの男に没頭したいものだ、と叶わぬことを考えたのだった。

家茂公の死去から急に幕府の風向きが変わったように思う。それは今や政の中枢となった都だけではなく、江戸でも同じだ。
長州征討での敗戦を経験した幕府では、軍備増強が急がれていた。旗本の幕臣たちは剣を銃に持ち替えながら新しい組織の編成を目指す、そんな転換期にある。
家茂公の元で結成された奥詰隊は公の薨去によって解散となり、伊庭はどこか居場所に困りつつ時を過ごしていた。
「伊庭の旦那、まだ昼間だって言うのにおつかれですなぁ」
伊庭が通う『鳥八十』の板前である鎌吉は、酒の前にしじみ汁を差し出した。
「疲れにはこれが一番!ググッと飲めばたちまち活力が漲りますぜ」
「…ありがとう」
長い付き合いである鎌吉は伊庭の顔を一目見れば欲している料理がわかるようで、温かいしじみ汁が味に染みた。
「今日は本山の旦那は?」
「…寝こけているから置いてきた」
あれから家人の目を忍ぶようにもう一度身体を重ね、全てが終わると本山は再び眠ってしまった。伊庭も疲労が重なり一緒に目を閉じてしまいたかったが、家人に見つかると面倒であるので身体を引きずって裏口から出てきた。
(まったく、良い大人が脇目も振らず…ヤりたい盛りの犬か!)
伊庭は心地良さそうに眠る幼馴染を忌々しく思いまたその苛立ちをぶり返したのだが、そんな伊庭を鎌吉はにやにやとして見ていた。
「…なんだ?」
「旦那、ここにはまっすぐ来られたので?」
「ん?ああ、そうだよ」
「ハハ、正解です。あっちやこっちに行かれては困ったことになります」
「はあ?鎌吉、疲れているんだ、わかるように言ってくれ」
「色気がダダ漏れです」
快活な江戸っ子である鎌吉は、伊庭に躊躇なく答えた。
「その整いすぎたお顔が、何やら気だるげで頬ばかりが紅潮されては、さっきまでヤってましたって触れ回っているようなもんです」
ハハハと笑う鎌吉に含みはなく、思ったことを正直に述べているだけなのだろう。しかし伊庭は唖然として固まってしまった。あまりに赤裸々すぎて恥ずかしささえ感じないくらいだ。
「…いつから?」
「ハハ、そりゃ店に入られた時から」
「いや、そうではなくてお前はいつから…その」
伊庭は鎌吉が本山との関係に気がついているとは思わなかった。必死に隠すつもりはなかったが、触れ回るつもりもなかったのでこの店では以前と同じ態度で本山に接しているつもりだったのだ。
しかしそんな伊庭を鎌吉は笑う。
「いつから知ってたかと?ハハハ、旦那、愚問です。俺ァそこまで鈍感じゃありません。少なくとも本山の旦那よりは察しが良いつもりです」
「それは認める」
「その手の入れ黒子と本山の旦那の顔を見れば一発でわかります」
「…やはり、目立つか?」
入れ黒子については、礼子にもすぐに気づかれた。血の繋がらない兄のことを妹としてではなく女として見つめていた彼女にとって複雑だったようで、アッと驚いた顔をした後に視線を逸らしただけで何も言わなかった。礼子は本山とのことを知っているので尚複雑だっただろう。
しかし伊庭はそんな彼女は例外で、人の手に黒子が増えたとて誰も気がつくはずがないとたかを括っていたのだが。
鎌吉は腕を組んだ。
「いやぁ、正直黒子だけでは。でも本山の旦那の何やら満たされたような顔を見るとこりゃあ大願成就じゃないかと。随分昔から思われていたようですからなぁ」
「…そうなのか?」
鎌吉から見て本山の気持ちはあからさまだったらしいが、伊庭は無自覚だった。鎌吉は
「それこそ、ダダ漏れです」
と笑いながら、包丁を持ち仕込みを始めた。
伊庭は残りのしじみ汁を飲み干した。
(まったく…ダダ漏れか)
今度のため息にはどこか充足感があった。





「遊撃隊」
幕臣の子弟を集めた講武所から、将軍に近侍する奥詰へと抜擢され、長州征討に従軍した奥詰隊は家茂公の死去とともに解散となったが、一橋慶喜公のもとで正式に『遊撃隊』へと名前を変えることとなった。
義父から話を聞いた伊庭は
(そう珍しい名前でもない)
と特別な意識を持たなかった。
敵を定めず適宜必要な戦場へ向かう『遊撃』部隊は会津や長州にも在り、また第二次長州征討では若年寄の指揮のもと諸隊と併せて『遊撃隊』とも呼ばれ同じ働きをしたので、今回改まった形にはなるが特別な組織でもない。
けれど
「ついに大きな戦になるのかもしれない…」
と小さく漏らした義父の一言が、鼓膜でいつまでも響いていた。


家茂公死去に伴い、その遺体とともに一旦江戸へ戻った伊庭だが将軍の親衛隊である遊撃隊の半分は大坂に残っている。
「もうすぐ交替の知らせが来るだろうな」
伊庭は自室で本山を酒に誘い、少し酔ったところで敢えて素気なく口にした。一時の帰郷だと察していたものの本山は「そうか」と声を落としたが、しかし互いにすっかり大人になったので
「お役目だから仕方ないな」
と許容することができた。幕臣としてのうのうと暮らせるほど世間は甘くなく、特にこのところの世情の不安はすぐ耳に入ってきていた。伊庭は幕府の屋台骨が揺らいでいるいま、将軍を支えることが使命だと感じていたので、迷いはなかった。
「…そうだ八郎、『ええじゃないか』って知ってるか?」
しんみりしたくなかったのか本山は話を変えたので、伊庭もそれに乗った。
「ああ…噂だけ。西国の騒ぎだろう?男は女装して、女は肩を出し半裸で踊り歌い歩く…歯止めの効かぬ狂騒の宴だと聞いた」
「それがついに都や尾張、ついには駿府あたりまで広がっているって話だ。この江戸にもやってくるんじゃないかと役人たちは戦々恐々としているみたいだ」
「…楽しそうだな?」
騒動は三日三晩続くこともあると言い、歌い狂うだけならまだしも無銭飲食や盗みが横行する手のつけられない一揆のようなものだ。取り締まる側の伊庭としては厄介に感じているが、本山はそうでもない。
「『よいじゃないかー、えーじゃないか』って言いたくなる気持ちはわかる。自分達の信頼していた幕府は落ちぶれ、西国が力を持ち、異国に取り囲まれ四面楚歌…加えて不作で米は高い!民衆がいっそ『世直し』してくれと思うのは俺たちも同じだろう?」
本山は愚痴っぽく溢しながら、「えーじゃないか」「よいじゃないかー」と決して上手いとは言えない節回しを口にしつつ酒を飲む。楽観的な本山を見ていると深刻に考えている自分が馬鹿みたいだ。
「まったく…これだから江戸の役人は呑気なものだと見下されるんだ。ほら、酒を寄越せ」
「八郎、ちょっとあちらで有名になったからって都人気取りか?お前の噂はこっちにも散々聞こえてきたぞ、家茂公の前で色々格好を付けたらしいな」
「絡むなよ、やるべきことをやっただけだ」
伊庭は盃の酒を一気に煽り、口の端から溢れたものを拭った。そして若くして亡くなった主君への思いを馳せた。
第十四代将軍家茂公は将軍継嗣問題の際に『若い』『経験がない』と散々言われていたが、本人は穏やかで臣下をとても大切にした。上洛した際に伊庭も何度か剣術を披露する機会があり、お褒めの言葉と恩賜の品を受け取ったが、近くで接すると主君として相応しい貫禄と気品を感じたものだった。
しかし結局、わずかな希望だけをもたらして亡くなってしまった。
「お若いが…素晴らしい将軍だった」
「じゃあ一橋公…今の公方様はどうだ?」
本山は同じ幕臣という立場のくせに伊庭へ意見を求めるので、空になった徳利を押しつけた。
「お前、自分が幕臣だという自覚はないのか?先公がどうだとか、いまの公方様がどうだとか…俺たちが議論すべき話でもなければ、酒の肴に摘むような話じゃない。君たらずとも臣たれ、だぞ」
たとえ主君が相応しくない人物であったとしても、臣下は従うべき。幕府に恩義を感じながらも事情があり隠居した実父である秀業がよく家族や門弟に言い聞かせていた言葉だった。
伊庭の剣幕が鋭くなったので本山は「わかった、俺が悪かった」と降参のポーズを取った。
「ちょっと聞いてみたかっただけだ」
そういいつつ、「酔った」と脇息に身体を預けた。そしてまじまじと伊庭を見つめた。
「…なんだよ」
「返事は書いたのか?」
「いや…」
伊庭は自然と文机に目をやった。あれから数日経っても筆を取ることさえできずに、何をしていてもずっと心のどこかで引っ掛かり続けている。
「…いつも返事は早く出すんだ。土方さんのことだからきっと今頃、俺が書きあぐねていることに気がついているだろうな」
「もうすぐ大坂に戻るなら、直接話をしたらどうだ?同じ幕臣となったのだから機会を設けることくらい容易いだろう」
「…そうだな…」
伊庭は空返事を口にした。
本山の言う通り、目を見て話をすれば土方がどんな心境なのか察することができるだろうが、目の前にするからこそどう励ましたら良いかわからない気がした。それにあの格好つけの土方が伊庭を相手に弱音を吐くはずもないだろう。
悩む伊庭を見て、本山は頭をかきつつ
「帰るかな」
と急に立ち上がった。大抵朝まで飲み明かすのでそのつもりだった伊庭は驚いた。
「どうした?」
「この間、文が書けなかったと怒っていただろう?これ以上怒らせるわけにはいかない、今日は退散するからちゃんと…」
「嫌だ、帰るな」
伊庭は本山の手首を掴み、引き止めた。自分でもなぜそうしたのかはっきりと分からなかった。
「八郎?」
「…ま、まだ書けそうにないし今日は書く気分じゃない。それに…」
「それに?」
「今夜は…一人で寝るつもりじゃなかった」
カタン、と空の徳利が倒れた。
部屋を照らす蝋燭の光が揺れて、二つの影が重なる。
まるで箍が外れたように本山は唇を貪り啄み、伊庭は息を切らしながらそんな彼の後ろ頭に腕を回した。互いの身体が絡み合い、もつれて倒れる。触れ合う場所がまるで火傷をしたかのように熱くなる。
「八郎、…頼みがある」
「なに…」
本山が熱っぽく耳元で囁くので、伊庭は頷いた。
「大坂に戻るなら…せめて二人でいる時は他のことを考えるな」
小さな嫉妬を覗かせて、また口を塞いだ。
(ずるいやつだ)
頼みだと言いながら、返事を聞くつもりがない。それは伊庭がなんて答えるかわかっているからだ。
長い口づけで頭がぼんやりしたが、伊庭はなけなしの理性を働かせて本山の胸板を押した。
「…っ、小太…」
「なに…?」
「まだ、皆、起きてる…」
まだ夜更けというには早く、家人が寝静まっていない。
本山はほんの少しだけ迷ったが、
「あー…そうだな、まあ、『ええじゃないか』」
と言って微笑んだ。
独占欲を剥き出しにしたと思ったら、気が抜けるようなことを口にする。
(ここにいると、俺はお前に振り回されてばかりだ)
「わかったよ、じゃあ…塞いでてくれ」











あれこれと悩んでいる間に夏の盛りがやってきた。
「…暑い」
蒸し暑い夜は都に比べればカラッとして過ごしやすいが、それでも寝苦しいのは間違いない。
伊庭は口煩い義妹の目を掻い潜って、着流しのまま裏口から外に出た。夏の夜の散歩は屋内よりも風通しが良く心地良いので、気分転換に相応しい。
部屋でひとり煮詰まって考えているのは、土方への返答だけではない。遠い江戸へも伝わってくる政の混乱についてだ。
本山と半分冗談のように話していた『ええじゃないか』は瞬く間に国内に広がり、将軍のお膝元である江戸でも流行った。どうやら西国の倒幕を目論む者が敢えて流行らせたらしい、と幕臣の間では囁かれているが、それが真実でも偽りでも、国内の雰囲気が幕府が不要であるという方向へ動いているのは間違いない。加えて京へと長州や薩摩、土佐の兵が集まりつつあると聞く。
(そろそろ本気で戦になるかもしれない)
幕臣として、奥詰として、遊撃隊の一員として逸る気持ちは日に日に募るが、その頭である将軍の舵取りは不明だ。それが皆の苛立ちと不安をさらに煽る。
伊庭は夜空を見上げた。雲ひとつない空に満天の星が輝き、清々しいほど美しい。
「全部…嘘みたいな話だ」
幼少の頃に夢中になった天文学。その頃見上げていた夜空となにひとつ変わりないのに、幕府は倒れ戦が起ころうとしているなんて、江戸では実感がない。
涼しい風が耳元を通り過ぎていく。ふと傍に気配を感じ身を引いた途端、強く腕を引き寄せられた。掴み払い退けることもできたがあまりにも細い腕は振り払っただけで折れてしまいそうで気が引けたのだ。
月明かりで見える女は痩せこけている。
「オニィさん、百文でどうだい?」
「…こんなところで夜鷹に会ったのは初めてだな」
夜鷹は最下層の女郎で、道端で男を誘う。茣蓙一枚で商売をし、その金額はかけ蕎麦に等しい。
伊庭も何度か誘われたことはあるが、この辺りは静かで夜鷹に出会ったことはなかったので、驚いた。
すると女は「ふん」と鼻で笑った。
「流行りの祭りで縄張りが荒らされたんだ。『ええじゃないかええじゃないか』と半狂乱…終わってみればただの馬鹿騒ぎさ」
「ハハ、その通りだ」
「三日三晩、踊り狂うような連中の相手なんかこちらから願い下げだね」
伊庭はさっさと話を切り上げて振り切ろうと思っていたのだが、この女が案外賢いのではないかと思い彼女の話に耳を傾けてみたいと思った。
「お前はいくつだ?」
「…十八。ねぇ、遊んでいくのかい?」
「十八か。その器量なら吉原でもやっていけるだろう?何故夜鷹なんてやってる?」
「質問が多いねぇ…とっととやることをやれば?」
女は少し嫌そうにしたので、伊庭はかけ蕎麦分の小銭を渡した。すると背に腹はかえられなかったのか渋々口を開く。
「…田舎から出て、茶屋で働いてたけど流行りの祭りのせいでね…働き口を無くして貧乏な田舎に帰ることもできずに、こんなに落ちぶれたのさ」
伊庭は女が憎々しく『ええじゃないか』を語る意味を悟った。秩序を失い、騒ぎに便乗して無銭飲食が横行したという話を聞いたことがあったのだ。
女は「もういいでしょ」と話を切り上げて、一層強く伊庭の腕を掴み、身体を密着させた。しかし久しぶりの女体に心騒ぐことはなく、むしろまだ若い女がこうして夜鷹に身を落とし縋り付くように身体を寄せることが哀れであった。
伊庭は彼女の腕を解き、
「…悪いが、心に決めた者がいるんでね」
と拒んだ。女は 唇を引き結び分かりやすく怒った。
「…嫌な男。思わせぶりに引き止めて」
「それは悪かったね」
伊庭はちょうど持ち合わせていた手拭いを渡し、
「吉原に稲本楼という店がある。そこの小稲という花魁へこの手拭いを渡して『伊庭に紹介された』と伝えたら良い。吉原は厳しい環境だろうが、夜鷹よりマシだ」
手拭いは懇意にしている小稲から贈られたものである。彼女がこれを見れば話を信じて女を悪いようにはしないはずだし、器量の良さに気がつくだろう。
女は疑いながらも手を伸ばして手拭いを受け取った。
「…変な人」
「じゃあな」
伊庭は女と別れてまた歩き出す。彼女がこれから吉原へ行くのか、夜鷹を続けるのかわからないが、もう会うことはないだろう。
それまで目的もなくフラフラ歩いていた伊庭だったが、急に背中を押されたように目的地へと進み出す。夜はすっかり更けて静寂に包まれていて、それは本山の住まいも同じだった。
裏口の扉は少し弄れば開くことを知っていた。音を立てないように忍び込み、履き物を持って縁側から上がってそろそろと目的の部屋に入る。そこでは当然本山が寝ている。
伊庭は傍らに立ちしばらくその寝顔を見ていた。
(…俺は、お前よりも長生きしたくないな)
残される寂しさなんて知りたくもない。文官の彼が自分よりも先に戦場の最前線に出ることはないだろうと思っていたけれど、そうも言っていられないのが戦というものだ。あの夜鷹の女のように自分の身が明日も無事だなんて保証はどこにもないのだから。
(歳さんもそう思っているのだろうな…)
伊庭は無性な寂しさに駆られ、本山の唇に軽く口付けた。本山は少し身じろぎしたものの起きる様子はないので、思い切って就寝中の彼に跨り貪るように塞いだ。息もできないほど激しくすると、ようやくじたばたと手足を動かした。
「な、っ…八郎…?」
「…さすがに起きたか。お前、警戒心が無さすぎる。これじゃあ夜盗にも気づかずに朝まで寝ていそうだな」
「いや、盗みに入られるような家じゃ…というか、まだ夜更けだよな?なにかあったのか?」
これは夢か現実かと戸惑う本山を伊庭は笑った。
「なにかあるのは今からだ」
「は?」
「夜這いに来たんだ」
伊庭は上半身を晒し、本山の襟を開いた。くっきり浮き出た鎖骨を舐めて愛撫しながら、下半身を密着させると、本山は「うっ」と身じろぎした。
「…なんだ、もう準備できてるじゃないか」
伊庭は既に硬くなりつつある本山のものに触れて扱いた。半ば夢見心地だった本山の表情が変わり、俄かに興奮し始める。目の前には着崩れて肌を晒し跨ったまま誘う恋人がいるのだから当然だろう。それまでされるがままだった本山の手が動きはじめたが、
「ちょっと、じっとしてろ」
と、彼の手を掴んだ。
「生殺しにする気か」
「そういう気分なんだよ」
伊庭が答えると、本山は何か言いたげにしたけれど勝手にするのはいつものことなので「わかったよ」と諦めて身を任せた。
声を潜めた逢瀬は互いの身体の熱を昂らせ続ける。夜更けから朝焼けまで続け、もう指一本動かないほど消耗したが、心は満たされた。
「帰る」
「…好き勝手に来て、好き勝手に帰るんだな」
「悪いか」
「悪くない」
本山の返答に満足した伊庭は、脱ぎ散らした服に袖を通し草履を手にした。横になったまま肘に頭を乗せる本山は
「八郎、なにかあったのか?」
と尋ねた。
「何もないよ。なにかないとお前に夜這いをしちゃいけないのか?」
「そういうわけじゃないが…」
「じゃあな」
本山はまだ何か尋ねたいようだったが、伊庭は敢えて振り切って部屋を出た。彼に何を尋ねられたところでここに来た理由をいまは答えられそうになかったのだ。


伊庭が家に戻ると、部屋の机に文が置いてあった。
(礼子か…)
彼女に不在を知られるのはなんとなく気が引けてしまうが、文を手にするとそんな憂いは一瞬で消えてしまった。
「歳さん…」
あれから返事をしていないのに、先んじてもう一通届いてしまった。よほどの用件なのではないかと急いで開くと、総司の病については一切触れずに近々、隊士募集のため江戸に戻ると書いてあった。















遠くから聞こえる雑音も、脳裏に焼き付いた苦悩も、剣の前では沈黙する。
誰もいない道場で伊庭は竹刀を振り続けていた。使用人さえまだ目を覚まさない早暁の静けさに包まれるなか、自分の吐息とビュンビュンと竹刀が空気を切る音だけがやたら響いていた。
世の中は変わり続ける。そのスピードはだんだんと速くなっていき、追いつき理解する者もいれば、過去を振り返りしがみ付く者もいる。どちらかといえば前者でありたいと願っているが、体に流れる血は後者に近いのだろう。
新しい時代は刀を置き、新しい武器を取れという。異国の武器を手に入れた西国に差をつけられている幕府としては仕方ないのかもしれないが、けれどまだ修行の道半ばだと思っている伊庭にとってはその道を阻まれているようで苦痛だった。
(銃は便利だが…)
何度か扱うととても簡単で、適性もあるのだとわかる。けれど指先にほんの少しだけ力を籠めるだけで放たれる弾という刃は、撃った瞬間に己の誇りを砕くような痛みを伴う。
(これは手段であって生き方ではない)
銃との向き合い方について、伊庭はそう悟った。
「…」
伊庭は竹刀を置いた。邪念を取り払うために素振りをしているのに、これでは意味がない。
額の汗を拭いつつ、水を飲むために道場を出る。秋の朝はそれなりにひんやりとしているが、千回以上続けた素振りで籠った熱を冷ますほどではない。けれど心地よく、いくらか気分を晴らしてくれた。
「おはようございます、お兄様」
伊庭は義妹が起きてきそうな気配には当然気がついていた。
「…おはよう」
「今日は日野へ行かれるのでしたね。お帰りは遅くなりますか?」
「ああ」
淡々とした短い返答には愛想すらない。年頃で家族となって時が経つほどにその関係はギクシャクしていく。
けれど礼子はただ微笑んで
「お気をつけて」
と言っただけだった。


家を出ると本山が待ち構えていた。
「本当に来るのか?」
今日、日野へ行くことは知らせていた。本山は「一緒に行く」と言い出したが、「長くなるから」と一度は断っていたのだ。それでも、と言うので任せていたのだが。
「ああ、近くで待たせてもらうよ。突然面識のない俺が土方さんの姉上の嫁ぎ先に上がり込むわけにはいかないし、部外者が立ち入る話でもないだろう?」
「…たふん、待ちぼうけにさせるけど」
「いいよ」
改めて確認しても本山はそう言うので、伊庭は仕方なく受け入れることにする。しかし内心では彼が同行してくれて道中の話し相手がいることで、気が楽にはなったのだ。それに彼がいれば今更引き返すこともできない。
「隊士募集なんだって?何故日野に?」
「義兄さんが日野で、天然理心流の道場を開いて何かと力になっているそうだ。きっと故郷の同志が募集に応じているんだろう」
「まあこういう時勢だからこそ故郷の同志が信用できるかもしれないな。…それで結局、返事は出したのか?」
本山の質問に、伊庭は曖昧に頷いた。
「送ったけど…都合が合えば顔を出す…と、それだけだ。何も思いつかなかったし、今も悩んでいる。どう励ましたら良いのか…」
秋空は皮肉なほど晴れ渡っているのに、伊庭の心には靄が募る。土方を目の前にして一体どんな言葉が出てくるのだろうか。ちゃんと彼の気持ちに寄り添えるだろうか。
しかし本山は
「そう言ったらどうだ?」
とあっさり口にした。
「は?」
「いや、考え抜いた無駄のない言葉を伝えられるより、その方が良いんじゃないか?少なくともお前がこの数日悩んでいることや、心配している気持ちは伝わるだろう?」
「それは…そうだけど…」
「遠くにいる俺たちには相応しい言葉なんてわからないさ。土方さんだって助言をもらいたいわけじゃないだろう?」
「…」
本山なりに考えた末の結論なのだろう。彼らしい鈍さと不器用さが感じられるが、不思議とその通りだと思えた。用意された言葉を口にしたところで、きっと土方には響かないだろう。
けれど伊庭は本山の意見に素直に同意する気にはなれなかった。
「…そういうことは早く言ってくれ。こっちは堂々巡りばかりで寝不足なのに、お前はそんな俺を見て高みの見物でもしていたのか?」
「ハハ」
「笑って誤魔化すな」
本山は逃げるように早足で歩き出したので、伊庭はそれを追いかけた。




土方との再会は伊庭が想像していたほどの大袈裟なものではなく、互いに幕臣という立場ではあったが、つい先日試衛館で会ったかのように気軽なものだった。
軽い冗談から始まり、世情に対する所感を述べ戦への足音を感じつつ、ようやく本題へ触れた時、土方の表情は少しだけ強張っていたがそれほど悲嘆に暮れているわけでもなく伊庭を気遣う余裕があった。
伊庭は本山の言った通り、どう励ましたら良いのかわからないと素直に述べると、土方は「気にするな」と言わんばかりだった。彼は誰かに吐露したかっただけなのだろう。冷静になって考えると、伊庭だけでなく総司のことを心配する故郷の人々にずっと囲まれていたのだ。兄貴分として総司を養生させるべきだと散々言われたに違いない。
しかし、伊庭にはその気持ちはさほどなかった。
(きっとあの人はそんなことを望まないだろう…)
戦の足音が迫るなか、前線にいる仲間から外れて養生できる気持ちがあるならば、あの浪士組への参加も取りやめることができただろう。江戸に残って道場を継ぐことだってあり得た。
しかしたとえ間違っていても、危険でもそうせずにはいられないーーーー人生はそんなことの連続だ。
だから敢えてあの日の話をした。伊庭と総司にしかないあのやりとりを土方は知らないはずだ。鮮明に思い出せる、雪の日の彼を。
(どうか、いつまでも傍に)
養生して病を克服するというのなら全力で支える。けれどそうではない場所で命を燃やしたいと願うなら、それを叶えてあげて欲しい。
伊庭がそう伝えると、土方は幾分か楽になったようだった。彼なりに総司を引き連れてこの道を歩んできたことへの後悔があったのかもしれない。
秋の冷たい風が吹いてきて、伊庭はようやく湯呑みに手をつけた。土方の姉であるのぶの出してくれた茶はすっかり冷めてしまった。
「…それで、お前はどうなんだ?」
「え?ああ奥詰隊…いや、いまは遊撃隊と言うんですが、交代の時期ですからそろそろ再び大坂へ向かうと思いますけど」
「いや、それのことだ」
てっきり真面目な話かと思いきや、土方が指差したのは右手の入れ黒子のことだった。隠すつもりはなかったが(油断したな)と内心苦笑した。
「…さすが、めざといですね」
「お前は色白だから良く目立つ。さぞ吉原でも噂になっていることだろうな、お相手は誰かって」
「さあ…どうかな、最近は吉原には足を運んでいませんし」
「まさか、相手が幼馴染だとは誰も思わないだろうな」
「…」
曖昧にして濁すつもりがあっさり看破され、伊庭は言葉に迷う。
「俺…歳さんにそんな話しましたっけ?」
「どうだったかな。だが、大坂で総司にそんな話をしていただろう?はっきりとは言わなかったが」
「…いやだな、聞き耳を立てていたんですか?」
「聞こえただけだ」
伊庭にはあまり記憶がなかったが、きっと話し相手が本山とは面識のない総司だったから口が滑ったのだろう。
だが土方は「聞かなくてもわかる」と笑った。
「お前は女の気配がないし、本山さんはもともとわかりやすかった」
「…もしかしてダダ漏れですか?」
「そうだな、ダダ漏れだな」
鎌吉にも指摘されたことと同じ台詞を言われ、伊庭は呆れるしかない。だったらそれに気が付かなかった自分はもっと鈍いということではないか。
伊庭が居心地悪く感じていると、土方は湯呑みを手にしてなんてことないように言った。
「大事にしろよ。失ったら…二度と元通りにはならない」



隊士募集が忙しいと聞き、伊庭は早々に帰ることにした。待たせている本山が気になっていたのもあったが、彼は佐藤家の門前で待っていた。土方は本山を見て苦笑した。
「なんだ、来ていたなら一緒に上がれば良かったのに」
「邪魔しちゃ悪いですから。…あとこれ、知り合いに腕の良い薬師がいまして、漢方を煎じてもらいました。一日一回飲めば滋養になります」
いつの間に準備していたのか、本山は和紙で包んだ小包を土方に渡した。総司の病には触れなかったが、土方にその意図は伝わった。
「かたじけない」
土方はちらりと本山の左手に入れ黒子があるのを見つけたようで、伊庭に揶揄するような視線を送る。伊庭は居た堪れなくなって
「小太、行くぞ」
と戸惑う本山の腕を引いた。
土方に見送られ、早足で帰路を行く。
半日かかるので今日中には戻れないだろうと覚悟していたが、秋の夜はあっという間にやってきて真っ暗になってしまった。
「八郎、どこかで休もう。この先に確か宿が…」
「いや、ここで良い」
伊庭が足を止めて指差したのは人気のない寺だった。手を合わせて本堂に足を踏み入れると、手入れはされているようだが、古くて床板がキシキシと軋む音がした。本山はぐるりと見渡しつつ
「ちょっと不気味じゃないか?こんなところじゃ休めないぞ、まだ疲れているわけじゃないんだろう?もう少し歩いて…」
「ダメだ、待てない」
「わっ!」
伊庭は油断している本山の足を引っ掛けて、尻餅をつかせた。困惑する本山に跨り、見下ろした。
「八郎?」
「なあ…ここで抱けって言ったらお前はどうする?信心深くないと拒むか?」
月明かりだけが辺りを照らしていた。本山は最初は驚いていたが少し考え込んで答えた。
「…拒みはしないが…お前らしくない。何かあったのか?」
「何もない。むしろこの数日悩んでいたことが吹き飛んで気分は良いんだ。だからいっそもっと…気持ちよくなりたい。今夜は安宿で声を我慢したくない」
「ハ…ハハ、ほんと、お前には参ったよ」
本山が笑ったので、伊庭はそれを了解と受け取って早速彼の襟を開いてその首筋を強く吸った。すると横になっている本山の手が伊庭の袴の紐を解いていく。
「お前…こういうときだけ、器用だな」
「こういうとき?」
「…なんでもない」
伊庭が言い淀んだ隙に、本山は上半身を起こしその勢いで伊庭を押し倒した。そして荒々しく衣服を剥ぎ、晒してしまう。
「小太?」
本山はいつになく強気な態度だった。いつも真綿に触れるような優しさで解していく指先が、今は獰猛な獣の爪のようにあちこちを暴いていく。
「ちょっ、…あっ」
「…俺はずっと嫉妬してたんだからな」
「え?は…あ、あぁ…」
「お前の頭の中が俺以外の男のことでいっぱいだなんて…お前と過ごせる時間は限られているのに、独占できないなんて妬けて仕方なかった。…お前は心が狭いって笑うんだろうけどさ…」
「…ほんと、馬鹿だなあ…」
彼の指先が狙い撃ちするように責め続け、伊庭は声を上げた。ここは互いの家でもなく、隣室の声が聞こえる茶屋でもない。誰も足を踏み入れない場所で、月あかりを頼りに互いの肌を求めあう。爪を立てて、甘噛みを繰り返し、これ以上ないほど強く抱き着いた。
わかっている。
目の前にいて、身体のなかにまで感じることができるのに。
(どうして俺は…)
満たされないのだろう。
心が焼き付くような焦燥を覚えて、「まだ足りない」と彼の背中に手を伸ばした。















大政奉還。
その響きは遠い江戸からすればまさに晴れ間に突然雷が落ちるように、あまりにも唐突なものだった。もちろん『噂話』程度のことは耳にしていたが、いくら力を持つ土佐や武力をちらつかせる西国に政権を返上するように迫られていても、二百六十年政権を保持する徳川がそれに応じるわけがないと、本音ではたかをくくっていたのだ。おそらく江戸にいた幕臣は皆同じ気持ちだっただろう。
「まさか…公方様がそのようなことをご決断されるとは…」
義父は落胆した様子で、伊庭に経緯を話したがあまり頭に入って来なかった。
(幕府が終わった…?)
その実感はない。けれど最近感じていた、危うさや曖昧さの答えはこれだったのかと妙に納得する部分はあった。
日野で再会した土方は、西国は幕府に敢えて大政奉還を突き付け、却下させることが目的ではないかと話していた。そうさせることで戦に持ち込むことができる…第二次長州征討で勝ちきれず幕兵の体たらくを晒し、家茂公の喪中を理由に休戦へと持ち込んだことで西国は戦に持ち込む自信を得たのだろう。
けれど敵を拍子抜けさせるように、大樹公は大政奉還を受け入れた…眼前の戦はこれで避けられることになったが、それが本当の狙いなのだろうか。
「…戦になりますね」
伊庭は呟いた。結局、政権を保持していようがそうでなかろうが、互いの憤りや不満は無かったことにはできない。おそらくこの江戸でもその機運が高まるだろうし、今すぐに将軍の居る最前線へ上洛して備えるべきだろう。
伊庭は席を立ち、「友人のところへ知らせに行きます」と部屋を出た。


鳥八十は夜になると常連客で席は埋まるが、昼間は閑古鳥が鳴いている。居酒屋なのだから夕方から営業しても構わないはずだが、店主の鎌吉は
「俺ァ伊庭の旦那のために開けてるんだ」
というので、開店前でも遠慮なくのれんをくぐる。すると夜の仕込みをする鎌吉とほろ酔いの本山がいた。
「おかえり」
すでに酒を飲んでいる本山は盃を掲げながら挨拶する。伊庭は(この一大事に文官は…)と少し呆れながらその隣に座った。
「土方さんには会えたか?」
「ああ。もう試衛館を出た後で焦ったけど、追いついた」
伊庭は義父から話を聞いた後、大政奉還を知らせるため馬に乗り土方を追いかけた。徳川が政権を返上したと広まれば、邪なことを考える輩に道中出くわすかもしれない。急いで知らせた方が良いと思い街道を駆け抜けて三つ目の宿でようやく追いついた。まだ土方の耳には入っていなかったようで、いつも余裕ぶっている彼のらしくない唖然とした表情を拝むことができたが、それを揶揄する余裕は伊庭にもなかった。
難しい顔をした土方は、
『助かった。…公方様の真意はわからないが、早く戻って会津に状況を確認する』
と足早に去り、二度目の別れを告げることとなった。
鎌吉に冷たい水をもらって喉に流しこむと、本山は
「なあ、西国のはったりってことはないのか?それかただの噂話だとか…」
と訊ねてきた。官吏の本山でさえ俄かには信じられないのだ、江戸の民にその実感があるわけがなく、町は平穏なままだ。
「…義父上から聞いた話だ、詳細はわからないが返上したというのは間違いないだろう」
「返上ねえ…じゃあいま手を付けている仕事はもうやらなくて良いってことか?」
本山は現実逃避なのか、茶化して酒を飲む。
「たとえ幕府がなくなっても俺たちが徳川の家臣だっていうのは変わらないだろう。今の仕事は止めろと言われるまで続けろよ」
「冗談だ、勿論そうする。…でもお前は前にこのままだと戦になると言っていただろう?じゃあ公方様が政権を返上したなら、戦う意味はないってことだよな?」
「……どうかな」
むしろ早々に戦の火蓋が切られたように思う。徳川は将軍から大名になった…しかし四百領という広大な領地を持つ大大名だ。西国が政権を保持することになったとしても無視できる存在ではなく、領地を没収されない限り今後も権威を持ち続けることになるだろう。
(だから戦が必要になる…)
しかしそれを話したところで、本山の不安を煽るだけなので伊庭は黙り込む。二人の深刻な様子を察した鎌吉が伊庭の好物の肴を出した。
「俺ァ政のことはよくわからねぇが、田舎者の西国の連中が威張って、どんな舵取りができるもんかと思いますがね」
「おい小太、鎌吉の方がよくわかっているみたいだぞ」
「へへ」
鎌吉は得意げに鼻を弄って、また台所へ戻っていく。本山は苦笑しながら徳利を手にした。
「…小難しい話は酒がまずくなる。お前とゆっくり飲む暇はなくなるだろうから、せめて今だけはうまい酒を飲みたいものだ」
「ああ…そうだな」
伊庭が敢えて言及しなくとも、本山はこの穏やかな時間があと残り少ないのだと理解していた。近々命令が下り、また都へ向かうことになるだろう。それはおそらく戦のために。
伊庭はなみなみと注がれた猪口を飲み干した。本山が言う通りあれこれ小難しいことを考えるのはもう疲れた…そう思うのに、胸の閊えのような不安はいくら酒を飲んでも拭えなかった。

「酔った!」
高らかに声を上げる本山は千鳥足で夜道を歩く。伊庭は川辺の畦道でいつバランスを崩してしまわないかとはらはらしながら、肩を抱いて身体を支えてやった。
「おい、いい加減にしろよ」
「八郎だってしこたま飲んだだろう?」
「俺は正気だ」
伊庭が反論するがいつも以上に飲みすぎた自覚はあった。鎌吉が気を利かせて「良い酒を仕入れた」とどこかの地酒を披露し、気落ちした気分を紛らわせようとそれをまるまる空にしてしまったのだ。強い酒はあっという間に身体中に回り、伊庭も本山も酔いつぶれた。どうにか正気を保った伊庭は「駕籠を呼べばよかった」と重たい身体を支えて愚痴る。本山が「夜風に当たりたい」と言ったせいで徒歩になりちっとも家に辿り着きやしない。
すると本山はと急に上半身を反らせて夜空を指差した。
「今日は星が明るいな。ほら、見てみろよ!」
「あっ馬鹿…!」
急に体勢が変わったせいで伊庭は足を踏み外しそのまま土手へ滑る。咄嗟に本山は伊庭を助けようと手を伸ばして捕まえたが、互いに酔った身体ではどうにもならずにそのまま転がり落ちた。
川と言っても浅瀬なのはわかっていたが、夜の川に飛び込むなんて正気の沙汰ではない。
「拙い…!」
冷たい水を浴びる覚悟を決めながら二、三回転したところで急に止まった。本山の背中が土手の窪みのようなところに引っ掛かったのだ。おかげで伊庭の身体もスピードが落ちてどうにか川に落ちずに済む。
「いってぇ…」
「…自業自得だ」
本山は身体を起こし背中をさすりながら痛がっていたが、深刻な様子はない。互いに枯葉と土だらけになって汚れたが、いっそ酔いが覚めてすっきりした気分だった。
「よし、ここで朝まで待つか!」
本山は大の字になって寝転ぶ。枯葉を布団にして夜空を仰いだ本山は「綺麗だぞ」と伊庭を誘った。いつもなら急かして家路を急ぐ伊庭だが、今宵はそういう気分でもなく、本山と同じように仰向けに身体を投げた。
雲ひとつない夜空には星が瞬いている。淡く光る月は穏やかで静かなまま、辺りをほのかに照らしている。
「八郎」
「なんだ?」
「また都に行くのか?」
「…ああ、たぶんな」
「嫌だな…」
酒が入っているせいだろう。鳥八十にいた時より甘えるような声で素直な本音を呟く。しかし伊庭は敢えてそれには応えずに現実をありのままに話した。
「…公方様が政権を返上してもきっと戦は起きる。俺は遊撃隊の一員として義父上とともに最前線に向かうことになるだろうな」
「…勝てるのか?」
「わからない。なんせ長州一国に勝てなかったんだから」
勝てるはずだと鷹を括っていた戦に負けたのだから、伊庭は苦笑いを浮かべるしかない。家茂公の喪中を理由に休戦に持ち込んだが、あのまま戦っていたとしても負けていたに違いない。そう考えるととっくの昔に政権を返上させられていてもおかしくはなかった…ともいえるだろう。
本山は眉間に皺を寄せた。
「それでも行くのか?」
「…当たり前だろう」
「なあ、もう幕府がないならさ…戦う意味なんてどこにあるんだよ。徳川といっても一橋家だ、お前が命を賭けるべき相手なのか…」
「それ以上は言うな、怒る」
伊庭ははっきりと本山の言葉を止めた。それがたとえ与太話であっても何も聞きたくない。伊庭は身体を起こし、まだ何か言いたそうにしている幼馴染を見据えた。
「公方様がどんな御方で、どんな御考えをお持ちでも、俺は幕臣の子として生まれ食うに困らず、恵まれた暮らしをしてきた。己の才能があっても立ち行かぬ者が多いなかで俺は恩恵を授かって生きてきた…だったら、公方様と徳川家に尽くすのは当たり前のことだ」
「…世の中が変わったんだぞ。これから帝が西国に政権を委ねて、徳川など時代錯誤だと言われるかもしれない」
「誰に何を言われようと関係ない。無責任な他人の言葉で、俺の生き方が左右されるわけがない」
「…」
いつもの本山なら少し呆れながら『お前はそう言うだろうと思った』と苦笑して話を終えていただろう。伊庭も『馬鹿だな』と軽い冗談と受け止めて聞き流していたかもしれない。けれどそうできなかったのは、互いの根底にあるものが揺らいでいるからだ。遠く都の出来事だと俯瞰して、心のどこかで無関係だと思っていた変革に本音では面食らっていた。
伊庭はその自覚があった。だからこそ、発破をかけなけば、己を甘やかしずるずると逃げてしまうとわかっていた。
「お前が俺を止めるなら、お前と別れる」
「…八郎…」
「自分自身の保身だけのために逃げられるわけがない。…お前だって、俺の気性はわかっているだろう?」
「…」
本山はようやく体を起こし、深刻な表情で俯いた。
「…やはり、俺は先に帰る」
もう何も言うことはない。本山の返答を待たずに、伊庭は土手を上って帰路についた。
















あの夜から、本山とは会っていない。
徳川を守るために心血を注ぐ決意を持つ伊庭と、これからの徳川の行く末を悲観して引き留めようとした本山。酒のせいにして結論を曖昧にすることはできたけれど、伊庭はどうしても彼の意見を受け入れ難く感じたし、また本山も『別れる』とまで言われた手前自分から会いに行くことに躊躇いがあったのだろう。
居心地の悪いまま時が過ぎ、遊撃隊として都へ向かう日取りが近づく。
(俺が折れてやればいいのに…)
そう思っていても伊庭にはどうしてもそれができなかった。大袈裟だとわかっていても彼の言い分を認めれば、今まで幕臣として生きてきたことを否定してしまう気がしたのだ。もちろん、それは本音では弱気になっている証拠であるとも言えるのだけれど、それを言葉にしてしまうのは嫌だった。
(『命を賭けるべき相手なのか』…なんて、考えたこともない)
主君に尽くすべき―――そのことを疑うことすらなかった。
「お兄様」
文机に向かいながらぼんやりしていると、義妹の礼子が声をかけてきた。
「そろそろご出立の日取りですね。お荷物は整いましたか?」
「ん…ああ、まあ」
「これ、新調した羽織です。都は寒いそうですから…」
「ああ、ありがとう」
礼子も戦の気配を感じているはずだが、本山と違っておくびにも出さず静かに見送ろうとしてくれている。彼女自身も義兄が戦へ行くのは当たり前のことだと思っているはずだ。
伊庭は礼子から仕立ての良い羽織を受け取り、行李にしまおうとしたが
「袖を通してください。裄丈が合うように繕います」
「そういうことか」
伊庭は礼子に助けられながら新しい羽織を着た。馴染みのない感触と匂いを感じながら、礼子に言われるがままに腕を伸ばして、着丈の具合を見る。
「…お兄様、本山様となにかありましたか?」
背中を向けていた時に唐突に尋ねられ、伊庭は「何故?」と問い返した。すると礼子は
「お尋ねしているのはわたくしです」
と珍しく言い返して伊庭の答えを待つ。
何もない、と答えるのは簡単だが、いまの礼子がそれで納得するとは思えなかった。
「…俺が都へ行くのを快く思っていないだけだ」
伊庭が答えると礼子は裄丈の様子を見ながら、「少し直さなくてはなりません」と羽織を脱がせた。礼子はいそいそと羽織を畳んで出直そうとしたので、
「俺は答えたのに、お前は答えないのか?何故、そんなことを聞いた?」
と問いかける。
義妹は伊庭と本山の関係を知っている。認めているのかどうかはわからないが、その胸に留めてくれているのだ。
礼子は少し目を泳がせながらようやく答えた。
「…近くで本山様のお姿をお見かけしたのです。お声がけしてお誘いしましたが、『今日は遠慮する』と。それが、ここ数日続きましたから、気になって」
「…」
伊庭は深いため息をついた。会うべきか会わざるべきか、迷いに迷って近所を彷徨く本山の様子が見てとれるようだった。
「どこで会った?」
「すぐ近所の稲荷です」
「そうか…」
伊庭も迷った。喧嘩して中途半端な気持ちのまま戦へ行くべきか、真正面から本山と話し合うべきか…勿論後者の方が良いとわかっていても、自分の気持ちは曲げられそうにない。互いに靄を抱えたままでも、一度距離を取った方が良いのではないのか。
すると礼子は伊庭の表情を伺いながら、
「…お兄様がお会いになろうとそうでなかろうとどちらでも構いません。ただ、わたくしはお兄様の幸せを願っていますよ」
と、淡々と言った。けれどそれは唐突で意外な言葉で、伊庭は目を見開いた。そこにいたのは礼子に間違いないのだがその横顔はいつの間にかすっかり大人びていた。
(気持ちが落ち着いたのだろうか…)
年頃なのだから叶わぬ恋にいつまでも熱中しているわけではないのかもしれない。
けれどその話を掘り下げるのは気が進まなくて、伊庭は礼子に「ありがとう」と一言声をかけた後、すぐに家を出た。そして思いつく限り一番近く親しい稲荷へと足を向けた。信仰を失い人気のないその稲荷は子どもの頃によく遊んだ場所だったが、最近は素通りするだけで手を合わせていない。
伊庭が手入れが行き届かず蔓の這う鳥居をくぐり参道を歩いて先へ進むと、狛犬の辺りで無造作に腰を下ろして項垂れる本山の姿をみつけた。考え事をしているようで伊庭に気が付いていない。
「…小太」
「!」
伊庭に気がついて本山は慌てて立ち上がった。
「は、八郎?どうしてここに…」
「礼子が教えてくれた。何度もお前を見かけたってな」
「そ…そうか。礼子さんが…そうか…」
本山は恥ずかしそうに頭を掻いたあと、少し視線を逸らして言い淀んだ。何か言いたいことがあるのだろうが、突然のことに言葉が出てこないのだろう。
見かねて伊庭が口を開いた。
「この間のことなら、俺は謝らないから」
「…八郎…」
「全部、本気だ。幕臣として都へ向かうのも、徳川家がどうなろうとその気持ちが揺らがないことも…それから、それを理解してくれないならお前と別れると言ったことも、何一つ嘘はない」
「…」
本山は眉間に皺を寄せた。伊庭は一歩彼に近づいて目を合わせ、対峙する。
「小太、お前の言いたいことは?」
「…俺は…」
本山は何かを言いかけて、やはり迷って飲み込んだ。そんな曖昧な態度が伊庭の気に触って、彼の胸ぐらを掴んで揺らす。
「言いたいことがあるなら言えよ」
「…お前は言わなくてもわかっているだろう?」
「何が?言わなきゃわかんねぇよ。お前の気持ちなんて」
伊庭が敢えて嗾けると本山の目の色が変わった。そして彼は苛立ったようにようやく口を開いた。
「だったら言う。…長州一国に負けた徳川は、上様が政権を返上して大混乱、都では戦が起きて江戸も薩摩のせいで治安が悪い。権威を失って今度こそ負けるかもしれない。…でもお前は幕府なんてなくなったのに幕臣として行かなきゃならねぇ、行くしかないと言う」
「当たり前だ」
「俺は…お前を危険な目に遭わせたくないから、引き止めたい」
本山は胸ぐらをつかんだ伊庭の手を引いて、強く抱きしめた。その腕の強さから彼の感情が流れ込んでくるようだ。
(知っていた)
本山の言う通り伊庭は彼が何を思っているのかわかっていた。幕府だとか徳川だとか、そんなことは二人の間には関係がない。ただ、この愛おしい存在から離れられないだけで、そこには何の矜持も必要ない。
本山はただ、恋人として伊庭に行ってほしくないだけだ。
「…っ、離せ!」
伊庭は胸板を押すが、本山の恵まれた体躯には及ばない。本山は眉を顰めて拒んだ。
「嫌だ。…八郎が言えと言うから言ったんだ。こんな過保護で子どもっぽいこと言いたくはなかった。でもどうせお前は行ってしまう。俺を置いて、いつも危険な場所に」
「そうやって俺が死ぬと決めつけているのが気に入らねぇ。なんでいつも永久の別れになるんだよ、いつも約束通り帰ってきているだろう!」
「世の中は変わってるのに、今回も同じだって誰が保証してくれるんだよ!」
本山は怒鳴った。いつも温厚な彼が感情を昂らせて声を張り上げると、稲荷中に響いた。
(保証…?)
そんなこと今まで考えたこともなかった。
伊庭は改めて本山の胸板を押して距離を取る。
「馬鹿か。…誰も保証なんてしてくれるわけないだろう。俺は俺の意思で戦に向かい、俺の責任で生きて死ぬんだ。誰かに命の保証をしてもらいたいなんてこと想像したことすらない。神仏に祈ったこともない」
「…そうか、お前は強いな。俺はお前ほど強くはない。…お前が都へ行っているときはいつも戦場で殺されているんじゃないか、弾に当たるんじゃないか、追い詰められて腹を切っているんじゃないか…そんな悪い想像を夢のなかで何度も繰り返して、いつも冷や汗を掻いて飛び起きていた」
「そんなわけ…」
「馬鹿らしいと嗤えばいい。だが…俺はいつもそんなことを考えながらお前を待っていたんだ。お前が帰ってくれば悪夢から逃れられる…でももう耐えられそうにない、お前が傍にいないなんて…」
伊庭は初めて聞くことに唖然として言葉が紡げなかった。目の前にいる幼馴染の見たことのない切ない表情に胸が締め付けられる。最初は幼稚なことを言う本山に煩わしいと思っていた伊庭だったが、項垂れて目を伏せる本山が可哀そうになってしまった。
本山は頭では伊庭が戦へ臨むことはわかっているはずなのに、どうしても飲み込めなくて理性と感情が鬩ぎあって、息苦しくなってしまっているのではないか。彼を苦しめているのは自分だ。
(お前は…俺を、愛しすぎたんだよ)
誰にも傷つけさせないように、汚れさせないように箱入り娘のように囲いたかったのかもしれないが、伊庭はそんな場所に留まるような気性ではない。けれど伊庭はこれ以上本山を責めることはできなかった。
「…小太。俺は五体満足で、病もなく、恵まれた生活をして…苦労を重ねている歳さんたちと違う形で生きて来た。自力で手に入れた名誉も賞賛もなく、ただ、剣術ができただけ。でもそんな俺のことを信頼し仲間だと思ってくれている人たちがいるんだ。そんな俺がこの土壇場に彼らと同じ戦に行かないだなんて考えることすら恥ずかしい。ましてや戦場に行きたくても行けない人がいるのに、俺が行かないなんて考えられないんだ」
幕臣として生きて来たことだけが理由ではない。
遠くで見聞きするかつての試衛館食客たちの活躍は羨ましくもあり、誇らしくもあった。そんな彼らはいま政局に揺らぎ、荒波に飲み込まれようとしている―――いまこそ仲間の元へ駆けつけなければならない。
本山は小さくため息をついた後、頷いた。
「…わかってる。男としてお前の責任感と正義感が正しいと十分わかっている。それでも俺は…行かせたくない、いまの幸せを手放すのが惜しい。なぜだか、今そう思ってしまう。そんな自分が情けない…」
「そう言われても…俺は…」
「なあ。…お前にとって、俺の言葉は『無責任な他人の言葉』なのか…?」
『誰に何を言われようと関係ない。無責任な他人の言葉で、俺の生き方が左右されるわけがない』
伊庭はハッとした。あの夜、言い放った言葉は知らないうちに本山を傷つけていたことを知った。
(そんなつもりじゃない)
誰よりも本山を大切に思っている。生涯の伴侶だと信じているし、ずっとこの先も共に生きていくのだと思っていた。…けれどそう告げたところで、彼を置いていくことは変わらないのだから、その言葉が届かなかったということになってしまう。
(…こんな形じゃ、駄目だ…)
「…やっぱり、お前とは別れる」
「八郎…?!」
本山は驚き、咄嗟に伊庭の肩を掴んだ。その手は汗ばんでいて震えていたが、伊庭はそれを払い除けることはせずに逆に手を取って重ねた。
「嫌いになったわけじゃない。ただ…俺はお前といると泥濘に嵌るみたいにこの恋に溺れてしまいそうになる。何もかも投げ出してお前とどこかへ逃げてしまいたくなる。お前も同じなんだろう?」
「…」
「でも、その道を選んだ時に俺もお前も絶対に後悔する。そのときにお前のせいにしたくない。だから…お前と別れる」
口では別れを告げながら、身体は本山の背中に手を回して抱き着いていた。ドクンドクンと聞こえる本山の鼓動はゆっくり収まっていく。
「小太…わかってほしいとは言わない。俺の勝手だ、耐えてくれ」
「…俺はいつも、お前の勝手に振り回されるているよ…」
本山は同意はしなかった。その代わりに深いため息のような息を吐いたあとに、伊庭の首筋に噛みついて鎖骨を舐めて、そのまま手入れのされていない茂みへと傾れ込んだ。秋が過ぎようとしている肌寒い屋外で、日中からこんな真似をしているなんてどうしようもない。けれど伊庭も同じ気持ちだった。
本山は何も言わず、あちこちに噛みつくような痕を残す。数日経てば消えてしまうような頼りない印だが、伊庭にはまるで身体の奥に刻まれるような烙印のようだと思った。
(馬鹿だな、これじゃ…俺はお前を忘れられないじゃないか…)
本山すら捨てて何の心残りなく旅立ちたいのに、これでは本山と心が離れられないまま別れてしまう。けれど伊庭も本山の背中に腕を回して、彼の行為を受け入れていた。
「…いいよ、最後だと思って好きに抱けよ」
「最後なんて俺は思わない」
本山は少し睨むように伊庭を見据えた後、すぐに没頭して股の間に顔を埋めた。
「あ…あぁ…」
伊庭は喘ぎながら本山の背中に爪を立てて、これまでのことを思い返していた。
身代わりに関係をもって、一年待たせて成就したと思えば離れ離れになる時間の方が長かった。ようやく腰を据えてゆっくり過ごせると思ったら、こうやって別れることになってしまう。
(俺はお前の良い相方じゃなかったな…)
不出来な恋人をもってさぞ不安な日々を過ごしたことだろう。ずっとずっと待つばかりだったはずだ。そう思えば、本山が感情的になって伊庭を引き止めようとするのは当然なのかもしれないし、それを振り払ってでも戦に向かう自分は随分と我儘なのかもしれない。
伊庭は時折訪れる快感の波のようなものをどうにか声を殺してやり過ごす。けれど次第に耐えられなくなって手で口を塞ぐと、すぐに本山が掴んでしまった。
「…ッ、声…!」
「聞きたい」
「あ、…あぁ…こ、た…小太…!」
身体が熱い。これで別れるなんて信じられないくらい、身体の奥は互いの形に刻まれてしまったのにこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
伊庭は朦朧とした意識のなかで、自分の右手に刻まれた黒子を眺めた。
(未練はこの黒子だけで十分なのに…)
これからのことを考えると、涙が滲む。けれど別れを決めた自分が悲しむ資格などあるはずがなく、ただこの時だけはと彼を抱きしめてその感情を共有するしかなかった。
(お前の手を振りほどくことが、俺の愛情なんだ)
伊庭が目を細めて本山を見つめると彼は不意に伊庭の腕を引いて抱き寄せ、耳元で囁いた。
「必ず…生きて帰れよ」
「…ああ…」

秋の風が吹いて、葉を落としていく。儚い最後の時に美しく舞うように渦を巻いていた。