ラクリモサ


「桜が満開だな!」
空に手を伸ばし、幼馴染が嬉しそうに微笑んでいた。
空の青。
舞う薄い赤。
頬を撫でる無色の風。
誰もいないここは、幼き日の思い出の場所であり、あの日、悲しい約束をして、別れた場所でもある。
「八郎」
穏やかで、優しい声が名前を呼ぶ。手招きする彼に引き寄せられるように歩み寄った。彼の隣に立ち同じ視線に合わせると一面の桜が目の前で舞い続けていた。そこはまるで桃源郷のように美しく儚げな世界だった。
その美しい景色に圧倒されていると、不意に手のひらが重なった。少し大きな彼の指が絡まるようにして共有される。彼と手を繋いでいる。
伊庭は体温が急に上がるのがわかった。自分が一年ぶりに触れる温もりをこんなに欲しがっていたなんて、知らなかった。
「一年ぶりだな」
彼も同じことを考えていたようだ。嬉しそうに微笑む表情に喜びが溢れ出そうだった。
「小太…」
「ずっと、言いたかったんだ」
彼は桜から伊庭へ視線を移した。強いまなざしに確固たる意志が見え隠れする。
彼が言いたいこと。
彼が一年間温めていたこと。
伊庭は期待と不安の眼差しでその瞳を見た。
しかし、彼の瞳に影が差す。
「やっぱり…お前に俺は必要ないんだって、気づいたんだ」
そして伊庭の目の前が真っ暗になる。
離れていた一年間で、彼の気持ちさえも離れて行ったのだと、わかったから。
その事実がどうしようもなく悲しいことを、知ってしまったから。






伊庭はゆっくりと目を開けた。心臓はどくどくと脈打っていたけれど、この結末を夢に見るのは何度目かなので慣れているはずだ。次第に収まる。
障子の向こうから差し込む光でもう朝になったのだと分かる。誰かが忙しなく働いている音はするものの、騒がしい声はしないので遅くまで寝てしまっていたというわけではなさそうだ。
伊庭は着崩れを正して、布団から出た。冬の寒さは身に染みているが、この冷たさのお蔭で頭がすぐに冴えるので有難い。
いつまでも悪い夢に浸らなくて済む。
「…はぁ」
吐き出した息が白い。傍に置いておいた綿入れを着込んで、さっそく障子をあけた。光が差し込みさらに冷たい空気が身体中を冷やすのと同時に、目の前にある庭が白く雪をかぶっているのがわかった。
「道理で寒いはずだ」
文久四年一月。正月のあわただしさがようやく終わり、時間的な余裕が少し出てきた頃だ。
今年は雪も少なくて過ごしやすいと思っていたので、今日のように寒く感じられるのは久々だ。雪は降ることはあっても、こんな風に足跡が残るほど積もるのは何日かぶりだ。こんな日はいつも試衛館にいる居候たちと雪合戦をしたり、雪だるまをつくったり…と童心に戻り遊びまわっていたような気がするが、今年はそれはない。
彼らが旅立って、もう一年が経とうとしていた。
「二月…だったっけ」
悪所通いと同じくらいの頻度で通っていた試衛館。しかし食客の彼らが旅立ってしまった。その寂しさは最初は想像よりも堪えていたが、案外慣れてしまえば楽だった。すっかり忘れているときさえあるのだ。だから、彼らの京での活躍を耳にする度に微笑ましくも懐かしい気持ちになる。
しかしいつまで経っても胸にぽっかりと空いた穴は埋まらない。それの原因はもちろん彼らがいなくなってしまったこと、そして…彼が、傍にいないことだ。
「……」
考えないようにすればするほど、忘れないように刻み込もうとする意地悪な気持ちが生まれてくる。
伊庭は縁側に立ち尽くした。
「…長い…」
同じ時間のはずなのに、どうしてこんなに長く感じるのだろう。
離れていても平気だと思っていた。
離れていても信じていられると思っていた。
この気持ちは止まったまま、ここに在り続けるのだと思っていた。
けれど違った。
気持ちは強くなって、想いに、気持ちが、追い付いていく。
会いたい、と何度願ったのだろう。あの時の約束を何度後悔しただろう。甘やかしても良かったのだと、何度思ったことだろう。
だけど、あの時。
あの桜の下で、彼の気持ちに答えるわけにはいかなかった。答えてしまえば、同じ気持ちを返すことができない自分に怒りを覚えてしまうとわかっていたから。わかっていたから、一年間待った。彼の気持ちを確かめたかったという臆病者の言い訳。そして、自分の気持ちを見つけ出したかったという弱虫の戯言。
そしてまた冬を迎えて、次の季節を迎えようとしている。
もうわかった。
十分に、わかったから。
「早く…」
早く時間が過ぎればいい。桜の花の蕾が膨らみ、その花が満開になればいいのに。
「お兄様」
声をかけてきたのは礼子だった。縁側で呆然と立ち尽くす兄を心配したのだろう。顔が少し強張っていた。
「おはよう」
伊庭はいつもと変わりなく挨拶をする。礼子は少し安心したように、「おはようございます」と返した。
そして兄の向ける視線に目をやった。
「雪が…積もりましたね」
礼子はこの一年間で少し変わった。前は自分の感情を表に出して、何かを訴えるような顔を良くしていた。それは彼女が言葉に出さなくてもすぐにわかるほど顕著なことだった。伊庭はそれにこたえることができないのがわかっていたので、敢えて気が付かないふりをしていた。それに苛立ったこともある。
けれど、彼女はそれをしなくなった。胸に秘めた思いが変化したのか、感情を表に出すことに恥じらいを覚え始めたのか…それは彼女しかわからないことだが、伊庭が認識する範囲では大人しくなったというか、大人びたというか…女性らしくなったのだと思っている。
「朝餉の支度はもうすぐにできますから」
礼子はそういうと伊庭の元を去った。これ以上伊庭が何も話そうとしないと察したのだろう。
去っていく後姿を眺めながら、伊庭は小さくため息をついた。
季節が巡り、時は経っている。礼子が変わったように、人が変わっていく。
なのに、どうしてだろう。いつまでもここに立ち止まったまま、どこへも行けないような気がするのは。
「…小太」
…彼はいま、何をしているのだろうか。
彼も同じように一年が過ぎるのを心待ちにしてくれているのだろうか。あの時のままの気持ちを持ち続けているのだろうか。
それとも
あの夢のように、気持ちが変わって、もういらないと、このまま消えて行ってしまうのだろうか。
――あと2,3か月。そのころには桜が満開になり、すべての答えが出るはずだ。


礼子の言った通りすぐに朝餉の時間となった。家族全員が揃い、合掌し箸を手に取る。
厳かないつもの朝食の風景なのだが、今日は少し違った。
「朗報があるぞ」
と、養父である秀俊が切り出したのだ。
伊庭の実父である秀業は、隠居し門人の塀和惣太郎(秀俊)を養子にして伊庭家を継がせた。惣太郎の養子となった伊庭は連れ子である礼子らと血の繋がらない兄弟ということになる。血統という意味で、次の家督に相応しい伊庭は昔からこの養父に可愛がられていた。
「上洛が決まった」
養父が切り出したのは伊庭の予想だにしないことだった。
「は…?」
「近日中に将軍家茂候が上洛されることになった。だから、我らも警護のため同道する。詳細は今日、皆に話すつもりだ」
秀俊は嬉しそうに報告してくれたが、伊庭は頭の中が真っ白になってしまう。
安政3年の3月に、幕府の実践的軍事訓練所として講武所が開設された。有事の際は真っ先に駆り出される将軍の親衛隊を養成する場所であり、そこで剣術教授役だった秀俊は、昨年12月に剣術師範役に昇進している。その子である八郎はもちろん講武所での将来が有望される立ち位置にある。そうであるから、将軍が上洛するという一大イベントに駆り出されるのは当然と言えば当然のことなのだが。
「何だ、嬉しくないのか?」
秀俊の質問に
「いえ…光栄な、ことです」
と伊庭は無理やり笑って見せる。すると養父は安心して「そうだろう?」と言った。
「ちなみに、どれくらい…?」
「さあ、長くなれば夏までという話だが…なんだ?もしかして寂しがる女でもいるのか?」
養父のからかいに
「そんなんじゃありません」
と誤魔化した。
長くなれば夏。だとすれば早くても梅雨くらいの時期になるのだろう。そうなればもちろん満開の桜を江戸で拝むことはできないということだ。
正直言うとひどく落胆した。
一年前からしていた約束が反古になってしまう。それは何が何でも避けなければならないことだった。
(…小太に、伝えないと…)
あの約束の答えを早々に決着をつけるか、先延ばしにするか…それは会って話して決めればいい。けれど、無かったことにするのはお互いにとって良くないことに違いない。
(なんか…緊張してきた…)
ただ話をするだけ。
なのに、どうしてこんなにも鼓動が早くなるのだろう。
…きっと、それは
思っている以上に、傍にいないのに、この一年で彼の存在が大きくなった。きっとそういうことなのだ。







どんな顔をすればいいのだろう。
どんな言葉を口にすればいいのだろう。
一年前は考えもしなかったこと。傍にいるのが当たり前すぎて気が付かなかったこと。必死に思い出すけれど、思い出せない――。


伊庭は鏡の前にいた。普段は軽く自分の身だしなみを気にする程度で、ものの数秒しかそこに立っていることはないのだが、今日はもう十分以上その場所に立ち尽くしていた。
「…どうしよう」
自分の顔を見ながら、自分に相談する。しかし自分に聞いても答えは「わからない」の一択だ。
朝餉を済ませ稽古を終えて、着替えた。いつもは悩んだことがないのに、どの着物がいいのか悩んでしまい決めるのに時間がかかった。
(女々しい…)
と思いつつも、自分が緊張しているのがわかった。だから、身だしなみを整えて準備が万端になったところで足が止まってしまった。
今から本山に会いに行って、どうする?なんていえばいいのだろう。
「…久しぶり、元気だったか…?」
声に出してみると不自然な棒読みで。伊庭は思わず頭を掻いた。
この一年。正確にはまだ一年は経っていないが、もちろん約束通り本山と一度も言葉を交わしたことはない。しかし狭い江戸であるので姿を見かけることは何度もあった。何度、胸が張り裂けそうになって、約束を破って声をかけてしまいたい衝動に駆られたかわからない。
だけど、そうしなかったのは、彼も耐えているのだと信じていたからだ。この苦しさを、この痛みを、この重みに耐える。それが今やるべきことだと思ったから。
一年前。揺らいでいた気持ちは、確実にその輪郭を為し、彼への想いに同じになったように思う。だから早くこの気持ちを分かち合いたい。
「…よし」
準備する言葉なんてない。
きっと彼に会えば、彼の顔を見れば自然と溢れてくるはずだから。

「お兄様、お出かけですか?」
草履を履いていたところで礼子と出くわした。伊庭が顔を見上げると余所行きの着物に身を包んだ礼子が居た。
「ああ。…お前も?」
「はい。お兄様はお夕飯までには戻られますか?」
日が沈むまでは時間があるが、本山と話し込めば時間がかかるかもしれない。帰りの時間に縛られるのも嫌だったので
「いや、今日は遅くなる」
と答えた。すると礼子は「そうですか」と言った後少し考え込んで
「では、お兄様。この先までご一緒しても良いですか?」
と申し出た。

伊庭は礼子と並んで家を出た。一月に入り冷え込んでいたが今日のように雪が積もるように降るのは久々だ。着込んでいても顔を撫でる風は氷のように冷たい。しかし空気が乾燥し空気が澄みきっていて、雪の白が鮮やかだった。道には子供らが作ったであろう雪だるまや遊んだあとが残っていて懐かしい風景に見えた。
「昔は、雪だるまを作りましたね」
礼子も同じように思っていたのだろう、微笑んでいた。
「ああ…そうだったかな」
「ええ、こんなにたくさん雪が積もってなかった時に、わたくしが無理矢理お兄様にせがんで…結局泥まみれの雪だるまになってしまいました」
微かに残る記憶に、たしかに茶色の土と雪の白が混じった雪だるまを作ってやった気がする。あの時はお互いが友達のような兄弟のような不思議な感覚を持っていた。
礼子はくすくす笑って、しかし次第にその声を潜めた。
「…ずっと…お兄様に聞きたいことがありました」
重々しく礼子が切り出した。こっちが本題のようだ、と伊庭は構えた。
「本山様とは…何かあったのですか?」
「……」
一年前までは二日とあけず本山と会っていた。幼馴染であるし、親友である二人がそうしているのは周囲にとっても当たり前だった。
そして一年前、それが急に途絶えた。
そのことについて誰も何も言わなかった。大きな喧嘩でもしたのか、疎遠になってしまったのか…頑なに口を聞こうとしない二人を心配する家族もいた。しかし真実を告げるわけにもいかず「なんでもない」と繰り返すしかなかった。そして礼子は今日までは何も聞かなかった。
礼子の目がまっすぐ伊庭を見つめていた。
「わたくしにはよくわからないことですが……将軍様のご上洛に合わせたお仕事であれば、なかなか江戸へ戻ってくるのもままならないと父に聞きました。戦があれば親衛隊として詰めることになるだろうということも昔から聞かされています。だから…」
礼子は言葉を詰まらせて、そして伊庭の袖を掴んだ。透き通るほどに白く細い手だった。
「本山様と仲直りされたほうが良いのではないでしょうか。わたくしが口出しをしてはならないのだと思っておりましたが…お兄様はとても寂しそうです。この一年、ずっと…」
平気なふりをしていても、昔から伊庭のことを見ている礼子には通用しなかったようだ。もちろん彼女のただのお節介ではないことはわかっている。その目は本気で伊庭のことを案じていた。
「…小太とは、喧嘩をしてるんじゃないんだ」
いつものように「なんでもない」と言って誤魔化すのは簡単だけれども、真摯なまなざしを向ける礼子にそういいかえすことはできなかった。
「そう…なのですか?」
「ただ…いまは距離を置いてる。それだけだよ」
喧嘩をしているわけではないのに距離を置いている。その回答に礼子は眉を顰めて、あまり納得した顔をしなかった。
「…わたくしは、お兄様が好きです」
「……」
「だからあまり…悲しい顔は見たくないのです」
礼子は掴んでいた伊庭の袖を離すと、駆け足で前へ走っていく。雪の中を滑るのでは、と伊庭は思ったが礼子は角へ曲がりその姿を消してしまった。
一年という時間で、礼子の気持ちは変わっていなかったようだ。それを顔に出すのをやめて心に秘めていただけでその想いは相変わらず伊庭へと向いているらしい。
変わらないものもある。
変わるものもある。
彼の気持ちはどうだろうか。
胸に秘めた熱い想いを、絶やすことなく持ち続けてくれているのだろうか。


礼子が走り去ってから、伊庭は遠回りして本山の家へ向かった。本当はまっすぐ本山の家に向かうつもりだったが、礼子の言葉で出鼻を挫かれたような気持になり、整理をつけたくて遠回りをした。それに彼の答えを聞きたいような、聞きたくないような…そんな気持ちになっていた。一年間、本山のいない日々に耐えることができたのは彼が同じ気持ちを持ってくれていると信じていたからだ。
しかし、もしあの夢のように「いらない」のだと拒絶されてしまったら…と思うとどうしても本山の家から足が遠のいてしまう。答えは彼に聞いてみればいいのだと分かっているのに立ち止まってしまう。
だが、このまま何も言わず上洛をしてしまうと約束を反古したことになってしまう。それは伊庭から本山を拒絶したことになる、それだけは嫌だった。
「…情けない…よな」
勇気のない自分を奮い立たせて、伊庭はまた本山の家へ向かう。雪で足の裏が冷たかったけれどもそれを全く感じなかった。

伊庭は本山の家にたどり着いた。久々に見るそれは全く一年前と変わっていなくて伊庭は少し安堵した。深く息を吸い込んで吐き出す。吐き出した息は真っ白な吐息だった。伊庭は門の前に立ったものの、すぐに物陰に隠れた。
「よう…久しぶり」
そして声に出して練習をする。傍から見たら滑稽なことだけれど、声が震えていてやっぱり緊張しているのだと分かった。手が震えているのも寒さの為じゃなくて本当は緊張しているからかもしれない。心臓がどくどくと脈打つ。静まれ、静まれと思えば思うほどに、早さを増す。
その時、キィと音が鳴り、伊庭は驚きのあまり息をのんだ。物陰からこっそりと覗くとどうやら本山の家の門が開いたらしい。
(小太…?)
期待のような不安のような…いろんな感情が渦巻く中見ると、思った通り門からは本山が出てきた。
「あ…」
もちろん本山は伊庭には気が付いていない。物陰の伊庭からは彼の横顔が見えた。精悍な顔立ちは一年前と変わらないものの、少し大人びた気がする。それは彼がそうなったということなのか、久々に顔を見たからなのか…。
伊庭がそんなことを考えていると、本山の隣にもう一人いたことに気が付いた。
「え…?」
伊庭は目を見張った。隣にいたのは礼子だった。








君がいないというだけで、息苦しい、生き苦しい、もどかしい、狂おしい。



目の前の色はただ薄紅色だった。
風に乗ってまるで遊ぶように舞う桜の花びらが、優しく流れていく。その光景を見て本山はようやく「春が来たのだ」とわかった。
幼き日に集い、遊び、そしてあの日、約束を交わしたこの場所は見渡す限りに薄紅色。桜は満開だった。
空の青。
舞う薄い赤。
頬を撫でる無色の風。
そして何かを掴むようにして、手を伸ばす幼馴染がいた。嬉しそうに舞う花びらを手で追っている。後ろ姿でもわかる彼のことを、ずっと想っていた。夢に見るほど、想っていた。
好きで居続けた。
この日を待ち続けた。
そして、その彼が振り向いた。
「綺麗だな」
彼は天に伸ばした手を本山に差し出した。手のひらを開けてみせると、そこには一枚の桜の花びらがあった。
そうだ。
ずっと掴みたかった。お前の手を、ずっと、掴んでいたかった。
「八郎…」
本山は呼んだ。しかし彼は答えなかった。そして手のひらにあった花びらをまた風の中に戻した。
掴んだ花びらが、飛んでいく。それは二度とその手のひらに戻ってくることはない。
永遠の別れ。
「お前と幼馴染に戻りたい」
拒絶の言葉が聞こえた。それはどこかで聞いたことのある言葉で、それでやっとこれが夢だと分かった。


「…くそ」
本山は目を開けた途端舌打ちした。寝ぼける暇も与えないほど、その夢は何度も見たことがあるものだった。同じ夢を何度も見るということは、心の奥底でそうなることを予期しているからなのだろうか。もしそうならば、ほとほと自分が情けない。
本山は無理やり身体を起こした。普段は二度寝三度寝…と自分を甘やかすのだが、こんな夢を見た日には早く起きるようにしている。また寝ても同じような夢を見てしまう気がして。そしてそれはとても悔しいような気がするからだ。
一年間。
「お前とは会わない」
幼馴染が言い出したその約束は、本当に守られている。あの日から言葉を交わしてはない。
どんな表情で笑い、怒り、喜ぶのか、もう一年も知らない。
だから不安になる。
お前が、俺のことを好きになってくれたのかどうか。
わからない。だから確かめたくなる。
でも立ち止まる。春が、まだ来ないから――。

庭に雪が積もっていた。
だが、庭というほど立派なものではない。昔は意匠を凝らしていたような大きな庭石やそれっぽい松があるが、今ではただの残骸だ。誰も手入れをしないので普段は雑草に覆われ無残な姿となっている。しかし雪が積もればそれらは消え、堂々たる様子で庭石がその姿を半分のぞかせている。松に雪が被さり、今にも落ちそうになっているのも趣があるといえばあるのだろう。
本山は縁側に立ち、両手を組んでそれを眺めていた。冬の寒さは久々に厳しく、こうしていると裸足の足先から冷たさが伝わってくる。氷水を被ったかのような寒さはどこか自分を苛立たせる。
昔から雪はあまり好きではなかった。寒いよりも暑い方がましで、季節も冬より夏が良い。駆け回って遊びまわって汗だくになって水を浴びる。そのほうが自分の性に合っている気がするのだ。
だが、今、こんな風に恨めしく雪を眺めているのはその理由ではない。
「…早く、解けろよな」
声をかけたって意味はない。わかっているけど、ここ最近はそんなことばかり独り言にしてしまう。
雪が解ければ春がやってくる。寒さに耐えながら梅が咲き人々に春の訪れを告げ、そして人々の顔がほころぶ桜が満開になる。
そうすれば、一年間抱えたこの疼きや痛みや傷跡が癒される。そう信じている。

「ごめんください」
本山が雪に毒づいている所に、女の声がした。どこかで聞いたことがある声だと思いつつ、本山は玄関へ向かった。寝間着のままだったので取り急ぎ羽織を覆った。
「ごめんくださいませ」
なかなか家人が出て来ないためか、不安げにもう一度呼ぶ女に「はいはい」と本山は返事しつつたどり着く。
すると、そこにいたのは若い女だった。大人しい柄の着物を身に纏っているが、少し赤く上気した頬が幼く見える。既視感を覚えたが、それが誰なのか本山はなかなか思い出せない。しかし女が
「お久しぶりです、本山様」
と言ったのを聞いて初めて分かった。
「あ、礼子さん…」
「はい。ご無沙汰しておりました、お元気でしたか?」
一年前に話をした時のあどけなさが少し影をひそめ、上品で大人っぽい印象が彼女が礼子だと気づくのが遅れた原因だ。本山は頭を掻いた。
「綺麗になったからわからなかった。どうぞ、上がってください」
「いえ、ここで結構です。…ご迷惑だとは思いながら、少しお話したいことがあって参りました」
礼子は長居するつもりがないのだろう、と思い本山はその場で話を聞くことにした。
「兄には内緒なのです」
まず彼女はそう切り出して、本山も礼子が言いたいことが彼女の兄…幼馴染のことだ、とすぐに分かった。
「何か…?」
「…兄と仲直りをしていただきたいのです」
「え?」
大人っぽくなったな、と感心していた彼女がそんな子供っぽい言い方をするとは思わず、本山は思わず聞き返していた。しかし礼子の方は真摯なままで、
「余計なお節介だというのは百も承知です。でも…わたくしもこの一年ほど、このお節介焼きをどうにか諌めておりました。兄が望んでいらっしゃらないことをわたくしが勝手をしては返ってお二人の仲が冷え込んでしまうのではと。…けれど、もう時がないのです」
「時が…ない?」
彼女の言い方では何か良くないことが起きるかのように聞こえる。本山は嫌な予感がして問うた。しかし彼女は首を横に振った。
「…わたくしの口からは…言えませぬ。ただ、兄がもし本山様に会いに来たら…その時は、許してやってくださいませんか」
「……」
もともと彼とは喧嘩をしているわけではないので許す、許さないの話ではない。しかし傍から見れば彼女のように喧嘩別れをしていると見えるのだろう。実際、本山家の家人たちも「伊庭の坊ちゃんとは喧嘩でもしたのか」と当初はそわそわしていた。
けれどあの約束を誰かに漏らすわけにもいかず、本山は何も言わなかった。きっと彼もそうしているだろうと思ったからで、礼子の様子を見る限りそれは当たっているようだ。
「…俺は、八郎と喧嘩しているわけじゃないんだ」
「それは…兄も言っておりました。ただ、距離を置いているのだと…」
今にも泣きそうな顔をしている彼女は、一年前までは彼のことが好きだった。血の繋がらない兄への想いを止められず、そして幼馴染もまた苦悩していた。…今の彼女がどういう気持ちを持っているかはわからない。思いは昇華されたのかもしれないし、いまだその灯をともし続けているのかもしれない。そしてそんな彼女の想いを汲んでやることは本山にはできない。それは彼女以上に、自分の方が彼を想っているからだ。
「…わかった。あいつがここにきたら…仲直り、する」
彼に会うとき。それはどちらにせよあの約束の最後の日なのだ。
「ありがとうございます」
礼子は小さく頭を下げてそして安堵したように微笑んだ。彼女の兄への想いが溢れた表情だった。












君といた季節をもう一度迎えたかった。


隣の部屋から笑い声が聞こえる。漏れ聞こえるそれは酷く楽しそうで、ちょっとだけ羨ましい。そして違う方向からは三味線と美しい女の歌声。リズミカルな手拍子が鳴りそういえばここは花街だったのだと今更ながら気が付いた。それを今まで気が付かなかったのは、花魁に会いに来たわけではなく、この小稲という女に会いにきたからなのだろう。
周囲の騒がしさとは打って変わって、この部屋にだけは静寂がある。楽しげな音楽も、旨い料理も、酔いつぶれる酒もない。ただ、小稲という女が傍にいる。膝を枕に借りて伊庭は目を閉じていた。
「…寒く、なりましたねえ」
柔らかくゆっくりとした声色が今の伊庭にはちょうどいい。そして特に相槌を打たなくても文句を言わない小稲が良い。
「もう雪が解けて……春が来ますねえ」
春。
桜の咲く季節。
ずっと待ち焦がれていた時。
「…そうだな」
結局、幼馴染と礼子が二人でいる姿を見て、逃げるように立ち去った。伝えたかったこととか、練習した台詞なんて吹き飛んでしまい代わりにまっすぐにここにきた。それがどうしてかはわからないが、結局はこの小稲の温かさに頼りたかったのだろう。
小稲とはこの一年定期的に顔を合わせていた。それは男女の仲というよりも友人に近い間柄だ。伊庭が何も言わなければ小稲は何も訊ねない。肌を合わせることもしない。小稲へ特別な感情を抱いたとすればそれはあの約束が無くなる時だとわかっていたからだ。もちろん小稲はそんな約束なんて知る由もないが、しかしすべてを知っているかのようにいつでも伊庭を暖かく包み込んでくれた。
「そういえば…八郎さん。京へ行くとか」
「ああ…うん」
そういえば、と切り出したのは彼女の強がりだろう、と伊庭は思った。本当はそのことが聞きたくて仕方ないのを、我慢していたのだ。しかし彼女はそんな素振りは見せない。
「どれくらい?」
「…半年、かな」
「それは寂しくなりんすねえ…」
彼女はあっさりとそういったが、顔は少し歪んでいた。寂しい、というのがお世辞ではない証拠だ。
「土産を買ってくる。何がいい?」
「…元気な八郎さん」
「そうか…じゃあ、簪にする」
それはいまが元気じゃない、ということなのだろうか。これ以上追及されるのが嫌で、伊庭はまた目を閉じた。
目を閉じると、先ほどの光景が浮かんでくる。
礼子と肩を並べていた幼馴染。見えたのは一瞬だったので何をしているのかはわからなかった。
けれどそれを見ただけで走り去ってしまったのは、二人が会っていたというショックのせいではない。ましてや礼子への嫌悪でもない。
二人が並んでいる姿がごく自然だと思ってしまったからだ。
年頃の男女が言葉を交わしている姿が、まるでお似合いだと思ってしまったからだ。
(…あれでいいんだ…)
一年間縛り続けた約束。けれど、たとえ結ばれたとしてもその先には何もない。家庭を持つことも子を為すこともない。それはつまり彼の未来を奪うということではないのか。お互いがお互いを好きになるということはその先に未来が何もないということではないのだろうか。
もちろん形ばかりの嫁を娶ったり、妾を持ったりすればいい。愛すことができなくとも、子孫を残すことはできるだろう。
けれど、それを、自分自身が許せそうにないのだ。自分自身がそうなることも、そして彼がそうすることも許せそうにない。相手が自分だけを見ていてほしいという独占欲がきっと生まれてきてしまうと思う。それはこの一年間で生まれた新たな感情だ。
(一年前に…気が付けば良かったのに…)
だったら、あの約束はもう忘れたほうがいいに決まっている。己どころか相手までもを縛ってしまう。
「本山さん」
小稲が急にその名を口にして、伊庭はカッと目を見開いた。
「もう一年近く、ご一緒じゃないとか…?」
「…あ…ああ…」
今日は厄日か、と呪ってしまいそうになった。礼子だけならまだしも小稲までもがそのことに触れてくるとは思わなかった。
「喧嘩でも?」
「…喧嘩じゃない。距離を置いているだけ」
「八郎さん」
それまで優しげだった声色が、急に諌めるように強い言葉になった。伊庭は思わず小稲の顔を見る。しかし、少し霞んでいた。
「泣いてることに、気が付いて」
彼女の細い指が伊庭の目尻をなぞった。それで初めて気が付いた。彼女の顔が霞んで見えた原因がわかった。
「……どうしてかな」
一年前。
薄紅色の花びらが舞う、あの場所で。
最後に別れたあの気持ちを、一年間ずっと、引き摺っていた。
あのぬくもりを思い出していた。
一日、また一日と彼と過ごす時間が無くなって、離れていくのに、気持ちだけは増すばかりで。想いは、募るばかりで。
どうしようもなく、一年後が待ち遠しかった。待ち焦がれていた。
なのに。
それなのに。
「とても…怖かったんだ」
傍にいたいと思っていたのに、いざ、目の前にして、二人の姿を見て、急に足が竦んだ。彼の隣にいるほど、相応しい人間なのかがわからなくて。そして、彼の気持ちが変わっていないはずだと信じていた気持ちが、揺らいだ。
一年間で、彼も気が付いたはずだ。お互いがお互いを想っていたって、一生一番でいられるわけない。
…だったらいっそ、あの約束をなかったことにしたほうがいい。
「…そう」
小稲は優しく伊庭の頭を撫でた。まるで子供をあやすように。
「もう…苦しいのは、止める?」
伊庭はその問いかけに答えることができない。
約束を無かったことにすれば、また幼馴染に戻れるのだろうか。彼への熱量を無くすことができるのだろうか。
伊庭は首を横に振った。
できない。
できるはずない。
このやり場のない気持ちだけが一生残って、きっと誰も好きになれないままに終わっていくのだ。
いっそ
君を嫌いになれたら、いいのに。
こんな気持ちに気づかなければ良かったのに。
あのときに、幼馴染に戻っていれば良かったのに。
一年間かけて芽生えたこの感情を、いったいどこへやればいいのだろう。
……いまはただ、涙になって流れていくのを願うばかりだ。



夜の雪道を、本山は歩いていた。夕餉を食べて普段なら寝る時間からの外出だったので家人は驚いたが、構うことなく家を出た。
礼子から話を聞いてからずっと放心状態だった。この一年間、幼馴染の話題からは目を逸らし続けたし、できるだけ関わらないようにしてきた。それは自分が苦しいから。約束を破って彼に会いたくなってしまうから。
しかし、時がないという礼子の言葉が一番引っかかった。彼女の言い方だとまるで二度と会えないように聞こえて、心が逸った。二度と会えなくなって後悔するくらいなら、いっそ約束を破って彼に怒られる方がましだ。そう結論を出してだから、家を飛び出したのだ。
提灯を片手に彼の家を目指した。そう遠くは離れていないものの、焦る気持ちからか距離を感じた。
「でも……なんて言ったらいいんだ?」
一年ぶりに会う片思いの相手。そもそも会ってくれるかどうかはわからない。「よう、元気か」なんて軽くいったら張り倒されそうだ。
「…それも、悪くないかな」
もちろん変な趣味があるわけではないが、彼にそういって怒られるのも良い気がする。
そういえば、どうして彼のことを好きになったのだろう。
お互いがお互いのことを一番の親友だと思っていて、別にそれ以上を求めてはいなかった。息の合った漫才みたいな友情はいつまでも続くと思った。
「…そうか」
しかし、それがある日、続かないような気がした。それは彼が試衛館に通い始めた頃だ。「気の合う仲間がいる」と嬉しそうに話す彼を見て、何だか変な気持ちなったのを覚えている。そして、それが嫉妬だと気が付くのにはそう時間はかからなかった。
笑うのも
喜ぶのも
怒るのも
泣くのも
すべて俺の為だけにすればいいのに。
そんな風に思ってしまった時点で、自分は彼にすっかりハマっているのだと気が付いた。
だからこの一年は酷く長かった。けれど、信じていた。だからこそ待ち続けることができた。
「ちょっと前倒しだけど…いいよな」
語りかけるような独り言を言う。それは彼に向けたものなのか、自分に向けたものなのか…それは自分でもよくわからなかった。

「本山様っ?」
家に着いて出迎えてくれた礼子は、思った以上に驚いた顔をしていた。いや、むしろ戸惑った顔というほうが正しいのかもしれない。
「夜分遅くにすみません。…あの、八郎は?」
「お兄様は…」
礼子は少し視線を落とした。
「何かあったんですか?!」
思った以上に大声を上げてしまい、本山は「すみません」とすぐに謝る。しかし礼子は戸惑った表情を解かない。
「あの…夕飯には戻ると言っていたのですが…その、今夜は戻らないと小者が伝えに来て…」
「え…?」
「その…花街の方へ。帰りは朝になるとのことです」
礼子は「わざわざ来ていただいたのに申し訳ありません」と仰々しく頭を下げた。しかし本山はそれにうまく反応できなかった。
花街?
朝帰り?
…きっと馴染みの小稲の所だろう。けれど、小稲への特別な感情はないと言っていた。だから、朝帰りをすることなんてなかったはず…。
いや。
それはいったい、いつの話だろう。もう、一年も前の話じゃないか。
「そう…ですか」
本山は自分が礼子に何と言って帰ったのかよくわからない。
ただ、重い足取りで引き返した。






朝に帰ると家には伝えたものの、小稲の所でずっとべそを掻きつづけるわけにもいかず、伊庭は早々に帰路に就くことにした。もっとも小稲はそんなことは気にしないだろうが、男の沽券に関わる、と冗談めかして言うと、何故か彼女は酷くもの寂しげな顔をした。そして小さく答えた。
「…惚れるというのは、あちきは一生に一度だと思うてます。それはどんなに罪深いことであっても、どんな悲しいことがあっても…ずうと、ここに在り続けて痛み続ける。癒すことはできなくて消すことはできなくて…ずっと苦しいままで。どうしてこんな感情を持ってしまったのかと後悔することもある…一生に一度の、気持ち」
「小稲…」
「だからあちきが惚れたというのはおひとりだけ。…実ることが無くても、他の方に落籍されたとしても…ずっと、ひとりだけ」
小稲は伊庭の目をじっと見た。小稲が思う相手が誰なのか…そんなことは伊庭はとっくの昔に知っている。そしてそれが実らないことも一番知っている。
「…八郎さんも、きっと同じ」
悲しげに笑った彼女も、また想う人がいて報われない想いを抱えている。伊庭は何かを振り切るように、家路についた。

重い足取りで家に戻ると、礼子が驚いたように出迎えた。お早い帰還だとそんなに驚くのかと伊庭はそんなことを思ったが彼女は思わぬことを口にした。
「あの…っ、いま、本山様が…!」
「え…」
礼子が外を指さす。伊庭は反射的に外に飛び出た。門を出て、左右を見渡す。しかし、夜遅いので明かりもなく人の姿を探すことは難しい。冷たい夜風が吹いているのみだ。伊庭が呆然としていると、礼子も慌てて伊庭の後を追ってきた。
「…先ほどいらっしゃって…すぐに、帰られてしまって…」
「そう…か」
伊庭ははっと我に返った。
そうだ、追いかける必要なんてない。あの約束を…破ろうと決心したばかりではないか。いま追いかけたって合わせる顔がない。
「…戻ろう」
「でも」
「いいから」
なおも心配そうな顔の礼子の背中を押して、伊庭は玄関の戸を閉めた。
痛い。
何かが、痛い。
そうか。
これが、これから在りつづける痛みか。
「…礼子」
「はい…?」
「俺には…惚れてる人がいる。この気持ちは、ずっと…変わらないと思う」
どうしてこんなことを急に礼子に言いたくなったのかわからない。もしかしたら伊庭の思う相手が誰なのか…わかってしまうかもしれないのに。
礼子は最初目を見開いて、しかし穏やかな顔をした。
「…知っています。でもわたくしも同じなのです。変わらない、変えられない気持ちが…ずうと、ここに」
「苦しめることしかない」
「それでもここに在る限りは…わたくしの本当の気持ちなのです」
だから、誰にも邪魔はさせない。
だから、誰にも否定はさせない。
礼子の強い決意を感じ、伊庭は苦笑した。
「まったく…強情だな…」
「お兄様も一緒です。…兄妹ですから」
「そうだな…兄妹だな…」
血を分けていない兄妹だとしても、同じ暮らしをすれば似てくるのかもしれない。報われない想いを、意地のように持ち続ける覚悟を彼女もしているのだろう。





数日後。父秀俊は奥詰として、伊庭自身は講武所の剣術方として上洛する日となった。準備に慌ただしく走り回る家人をよそに伊庭はこっそり家を出た。将軍警護としての上洛。京都は治安が悪いというし、もしかしたらここには戻って来られない可能性もある。そんな最後の日だからこそ、伊庭には行っておきたい場所があった。
まだ一月、これからさらに寒くなる季節になる。こんな日の登山などいつもなら絶対しない。畦道をあやふやな記憶のまま登り続け、思った以上に時間がかかったものの、ようやくたどり着いた。
「さすがに…まだ、咲いてないか」
淡い期待はしていたが、桜の木は蕾さえもまだつけていない枯れ木の状態だった。
一年前と比べてすこし廃れたようだがここはあの日の約束の場所。幼いころの秘密基地だ。廃屋となった山小屋も変わらずにある。取り囲むようにして生い茂る桜の木たちも全く変わることなくあり、ここがいまだ誰にも知られていない場所なのだと思うと、少しほっとした。
ここは二人だけの場所にしたい。たとえ、彼が忘れてしまってもこの場所だけはずっとこのままで在ってほしい。
「…八郎?」
幻聴だと思った。あの日の約束のように名前を呼ばれることなんて、もう二度とないと思っていた。
「え…」
しかし、廃れた山小屋から顔を覗かせたのは本山だった。彼を、その姿を、その声を聞いた途端に伊庭は足が竦んだ。
(なんで…ここに…っ)
二度と会うことはできないと思っていたのに、まさかこの場所で会うなんて思わなかった。意地悪のような運命を呪い、伊庭は竦んだ足をどうにか動かして踵を返した。
「おいっ!」
背を向けた伊庭を本山が追ってくる。
「待てって…っ!」
「…っ!」
彼のほうが早く追い付いて、腕を掴まれた。強い力だった。
「離せって…!」
「少しだけ…っ、話しをさせてくれ」
久々に会う彼の声。耳を撫でるその声をずっと聴きたかった。
触れ合う彼の手のひら。そのぬくもりをずっと探していた。
伊庭は彼に背を向けたまま足を止めた。逃げようとする気持ちをどうにか堪えた。
「お前…将軍の警護で上洛……するんだよな」
将軍上洛の話は江戸中で知らされていたので、本山が知っているのは当然だ。幕臣である伊庭がそれに同道するのも容易に想像できることだろう。伊庭は頷いた。
「だったら…春は、こっちじゃ難しいよな」
彼が何を言いたいのか、伊庭にはわかった。あの約束の期限の日に一緒にはいられない。そう言うことを言いたいのだ。
「…だったら…なに」
わざと冷たい言い方をした。まるで約束なんて覚えていない。そんな風に、思ってもらいたかった。
酷い奴だと思って、罵ってくれる方がましだと思った。
「お前…」
彼の手のひらに強く握られる。その痛みは、彼の怒りなのだろうか。あの約束を忘れてしまったのか、と糾弾するだろうか。しかし、彼は酷く寂しげに続けた。
「…俺、言ったよな…」
「何を…」
「一年間で…俺のことを好きになれなかったら、ちゃんと言ってくれって…」
『いいよ…お前がそう決めたなら、俺は待つよ。でも…もし一年経っても、俺のことを好きだと思えなかったら…その時は、ちゃんと言ってくれ』
一年前の彼の言葉が蘇った。そうだ、ちゃんと言わなければならない。
お前のことを好きじゃない。
お前のことを好きになれなかった。
そういう、嘘を付く痛みを。
「俺は…」
唇が震える。寒さなんかじゃない。だってこれは、彼を傷つける刃となる言葉だから。
「お前を…」
「俺はお前が誰を好きになっても……お前が好きだよ」
言いかけた言葉が消えてしまった。頭が真っ白になった。
「一年間…お前のことしか考えられなかった。ずっと声が聴きたくて、お前に会いたくて仕方なかった」
「…っ」
もうこれ以上何も言わないでくれ。
「早く春が来ればいいって思ってた。そうしたら…お前のことを、抱きしめられる」
お前が何かを言うたびに
「かわらない」
嘘がつけなくなる。お前のことが好きじゃない、なんて、言えなくなる。
「俺は、お前のことが好きだ」
言えなくなる。
何も、言えなくなる。
目の前が霞む。いつの間にか弱くなった涙腺が、何かを必死に訴えている。
「あ…でもそうか…」
本山が急に戸惑ったように言葉を止めた。
「お前は…小稲と良い仲になったんだっけ…?」
「え…?」
「うん、だったら…もう、お前に答えを聞くまでもないのか…」
本山が掴んだ伊庭の手を、離した。
ぽっかり空いた。
あの日。
約束をしたあの日も、ぽっかり空いた。お前が居なくなる一年間を想像して、ぽっかりと、穴が、開いた。こんな風に開いたまま、この先一生過ごしていくのだろうか。一年という期間限定だったからこそ我慢できたこの痛みを、一生抱えていくなんてできるのだろうか。
「ごめん、忘れてくれ」
何を忘れればいい?好きだといった言葉を?お前を好きになろうとした約束を?…お前のことを?
そんなことできない。
「八郎…?」
背中を向けたままの伊庭に、本山が呼んだ。
「…っ、ごめん……」
「ん…?」
小さな声で謝る。聞こえなかったのか、確かめたかったのか、本山が聞き直した。
「八郎。こっち、向いて」
本山が伊庭の肩を掴んだ。伊庭は抵抗することなく彼と正面に向き合った。
「ごめん…」
「うん…もう、いいって。時間は掛かるかもしれないけど、幼馴染に戻るんだろう?」
本山が穏やかにそういった。本当は悲しいはずなのに、いつだってそうやって優しく見透かしてくれる。傷つけないように、大切に。
「俺は…っ、お前の、足枷になりたくない」
彼の裾をぎゅっと握った。
「男同士なんて…いつかは、後悔する。お前はいまは良くても、嫁が居て、子が居て…そのほうがいいって思うかもしれない。でも俺はそれを許せない…お前が、別の誰かを…傍に置くのを、きっと許せない…」
ああ。たぶんきっと。
この一年。
俺はお前のことを好きになりすぎた気がする。
「ごめん…お前の未来を縛ってしまうかもしれない…けど、俺は……お前が、好きなんだ…」
もう、引き返せない。いくら理由をつくって、いくら駄目だと言い聞かせて、いくら諦めようとしても、いつだってその気持ちが、好きだという気持ちに負ける。
結局
この数日。ぐるぐる悩んで、後悔して、諦めて、泣いても。
それはすべて言い訳に過ぎなかった。お前から答えを聞くのが怖くて、逃げるための口実に過ぎなかったんだ。
お前のことが好きだという気持ちは、誤魔化しがきかない、嘘がつけないんだ。
「八郎…」
本山の少し震えた声がした。俯いたままの伊庭は彼がどんな顔をしているのかわからない。しかし繋がれたままの腕を強く引き寄せられ、彼に抱きしめられた時に感じたのはずっと欲しかったぬくもりだった。
「未来のことなんて…知らない。わからない。ただ…今は、お前が好きだ。俺だって、他の誰にもお前のことを渡したくない。だから、きっと…俺もお前を縛る。だから…お互い様だ」
抱きしめられた胸から、鼓動が聞こえる。ドクドクと早いリズムが彼も酷く緊張しているのだと教えてくれて、伊庭は安堵した。
彼も同じ気持ちでいてくれている。それを知って、嬉しい。
背中に回された腕が解かれ、彼の指先が伊庭の輪郭をなぞった。顔を上げるように促されて、伊庭はゆっくりと彼の顔を見た。
「なに…泣いてんだよ…」
ちょっとだけ彼の目尻に光るものがあった。からかってやると小さな声で「うるさい」と言った。こんな風に話をするのが懐かしく感じる。離れていた時間をこれから埋めることができるだろうか。
そんな風にしていると、彼と目があった。そして何故だかわからないけれど、彼が言いたいことが分かった。
「…いいよ」
だから、その言葉を口にする前に答えてやる。すると彼は少しだけ驚いた顔をして、でも嬉しそうに笑った。

一年以上待たせた口付けを交わす。
互いの温もりが同じになるそれを繰り返しながら、伊庭は薄く目を開けた。
きっと涙のせいだ。
目の前が薄紅色に見えるなんて。















■あとがき■
ラクリモサ 「涙の日」
最後のシーンを書きたいがために、このタイトルにしました。悲しい意味あいも感じ取られるかもしれませんが、二人がお互いの気持ちを確かめ合うことができたその時に流れる涙は、きっと淡く穏やかなものだと思います。
最後までありがとうございました!

2013.1.13