秋の雨は冷たく、冬の片鱗を感じさせる。小さく折りたたんだ文をそのまま火鉢に投げ入れた伊東は、その端麗な顔を歪ませて不快そうにしていた。
「…新撰組の間者が紛れ込んでいたと、中岡隊長から知らせがあった。何か知っているかと」
伊東は斉藤を呼び出していた。
「そうでしたか。土方副長のやりそうなことです」
「どこからか密告があって処分されたそうだが…橋本君から知らせは?」
「…特にありません」
斉藤は内海に依頼されて以来、橋本皆助の仲介を任されていたが余計なことを口にしたところで伊東の利益になることはないので伏せておく。
伊東はふう、とため息をついた。
「間者を忍び込ませるには信頼関係がなければならない。君の目から見て橋本君は間者として不適格だと思うかい?」
「はい」
「…即答か」
伊東は苦笑して「何故?」と先を促した。
「何度か水野に接触しましたが…日に日に陸援隊に愛着を持ち、己の立場を見失っているように思いました。能力は高いですが、情を持つようでは務まりません。今後、水野に期待することはできないかと思います」
斉藤ははっきりと見限るべきだと進言した。伊東は彼を評価して遣わせたようだったので惜しそうにしたが、「そういうことなら」と斉藤の言葉を受け入れた。
「君がそこまではっきりというのならその通りなのだろう。それに中岡隊長はこのところ陸援隊に姿を見せていないという…橋本君から得られる情報は少ないだろうしね」
「はい」
「彼には荷が重かったかな。しかし新撰組からも間者が差し向けられていたなんて、土方副長はやはり我々を信用していない。密告してくれた者には感謝すべきだね」
伊東は「下がって良い」と言ったので斉藤はその通りにする。
今後、水野がどうなるのかはわからないが、今の時勢では瑣末なことだ。
美しい庭園に雨が降っている。斉藤が曇天の空を見上げるて無性に苛立ちを感じた時、左手の指先が自然と鞘に伸びて、組紐に触れた。
「あっ、斉藤さーん!」
部屋の奥から藤堂が呼ぶ声が聞こえてきた。けれど彼の軽快なおしゃべりに付き合う気分ではなく、斉藤はその声を無視して月真院を出ることにした。
片手に傘を持ち、斉藤は雨の中を歩いていた。行き先を考えるのも億劫で宛先も考えずに歩く。
討幕の密勅から急転直下の大政奉還…三百年余り続いてきた政が遂にひっくり返ったと聞かされた時、思った以上に足元が揺らぐ感覚を覚えた。
先の将軍に忠誠を誓い、幕府の犬となって働いてきた…その主人が忽然と消えてしまったのだ。首輪だけ繋がれたまま手綱を離され、要らぬ自由を与えられた気分だ。
斉藤は不意に足を止めた。目の前の店は従兄弟だと名乗って何度か水野を呼び出した場所だった。
彼が酔い潰れている姿を見て『間者に相応しくない』と吐き捨てたが、その苛立ちの原因は彼と自分は紙一重だと気がついたせいだ。
感情を優先すれば綻びが生まれる…それは一番自分自身がわかっていた。だから水野を見ていると自分の行く末を見ているようで、不快だったのだ。
斉藤は再び歩き出した。所々がぬかるみ、水たまりができている。すると大通りから外れた名もなき人気のない小道に一人の男が蹲っていることに気がついた。小汚い衣服にボロボロの傘、擦り切れた草履…斉藤はその姿を見るなりそちらへ足を向けた。物乞いを装う男に小銭を投げて、労いではなく淡々と
「何か用か?」
と尋ねた。物乞いの男は少しだけ顎を上げて笠の破れの隙間から斉藤の姿を確認する。
新撰組監察方の大石だった。
御陵衛士の一員となった斉藤にとって、彼は世間話をする間柄ではない。御陵衛士への潜入を知っているのも土方と山崎だけなので、彼との関係は完全に敵である。けれどこうして斉藤の目の前に現れたのは何か用件があるのだと察した。
大石は単刀直入に用件を述べた。
「村山謙吉が新撰組の間者である、と密告したのは斉藤先生ですか」
末尾のニュアンスは疑問ではなく、確認だった。大石はその確信を持って斉藤に会いにきたのだ。
しかし斉藤は淡々と答えた。
「…村山何某という者に会ったこともなければ、陸援隊に新撰組の間者が入隊していたのも知らない」
「…」
「それだけか?」
斉藤は大石が言質を取ろうとするのは証拠がないからだとわかっていた。彼の推測でしかないのだろうから、斉藤はこれ以上付き合う必要を感じられず、踵を返した。大石はそれ以上の追求を諦めたのか、追いかけてくることもなかった。
大石は弟を殺され、仲間を手にかけようとしたことで配置転換となり監察方に異動した。その采配をしたのは土方だが、やはり見る目があったのだろう。
(監察に情など要らぬ)
己に有利な情報を得るために、情熱や信念などは必要ない。ただ淡々とこなせれば良いのだから。
その点、水野や村山よりも大石は優秀だ。感情が理性を勝ることがなく、常に冷静な判断を下すことができる。客観的に物事を俯瞰しつつ、勘も良い。
(足を引っ張る間者は必要ない)
大石の言う通り、裏で手を回していたのは斉藤だった。陸援隊に潜入させている『別の間者』に密告させ、これ以上面倒なことになる前に見捨てた。土方が不在であり、政局が歪んだ今だからこそ、己の正体を明かしてしまう村山の存在が新撰組の為にならないと判断したのだ。
だが、これは新撰組にも承認を取っていない、誰にも明かすつもりのない非道で勝手な判断だと自覚はあった。
(だから、水野は少なくとも俺に話すべきではなかった)
村山を守りたいと思うなら、何も話さず一人で動くべきだった。敵は陸援隊の内部だけではなく、もっと近くにいる…そのことに気がつく想像力が足りず、斉藤に己の素直な心情を漏らした時点でこうなってしまう結末を引き寄せてしまった。
彼らは支障が出れば別の者に取って変われば良いだけの歯車なのだとわかっていない。
「…ふっ…」
思わず漏れた苦笑は雨の中に紛れ込む。
(間者としては不適格でも、きっと人間としては正しい)
汚れることを厭いぬかるみを避けて歩いたところで、足元は濡れる。そのぬかるみに敢えて足を踏み入れたところで結果は同じなのに、抗いたいと思うのは人間の性なのだろうか。