藤堂と別れた橋本はその足で陸援隊屯所へと向かった。
橋本は昨日復帰した御陵衛士に見切りをつけ、自由の身となった。藤堂があっさりと除隊を許してくれたことは意外だったが、彼もこの先の行く末に悪い予感があったからこそ、『逃げる』という選択を選んだ橋本を責めなかったのだろう。
橋本の頭の中には一つしかなかった。
(俺は生き延びる約束をした…)
投獄された村山と交わした約束はずっと心のなかを占め続けていた。素知らぬ顔で引き続き御陵衛士の間者を務め、伊東の指示で戻った…それは義を捨てた無恥な行いかもしれないが、すべては村山との約束を果たすために選んだ選択だ。恩ある伊東を裏切り、非情で無様であっても…村山を迎えに行く決意は揺らがなかった。
橋本は凍った道を小走りに進み続ける。一刻も早く、村山に会いたかったのだ。
正直村山が生き延びているかどうかはわからない。彼と離れてからも新撰組の間者として甚振られ続けていたようだが、それに加えて一時新撰組が暗殺犯だという噂が流れたことでさらに彼にとって逆風となった。橋本が御陵衛士に戻ることになった昨日は、まだ生きている、しぶとい男だと皆が嘲笑っていたが…今はわからない。
(もう少し…もう少し待ってくれ…!)
橋本は天に祈るような気持ちで冬の夜を走り、陸援隊の屯所に駆け込んだ。昨日重傷だった中岡が命を落とし慌ただしい陸援隊は門番さえおらず、無防備だった。偶然帰還した橋本の姿を見つけた薩摩の者が
「なんじゃ、どけ行っちょったんじゃぁ?」
と緊張感のない声をかけてきた。陸援隊は新たなリーダーのもとで土佐藩の一翼を担うことになるが、今は中岡の求心力を失ったことで脱退する者が跡を絶たないようだ。それ故に橋本が出入りしてもさほど違和感はなかったのだろう。
橋本は返答せず、そのまま屋敷の奥へ向かった。何人かの隊士に声を掛けられたが無視し続け人気のない奥にある家畜を飼うような牢獄の前には、流石に見張りが一人いた。それが何の因果なのか、村山を手籠めにしようとしたあの田川だった。
男の顔を見た途端、橋本は無意識に奥歯を食いしばっていたが、田川は橋本を見つけるなり嘲笑った。
「水野か。なんじゃわい、もう出て行たんじゃらせんじゃったんか?村山を見捨てて」
「…村山君は?」
「さあな、もう虫ん息じゃ。生きちょっとか、けしんじょっとかわからん」
一時はあれほど村山に執着していた田川だが、すっかり情がないようで村山の生死に興味がない。しかし橋本にとって「死んだ」と言われるよりはよっぽどましで、そしてこの男と対峙できる機会を得られたこともまた幸運だと思った。
橋本は躊躇いなく刀を抜いて、田川に突進する。田川は少し驚きながら構えていた槍を突き出して応戦した。その大きな体格に相応しい強く勇ましい槍先であったが日頃の鍛錬を怠っていたせいか、橋本の素早さには対応しきれず、横から払われるとそのままバランスを崩して前のめりになった。橋本はそれを見逃さずその腕を切りつけ、田川は
「うううぅぅ!」
と噴き出した血を抑えながら唸り声をあげて悶えながら、その場に両膝をついた。
「…未遂だったからな。これくらいで勘弁してやる」
「ど、どげんつもりじゃ…?村山を獄から出して逃ぐっつもりか?新撰組ん間者だぞ」
「そんなことはとっくに知っている」
橋本は淡々と答え、「鍵を出せ」と田川の首筋に刀を当てて脅した。田川は橋本の本気の眼差しを見てごくりと息をのみつつ、観念したように獄舎の鍵を差し出してきた。橋本は受け取るや否やすぐに獄舎の前に駆け寄り、
「村山君!村山君!」
と呼んだ。けれど彼の返答はない。数日間でこの獄舎の環境はさらに悪化したようで血の匂いが混じった異臭がすぐに鼻についた。橋本が目を凝らすと小動物のように身体を丸める村山の姿があり、その体は辛うじて息をしているように見える。
(間に合った…!)
橋本は開錠し、村山に駆け寄った。しかし村山はすでに意識が混濁しているようで橋本の姿を見ても何の反応も見せず、身体もあちこち怪我をしているようだった。田川が言ったとおり、虫の息という言葉が相応しいだろう。
橋本はあまりに衰弱した村山の姿を見て気持ちが高ぶって目に涙が滲み、彼を抱きしめた。彼の中に残るほんの少しの温かさを?み締めながら、もう二度と離れないと誓う。
しかし、突然
「逃げらるっち思うなじゃ!!」
田川の獰猛な雄たけびのような声が聞こえて、橋本はハッと振り返った。田川の大きな体躯がすぐ後ろに迫り、その槍先はすぐそこに達しようとしていたのだ。
(間に合わない…!)
とっくに死んだと思っていた。
新撰組の間者として散々嬲られ、家畜以下の扱いを受けるうちに時の感覚がなくなり、水野と別れてからどれくらい経ったのかもわからず。そしてついには生死の境さえ曖昧になっていった。
自分がなぜまだ死なないのか―――惨めで苦しくて痛くて、もう逃げだしたくて仕方なかったのに―――でも、まだ死にたくなかった。
「もう少し…もう少しじゃ…」
散々甚振られても死なず、ただ呪文か譫言の様にそう繰り返していると、隊士たちは次第に気味悪がって遠ざけて行った。放っておいても死ぬと思ったのだろうし、玩具はいずれ飽きるものだ。
疲れ切って目を閉じていると、ふいに故郷の懐かしい光景が蘇ることがあった。穏やかな海はそこに在って当たり前だったが、この狭い檻の中ではとても尊いものに思えてくる。そんな夢のような幻を何度か見ているとある日、静かに打ち寄せるだけの波が次第に大きくうねり村山を飲み込もうとした。
(これが三途の川というやつか…)
ついにその時が来たのかと思いごそごそと手持ちの渡し賃を探る。けれど生憎持ち合わせがなく、巾着から取り出したのは白と黒の碁石だった。
(変じゃな…これは水野に渡したはずじゃ…)
どうしてこれを自分が持っているのか?
その答えは―――目を閉じている限りはわからない。
…村山はゆっくりと目を開いた。ずっと狭く暗い檻の中にいて目を開けたところで暗闇のなかでしかなかったが、今は違う。
穏やかで眩しい光が差し込み、ちゅんちゅんという和やかな鳥の声さえ聞こえてきたのだ。そして身体は妙にふわふわと温かく、嗅ぎ慣れない香の匂いさえ漂ってくる。そして手には白と黒の碁石が握られていた。
「…ここは…」
「君は本当に…無茶をする」
目の前にいたのは橋本だった。彼は半分は呆れていたが、もう半分は嬉しそうに顔をほころばせていた。
あまりに状況が分からない村山は「夢か?」と問うたが、彼は「まさか」と答えた。その証拠だと言わんばかりに手を握られると、確かな感触があって現実なのだと理解する。
「昨夜、君を陸援隊から連れ出した。ここは個人的に懇意にしてる宿の部屋で、新撰組とも御陵衛士とも関係ない…安心してくれ」
「…連れ出したって…俺は、牢に…」
「覚えていないのか?田川の追撃から君が守ってくれたんだ」
「俺が…?」
村山は全く記憶がない。
しかし橋本によると、田川を一度負傷させ、村山を助け出すために牢に向かったが、執拗な田川の追撃に遭いもう駄目だと思ったところで、村山が庇うように橋本を押し退けた。田川は腕の怪我もあったがおそらく一度は情を躱そうとした村山が目の前に飛び出たことで驚き、槍先を誤った。その隙をついて橋本が田川の足を斬り付け転倒させ、そのまま村山を抱えて逃げたらしい。そして橋本自身も御陵衛士を抜けていまは何のしがらみのないとのことだった。
村山は橋本の長い話のおかげでゆっくりと状況を飲み込むことができた。
あの地獄は終わった。大きな波に飲み込まれることなく、もう二度と会えないと思っていた橋本に再会することができたのだ。
それが理解できたとき最上の望みが叶ったのだとわかった。そう思うと体中が震えるほど嬉しくて目に涙が滲んだ。
「そんなの、無意識じゃ…だって俺はもう、君には会えんと思うてた」
「酷いな。また会えると信じていると言っただろう?」
橋本は揶揄するように言ったが、彼自身も本当は悲観していたはずだ。あの時の別れには互いにその覚悟があったのだから。
「…まったく、水野君は…嘘が上手じゃな」
「俺はもう水野じゃない」
「じゃあなんて呼べばええんじゃ?橋本君か?でもそれも都合が悪いんじゃろう?」
「そうだな…それは、これから新しく君が決めてくれ」
橋本はそう微笑んで、村山に甘く口づけた。村山は痛む腕をどうにか動かして彼の後頭部に手をまわして強く引き寄せる。
(このくせっ毛…本物じゃな)
村山は細く絡まる彼の髪の毛に触れながら、もう片方の手で二つ揃った碁石を握りしめていた。
*
橋本皆助(水野八郎)は御陵衛士を抜けた後、陸援隊に入隊して明治維新を迎えています。その後に暗殺されています。また村山謙吉は新撰組の間者であることが露見し、処刑されています。