相馬は盆地の夜の厳しさを感じながら一歩一歩踏みしめて歩いていた。すでに足の爪先の感覚は消え失せ、頬は紅くなって硬直し口のなかはすっかり乾いている。
「ふぁ…」
隣に並ぶ野村は遠慮なく大きな欠伸をした。任務中なら咎められるだろうが、土方と総司は少し前を歩いているので当然気が付いていない。
夜更け、突然土方が一番隊の部屋に顔を出し「別宅に行くから警護しろ」と命令した。寝床の準備をしていた隊士たちは皆困惑したが、鬼副長の命令を断れる猛者などいるはずもなく、自然な成り行きで新入りであり下っ端である相馬と野村が同行することになった。
たいてい、土方が屯所を離れるときには警護など必要としない。けれども今夜は総司を背負っての外出だったため、念のため呼ばれた…ということらしい。
野村は心底眠そうな顔をして
「人っ子一人いねぇな」
と呟く。確かに彼の言う通り、人通りはなくしんと静まり返っている。
「油断大敵だ。恨みを持つ御陵衛士がいつ襲撃してくるかわからない」
「はぁ、坊やは真面目だなぁ…」
「坊やはやめろ」
野村は経験の少ない相馬を揶揄う。
最初から相馬は野村と馬が合わないと感じていた。彼の軽薄な態度と浮ついている言動が何かと目につき、注意しても聞き流されることが腹立たしく、思わずムキになって子供のように言い返してしまう。そんな自分はらしくないと思うし、冷静でいられないことがますます彼へ対する不快さを加速させてしまうのだ。
(でも…見どころのあるやつだ)
御陵衛士が別宅を襲撃した時には野生の嗅覚ともいえるもので的確な判断をして功を挙げ、油小路の際も動揺する新入隊士のなかで一番肝が据わっていた。
「…お前は人を斬ったことがあるのか?」
こんな静かな夜なら彼の話に耳を傾けられる気がして、相馬は訊ねた。屯所で真面目な話を振ると茶化されるか、誤魔化されて話を切り上げられてしまうので良い機会だと思ったのだ。
しかし、野村は赤くなった鼻を指先で擦りながら
「どうだったかな」
と曖昧な返答をした。新撰組は過去の刑罰を問わない…何も人を斬ったことを隠す必要はなく、自慢げに披露するような隊士も多いのだが、彼にとっては良い記憶ではないようだ。
「お前は?」
野村に逆に訊ねられ相馬は「ある」と即答した。野村は寒さで細めていた目を、少し見開いた。
「…へえ、意外だな。礼節を重んじる坊やはきっと身綺麗なままだと思ってたぜ」
「坊やはやめろ。…俺は二度目の長州攻めに参加した。何人かは…斬った」
「戦か。じゃあ仕方ねぇな」
「…どうだろうな」
幕軍の歩兵だと安易に戦場へ向かったが、結果は散々だった。長州の最新武器と勢いに押され、あっという間に敗戦濃厚となった時に休戦へ持ち込まれた。
野村は興味が沸いたのか嬉々として訊ねた。
「じゃあ雪辱を晴らすために新撰組に入ったのか?」
「…そんな格好の良い話じゃない。負け戦で歩兵だった自分の甘さを思い知って、苦い記憶を払しょくしたいだけだ」
休戦を知ったとき命拾いした、と思った。勝って当たり前だと決めつけていたくせに、いざとなれば尻込みする自分が情けなくて、許せなかった。
相馬はその時のことを思い出すだけで苦い気分になるが、野村は
「立派だな」
と言った。
「立派?どこがだ?また揶揄っているのか?」
「違うって。負け戦を経験したら嫌になるもんだろ、普通。実際あの戦で幕府に見切りをつけた藩だってあるのにお前はまだ徳川のために戦おうとしているんだろ?立派じゃねえか」
「…」
夜風の冷たさに凍てついていたはずなのに、妙に気恥ずかしく、顔の筋肉が緩んだ。野村の率直な言葉が素直に嬉しいと思ってしまったのだ。
「あ、着いたな」
気の利いた返答が思い浮かばないまま別宅に辿り着く。相馬は野村と共に周囲を一周回り異常がないことを報告すると、土方は「帰って良い」と告げた。
しかし、いくら敵の気配がないとはいえ無防備な状態で危ないし、御陵衛士に総出で襲撃されれば、多勢に無勢だ。相馬は
「見張りをさせてください」
と申し出た。一番隊隊士として当然の任務だと思ったのだが、土方は困惑し隣にいた野村が呆れた表情で相馬の腕を引いた。
「はいっお疲れ様です!」
「野村?」
「いいから、帰るぞ!」
野村はやや強引に相馬の背中を押して、一刻も早く場を去ろうとする。相馬は抵抗したが、土方に背負われた総司が穏やかに笑ってひらひらと手を振っていたので(どうやら帰るべきらしい)と諦めて従うことにした。
別宅が見えなくなった頃に、野村は
「まったく坊やには困るぜ!」
と苦笑まじりに仰々しく嘆かれた。
「なっ、だから坊やはよせと…」
「見張りなんて馬鹿なことを言うなよ。俺たちがお邪魔だってわかんねぇのか?」
「邪魔って…別にお宅に上がらせてもらうわけじゃなくて外の警戒が必要だろうと…」
「まさかお前、あの二人のご関係を知らないわけじゃないよな?」
「ご関係?同じ道場の食客同士だろう?」
「…」
相馬が心当たりのない表情を浮かべているのを見て、野村はさらに深く頭を抱えた。そしてすっかり脱力してしまったようで
「…いいから、屯所に帰ろうぜ」
と野村は一層の疲れを感じながら相馬の背中を押したのだった。