冬燈 わらべうた830.5




病室を出た斉藤は一度立ち止まり深いため息をついた。
いくら小康状態を保っていても病が進行していることは当然理解していた。しかし喀血して意識を失い、本人すら「もう目覚めないかもしれない」という恐怖に苛まれているという現実を目の前にすると、励ましの言葉すら出て来ない。
「目を覚ました?」
「…」
斉藤に声をかけてきたのは加也ではなく、英だった。
「…ああ」
「わかった、姐さんを呼んでくる」
「お前では…」
「…何?」
「いや、何でもない」
お前では手に負えないほど悪いのか。
斉藤はつい尋ねそうになったが、そんなことを聞いてどうするというのか。英も答えづらいだろうし、ますます床に伏す彼へ掛ける言葉が思いつかなくなるだろう。
英は怪訝な顔をしながら一度去って加也と共に戻ってきた。彼女は斉藤に微笑んで会釈した後そのまま病室に入ったが、英は斉藤の隣で足を止めた。
「…お前は良いのか?」
「姐さんに任せれば大丈夫だよ。…斉藤さんの顔色の方が悪い」
「俺は問題ない」
周囲が天満屋事件と呼ぶ出来事の疲れは些か残っていたが、それでも世の中は目まぐるしく変わり続けている。顔色が良い方がおかしいくらいで、皆が一喜一憂しているのだ。しかし医者の英にとっては関係ないようで、強引に斉藤の腕を引くと病室ほど大げさではないが狭い空き部屋に押し込んだ。そして早々に温かい茶を持ってきた。
いつの間にか喉がカラカラに乾いていた。総司の病状を目の前にしたせいか、慣れないことをしたせいか…柄にもなく緊張していたのかもしれない。
英は自分の淹れた茶を「おいしい」と満足げに自賛する。斉藤は茶を口に含みながら
「…この間は、巻き込んで悪かった」
と詫びそびれていたことを口にした。天満屋事件でたまたま近くに居た英に負傷者の手当てをさせてしまったのだ。
「ああ…そんなこと。自分の悪運の強さには驚くけれど、斉藤さんのせいだなんて思わないよ」
「これからは迷惑を掛けないようにする」
「ハハ、そうだといいけど」
英はあっさりと笑い飛ばす。
彼と知り合った頃は新撰組には関わりたくないと頑なな態度だったが、雪解けのようにそれも無くなり、油小路や天満屋事件のような偶発的に巻き込まれても言葉通り左程気にしていないように見えた。彼のなかで蟠りは消え去ったのだろうか。
「…これからどうするつもりだ?」
加也から診療所の弟子たちが今後の身の振り方を選び始めていると聞いていた。成り行きで医者の道に入ったとはいえ、英にも何か考えがあるのだろうと思ったのだ。
英は
「何も決めていないよ。…大坂に行くのは気が進まないけれど」
「そうなのか?」
「南部先生と姐さんには世話になったけど、会津には縁もゆかりもないから」
英は淡々と言ったが、その言葉にはどこか寂しさもあった。彼のことだから自分はその立場ではないと気後れしているのかもしれない。出自が分からず陰間から医者になった…その経歴は決して歓迎されるものではないだろう。
英は続けた。
「ほとんどの弟子は都から離れるつもりみたいだよ。まあ戦になったらと思うと自分の身が可愛いのは当然だよね。…でも、俺は沖田さんのことを今更放って置かないし、できる限り役に立ちたいと思ってる」
「…新撰組は明日から二条城に入る。沖田は近いうちに近藤局長の妾宅へ移ることになった」
「それが良い。この診療所もどうなるかわからないから」
英は湯飲みの茶を飲み干してその空になった湯飲みを覗き込みながらしばらく黙り込んだ。斉藤は温くなり始めた茶をじっと見つめながら、これを言うべきかどうか悩んだが
「…お前にはこれからも沖田の世話を頼みたい」
と出過ぎた真似だとわかっていたが、口にした。
俯いていた英は少し驚いたように顔を上げて、斉藤をまじまじと見た。
「…俺で良いの?」
「局長や副長がどう判断するかはわからないが」
「いや、斉藤さんに聞いているんだよ」
「俺は…」
つい言葉にしてしまった。斉藤は少し目を泳がせたが、隣に座る英からの強い視線を感じて観念して答えた。
「お前が良いと思っている」
「……」
「…なんだ?」
英の白い指先が確認するように斉藤の頬を押す。
「いや、偽者かと思って」
「…偽者?」
「は、ハハ…なんだか、照れ臭いな」
…英の意外な反応に感化されるようで、どうも居心地が悪い。斉藤やはり口にすべきではなかったと少し後悔しながら話を切り上げて「屯所に戻る」と立ち上がった。
英は
「考えておくよ」
と微笑んだ。彼の細く長い髪が肩口に流れて火傷の跡がちらりと見えた。もう彼の一部となった傷跡は彼に痛みとともに彼の人生に何か別の役割を与えたのだろう。
斉藤は英に見送られながら冬の都の道を歩いた。真っすぐ歩けば、いつか十字路に差し掛かる。そんな道ばかりのここで、何度も道を選んできた。
(まだこの先は長い)
悲観することはない。彼が目を覚ました時には必ず誰かが傍にいる。やがてそんな不安さえ忘れるくらいの穏やかな日々が訪れるに違いない。そう信じなければ
「やってられない」
斉藤は呟いた。











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