伏見、千両松、淀―――激流に呑まれるように戦場で駆けまわり続けるなか、ごく自然に
「斉藤!」
と呼ばれていた。そもそもそれは事情があって江戸を離れることとなり使うことになった変名で、むしろ改名した後の『山口』の方が本来の名字なのだが、不思議なことに『斉藤』と呼ばれる方が心地よかった。
しかしそんな感傷に浸る暇はない。
新撰組は千両松で大きな犠牲を払い、斉藤たちと淀小橋で合流した。井上を失い、さらに山崎まで重傷を負いながら宇治川を渡り対岸にたどり着くと、譜代の淀藩が城門を閉ざし徳川を見限っていた。
(これは負け戦だ)
ほんの少しでも希望を見出し、事態を逆転する方法を探り続けて転戦を続けたが、重要な拠点であった淀城で戦えないことは大きな痛手であった。早々に本陣が撤退したのも淀藩の支援を当てにしていたからだ。
(何かが起きている…)
錦の御旗が掲げられてから、まるで世の中がひっくり返ってしまったような違和感と、孤独感を覚えていた。それは口にしないだけで誰もが同じことを考えていただろう。
「数人を連れて長円寺へ向かってくれ」
土方に指示を受け、斉藤は相馬と野村を連れて城下町の一角にある長円寺に向かったのだが、そこでは負傷者や死者が入り乱れ、足の踏み場がないような状況だった。
「ひぇー…」
お調子者の野村でさえ小さな悲鳴を漏らしただけで、相馬は眉間に皺を寄せて目を逸らした。
斉藤は負傷者のなかから新撰組隊士を探し出し、「英はどこだ?」と尋ねた。隊士は話すことも億劫そうに奥の間を指さしたので、斉藤は土足のまま部屋に上がった。土埃の舞うなかに呻き苦しむ怪我人が鮨詰めになっていて、そのなかに英がいた。近くには手伝いをする銀之助と横たわる山?の姿もみつけた。
「英」
「ああ…斉藤さん、怪我でもした?」
英も流石に疲れ果てている様子だった。
「いや。様子を見に来ただけだ。…山崎は?」
「この通り処置は終わったけれど意識を失ったままだ。…これ以上は何もできない。それにここも危ないんだろう?」
「ああ。副長の指示で舟を用意させている。準備が整ったら負傷者を乗せて大坂へ向かってくれ」
「…わかった。ちょうど薬や包帯も切れていたんだ」
斉藤は相馬と野村に舟の手配を任せ、「お前も休め」と疲れ果てている英とともに人気のない裏手へ回った。彼が背伸びをして深呼吸すると白くなった吐息が空へと消えていった。
「…頼みがある」
「…人使いが荒いな」
「全員を舟に乗せるのは難しい。…お前の見立てでいい、軽傷者から選んで脱出させてくれ」
斉藤の申し出に英は心底嫌な顔をした。助かる見込みのない者は置いていけ…根底にある意図を彼は瞬時に見抜いていたのだ。
「…置いて行ったらここで死ぬことになる。医者としてそんな真似できない」
「全員助けることはできないことはわかっているだろう」
「じゃあ山さんはここに残ることになるよ」
「…彼は優先する」
山崎の容体が思わしくないのは斉藤にもわかっていたが、新撰組の幹部を置き去りにはできない。薩長に捕まれば士気を上げるいい見せしめに使われるかもしれないのだ。
英は斉藤の言葉を聞いて鼻で笑った。
「俺には優劣なんてつけられないよ。偉い人、そうじゃない人なんて見分けがつかないし、命の前では皆、平等だ。ここに来ているのは助けを求めているからなんだ」
英の口にすることが正論だとわかっていた。斉藤も見殺しにすることを望んでいるわけではない。
(だが、ここは地獄だ)
地獄に平等な慈悲はない。ひたすら死と向き合うのだ。
斉藤は敢えて強い口調で言い返した。
「…ここは片隅の町医者じゃない。戦だ」
「…」
「そんな甘い考えを持つなら、お前はこのまま離脱したほうがいい」
誰も彼もに優しく手を差し伸べるような天国はどこにもない。戦が続く限り、この先ずっとそんな場所なんてない。
(お前だってわかっているはずだ)
陰間として同じような地獄を生きてきたのだから、理想と現実の違いは良く知っているはずだ。優先すべきことは一体何なのか。
英は少し黙り込んだ後に、視線を落として「わかったよ」と渋々返答した。
「近所の寺に残していく兵の世話を頼んでくる…それくらいいいだろう?」
「…ああ」
英は斉藤と目を合わせることなく、そのまま裏口から出て行ってしまった。いまは彼と距離をとった方が良いのだろう…斉藤はそう思いながら裏手から再び長円寺に入り、今度は忙しなく働く銀之助に声を掛けた。
「井上はどこだ?」
「…泰助はあちらに…」
銀之助が指さしたのは隣の部屋の片隅に膝を抱えて俯く泰助の姿だった。まだ井上の首を離すことなく抱えている。
斉藤は負傷者をかき分けて泰助の元へ向かった。
「…これから負傷者は船に乗って大坂へ向かい、動ける者は本隊と合流させる」
「…」
「お前はそれを抱えて、これからどうするつもりだ」
「…」
泰助は何も答えない。身内が戦死し悲しみに暮れる少年…誰もが同情を禁じ得ない姿だろうが、斉藤はそうしなかった。慰めも激励もなく、ただ彼の前で見下ろしていた。
(覚悟していたはずだろう)
元服している兵ならそう言って詰め寄ったかもしれない。けれどまだ仮同志の小姓を責めたとて傷つけるだけだというのはわかっていた。
「…お前も舟に乗って大坂へ向かうか?」
「え…?」
「そうすれば戦わないで済む」
ようやく泰助は顔を上げ、斉藤と視線が交わった。少年の表情は動揺と困惑で歪み、その本心は手に取るようにわかる。
(悲しいと同時に、本当は怖くなったのだろう)
この数日間ずっと死が身近にあった。この長円寺もその淵に立たされている者ばかりが集まり、いつ自分の身に迫るか…泰助がいつまでも井上の首を離さないのは御守のように思っているのかもしれない。
泰助はしばらくぽかんとしたまま言葉を発しなかったが、「あの…」と枯れた声で絞り出した。
「…いま、夢じゃないですよね…」
「…夢?何を寝ぼけたことを言っている」
「その…全部夢なら、いいと思っていたんです。叔父さんが死んだのも、この惨い光景も…夢であれ、夢であれ…ずっと、そう思って…」
「夢じゃない」
斉藤は泰助の前に膝を折り、突然彼の頬を強く叩いた。
「…ぃっ!」
「紛れもない現実だ。このクソみたいな負け戦も、連日連夜の寝不足も、お前の叔父さんが死んだのも、残念ながら全部現実だ」
「……」
「これでも夢だと思うなら…いや、思いたいのなら、さっさと舟に乗って逃げろ。お前みたいなのがいると士気が下がる」
斉藤の言葉に、それまで虚ろだった泰助の眼差しに火が灯る。
「に…逃げません、俺は…!」
「だったらお前のすべきことを考えろ。いいな」
「…はい」
泰助は頷いた。
そうしていると相馬がやってきて舟の準備が整ったことを報告した。英も戻り、
「外にいるのは軽傷者だから、その人たちから乗せて」
と、庭で休んでいる負傷兵たちから舟へと案内していった。相馬と野村が肩を貸し、怪我人たちは互いに手を取り合って移動する。斉藤は山崎の乗った戸板を運び、最初に出帆する舟に乗せた。ゆらゆらと不安定な揺れのせいか彼は薄っすらと目を開けた。
「…舟…三途の川、か…?」
「安心しろ、木津川を下って大坂へ向かう」
「ハハ…」
斉藤の返答を聞いて山崎は少し微笑んだ。けれども傷が痛むようで苦しそうに顔を顰める。
「…手狭だろうが、少しの辛抱だ」
「飴…」
「飴?」
「飴、あるか…?」
山崎の脈絡のない要求に斉藤は困惑する。弱々しい彼の願いを叶えたい気持ちは山々だが、甘党ではない自分は飴など携帯していない。
すると近くにいた野村が
「ありますよ!」
とやたら元気な声を出して懐から飴を取り出した。
「もらって、ええか…?」
「勿論!何個でも差し上げます!」
「…おおきにな…」
野村は山崎の手に何個か握らせて、
「これ、美味いんですよ。…今度会った時に感想聞かせてください」
「ああ…」
山崎は微笑み、指先に力を込めて飴を握った。
そして舟は積載できる最大の人数の負傷者を積んで、大坂へ向かう。敵に悟られないように荷物に偽装するため安全な場所に辿り着くまでは大きな帆布を被っているので、遠目には人が乗っているようには見えないだろう。そんな舟を何艘か見送り、最後の一艘に荷物を抱えた英が乗り込んだ。
「斉藤さん」
「…なんだ」
「大坂で待ってるから……また会おう」
英は手を差し出した。白魚のような美しい手が、血で汚れ爪は黒ずみ、皸を起こしてカサカサに乾いている。それは彼が懸命に命を助けようとした証だ。
「…言いすぎた」
斉藤は同じように手を出し、英と握手を交わした。英は少しだけ笑って
「怪我してこれ以上、俺の手間を増やさないようにね」
と茶化して手を離した。
冬の冷たい河川に舟が流れていった。