先んじて出港した順動丸は順調に江戸への海路を進んでいた。風は刺すように冷たいが波は穏やかで予定通りに品川へ到着できるだろうということだった。
斉藤が甲板に出ていたところ、「ここでしたか」と梅戸勝之進がやって来た。彼は天満屋事件で斉藤を庇って負傷し、しばらく壬生で療養していたものの伏見に合流して戦にも参加した。もともとは三番隊の隊士であったが、御陵衛士を経て戻って来た際に斉藤が総司に代わって一番隊を率いることになると、志願して加わった変わり者である。さらに負傷者は明日の富士山丸に乗船することになっていたが、「自分はもう平気だ」と押し切ってこの順動丸に乗り込んだ。…やはり、変わった男である。
「斉藤先生、寒くないっすか?」
梅戸は斉藤の隣に並んだ。波飛沫が飛んでくるような寒い場所で斉藤が一体何をしているのかと興味があったようだ。
「山口だ」
「あ、すみません。でももう斉藤に戻しても宜しいのでは?御陵衛士にも知られてしまったようだし…」
「…副長の許可が下りればそうする」
斉藤自身、本名であるはずの『山口』と呼ばれることにいつまでも違和感を覚えていた。それほど『斉藤』の人生に馴染んで過ごしてきたのか、もしくは梅戸が諦め悪く『斉藤』と呼ぶせいかも知れない。
「そろそろ飯の時間ですけど」
「…食欲がない」
「もしかして…」
「ああ、船酔いだ」
順動丸は軍艦ほどの大きさはあるが、その武装が貧弱であるために運送船として利用されているものの決して木造船のように大きく揺れるわけではない。けれど常に視界が上下する船での移動は斉藤には向いていなかったようで常に内臓が掻きまわされているような不快感を味わっていた。
梅戸は何故か嬉しそうに手を叩いて相変わらずの大音声で笑った。
「斉藤先生にも苦手なことがあったんっすね!」
「…そのようだ」
出航前、総司に『船酔いするかどうか試してみよう』と軽口を叩いたのだが、まさか自分が船に弱いとはこの齢になるまで知らなかった。梅戸が妙に喜ぶのは気に入らないが、下船したあと総司に報告した時に彼がどんな顔をするのか想像するのは悪くない。
梅戸は満面の笑みを浮かべていたが、一瞬「っ…」と顔を顰めた。斉藤はそれを見逃さなかった。
「傷はまだ痛むのか?」
「…あー…まあ、ときどきっす。大口を開けて笑うと沁みるような感じで…でも普段は全然、問題ないっす」
天満屋で顔面に怪我を負った梅戸は終始平気そうに振舞うが、大怪我であることに間違いない。
「だったら笑うな。黙って安静にしていろ」
「そんな殺生な」
「とにかく俺のことは構うな。船内に戻って飯を食え」
「はぁ、でも島田さんに絶対に連れ戻すように頼まれたんですよ」
「……」
「山野さんも風邪を引くからって言ってましたし」
梅戸は上司の命令だというのに全くその場から動こうとはしない。斉藤とともに船内に引き返すまでそうしているつもりなのだろう。
梅戸は伏見で戦になった時、斉藤が顔の怪我が治っていないのだから後方へまわれと何度命令しても『前線から退くつもりはない』との一点張りで結局最後まで一番隊の一員として働いた。帰営した後、英は「ちょっと悪化してる」と梅戸を叱ったが、彼はケロリとして謝るだけだった。
(俺に対する嫌がらせなのか…?)
怪我を負わせてしまった手前、強く出られないだろうと梅戸が好き勝手やっているのだろうか…斉藤は手のかかる部下に深いため息を付いた。
「…わかった、戻ればいいんだろう」
「はい!」
梅戸は威勢よく返事をしたが、船酔いの良くならない斉藤はその大音声すら疎ましい。彼のあとについて歩き出したところで、懐からボトッと何かが落ちた。
「落ちましたよ?…あれ?ガラス玉っすか?」
斉藤の意外な落とし物に梅戸は目を丸くした。
それは出航前、総司に渡した首飾りの一部だ。必要なのは鎖の部分だけであったためこのガラス玉は不要になったのだが、捨てるわけにもいかずに懐に入ったままだったのだ。
梅戸は指先でガラス玉を摘んで空に掲げる。冬の薄暗い陽の光すら吸収して光り輝く姿はとても眩しく見えた。
「へぇ、奇麗なモンすねぇ。これ、どうしたんすか?」
「…」
斉藤は梅戸に事情を話すのが面倒だった。人に贈ったものの一部だ…と言えば、「誰に」「どうして」と好奇心の塊のような梅戸に質問攻めにされるのは容易に想像がついたからだ。
「…欲しいならやる」
「え?」
「俺には不要なものだ」
さっさとこの海の投げ捨ててしまえば良かったのだと後悔しながら斉藤は船内に戻る。梅戸はしばらく呆然とそのガラス玉を見つめた後
「じゃあ一生大事にします!」
とまたその大音声で叫んだ。
(大袈裟な…)
斉藤は船酔いの身体を引きずりながら、梅戸の言葉を聞き流したのだった。