アイロニカルの憧憬 919.5



試衛館にやってきて、僕は浮かれていた。
尊敬してやまない沖田先生や食客の先生方が出会い、青春を過ごしたと度々聞いていたあの試衛館という場所に足踏み入れることができた。
建前では医学方としての付き添いであったが、内心は是非拝見したいと思っていたので興奮して浮き足立っていたのだ。その試衛館に足を踏み入れ、キョロキョロと辺りを見回した。想像していたよりもこじんまりしていた。
(狭いけど、なんともいえない味わいがある!)
漂う空気や匂いさえも僕には特別なように思えて、隅から隅まで目を凝らしていた。留守の局長に代わり、この試衛館を守るおつねさんは挙動不審な僕に驚いていたけれど、
「お茶をどうぞ」
と差し出してくださった。沖田先生と土方先生は仏間へ向かわれていた。
「ありがとうございます」
「冷めますから」
「いえ、お二人を差し置いて僕が先に頂くわけには」
「そうですか?…でしたら甘い物はお好きですか?」
「は、はい」
「よかった。すぐにお持ちします」
つねさんは嬉しそうに笑ってそそくさと部屋を出ていった。そうしているとお二人が戻ってきた。沖田先生は試衛館に来てから少し張り詰めた雰囲気を帯びていて気になっていたが、土方先生が寄り添っているので大丈夫だろう。
甘納豆を携えて戻ってきたおつねさんを交えて、先生方が近況や思い出話を語りながら話し込んでいる。僕は好奇心が抑えきれずつい口を挟んで質問をしたりしたが、沖田先生はふらりと部屋を出て行かれた。おひとりでは心配だ。
「僕も…」
と僕は腰を上げたが、土方先生に「待て」と引き止められた。
「少しひとりにしてやってくれ」
「…承知しました」
僕なんかよりも土方先生は沖田先生のことをよくわかっていらっしゃる。
沖田先生の思い詰めている姿は屯所でも見ていたので、きっとそのことなのだろう。
沖田先生が屋敷から出ない限りはすぐに駆けつけられるのだからと僕は今一度座り直して、茶を口にした。そして黒光りする甘納豆に手を伸ばし口に放り込むと、一気に豆の甘さが広がった。
「とても甘いですね」
「ええ、きっと主人も気にいるだろうと思って。宜しければ主人に渡していただけますか?」
「もちろんです」
僕は安易に頷いたが、
(…確かに局長のお好きそうな味だ…)
もしかしたら、いつ夫である近藤局長が戻ってきても良いようにこうやって常備しているのではないか…僕はそう思い至り、浮ついていた自分が急に恥ずかしくなった。ここには先生方の思い出があり、残された奥方や娘さんの暮らしや思いがある。僕のよう物見遊山で迂闊に足を踏み入れるべきではないのだ。
僕が急に味のしなくなった甘納豆を噛み締めていると、縁側の向こうで娘さんのおたまさんが
「母上」
「母上」
と手招きしていた。おそらく一緒に遊んで欲しいのだろうけれど、おつねさんは客人を前にしているので「あとで」と答えるしかない。おたまさんが悲しそう顔を顰めたので、
「僕が遊び相手でも良いですか?」
と申し出た。
「しかし…」
「いいよ!」
おたまさんは喜んでくれたので、僕はおつねさんにことわって縁側に向かい罪滅ぼしのような気持ちで遊びに付き合うことにした。庭はよく手入れがされていて、おたまさんの遊び場になっているようだ。
十ほどの女の子は目元はおつねさんに似ているが、口元は局長そっくりだ。局長が宴会芸にしている口に拳を入れる芸当も受け継ぐことができるかもしれない。
おたまさんは鞠つきをしていた。
「上手になったの。父上に見せてあげようと思って」
おたまさんは得意げだが、どうしても二十回ほどで手を離れて転がってしまう。
僕は提案した。
「歌を唄いながらついたらどうだろう?」
「歌?どんな歌?」
「そうだなぁ…まる たけ えびす に おし  おいけ あね  さん
 ろっかく たこ にしき し あや…」
僕は途中まで歌って聞かせたが、おたまさんは聞き覚えのない節に目を丸くしていた。そういえばこれは都の子供たちが口づさんでいた碁盤の目の通りを覚えるためのわらべ歌だ、江戸育ちのおたまさんは知らないはずだ。
(僕にはすっかり馴染んでしまったんだな…)
都で過ごした五年余りの日々は僕の人生にとってあまりに大きなものだったのだ。唄を口づさんでしまうほど。
「ええと、違うのにしようかな…」
「ううん。面白いから今のがいい」
「…そう?じゃあ手を叩くから」
僕が拍子を取りながら歌うと、おたまさんは上手に鞠つきをして二十回を悠に超えた。
「…じゅうじょう とうじで とどめさす!」
「ワァ!すごい!」
おたまさんは喜んで両手をあげて飛び跳ねた。
「父上に見せたい!」
と、愛らしく目を輝かせる姿を見て僕は心底、近藤局長がここにいればと思った。
そしてそんな穏やかな光景はきっとこの騒乱が終わらないとやってこないのだと思うととても可哀想にも思えたのだ。
「…鞠を取ってくるよ」
おたまさんはおつねさんに報告することに夢中になっていたので、僕がコロコロと転がってしまった鞠を追いかける。鞠は庭の端の方まで転がっていて、そのすぐそばに道場があった。
(ここが道場…)
「あ…」
僕は鞠を手にしてそっと身を潜めた。道場には沖田先生と土方先生がいらっしゃって、何か話をしておられたのだ。
(聞くまい、聞くまい…)
と思うものの、そうすればそうするほど聞き耳を立ててしまうもので、お二人が何か深刻そうに話したあと、
「…私はきっと生まれ変わっても、ここに来ます。…だから歳三さんもここに来てください」
と沖田先生がおっしゃった。
悲しみではない、ただただ穏やかな表情を浮かべた先生は憑き物が落ちたように微笑んでいる。
(生まれ変わってもか…)
熱情と恋情の先にあるものはなんなのか…僕は昔考えたことがある。男同士では家族を作り子を為すというある意味での終着点はない。ただ不毛なふれあいだけで終わり、時には周りに伏せて隠す…この関係の名前がわからなかった。
けれどそれを先生たちは教えてくれた。人間同士の繋がりなのだと。今生では別れとなっても、来世でも互いを求め合う…その心そのものなのだと。
(僕はまだ目の前のことで精一杯だけど…)
いつかそんなふうに思うことができるのだろうか。
「山野君」
「ヒェ!」
僕は背後から沖田先生に声をかけられ、思わず素っ頓狂な声をあげて腰を抜かしてしまった。聞き耳を立てていたことに気がついていたのだろう、先生は子供っぽく無邪気に笑った。
「客間に戻りましょうか。甘納豆、美味しいんでしょ?」
「は、はい!」
僕は慌てて立ち上がり、庭を通って元の部屋に戻った。












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