彼は静かな二間から覗く曇天をずっと眺めていた。
「坊ちゃん、坊ちゃん」
関田家は精油業や小間物屋を営み、昔から多くの奉公人や女中が出入りしていた。暮らしに困ったことがない裕福な家の倅として生まれた俺ーーー関田庄太郎はお喋りな女中たちに手招きされた。
「なにか?」
「あの綺麗な人たち、いったい誰なんだい?」
「昨日から居候してるじゃないかい」
俺を赤子の頃から面倒を見てきた女中たちは昨日からやってきた客人について遠慮なく尋ねてくる。熟年の彼女たちが色めき立つのを親父は諌めていたが、俺は仕方ないと思った。
「あの人たちは試衛館の人たちだよ。昔、何度か顔を出したことがあるでしょ?師範の若先生」
「アア、新撰組のねぇ」
「痩せちゃってねぇ、かわいそうに」
若先生…こと沖田君は俺と同い年なのだが、新撰組であることも、労咳に冒されていることもごく少数の者しか知らず、親父に口止めされていた。もちろん俺も言いふらすつもりはないが、噂好きの女中たちは当然のように新撰組だと察していたし、沖田君が咳をして寝込む姿を見れば色々と推測するかもしれない。
「でも坊ちゃん、もう一人の剃髪の美男子は何者なんだい?」
「ああ…もう一人はお付きのお医者様だと聞いてるよ」
「ハハァ、美童ってのはああいうのをいうんだねぇ」
「この世のものとも思えないわぁ」
年配の女中が称賛するほどの美形のお医者は時折台所に出入りするのだがその度に大騒ぎだ。
賑やかなのは良いことだが仕事が疎かにならないように
「ほどほどにしてくださいよ」
と添えて俺はその場を離れた。
彼らは玄関脇の小部屋の二間で過ごしている。もともとは試衛館の近藤先生がこの辺り一帯の出稽古に来た際の宿泊場所として親父が準備したのだ。試衛館とは長い付き合いだが、特に今の代の勇先生はこの辺りの出だということで親しく、彼らが新撰組として名を挙げてからは特に支援してきたのだ。
俺は試衛館の食客の先生方が同世代で、顔を合わせるたびに宴を開いて酒を飲んだ。俺はあまり飲めない下戸だったが、左之さんには無理やり飲まされて朝まで酔い潰れたものだ。
(あの頃は楽しかったなぁ…)
すっかり彼らは遠い人になってしまったけれど、接すればあの頃と変わらない。
(俺も…)
何も変わっていない。すぐに思い出せるほど。
俺が玄関を出入りしていると
「庄太郎さん」
と声をかけられた。
「お…沖田君」
「すみません、ご挨拶が遅くなって…ご無沙汰をしております」
彼はこの家にやってきてすぐに寝込んでしまったので顔を合わせる機会がなかったのだが、今日は気分が良いのか厚手の綿入れを肩にかけて近づいてきた。
「こちらこそ…」
「この度はお世話になります。…皆が庄太郎さんに宜しくと言っていました。特に原田さんがまた飲もうと」
「ハ、ハハ…左之さんは相変わらずですねぇ…」
沖田君はあの頃と変わらない様子で接してくれたが、俺はなんだか緊張して畏まってしまい目が泳ぐ。彼らはこの辺りでは有名人で一部では英雄扱いされているのだ。そんな俺を沖田君は笑った。
「そんなに身構えなくても。昔みたいに気楽に接してくださいよ」
「いや、そういうわけには…」
「そういえば庄太郎さんは最近お嫁さんをもらったそうですね。おめでとうございます」
…噂好きの女中が話したのだろうか、俺はちょうど一ヶ月ほど前に隣村から庄屋の娘を嫁に迎えて祝言をあげたのだ。俺はぎこちない笑みで
「あ…ありがとうございます」
と頭を掻く。
沖田君はあの頃の端正な顔立ちのままそこにいて、俺もあの頃の感情が蘇ってくるようで。
「お父上は外出ですか?またお帰りになった頃に挨拶に伺います」
「は、はぁ…」
沖田君は話を切り上げてそのまま部屋に下がってしまった。もう少し話がしたかったが、しかし俺はおそらくその雰囲気に圧倒されてまともに返答ができなかったことだろう。
俺がその場に立ち尽くして彼がいなくなった場所を眺めていた。
(…昔、懸想していたことがあったなぁ…)
時折近藤先生とともにやってくる彼に惹かれていた時期がある。同じ男で、同い年で、立場が違いすぎてすぐに諦めて忘れることに徹したが、出稽古のたびに不意に顔を出しては微笑みかける姿ばかりまで追ってしまいなかなかこの思いが消え去ることがなかった。試衛館総出で浪士組に参加してからはようやく落ち着き忘れていたのに、祝言の後に再会して死病に侵されているなんて…。
「旦那様」
「!…おはる…」
いつのまにか背後にいたのは妻の春子だ。小柄で丸々とした顔立ちは恵比寿様のようにふくよかで、おっとりしている。
そんな妻とは正反対の沖田君に見惚れていたことがなんだか後ろめたくて、
「ど、ど、どうしたんだい?」
と妻の顔色を窺った。おはるはじいっと俺の顔を見つめた後ににっこり笑った。
「ご友人だそうですね」
「あ、ああ…そうなんだ。昔、よく顔を出してくれて…でもまあ俺が友人だと言うのも烏滸がましいんだが…」
俺は頭を掻きながら苦笑すると、おはるは笑って
「そんなことありません。少なくともご友人の方は旦那様のことを親しく思ってくださっていますよ」
「そ…うかな」
「はい」
おはるはそう言って少し恥ずかしそうにしながら俺の腕に自分のそれを絡ませて寄り添った。
俺の初恋はなんだか眩しくて手が届かなくて、あまりに高嶺の花で。遠くで見ているだけでそれでよかった。
(でもまあ…こんな穏やかな暮らしが俺には合っているよな)
彼とは何もかもが違うーーーけれどおはるが与えてくれる仄かなぬくもりを感じながら俺はあの時の「はつこい」にそっと蓋をした。