山竝に風は鳴る
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神保修理―――長輝(ながてる)という男は浅羽より三つほど年下であったが、藩校で学んでいる時から周囲から頭一つ抜けた秀才ぶりと群れのなかにいても目立つ涼し気な容貌でよく知られた存在であった。さらに生まれは名門家老の長男であったが、正義感に溢れ、漢気があり、女子供に優しく…もはや嫌味を言う者すらおらず、そんな彼が近い将来に家老に就くのだからあまりに『できすぎ』だとため息を付きたくなるようなそんな会津らしい若者だ。
会津公も長輝に期待し、若い頃から会津公用方へ登用し、京都守護職となった時には随行させた。さらに長輝の優れた才知に期待して長崎に派遣し、軍や組織の改革の知見を得ることとなったが、同時に長崎で出会った西国の大物と交流を持つこととなった。
後に鳥羽伏見の戦いと呼ばれることになる戦がついに決着を迎えようとしていた。
戦地から戻った浅羽は負傷した佐川官兵衛から状況を聞き、明日の決戦へと気持ちを整えていた。
(今こそ君恩に報いる時…)
会津の侍として躊躇いなく戦に臨む。浅羽が藩士たちから離れて壁を背に休んでいたところ、
「浅羽さん」
「長輝」
大坂城二の丸から少し疲れた様子で出てきたのは長輝だった。女子供が色めき立つその美貌は崩れているが、浅羽は特に気にならなかった。そんな顔をしているのは彼だけではない。
―――まさに大敗。
あの強気な佐川さえこれを負け戦だと嗤い、一方的に蹂躙されただけだとため息を付いた。見舞いと援軍のために一日だけ戦地へ足を踏み入れた浅羽も同じ実感があったが、三日間戦い続けた佐川や会津藩兵たちには及ばない。長輝は軍事奉行添役として出陣したものの早々に大坂城へ戻り、今後の方針について上様や会津公とともに話し合いを続けていたはずだ。
長輝は話があったようだが、浅羽は「こちらへ」と人目に付かない場所へと誘った。
「佐川が息巻いていた」
浅羽が苦笑すると、長輝も「想像がつきます」と頷いた。佐川と長輝は藩校で並び称される秀才であるが考え方の違いから犬猿の仲でもある。本人たちもよく自覚していて必要以上に近寄らず距離を置いているが決して憎み合っているわけではなく、互いに会津を思う心は認めているのだ。
浅羽は昔から会津公の小姓として侍っているため長輝と交流があり、長輝も浅羽を信頼しているようだった。
「戦地の状況はいかがでしたか?」
「…惨いとしか言えない。銃の性能といった問題ではなく…あの錦の御旗。盛り返して優位に立つこともあったが、あれは武器よりも強靭だった…」
会津は徳川への忠誠を誓っている。それは持って生まれたといっても過言ではなく血となって流れている生き方のようなものだ。しかしそれでもあの錦の御旗を見た時に少し気持ちは揺らいだ。
長輝はため息を付いた。
「錦の御旗ですか…上様は大層動揺されておられました。帝への忠誠を誓い、一番の臣下であると自負しておられたのに…」
「しかし錦旗など昨日今日で作られる代物ではない。薩長が虎視眈々と準備をしていたのだろう…奴らに翻弄されてはならぬ」
「…なんだか浅羽さんらしからぬお言葉ですね」
長輝はまじまじと浅羽を見て驚いていた。
本来ならば浅羽も悲観的になって上様に同情していたかもしれない。小姓というのは意見する立場ではなく、主人に同調して慰める場面が多いのは確かだろう。しかし戦地で戦う同志を見て、落胆している暇はないと思い知った。考え込む時間があるのならば戦え…会津藩士や親交のある新撰組の奮闘を見て勇気をもらったのは間違いない。
「心に揺らぎがあると負ける。我々は賊軍に貶められているだけだと奮起せねば」
浅羽は長輝の肩を軽く叩いて励ましたのだが、彼の表情は冴えなかった。
「軍議でも幕閣たちがそのような話をしていました。帝を誑かす薩長を追い払うべく、大坂城を砦として戦う。きっと必ず勝てる…誰が味方で、誰が敵かわからぬのに」
「…何を言っているんだ?長輝、今日の軍議ですでに戦に決したのだろう?」
「僕はやり方を考えるべきだと思っているのです。すでに淀や津が裏切りました、紀州さえ怪しい。裏切り者に囲まれて戦をするべきではなく、むしろ今度こそ勝利するために江戸へ戻るのも手ではないでしょうか。上様は意気消沈しておられます…時間が必要です」
「…」
長輝が佐川と犬猿の仲であることの一番の理由は、彼が開戦前より不戦恭順論を上様に進言していたことだ。長崎で学び西洋列強を眼前にした長輝にとって戦が避けるべきものであるため、主戦派佐川たちと激しく対立した。
浅羽は本丸へ視線を向けながら
「…殿は何とおっしゃっていた?」
と訊ねた。
「…殿は大坂城で戦うべきだとおっしゃっています。江戸へ向かうと民衆に逃げ延びたと思われてしまうだろうと。後ろ指さされるようなことはできぬ…家臣の犠牲に報いねばとお話しでした」
「私もそう思う。長輝の話は確かに合理的であるが…人の心というものはそう簡単ではないのだから」
「わかっています…何より義理を通さねば人は動きません。殿もそう思っていらっしゃるのでしょう」
長輝は浅羽と同じように本丸を見上げた後、今後は城の外へと目を向けた。もう少しで陽が落ち、霧で煙って視界は悪い。薩長―ー官軍がどこにいるのかわからない、まさに不気味な夜を向けようとしているなか落ちていく夕日に長輝の整った顔立ちが照らされた。
「…僕、浅羽さんに話して気持ちを落ち着かせようと思っていました。少し楽になりました」
「何故私に?」
「…何故でしょう?よくわかりませんが…殿もいつも浅羽さんに話を聞いてもらっているとおっしゃっていました。とても楽になると」
「殿が?はは、過分なお言葉だ」
「でもお気持ちは何となくわかります。浅羽さんはあまり揺らがない。肯定も否定もなく、ただ聞き流してくださる…それが良いんです」
「…褒められたのか、貶されたのかわからないな」
長輝は「褒めています」と少し笑った。確かに話始めるよりも憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。己の考えがどうであれ、明日にはすべての答えが出るはずだ…長輝も心の根底では覚悟を決めていたのだろう。ただ感情的になって沸騰して出て来た、灰汁のようなものを浅羽に取り払って欲しかったのかもしれない。
「…上様が人払いされているそうだな」
「はい。軍議のあと老中たちを呼び出してそれきり…殿もご一緒のはずです」
「もしお会い出来たら、『浅羽が生きて戻った』と伝えてくれないか」
「もちろんですが…それだけで宜しいのですか?」
浅羽は主君の顔をほんの数日見ていない。しかしまるで数か月離れているような途方もない気持ちにもなった。
(お会いしたい…)
話したいことが山のようにある気がする。けれどその顔を見ればもう言葉はなくなってしまうかもしれない。
「それだけでいい」
浅羽は笑った。いつか…いや、きっと近いうちにお会いできるだろうと信じて疑わなかったのだ。
陽が落ちた。
あちこちに松明が灯り赤く照らされている。浅羽は会津藩兵とともに二の丸に陣を敷き、夜明けを待つことにした。
二の丸では夕方に火事が起こったそうだ。出火の原因はわからず、最初は官軍の急襲だと騒ぎになったそうだが結局は火の不始末だったのだろう。しかし大きな犠牲が出た…官軍の仕業だと思い込んだ負傷者たちが自害してしまったのだ。その中には会津藩兵や新撰組の隊士も含まれた。
(戦わねばならぬ理由が増えていく…)
浅羽だけでなく、生き延びた兵たちも同じ気持ちだったはずだ。肩にずっしりと重たい何かが乗っている…そんな夜は眠れるはずはなく、片隅で目を閉じて体を休めていた。
すると誰かが「浅羽殿」と小声で呼んだ気がした。あまりに小さな声だったため空耳かと思ったが、薄く目を開けると自分を呼んだと思われる若い少年が灯りを片手に目の前にいた。見覚えのない顔だが少年の方はそうでもないようで
「お休み中に申し訳ございません、私は神保家の奉公人です」
「…神保家の…」
「ご主人様がお待ちですので一緒に来ていただけますか?」
少年は無邪気な笑顔を見せたが浅羽は困惑した。彼が話すご主人…長輝の父であり家老の神保内蔵助に違いない。会津藩の重鎮がこんな夜更けに一体何事かと思うが、それほど火急の用件なのだろう。
(事情を知らない少年を遣わすということはよほどの内密のお話か…)
小姓を長く勤めている分、自然と状況を察してしまいつつ浅羽は少年の後に従った。二の丸から本丸へ入り、皆が寝静まるなか少年に促されるままに最奥の小部屋に入った。するとそこには真っ暗な部屋でたったひとつの灯りを囲う二人の男の姿があって、ひとりは浅羽を呼び出した神保内蔵助、もう一人は長輝であった。
「…浅羽、よく来てくれた」
父親の神保は重々しく浅羽を迎え入れ、少年を帰した。神保は家老としての威厳を保っているもののその声色には緊張が滲み、長輝は目を伏せて唇を噛、固まったままだ。会津の名門である親子の様子は尋常ではない。
浅羽はごくん、と生唾を飲み込んだのだった。