山竝に風は鳴る
10
夕方頃、浅羽は会津公とともに江戸城西の丸を退出して会津藩邸の和田倉屋敷に戻った。
混乱を極めていた家臣たちは会津公の姿を見て一旦は落ち着いて出迎えたものの、詳細を話さないまま身を潜めるように部屋へ閉じこもってしまったため、さらに困惑して会津公を迎えに向かった浅羽と長輝が再び質問攻めとなった。
「江戸城の様子はどうだった?」
「上様は何と?」
「何故殿は何もおっしゃらぬのだ!」
江戸留守居役たちは会津公への憤懣をぶつけるように詰め寄ったが、そもそも会津公が口を閉ざしたのは長輝の考えだった。
『殿、今は事態を把握するべきです。恭順か抗戦か…些細なご発言で揚げ足を取られかねない状況で、これ以上家臣を混乱させては暴動へ繋がります』
『…わかった、修理に任せる』
会津公の代わりに矢面に立ったのは長輝だった。凛々しい表情で動じることなく留守居たちの声を受け止めた。
「殿はあくまで上様の御考えに従い、江戸へ戻ったまでのこと。これからについては追って沙汰があるでしょう。…まずは都から戻る兵たちを迎え入れる準備をしましょう。三田の下屋敷は広いですからそちらへ向かうように、それから藩医だけでなく医者を呼び手当てを…」
長輝は会津公の問題をひとまず棚上げして、都から続々と戻る兵たちを医学所や下屋敷へ移すように差配し始めた。留守居たちは渋々従って散り散りに去っていく。
浅羽は少し離れたところからその様子を見守っていたが、一区切りついたところで長輝がやって来た。
「浅羽さん、僕は勝海舟先生の元へ向かいます」
「勝先生の?」
「はい。おそらくあの方が今後の幕府の舵取りをされることになるでしょう。会津だけが不利益を被らないように善後策を講じなければなりません。…浅羽さんはどうか殿のお傍に。疲れておいででしたから」
「わかった」
長輝は会津公を託して、忙しない様子で屋敷を出て行った。
一時、長崎にいた長輝は陸軍奉行となる勝海舟と親交があるようで、この先は会津と上様のパイプ役を果たしていくのだろう。
(今は長輝に任せるしかない…が…)
長輝がいなくなった途端、屋敷からは不満の声が上がる。
「若造が、偉そうに…」
「上様を唆して大坂城を脱出させたのは会津だと指を指されたのだぞ」
「修理殿に任せてはますます恭順に傾くのではないか?」
「殿は一体何をお考えなのか…!」
長輝の動じない姿が反感を買うのだろう。浅羽は長輝の肩を持ちたかったが、かえって不満を持つ家臣たちを逆撫ですることになるだろうと思いその場を去ったところ、少し先に部屋に引きこもっているはずの会津公の姿があった。視線を落として立ち尽くしているように見えた。
「殿…?」
「…少し厠に出ただけだ」
「…」
会津公の表情は明らかに気落ちしていていた。家臣たちの陰口が耳に入ったのだろう…浅羽は背中を押すように会津公とともに部屋に戻った。
「…皆に不満があるのは当然だ。私は責められることは覚悟の上で和田倉屋敷に戻ったのだから、受け入れねばならぬ…」
「しかし…顔色が悪うございます。早くお休みになられては…?」
「このところよく眠れぬのだ」
会津公は脇息に身体を預けるようにしながらこめかみ辺りを指で押した。物憂げな横顔には影が差し、相当思い悩み、疲れが溜まっているのだろうと察することができた。
「…殿、茶をお入れいたしましょうか。それともお好きな香を焚きましょうか?きっと気が楽になります」
「いや…そういう気分にはなれぬ。なんというか、自分を慰めるよりも罰している方が楽なのだ」
「そのようなことを…」
浅羽は会津公が自分を責め、後悔し、何もかも背負い込もうとしている姿を見て心が痛んだ。かつて白鷺のように将来だけを見据えて、どんな役目でも引き受けて前へ進み続けて来たはずなのに、いまはそのすべてを否定するかのように意気消沈している。
浅羽は腰を浮かせ、会津公との距離を詰めた。
「殿、宜しければ胸の内をお話しいただけませんか」
「…話すことなどなにも…」
「大坂城で何があったのか、上様とどのようなやり取りをされたのか、そして何故江戸城へ帰還を決断されたのか…殿は事実だけを淡々とお話しくださいましたが、その時に殿がどう思われ、どのように苦しまれたのか…お聞きしておりません。お心を明かされれば少しは楽になりましょう」
「…」
会津公は最初はあまり気が進まなそうだったが、浅羽が「どうかお聞かせください」と食い下がったので重たい口を開いた。
「…最初は上様のご命令を拒んだが、越中守が折れたため私はようやく観念して船に乗り込んだ。しかし諦めきれずどうにか上様のお気持ちが変わらないかと一計を案じ、開陽丸で一日半周回したが…結局は上様のご決断は翻ることはなかった」
会津公は薄く笑った。
「しかし上様は実は再起するつもりはなく、恭順すると聞かされた時は、まるで崖から突き落とされたような気持ちになった。江戸での再起を信じ、それだけを大坂を脱する根拠だと思っていたのに…私はいったいどの面を下げて家臣たちの前に立てば良いのかと頭が真っ白になった。私は騙されたとは思わなかったが、自分が上様のお考えを見誤り決断を間違えたとは思った。…だからそのお話を聞いて酷く後悔し、そのまま甲板へ向かい…脇差を手にして自害しようとした」
「…!」
浅羽は思わず前のめりになったが、会津公は苦笑した。
「越中守に止められて取りやめた。家臣たちに言葉を尽くして謝らねばならぬと諭され、わかってくれる家臣だと信じて戻ったのだ」
「…勿論です。今は混乱していますが、きっと皆は殿のお立場を理解します」
「そうだとしたら…有難いが…」
浅羽の言葉に会津公は少しだけ安堵の表情を浮かべたが、すぐに遠い場所を見つめるようにしてため息をついた。
「前々から感じていたことだが、上様は私を嫌っておいでだ。理想ばかりを追い求めて簡単に命さえ擲つ会津の侍に共感できないとおっしゃっていた…合理性を欠いているとお思いなのだろう」
「…しかしそれは上様と徳川のために…」
「それが重たいのだと、頼んでいないのだとまで言われてしまった。会津が懸命に戦えばそれは結局『徳川のための戦』になる…上様はそれを危惧されていた。加えて二の丸での火事で兵が自害した光景を見て、もう懲り懲りだと悟られたのだそうだ。自分のために兵が死ぬのは不本意だと…そのお気持ちは一人の人としては至極真っ当なものなのかもしれない…」
「殿…」
浅羽には想像ができなかったが、上様や会津公のような立場になると共感できるのだろうか。会津公の心は上様の考えに靡いていたようだ。
「…私は上様のお心を聞き、無謀な戦で兵たちの命を費やすことの是非をずっと考えていたが…結論は出ないままで、今もわからない。…浅羽は兵の一人として、戦で死ぬことに躊躇いはないのか?」
「私ですか…」
「浅羽は会津の侍だろう?」
会津公は浅羽へ助言を求めるように視線を向けた。
上様はやり方は卑怯かもしれないが、実は慈悲深い面があり、人としては真っ当なのかもしれない。けれどそれが武家の頭領として相応しいかどうかはまた別の話だろう。
浅羽はまっすぐ会津公を見つめた。
「…理想のために死ぬのはそれほど悪でしょうか?」
「…」
「誰もが何かのために戦います。自分のため、家族のため、友人のため、使命のため、殿のため…勿論死に怯える者もいるでしょう、生き延びたいがために戦う者もいます。けれど理想のために殉じることを誇らしく思う侍もまたいる…会津は特に多いのかもしれませんが、一概にそれを否定される筋合いはあるのでしょうか…」
浅羽はこれまでの人生で何度か死を覚悟したが、その全てにおいて躊躇ったことはなかった。
(殿のためならば本望だと、それしかなかった)
そしてそんなふうに考えることすら疑問には思わず、命を賭して仕えるとはそういうことだと悟って生きてきたのだ。
それは、たとえ上様が否定されたとしても揺らぎようはない。
「…本物の会津の侍はそう思うのだろうな」
「殿は会津の魂を宿したご立派な会津藩主でいらっしゃいます」
「そうだと良いが…」
会津公は少し微笑んで頷いた。養子に入り藩主となったことは会津公にとっては越えられようもない壁なのかもしれない。
「…お前と話をしていると気持ちが落ち着いてきた。少しは眠れそうだ」
「それは何よりです。…あとのことは修理が何とか致します、殿はお休みください」
浅羽は頭を下げ、部屋から去ろうとしたのだが、
「浅羽は私に何か話があるのではないのか?」
と引き止められてしまった。会津公の疲れた様子を見て後日でいいと思っていたのだが、察しの良い上司はすぐに見破ってしまった。
「…いえ、急ぐ話ではありませんし…また明日にでも…」
「気になって眠れぬ」
「…その、」
浅羽が言い淀んだのは会津公から賜った根付けを盗まれてしまったことだ。どう詫びたら良いのかと考えあぐねていたがここまで促されては逃げられないと浅羽が口を開いた時、急に部屋の外が騒がしくなった。
浅羽が部屋を出て様子を伺うと、留守居役たちが引き止めるのを振り払いながら、薄暗闇の中を突き進むように一人の男がこちらにやってきたのだ。
「…佐川…」
「殿とお話ししたい」
大坂城で別れ、全てを任せた佐川官兵衛が鬼気迫る表情で眉根を寄せてそこに立っていた。