山竝に風は鳴る
11
会津公は当然、拒むことなく佐川を招き入れた。浅羽は席を外そうとしたが、
「お前もここにいろ」
と佐川に強く言いつけられ、とても断れる様子ではなく二人の間に留まることになった。
佐川の表情は会津公を目の前にしても変わることはなく、むしろ火山が噴火する前の静けさのような憤怒を感じた。浅羽が佐川に兵を託して城を去ったのは十日ほど前だが、彼の姿はまるで別人のように窶れ土埃まみれ。けれど眼光だけは鋭い。
会津公は最初から
「…家臣たちを残し、大坂城を出たことは悔やんでも悔やみきれぬ。苦労をかけてすまない」
と謝ったが、佐川は
「殿、どうか今すぐに負傷しながら命からがら戻った兵たちの元へ足をお運びください。それがどれほどの兵の慰めになるのか…」
「…今はできぬ」
長輝の考えで、会津公は表には出ないように努めているところだ。会津公は申し訳なさそうに断ったのだが、佐川は眉を吊り上げてさらに怒りを露わにした。
「いえ、今すぐです!…やはり、殿は何もわかっていらっしゃらない…!」
「佐川、言葉を慎め」
浅羽は無礼な物言いを咎めたが、会津公は「良い」と首を横に振ったので引き下がった。
「…もちろん皆を見舞いたいと思っている。しかし、今の私の立場では易々と屋敷を離れられぬのだ。状況が落ち着けば必ず足を運ぶ…どうか許してほしい」
「殿、まだお分かりにならぬのですか。我々が…あの日からどれほどの苦境に立たされたか、一度でも想像されましたか?…夜が明け、上様と殿のお姿がないと噂が広まり、会津藩兵は諸藩から責められました。神保が江戸で立て直すべきだと訴えていたことが城中の話題に上がり、会津が唆したのではないかと問いただされた…けれど我々とて殿の不在を信じられず右往左往するばかり。失望と絶望の中で何かの間違いであれと願い、負傷者は船に乗り、他の者は陸路でどうにか紀州へ向かったのです」
佐川は道中のことを語り始めた。
徳川が負けたと巷に話が広まった途端、大坂から敗走する兵たちは常に身の危険に晒され、残党狩りや落武者狩りに遭い、理不尽に命を奪われてしまう者もいた。けれどそれでも主君に従い江戸に帰らなければと皆手を取り合って必死に生き延びた。
「皆、正月明けからの戦で疲れ果てほとんど飲まず食わずでした。大坂城で休めたのはほんのつかのま束の間…満身創痍でどうにか紀州に辿り着くも、そこには多くの徳川の敗走兵が押し寄せ大混乱していました。けれど紀州は敗戦の知らせを受けて、我々を忌避するように手を貸そうとはしなかった。あの御三家さえ徳川を見捨てるのか…我々は見捨てられた兵なのだと、皆で落胆したのです」
「そんなこと、は…!」
会津公は青ざめて声は震えていた。しかし佐川はさらに語気を強めた。
「けれどそのようなことは二の次です。皆はすでに疲労困憊、寒さと飢えに泣き、水を求めました。けれどあまりに多くの兵が押し寄せ、十分に行き渡らず…極寒の夜が続き、百二十名餓死しました」
「…!」
「私は…その亡骸の埋葬を紀州の寺に頼みました。果敢に戦を生き抜いた兵たちが、不本意に絶望の中で飢え死ぬ…それは戦よりよほど過酷な地獄…いえ、いっそ玉砕したとしても戦で死ぬ方がマシだというくらいです」
会津公は唖然として言葉が出ないのを見かねて、佐川は語気を荒げた。
「殿はご存じないでしょう!これは殿が招いたことなのです!どのような事情であれ、殿が戦を指揮してくだされば兵たちはこのような形で死ぬことはなかった!」
「佐川!」
浅羽はいよいよ我慢できなくなり身を乗り出して、佐川の肩を強く掴んだ。会津公は現場の悲惨さを想像し、口元を片手で押さえ小さく震えながら俯いている。
佐川はようやく息をついて、「離せ」と浅羽の手を払いのけた。
「紀州藩が用意した蜜柑船に乗り込み、三千の兵がようやく江戸に戻りました。上様の御為…そして殿の御為、ただそれだけに!」
「佐川…すまない、本当に…申し訳ない…」
「私に謝罪など必要ありませぬ!むしろ、私は全員を無事に江戸へ戻すことができなかった…愚かな上官でしかありません。ですが、懸命に生き延びた兵たちには何の罪もありませぬ。この状況においても殿の御無事を祈り続けているのです…!それなのに何故、ここから動かぬと…そのような非道なことをおっしゃるのですか!兵たちは今この時も待っています!」
佐川の叱責は部屋中に轟き、会津公には返す言葉もない。
浅羽もまた会津藩兵を佐川に任せ、一足先に江戸に戻った身だ。とても会津公を責め続ける佐川を止める権利などないのかもしれないが、それでも小姓頭として口を出さずにはいられなかった。
「…佐川、殿は決して積極的に江戸へ戻られたのではない。やむを得ない事情で上様に強引に乗船させられたのだ」
「結局江戸へ戻られたのなら同じこと。…それに、浅羽…お前とて責められるべき立場だ。このような重大な事情を知りながら我々に真相を伏せ、神保とともに城を去った…お前が去り際に『何もかも会津のためだ』と言ったことは覚えているか?だが、見てみろ…結局会津のためになったのか?何人も失意の中で死んだというのに!」
「あの時は…」
佐川から矛先を向けられ、浅羽は何を言えばいいのか、何もかもが空々しい言い訳になってしまう気がしてしまった。佐川は決して個人的な感情ではなく、命令に従うしかない弱い立場の兵たちを思いやって声を荒げているのだとわかるからこそ余計苦しいのだ。
佐川は吐き捨てるように呟く。
「ふっ…結局は神保の野郎の言葉を信じた俺が愚かだった…」
「長輝は何も…」
するとバタバタと騒がしい足音が聞こえ、「失礼いたします」と返答を待たずに長輝が部屋に入った。
「…長輝…勝先生の元へ向かったのでは…?」
「勝先生は御不在でした。それに佐川が鬼のような形相で屋敷に乗り込んできたと知らせを聞き、急いで戻りました」
長輝は俯いたままの会津公と、困惑する浅羽、そして長輝を睨みつけている佐川の様子を見てこの状況を察した。
長輝は殿を背にして膝を折り、佐川と対峙した。
「…佐川、僕は殿に怒りをぶつけるのはお門違いだと思う。上様は江戸で必ず再起すると殿を唆し、会津兵の戦意を削ぐために殿を連れ立って大坂城を離れたのだ。すべては上様の企てだ」
「はっ…お前がそれを口にするとは、ちゃんちゃら可笑しい。そもそも上様が大坂城を出る要因となったのは、お前がそのように進言したからだろう!」
「僕はこのような乱暴なやり方を進言したわけではない。ただ皆で江戸へ向かい、再起をはかるべきだと…」
「信じられるものか。お前の安易な言葉一つでどれほどの命が散ったのか、まだわからないのか!」
「佐川こそ冷静に考えるべきだ。僕の言葉などで上様が動かれるものか!」
「もうよい」
熱くなる二人のやり取りを止めたのは会津公だった。悲し気な眼差しで二人を見て、「もうよい」ともう一度口にした。
「殿…」
「…佐川、修理に責任を押し付けるべきではない。すべては私の過ちだ。兵たちがそれほど苦しむことを想像できず、安易に上様の命令に従った…それだけが揺ぎない事実だ。責められるべきは私だけだ」
「殿、それは違います!すべては上様の謀でしょう!」
長輝は否定したが、殿は小さく微笑んで首を横に振った。
「…必ず、皆の裁きは受ける。落ち着き次第兵たちを見舞う。申し訳ないが兵たちにはそのように伝えてほしい。…今宵はそれで終わりにしよう、佐川も疲れているはずだ…ゆっくり休んでくれ」
会津公は佐川の叱責を受け止めて穏やかな口調で労われた。佐川も我に返ったのか少し居心地悪そうに視線を泳がせた後に、「失礼します」と部屋を出て行った。
浅羽はそれまで口を挟むことなかったが、
「少し佐川に話してくる」
と会津公を長輝に任せて佐川を追った。
もうすっかり日が暮れていてあちこちに松明が灯っている。佐川はすでに屋敷を出ていたので、浅羽はその背中に駆け寄った。
「佐川、待ってくれ」
「…話ならもうない。…酷く疲れたんだ…」
佐川の口調には怒りは無かった。彼はすべての感情を吐き出して抜け殻になってしまったように背を丸め、脱力していたのだ。
「俺を責めに来たのだろう?殿に対して出過ぎた真似だとわかっている…罰なら甘んじて受けるつもりだ」
「違う。…佐川の話を聞いて、私も周りが見えていなかったことに気が付いた。殿のことばかりで精一杯で…兵たちがそのような苦境に立たされているなんて思いも寄らず…あの時は言葉足らずで申し訳なかった」
「…俺は、殿が兵の元へ向かいたいとおっしゃってくださったなら、あそこまでは言わなかった」
「いま殿は難しいお立場に立たされている…。けれど、殿は必ず約束は守る御方だ、必ず見舞いに行くと兵たちにはそのように伝えてほしい」
佐川は硬い表情で「わかっている」と答えた。義理堅く人望ある会津公が約束を違うはずがないともちろん頭ではわかっていても、無念のなかで亡くなった兵を思うと佐川はこうして直談判をせざるを得なかったのだろう。
「…もう一つ頼みがある。どうか殿を責めるのはこれきりにしてほしい。殿は…十分、傷つかれている。上様に振り回され、家臣からの信頼を失い、板挟みになり…苦しまれ、船上で自害を考えられたほどだ」
「何…?」
佐川の目の色が変わった。
「詳しいことはわからぬ、殿も話されないだろう。…知っている通り殿は決して壮健なお身体とは言えず、京都守護のお役目も体調を騙しながら続けて来られたのだ。このようなことになりますます疲れ果てていらっしゃる。どうかしばらく状況が落ち着くまで待ってほしい」
「ああ…わかった」
佐川は素直に頷いた。佐川も会津公を心酔する家臣であるからこそ、裏切られたという気持ちを抱き言い方が厳しくなってしまったのだろう。
するとそこへ長輝も追ってきた。
「佐川」
「…お前の話は聞かぬ」
「一つだけだ。僕は決して上様を唆してはいないが、この会津で責められるべきは僕だけだ。そこのところを決して見誤るな」
「…」
佐川は長輝の言葉をどう受け止めたのか…何も答えずに浅羽へ「戻る」と短く告げて改めて去っていった。