山竝に風は鳴る
12
江戸城で上様の意向通りに恭順へと傾くにつれ、他藩から会津へ向けられる眼差しもまた厳しくなっていった。
和田倉屋敷で人目を避けるように閉じこもっていた会津公だったが、江戸城にほど近い場所では身の危険があるとして、一旦弟である定敬の桑名藩の屋敷に身を潜め、その後は警備を厳重にしたうえで会津中屋敷へ移った。中屋敷とは上屋敷(和田倉屋敷)の控え屋敷として使用され、主に登城しない時の会津公の居住地であるため慣れ親しんだ場所で幾分か穏やかに過ごすことができるだろう。浅羽は当然、小姓として会津公の向かう場所に同行した。
「皆の様子はどうだった?」
会津中屋敷は三万坪弱の広大な屋敷だ。都から引き揚げて来た兵たちが続々と帰還し、負傷者百二十名が屋敷の南側、芝新銭座町側の敷地に収容されている。浅羽はその様子を見て来たのだが、ありのままを伝えるしかなかった。
「…やはり先日の件が尾を引いているようでした」
「そうか…」
会津公は文机に向かいながらため息を付いた。
数日前の会津公が桑名の屋敷に身を置いていた頃、突然上様が供を連れてこの中屋敷を訪れたのだ。上様は怪我人の見舞いのつもりだったようだが、戦地に取り残され怪我を負いながら過酷な環境を生き抜きようやく江戸に辿り着いた負傷兵たちは憤りを隠せず反発し、上様はすごすごと引き下がったという。それ以来、会津藩内でも主戦論が高まっていた。
「…上様がどのようなおつもりだったのかはわからぬが、きっと私に会いに来たのだろう。私が桑名の屋敷にいたばかりに兵たちの気分を害することになってしまったな…」
「殿、何度も申し上げますが、そのように何もかもご自分のせいだとお考えになるべきではありません。上様は前触れもなくお越しになったのですから」
「そうだな…」
浅羽は何かと責任を感じて気落ちしてしまう会津公を励ますためにこのところは強い物言いで接していたのだが、それでも会津公の気持ちはなかなか浮上することはなかった。唯一、気分が晴れて穏やかになったのは新撰組の近藤が訪れた時くらいだ。
「近藤殿を呼びましょうか?」
「いや…近藤は何かと忙しかろう。それに新撰組と会津ではおかれている立場や進む道が違うのだ…近藤の邪魔になってはならぬ」
「邪魔など…」
「良いのだ」
忠誠心の塊のような近藤がそのようなことを思うはずがないと会津公もわかってはいるだろうが、長い間非難に晒されて心が疲弊してしまっているようだ。
会津公は文机に開いていた本を閉じ、傍らに積み上げた。
「浅羽、悪いがこの書物の続きを頼む」
「は…かしこまりました」
浅羽は部屋を出て書庫へ向かった。
会津公はこの半月ほどで書庫の本をほとんど読み終えてしまった。藩主となって以来忙しく日々を過ごしていたが、もともとは静かに書物と向き合うのが好きな性分であった。若き後継者として会津で過ごしていた頃、麗しく涼しい眼差しがただただ本の文字を追っていた姿を覚えている。
(ここの書物では足らぬな…貸本屋を巡ってみようか)
浅羽は本棚を前に考え込むが、これほどの蔵書があってここにないものが巷にあるのだろうか…と、そんなことを考えていると。
「浅羽殿」
と、背後から声を掛けられた。振り返るとそこにいたのは同じ小姓を勤める者たちが、険しい表情で浅羽を睨んでいた。
浅羽は恭順派とみなされている長輝とともにいち早く江戸に戻り会津公の傍に侍ったことで、同類として周囲の怒りを買っていた。そのためこのような眼差しで身内から睨まれることは慣れていたが、立場は小姓頭の浅羽の方が上だ。
「…何用だ?」
「大坂城脱出の折、御宸翰を持ち出したそうですね?」
「御宸翰に殿以外が触れるなど以ての外」
「そのあたりのご事情をお聞かせいただけますか」
腰は低いが、口調は厳しく浅羽を責めていた。
「…確かに御宸翰を持ち出したのは習わしに背いた勝手な行為である。心配をかけたことはお詫びする」
先帝から賜った御宸翰が会津藩にとってどれほど重要な意味があるのか…浅羽は理解していたため彼らの憤りは尤もだと思い、素直に罪を認めて詫びた。しかし動じない態度が癇に障ったのか、彼らはさらに攻撃的になった。
「万が一、紛失などあらば首だけでは済まぬ。本来であれば大坂城に置き、皆の判断を仰ぐべきであったでしょう」
「勝手な振る舞いをした貴殿が小姓頭など、相応しいと言えるのでしょうか」
彼らは強い口調で浅羽に詰め寄った。
彼らの言う通り、冷静に考えれば御宸翰を持ち出すことは重罪であり会津藩を裏切る行為に等しいだろう。しかしあの時は非常時であり、置き去りにして紛失したとなれば会津公の責を問われることとなったはずだ。新政府軍に悪用される危険もあった。
浅羽は冷静な対処ができなかったことは後悔したが、愚かなことをしたとまでは思わなかった。しかし何を言い訳したところで聞き届けられないだろうと諦めて甘んじて罵られることを受け入れた。
「申し訳ございませんでした。役目のことは殿にご相談して…」
「謝って済むのでしょうか!」
「勝手な行動で藩の風紀を乱している。殿のお傍に侍るべきではない」
「自ら身を引くべきでは?」
なかなか気が済まない小姓たちは浅羽を取り囲んで責めたのだが、
「そのようなことは考えずとも良い」
と、急に会津公が現れて小姓たちは驚いて後ずさった。会津公はその端正な顔を歪められ、普段は見せない怒りを露骨に見せていた。
「殿…!」
「寄ってたかって一人を責めるような真似は会津の掟に反する。…御宸翰の件が納得できぬのなら浅羽には書面で経緯を報告させる。それでよいか?」
小姓たちは会津公が急に現れて浅羽を庇ったので、居心地悪そうに身を潜め、頭を下げてバタバタと去っていった。
「…殿。あのような真似はますます彼らを苛立たせます」
「だからと言ってお前が言いがかりをつけられるのは我慢ならぬ。…御宸翰は私がわざと置いていったのだ。あの時私には御宸翰を持ち出す勇気などなかった…浅羽なら無事に届けてくれると信じていたのだ」
「…わかっております」
「だがそれでお前が責められるのならば、私がお前に詫びねばならぬ」
「その必要はありません。…大役をお任せいただいたこと、光栄に思っております。けれど彼らの言い分は尤もであると思いますので、先ほど殿がおっしゃとおり御宸翰の件は書面にて皆に報告いたします。さすれば彼らも納得するでしょう」
浅羽の本心だった。たとえ誰に責められても、御宸翰を運ぶ大役を担い、途中トラブルはあったものの無事に会津公の元へ届けられたのだから。たとえ多少の規則に反したとしても会津公の思いを受け止めることの方が浅羽にとっては大切だった。
けれど会津公はまだ責任を感じているようだったので、浅羽は話を切り上げた。
「御所望の続きはこの三冊ですが、これ以外にはもうすべて目を通されたのではありませんか?宜しければ貸本屋などに出向き、探してまいりますが」
「…いや、もうよい。ここにある本を二度でも三度でも読めば良いのだ。このような非常時に私が贅沢をすべき時ではなかろう」
「さようでございますか…」
浅羽には些細なことを思うが、今の会津公にとっては本一冊を求めることすら贅沢に受け取ってしまうようで、言いようのない虚しさがあった。
「ではお持ちいたします。…ここは寒うございますので、お部屋に戻りましょう」
「…」
「殿?」
会津公は突然二、三歩歩いて浅羽に近づき、じぃっと見つめた。書庫という狭い空間で距離を縮められ浅羽は戸惑いながら後ずさりするが、浅羽の背後には書棚がありもう逃げ場がない。しばらくそうしていたが、会津公は何も口にせず考え込んでいるようだった。
「殿、どうされました…」
「……いや…」
殿は掠れた声で答えた後、何故だかとても淋しそうな顔をしてそのまま踵を返した。
(殿…?)
浅羽は意図が分からず、呆然とその背中を見つめるしかなかった。
その晩ゆらゆら揺れる灯りの元、浅羽は早速机に向かい御宸翰の件について報告書をまとめていたが、時折その筆が止まっていた。
(殿はどうされたのだろうか…)
あの後、続きの書物を届けたところ
『今日はもう良い』
と人払いをされてまた部屋に閉じこもってしまった。書物を読んでいる時でも浅羽を傍に置いてくれていたのに、視線すら交わさずに拒まれてしまい浅羽は狼狽えてしまった。
「何か拙いことをしてしまったのだろうか…」
思い当たるのは書庫でのことだが、小姓たちの不興を買ってしまいひたすらに詫びたことが気に入らなかったのか、何か他に失言をしてしまったのだろうか。あるいはこのところ強い物言いで殿を励ましていたことに嫌気が差したのだろうか。
(あまり殿をおひとりにしたくないのだが…)
会津公は周囲からの強い非難を真正面から受け止めてしまうところがあり、時折思い詰めたように物思いに耽っていることがある。その時には必ず声を掛けるようにして気を紛らわせようとしていたが、そんな浅羽を疎ましく思ったのだろうか…。
(しかしそれほど器の小さき御方ではないのだが…)
その時、ガタン、と小さな物音が聞こえた。
浅羽は灯りを手にしてサッと立ち上がり部屋を出て警戒しながら様子を窺うと、ふらふらとこちらにやってくる人影が見えた。
「…長輝…?」
「浅羽さん…」
灯りを翳すと長輝は肩のあたりを押さえ、その表情は痛みに歪んでいた。
「何があった?!」
「大事にしないでください。…部屋に入れてもらえますか?」
「あ、ああ」
浅羽は長輝の身体を指さながら元いた部屋に戻った。長輝は「いてて…」とゆっくりと膝を折って座った。浅羽がその背中に周ると肩口に血が滲んでいた。
「斬られたのか?」
「…ええ、まあ。でも浅手ですから…じきに血は止まると思いますが」
「待っていてくれ」
浅羽は自分の行李から消毒用のアルコールと綿の布を取り出した。小姓としていつでも怪我に対処できるように普段から備えているもので、長輝もそれを見越して浅羽を訪ねてきたのだろう。
浅羽が傷口を確かめると、確かに長輝の言う通り浅手ですでに血が止まっているようだったので簡単な処置をして横になるように座布団を枕にした。
「…誰にやられたんだ?」
「さあ…主戦派の歩兵か、他藩の浪人か、もしくは身内の会津か…僕にはわかりません」
「…」
その中に身内の会津が含まれていることが残念であったが、長輝を取り巻く状況を鑑みると当然だろう。
江戸城の重臣たちが恭順へと動き始めたことで、会津公だけではなく、上様に恭順を進めたと噂されている長輝の立場も日に日に悪くなっているのだ。さらに大坂から引き揚げて来た敗残兵たちの不満の矛先が長輝に向けられてしまい、彼には味方が殆どいない。
「…長輝、一度身を潜めてはどうだ?このままでは命に関わる」
「それはできません。…この際、僕が恭順を進言したかということはもうどうでもいい。僕のやるべきことは会津の名誉を回復するために上様に訴え、西国の知人たちを通じて決して会津だけが敗戦の責任を問われることがないように働きかける。…それは僕にしかできませんから」
長輝の言う通り、徳川の重臣から西国の志士まで顔が利くのは彼しかいない。それを本人は良くわかっていて他人の悪意と鬱憤に囲まれても会津のために奔走しているのだ。浅羽は気休めの励まししかできなかった。
「…いつか皆が理解してくれるはずだ」
「そうだと良いですが、いまはなかなか理解されないでしょう。それに…僕はどれだけ責められても良いのですが、決して殿が責められることがあってはなりませんから」
長輝は会津公が大坂城を脱出することになった経緯について、まだ受け入れがたいと思っているようで、会津公が戦場から逃げ出したという間違った風聞を方々で否定して回っているそうだ。
すると、今度はドンドンドンと荒い足音が近づいてきた。静かな夜に響いてしまうがその主は遠慮なく浅羽の部屋にやってきて、遠慮なく障子を開けた。
「…佐川?」
鬼佐川の渾名に相応しく、顔を歪めた佐川が仁王立ちで二人を見下ろした。長輝は佐川の登場に「なんですか、もう…」とうんざりしつつ、傷を庇いながら体を起こした。長輝と佐川は犬猿の仲なのでこれから口論が始まるのだろう…と浅羽も覚悟したのだが、佐川は思わぬことを口にした。
「お前を襲った者を捕まえた。今は牢にぶち込んでいる」
「…僕を?」
「神保修理を懲らしめたと鼻高々に報告していたからな。…奴は会津の恥さらしだ、どうにでもしろ」
佐川はあくまで会津藩士として相応しくない者を懲らしめただけという言い方をしたが、それでも普段からいがみ合う長輝のためにひと働きしたのだ。佐川は主戦派であるが、公平な人間だ。
「…ありがとう。でも…その者を檻から出してやってくれ。僕は大事にするつもりはないし、鬼佐川に檻に放り込まれただけで十分罰を与えられている」
「ふん…相変わらずの品行方正ぶりだな」
「僕のことを品行方正だと思っていたのか?買いかぶりすぎだ」
「買いかぶってなどいない。…朝までは檻に入れておく」
佐川は眉間に深い皺を刻み、「邪魔をした」とさっさと去って行ってしまった。相変わらず不愛想だがこんな夜更けにわざわざ長輝を探して報告しにやってきたのだ。
「僕のことなんて放って置けばいいのに…」
「佐川はああいう奴だよ」
「…知ってます。だから憎めないんですよねぇ…」
長輝は苦笑しながらもう一度身体を横たえたのだった。