山竝に風は鳴る
13
一月末。
容保は自室に籠って書物と向き合っていた。
もともと庶子の六男として生まれた身では表舞台に立つことなどあるはずがないとタカをくくっていたが、叔父の養子となってから運命が定まった。ゆくゆくは会津藩主となる…安穏としていた暮らしはすべて代わり、容保は和田倉屋敷へ移り叔父で養父、先代の藩主容敬から会津の家風を叩きこまれ、懸命に文武を修めることとなった。特に徳川への絶対的な追従―――会津家訓の薫陶を受け、自分でも驚くほどの共感を覚えた。
(会津藩主となる定めならば…付け焼刃ではだめだ)
その頃から自分自身を力量を高めるために、時間があれば書物と向き合う習慣ができたのだ。
そして十六で会津へ赴き、十七で養父の死去を受けて藩主となった。それからは慌ただしくて時間がなく、
(思う存分書物を読みたい)
と思うことがあってもなかなか実現はしなかったのだが。
「…こんな形で実現しても、嬉しくはないな…」
容保は自嘲するしかない。屋敷の書庫の書物は読みつくし、既に二週目となった。浅羽は巷の貸本屋を訪ねようと気遣ってくれたが、その気にはなれずに断った。そもそも怪我に苦しむ家臣にろくに見舞いもせず、書物ばかり読み耽っている自分の姿が周りにどう見えているのだろうか―――。
「……」
容保は読みかけの書物を閉じて、深くゆっくりと息を吐いた。
こんな時に話し相手になってくれていた浅羽は、容保自身が遠ざけたことによってここにはいない。広い部屋はしんと静まり空気は冷え切って、まるで誰もいないかのような静寂に包まれていた。
浅羽と初めて会ったのは容保が会津に赴いた時だった。容保より四歳年上で、凛とした容貌に美しく反り上げたいかにも武士として相応しい姿が目に焼き付いた。養父から『浅羽が引き続きお前の小姓となる』と告げられ長い付き合いになるだろうと思っていたのだが、出会った時の二十歳そこらの浅羽は容保にとって冷静沈着な大人でいつも涼しい顔をして卒なく物事をこなす…まるで手本のような会津藩士であった。若輩者の自分が彼にあれこれ指示することには少し抵抗があったが、浅羽はいつも先回りして対処し容保の期待に応え続けてくれたため、藩主と小姓として深い信頼関係を築くことができたのだ。
特に京都守護職に就いてからは良き相談相手として、心のうちを隠すことなく吐露してきた。浅羽はそれをいつも穏やかに受け止めてくれていたが…ある時、ふいに苦悶に満ちた表情を浮かべるようになり、浅羽の本心が分からなくなってしまったことがあったが、まさかその裏で上様の暗殺を考えているとは思いも寄らなかった。
「ふっ…いまとなっては、信じられぬな…」
浅羽がどうしてそこまで思い詰めたのか…きっと自分が弱音を吐き何もかもを彼に打ち明けてしまったせいだろうと思った。浅羽への申し訳なさはあったが、それは浅羽の会津への忠誠心故の行動であり、容保はより一層浅羽を信用することになった出来事だった。
だから、御宸翰を託した。
(いや…託したなど、そんな綺麗ごとではない。自分でできないからと押し付けたのだ…)
けれどそのせいで、藩内で浅羽が責められることになるとは思いも寄らなかった。先日、浅羽は『見晴しの書面』を出して身の潔白を訴えたが、藩内でどう受け止められたのかはわからない。今頃は御宸翰を持ち出したことを後悔しているかもしれない。
(浅羽はほとほと私に呆れたことだろう…)
戦の先陣に立つつもりが、上様とともに大坂城を離れ藩内外から非難を浴び、いまは神保にすべてを任せて身を潜めている…こんな情けない姿を浅羽がどう思っているのか気がかりだったのだが、聞くに聞けずにいた…あの時までは。
「……」
容保は書庫でのことを思い出す。浅羽を囲って責めていた小姓たちが逃げるように去ったが、浅羽は特に気に病む様子はなく書物を手にいつも通り接した。その時に容保は気が付いてしまったのだ。
(…根付がない…)
かつて珊瑚の根付を朝顔に彫らせて浅羽に贈ったことがあった。無欲な彼へ日頃の働きに報いるための贈り物で、大層喜び常に身に着けて離さなかったのだが…いまはそれがなかったのだ。
容保は頭が真っ白になってしまった。浅羽が江戸へ戻ってから何か言いたげにしていたのも、自分への不満があってけれど彼の性格では口にはできずに、根付を外すという遠回しな行動に出たのではないか…そう思ってしまったのだ。
(浅羽に限ってそのような真似はしない…)
江戸に戻ってから浅羽は容保に対してはっきりと意見し、遠回しに伝えるような婉曲なことはしなかった。気落ちしそうになるたびに叱咤激励してくれたおかげで生き永らえたような気さえしていたのに。
本音では浅羽の重荷になっていたのだろうか…自分を省みてすぐに理解した。
「…当たり前だ…」
朝敵として罪二等となった自分にどんな価値があるのだろう。それでも浅羽はただ自分の仕事として支えてくれていたのに、甘えすぎてしまったのではないか―――。
(浅羽を解放してやらねばならぬ…)
容保は決意した。
一月末には板倉勝静が老中を辞任、上様は御三家にご自身の隠居・恭順を告げられ、徳川は恭順の道を歩み始めていた。しかし対する官軍は、二月になると帝による親征の詔が発布、諸国に中立を促し、征討軍を出立させるなど着々と江戸での決戦に向かっていた。
そしてその頃には神保修理こと長輝が鳥羽伏見の敗戦を招いた張本人として名が広まってしまっていたのだ。
「あれをどうにかしてくれ」
佐川が浅羽を訪ねるなり、そう切り出した。
「あれとは、長輝のことか?」
「そうだ。悪目立ちしているというのに、あちこちと駆け回り平気で人前に出る。先日襲われたというのに全く懲りていない」
「ああ…」
浅羽は嘆息した。長輝は会津のためにこれまでの人脈を駆使し江戸城に登城して会津公の無実を訴えているが、そうすればするほど悪目立ちしてしまっている。いまや、西国に知り合いの多い長輝こそがが上様を唆して敵前逃亡させたなどと噂され、責任を求める声すら上がっているのだ。そしてそれは彼を公用人として任命した会津公にも及んでいる。
「…長輝は長輝で信念をもって動いているのだろう。身の回りを気を付けるように言っているが…」
「迷惑だ。真実ではない憶測などやがて消えてなくなる…放って置けば良いものを、いちいち訂正して回るから余計傷口を広げるのがわからないのか。世間知らずめ」
犬猿の仲の佐川は毒づくが、浅羽はこれまで長輝の言動を鑑みて彼がわざとそのように振舞っているような気がしていた。
「長輝は上様へ江戸で再起するべきと進言したことに責任を感じている。それが殿にまで累が及ぶことになり、ますます自らの手で収めなければならないと決意しているのだろう。兵たちから蔑まれても表舞台に出続けるのは、自らが非難の標的となり殿をお守りするためだ」
「無茶なことを。…しかしこのままでは藩内で居場所はなくなる。あれでも家老の倅なのだぞ」
「長輝は会津の侍だ。己の立場など二の次、きっと保身など考えておらぬだろう」
「…だからといって、勝安房守と頻繁に会っては良からぬ噂は消えぬ。会津のためにならぬ」
「勝先生か…」
長輝はかつて長崎に向かい西国の志士たちと交わった。そのなかに恭順派の急先鋒で陸軍奉行の勝海舟もいて、長輝は何度も勝を訪ねては会津の処遇について訴えているそうだ。長輝としては、江戸城で大きな権力を握る勝に窮状を訴えるのは尤も手っ取り早い方法ではあるが、そのせいで会津が恭順に賛同しているという話が広まってしまうのだ。それが藩内の主戦派を刺激してしまい、長輝は八方塞だ。
佐川は難しい顔で腕を組んだ。彼は長輝のことを毛嫌いしているが優秀な好敵手として認めている。考えは真逆で物言いは荒いものの彼なりに長輝の身を案じているのだ。
「このままでは主戦派を抑えきれぬ。浅羽、殿に奴をお諫めしてもらってくれ」
「…すまないが、私は殿に遠ざけられている」
「お前が?…まさか御宸翰の件で?」
「さあ…殿は何もおっしゃらぬのだ」
大坂城から御宸翰を持ち出した件については『見晴らしの書面』を提出し、身の潔白を訴えた。しかし長輝の悪評が高まるにつれて、同行した浅羽も白い目で見られてしまい立場は良くないままだ。浅羽は自分に向けられる眼差しを気にしていなかったが、会津公の傍に侍る資格はないと思い、会津公から呼ばれるまでは距離を取ることにしていたところ全く声がかからないまま数日が過ぎていた。
佐川は眉間に皺を寄せた。
「いや…殿はお前が御宸翰を持ちだしたことについて、皆の前では庇っていたぞ。むしろ骨を折って江戸まで持参した浅羽をとやかく言う者はいかがなものかと諭していたくらいだ」
「…そうなのか…。だったら余計わからぬ…」
浅羽は困惑した。佐川も会津公が最も信頼を寄せている浅羽が遠ざけられている理由がわからず唸るしかない。
そうしていると別の小姓がやってきて、会津公が佐川を呼んでいると言う。
「浅羽、お前も来い」
「え?いや、しかし…」
「お前はまだ小姓頭なのだろう。殿の傍に侍っても何の問題もない」
「…だが、殿の気分を害すような真似は…」
「いいから、一緒に来い」
浅羽は迷ったが、佐川が強引に腕を引くので「わかったわかった」と仕方なく了承した。部屋に籠りっきりの会津公の様子は気になっていたし、遠ざけられている理由があるのなら知りたかったのだ。
(理由次第では進退を考えよう…)
浅羽はそんな決心をしながら佐川とともに会津公の元へ出向いた。会津公は浅羽の姿を見つけると少し躊躇いながらも拒みはせず、「入れ」と二人を招き入れた。浅羽は佐川の後ろに座り、会津公の様子を窺ったが今日は静かな笑みを浮かべていた。
「佐川、兵たちの様子はどうだ?」
「ようやく落ち着いてきました。殿のお計らいで皆医者に診てもらい、滋養のある食事を摂ることができ、温かい布団で休んでおります」
「…そうか。そろそろお前との約束を果たすためにも兵たちの見舞いに出向こうと思うが、どうだろうか?」
「皆、喜びましょう」
会津の敗残兵が江戸に戻って半月ほど経った。最初は置き去りにされた失望と怒りで兵たちは燻ぶっていたが、衣食住の環境が整ったことで今はそれも落ち着き主君である会津公の御顔を見たいという声が上がっていたのだ。
「…そうか。だが、兵たちに会う前に私も身の回りのことにけじめをつけようと思う」
「けじめ、ですか」
「家督を喜徳に譲る」
「!」
佐川は目を見開き驚いたが、それまで黙っていた浅羽は
「殿、お待ちください!」
と叫んでいた。遠ざけられ遠慮していた気持ちが一切なくなり、佐川を押しのけて前のめりになって訴えた。
「この度のことで殿が家督を譲られるのは仕方なきことかもしれませぬ。しかし、喜徳様は御養子で斉昭公の十八男…上様の弟君でいらっしゃいます!」
「私に実子がいないのだから喜徳が就くのは当然だろう」
「恐れながら!この時に上様の弟君が会津藩主となれば家臣たちの不興を買いましょう!それに喜徳様は御養子になられて一年にもならず、まだ家訓のご理解も及ばず…」
「お前が教えれば良い。…私に教えたように、お前が会津の生き方を示し、傍で支えればよい。喜徳は上様に似て聡明だ」
「…それは…」
浅羽は唖然としたが裏腹に会津公は穏やかに見据えて淡々と口にした。
「私は隠居する。お前は小姓頭として喜徳を支えてやってほしい」
「…!」
浅羽の胸に沸きあがってくる感情にどんな名前が当てはまるのかわからない。
ただ息苦しくふるふると震える拳を握りしめて、その痛みに耐えることしかできなかった―――。