山竝に風は鳴る
14
長崎の海を眺めながら、どこまでも続く海の果てに行ってみたいと思った。
けれどそう思った次の瞬間には己は故郷に尽くすために生まれたのだから、君恩に報いない限りどこにも行けぬと悟った。
会津に生きるとはそういうことだ。
この身を縛るのは鎖ではない、誇りなのだ―――。
二月四日、容保は家督を喜徳へ譲った。
喜徳は上様の弟で水戸徳川斉昭の十九男、弱冠十三の少年であったが、容保が家督を譲り一線を退くことを世間に公表することで会津への批判の熱を下げることが目的であった。
容保は家老たちの前で
「私は徳川からの処断を受け入れ、その後は会津に戻り隠居するつもりだ。皆は手を取り合って喜徳のことを支えてやってほしい」
と告げた。
しかし容保の思いとは裏腹に周囲からの先の戦争責任を求める声は止まず、巷では上様に江戸に戻るように唆した…と神保修理が槍玉に上げられてしまい、会津藩内でも恭順派と抗戦派の隔たりは大きかった。
「会津に恭順の道はありません、戦わねばただ蹂躙されるだけです」
容保の元を訪ねていたのは佐川とその部下である江上太郎だった。会津藩士のなかでも武芸に秀で、容保が京都守護職として上洛した際に先んじて警備を務めた男だ。佐川によると武芸だけでなく知略に長け、いまは主戦派の参謀のような立場に在るそうだ。
江上は臆することなく意見した。
「徳川には交渉の材料として兵や領地、金がありますが、我々にはありません。ですから我々ができることは必ず起こる戦に備えることです。抑止力ともなりましょう」
「…戦はせぬ。会津が徳川の意向に背くわけにはいかぬ」
「我々が戦を望まぬとも戦は起こるものなのです。それに相手が薩長だけとは限りませぬ。今や諸藩より会津憎しと会津征討の声まで上がり始めているのですから」
「……」
容保は頭を抱えた。こちらが恭順の姿勢を示せば示すほど、他藩からは責任を問われ藩内は分裂してしまう。容保には八方塞のように思えたが、江川には意見があるようだ。
「…では、どうするのだ」
「はい。今のうちに味方を増やすことが肝要です。…幕府歩兵頭であった大鳥殿は抗戦派をまとめ、指揮をとっていると聞きます。殿の伝手を頼りに是非お引き合わせいただきたいのです」
「大鳥殿か…」
「恭順を受け入れず抵抗しようと画策する幕臣は少なくはありません。万が一、会津を標的とした戦が始まった場合でも義の通じる彼らならば力になってくれるでしょう」
江上は冷静にこの状況を俯瞰しているようだった。会津が恭順の姿勢を示したところで、官軍に受け入れられるかどうかはわからない。表向きは恭順を示しながらもいざとなれば連携できる味方を得ておくことは決して悪いことではない。
「…わかった。いま新撰組の近藤と土方が頻繁に登城していると聞いている。おそらく大鳥殿との繋がりもあるだろう…鍛治橋の屯所を訪ねてみると良い。浅羽は近藤たちと親しいから案内させて…」
と、言いかけたところで容保は言葉を噤んだ。もう浅羽は自分の小姓ではない…それをすっかり失念して口走ってしまったのだ。
しかし事情を知らない江上は気にする様子はなく
「自分一人で問題ありません」
と早速席を立った。しかし彼を連れてきた佐川はその場に残った。
「…殿、お顔色が優れません。浅羽をお傍においてはいかがですか」
「…」
先日、容保が家督を譲ることを告げると浅羽は取り乱して反対した。しかし容保は受け入れず藩内でも進退を伺う動きがあったため、養子の喜徳が継いだのだ。
浅羽はそれ以来、容保と顔を合わせていない。
「どのような諍いがあったのかは存じ上げませぬが…浅羽も気落ちしているようです」
「…諍いなどない。それに私が藩主を退いたのだから浅羽が喜徳に仕えるのは当然の流れだろう」
もともと浅羽は先代の義父から小姓を勤めてきたのだから、藩主の座が移ったいま容保の傍にいないのは当然のことだ。容保は自分に言い聞かせるように言ったのだが、佐川は少し考え込んだあと躊躇いながらも重たい口を開いた。
「殿…喜徳様には別の小姓がついています。浅羽は神保とともに先んじて江戸に戻ったことをいまだに咎められ、周囲の反対もあって職を外されています」
「なに…?」
「浅羽に殿には知らせるなと言われたのですが」
佐川は淡々と報告したが、容保には寝耳に水のことだった。
(私の傍に置くことが、浅羽の迷惑になるだろうと思ったのに…)
しかし自分の小姓を免じて遠ざけてしまえば、格好の非難の的となってしまい、小姓の仕事もままならず身を潜めるしかないとは。
(ああ…私のやることは何もかも裏目に出てしまう…!)
容保は愕然としながら、佐川に訊ねた。
「佐川、浅羽は今どこに…?」
「…言えませぬ」
「浅羽に口留めされているのか?」
「…」
佐川は肯定も否定もしなかったが、それがなによりの答えだろう。自分から突き放しておきながら、勝手だ―――そうわかっていても、自然と身体が動いた。容保は立ち上がり佐川を置いて部屋を出て行こうとしたので、佐川は慌てて追いかけた。
「お待ちください!どちらへ!」
「私はもう藩主ではない。どこへ行こうが自由だろう」
「そういうわけには参りませぬ!殿にはお立場がございましょう……浅羽の居場所なら、お話します!」
容保はようやく足を止めて
「どこだ?」
と促した。
同じ頃、浅羽は久しぶりに屋敷を出て人々が賑わう町の空気を吸いながら、長輝と行動を共にしていた。
「…僕と一緒だと色々陰口を言われますよ?」
長輝は身を竦めながら忠告したが、浅羽は苦笑した。
「すでに私も同類だとみなされている。だったら長輝とともに居ても同じだし、一人で動き回るよりは護衛代わりにちょうど良いだろう」
「浅羽さんが僕の護衛だなんて」
「頼りないか?」
「まさか。浅羽さんが腕が立つのは知っています」
「どうかな。随分と現場を離れて鈍ら刀になってしまった気がするが…しかし私も小姓としてそれなりの人脈はあるのだから役立てるだろう」
長輝は「頼りにしてます」と笑った。
今日は長輝とともに勝の邸宅に足を運んだ。勝は官軍との恭順の交渉を優位に進めるためにあれこれ策を巡らせているようで、西国に知人の多い長輝には是非協力してほしいと話していたけれど、今の長輝の立場ではそうもいかない。
「…勝先生は本音と建て前を使い分ける御方です。僕には会津のために手を回すと約束してくれますが、本音では会津のような厄介な藩をいち早く江戸から追い出したいとお思いでしょう。恭順の交渉において会津の存在は邪魔でしょうから。いや…むしろ、会津の降伏や殿のお命すらその交渉の駒になっているのかもしれませんね…」
「そのようなこと、会津が黙ってはいない」
「しかし上様のためならば…わかりません。家訓がありますから、殿はむしろ喜んで命を差し出すこともありえます。それだけは避けなくては…」
「…」
会津が秘める忠誠は狂喜にも似ている。上様はそんな危うさを嫌い会津公を疎んでいたそうだが、誰にも会津家訓に逆らう生き方ができないのだ。
長輝は夕暮れの空を仰いだ。
「…とにかく、一致団結して会津の進む道を定めねばなりません。抗戦を願うのは上様の御考えに反します…我々は上様のご意向に反することはできない、もはや恭順に努めるしかないのではないでしょうか?」
「だが熱気が高まっている主戦派を説得するのは難しい。…そもそも恭順をしてひたすら頭を下げれば収まるのだろうか?」
「…そうは思えません。ですから勝先生に、官軍との恭順交渉の際には会津のことも念頭に入れていただくようにお願いしているのですが…」
長輝の口ぶりからは勝が色よい返事をしていないのだろうということがうかがえた。
藩兵たちが叫ぶ抗戦は徳川の意思に反し、恭順交渉の妨げとなる。しかし会津が上様に倣って恭順姿勢を取ったところで許されるかどうかわからない―――。会津はどこへ向かえばいいのか、路頭に迷っていた。
「…考えたところで答えは出ません。浅羽さん、屋敷に戻りましょう。実は父に呼び出されているのです」
浅羽が余程難しい顔をしていたのだろう、長輝は一旦話を切り上げて、二人は中屋敷に向かって歩を進めた。
「それで…殿とはお話になったのですか?」
「…いや、家督を譲られたのを機に私も小姓職を離れた。殿には喜徳様に仕えるようにと言われたが…」
他の小姓たちから疎まれていた浅羽は、会津公の元を離れたことにより、これ幸いとあれこれ理由をつけて仕事を取り上げられた。その責任を感じた長輝は「僕のせいで」と目を伏せたが、浅羽は「違う」と否定した。
「周囲の意向もあったが…何より私が殿以外に仕える気持ちになれなかったのだ。それに…殿が私を遠ざけたのは、きっと私が気に障ることをしたのだろう。気落ちされるのを見かねて説教じみたことをたびたび申し上げた、それが疎ましかったのだ」
「…僕はそんなことで殿が浅羽さんを遠ざけるとは思えません。何か別の理由があるのではありませんか?」
「理由か…」
浅羽は自分に愛想が尽きたのではないかとしか思えず、それ以上の理由を考えることも憂鬱だった。
そうしていると広大な会津中屋敷が見えて来た。長輝はそれを遠くに見据えながら歩調を緩めて、口を開いた。
「…大坂で、殿を追いかけて泉州貝塚の安宿に泊まった時…浅羽さんは嫁を娶るつもりはないと言っていましたよね」
「なんだ、藪から棒に…」
「それは殿を慕っていらっしゃるからではありませんか?」
「……」
浅羽はその問いかけに驚いたわけではなかった。長輝は宿に泊まった時から確信を得ていたように見えたので、いつか尋ねてくるだろうと浅羽は内心覚悟していたのだ。
浅羽と長輝は自然と立ち止っていた。
「…仕えるべき主君としてお慕いはしている」
「僕が聞きたいのはそういうことではありません。僕がお雪を恋うように…浅羽さんは殿を、」
「聞くな。…終わったことだ」
浅羽は目を逸らした。
(おそらく、あの白鷺のような若君が会津に降り立った時から始まった)
誰よりも近くで仕え、その聡明さと凛々しさを兼ね備え、純粋なまま会津のために捧げる…そんな姿を間近で長い間見て来たのだ。
(惚れぬ方がおかしい)
だから皆が主君を仰ぐ。自分は少し意味合いが違ったけれど、会津公にはそのような魅力があるのは皆知っていることだ。
けれど、この思いに終着地はない。成就しないのは当たり前のことで一方通行のままこのままこの身とともに地獄に落ちるだけなのだと、浅羽はとっくに決めていた。
「…私は殿の安寧をお祈りする。それで十分だ」
「でしたら猶更、殿のお傍にお戻りになるべきです。僕とともに居ても…良いことはありませんよ」
「長輝…」
「浅羽さん、前に言ってくれましたよね。佐川と相容れないことを話した時…思い通りにならないことはあっても、変えられることが全くないというわけではない、と。僕はその通りだと思いました。だから会津のために少しでも自分ができることを考えてきました。非難されようと馬鹿にされようとどうでもいい…ほんの少しでも良い方向へ変われるのなら、それを果たすことが自分に課せられた使命なのだとその一心で…。浅羽さんも同じはずです。どんなに疎まれても殿の近くで務めを果たすことが使命なのだとわかっていますよね?」
長輝は微笑んだ。
二人の背後で夕日が落ちようとしている。互いの表情を照らす橙色の光は温かくも寂しく、影を作る。会津のために懸命に奔走しても報われない…それでも動き続けることで何かが変わると信じてここまで来たのだ。
「…そうだな…会津の侍は自分で口にしたことは、守らねばならぬ」
浅羽が頷いた―ー―その時、突然屋敷の方からバタバタと槍を構えた藩兵たちが十数名飛び出してきた。敵襲かと二人は柄に手を伸ばして身構えたが、藩兵たちは険しい表情で駆け込みあっという間に取り囲まれてしまった。
「神妙にせよ!」
槍の矛先は主に長輝に向けられている。状況は理解できなかったが、長輝を睨みつける藩兵たちはおそらく主戦派の者たちだ。浅羽は「待て!」と声を荒げたが、長輝は刀を鞘ごと抜いて地面に置き、抵抗しないことを顕した。
「…浅羽さん、殿に伝えてください。僕は殿のおかげでいっときの夢を見ました。それは誰もが見られるものではありません…ですから感謝しています、と」
「長輝!」
浅羽は長輝へ手を伸ばしたが、彼は強引に引っ張られて連れ去られてしまい、兵たちに取り囲まれて見えなくなってしまった。
そして長輝は連行され、和田倉屋敷に幽閉されたのだった。