山竝に風は鳴る
17
上様から神保修理の身柄を引き渡すように書状が届いた―――その事実は一旦伏せられていたがどこからか漏れ、あっという間に和田倉屋敷へと伝わった。
会津公の懸念通り、親交のあった勝が長輝を庇うように画策したことが裏目に出て、ますます抗戦派の怒りを買うことになってしまう。
―――神保修理が上様を唆し、会津を窮地に追い詰めている。
その考えは藩内に浸透し、もはや誰も彼を庇う者などいなかった。誰もが彼の処断を望み、そうすることで会津の未来が開かれるのだと盲目的に漠然と信じ始めていた。
二月十日。
会津公の元へ家老・梶原平馬が訪ねて来た。主に諸藩との外交役を務める江戸詰の若き家老であり、会津公が京都守護職を引き受けて都へ向かった時には側近として働いた男だ。彼はてっきり神保修理の件で足を運んだのかと思いきや、
「大殿様、浅羽を引き渡していただきたい」
と申し出た。穏やかに梶原を出迎えた会津公であったが、すぐに顔色を変えた。
「…何故だ?」
「神保修理とともに勝手に大坂城を離れ、御宸翰を持ち出した件です。藩内にはその責任を求める声が根強く、無罪放免となり大殿様に仕えるのは相応しくないという声が挙がっています」
「御宸翰は浅羽のおかげで私の手元に戻ったのだ」
「御宸翰は会津の宝です。無事だったから良いという話は通用しません」
感情的に返答する会津公とは正反対に、梶原は淡々と話した。浅羽は数日前に潔白を主張する見晴しの書面を提出していたが、それが受け入れられなかったのだろう。
浅羽は理不尽さを感じながらも
(仕方あるまい…)
と諦めた。
「殿…」
「そういうわけにはいかぬ。御宸翰を…運べと暗に命じたのは私なのだ。浅羽はそれを汲み取っただけのこと」
会津公は浅羽を遮って主張した。梶原は少し困った顔をしたが、会津公が浅羽を庇っているのだろうとすぐにわかったようだ。
「浅羽は書面にて、自らの判断で江戸へ持参したと記しており、大殿様が命じたという文言はどこにもございませぬ」
「浅羽の立場ではそのようにしか書けぬ」
「胸の内のことまでは本人しかわかりません。でしたら、浅羽が勝手に持ち出したとも解釈されます」
「私は御宸翰を置いて城を出た。これが誰の手にも渡らず私の手に戻って来た…これは浅羽の功績であると考えている」
会津公の頑なさをよく知っている梶原は少し困ったように眉を顰め、宥めるように続けた。
「…大殿様、何も神保修理のように浅羽を幽閉しようという話ではありませぬ。ただ、共に江戸へ戻った二人のうち神保修理だけが幽閉され、もう一人は大殿様の元に仕えている…この不均衡が問題視されているのです。せめて浅羽には謹慎してもらわなければならぬ…それが皆の見解です」
「しかし…」
「殿、梶原殿のおっしゃる通りです」
会津公が必死に庇ってくれることは有難かったが、梶原の方が筋が通っていると思った。
「浅羽…」
「私が責めを負わずにのうのうとしていると、かえって長輝の立場が悪くなります。ここは梶原殿おっしゃる通りになさるべきかと」
「……わかった、半日待て」
梶原は安堵した表情を浮かべ了承し、去っていった。
しかし会津公はまだ納得いかない様子だった。
「お前が一体、何をしたというのだ。私の意を汲み取れぬ小姓など小姓とは呼ばぬ」
「殿…おそらく御宸翰の件ではなく、上様より長輝を保護するようにと命じられたことが引き金になっているかと思います。それに私が身を退くことで少しでも状況が落ち着くならそれは私のやるべきことかと」
「…」
浅羽は改めて会津公の前に座り直し、改めて頭を下げた。
「殿から頂いた御温情、大変有り難く思います。決して忘れはいたしませぬ」
「…命を取られるような失態ではない、別れの挨拶のような真似をするな」
「けれど再び殿のお側に侍ることは難しいでしょう。どうかお身体をご自愛くださいませ」
「私はお前を手放すつもりはない」
「…殿のお立場が悪くなられます」
会津公の言葉には胸が震えるような気持ちだったが、その言葉を真に受けては状況は悪くなるばかりだ。
会津公は苛立ったように立ち上がり、障子を広く開いた。冬の冷たい風が部屋の中にびゅうっと吹き込んであっという間に暖かい空気が逃げていく。会津公は怒りで熱った感情を抑えようとしたのだろう。
「私の考えは修理と同じだ。それなのに…皆は何故、私を責めないのだ…」
「…皆が殿をご尊敬申し上げているからです」
「家臣を置いて逃げ帰ったような藩主をか?」
会津公は自嘲しながら問うたが、浅羽は譲らなかった。
「殿が上様の命に従っただけのことだと、皆わかっているからです」
「…何もかも、本当に儘ならぬ…」
「…」
会津公にとっては自分を責めてくれる方がマシだっただろう。やりきれない思いを抱えて唇を噛む会津公の横顔を見て、浅羽はどんな慰めの言葉も虚しく音として響くだけであろうと思った。
会津公はしばらく広い庭を眺めていた。粉雪が地面に白く纏い、普段とは違う別世界のようだ。
するとそこへギシィ、ギシィと廊下がしなる音が響いた。浅羽が視線をやると初老の藩士がゆっくりとした足取りでやってきた。
「大殿様」
「…神保…」
長輝の父で、重鎮の神保内蔵助だった。大阪城脱出の際、浅羽や長輝とともに付き添うように命じられた一人である。
神保は近くまでやってくると冷たい廊下に膝をつき、会津公へ深々と頭を下げた。
「…このたびは倅のことでお騒がせしてしまい、お詫びの申し上げようもございません」
「…修理に非はない」
「ええ…そうかもしれませぬが、倅はどうも運の巡り合わせが悪いのです。それはどうしようもなきことですが、その責任は本人にしか取れますまい…」
神保の柔和な表情の奥に寂しさを滲ませていたが、その唇は並々ならぬ決意で震えていた。
「神保…」
「大殿様、どうか倅に切腹をご命じくださいませ。そうせねば、会津の命運に関わります」
「…」
会津公は厳しい表情のままゆっくりと膝を折り、神保の肩を掴んだ。
「頭を上げよ。…なにを愚かなことを申すのだ。息子の落ち度は何もない、父として胸を張っておれば良い」
「…ありがたきお言葉でございます。けれどそうはいきますまい…この屋敷の外に出れば神保修理は徳川を陥れた戦犯、会津を脅かす癌だと揶揄されます。それは日に日に増し息子の名誉を汚して続けております」
「…しかし」
「主戦派の者どもの勢いは大殿様であっても抑えられますまい。倅も覚悟しているはず…奴らに首を落とされる前に切腹をお命じ頂ける方が倅のためになりましょう。…大殿様のお慈悲を賜りとうございます」
「私は…」
会津公は決断できずに狼狽えたが、
「大殿様、今の会津のことを思えば、臣下の命などお見捨てくださいませ…!」
神保は項垂れながら懇願した。若い頃から秀才と持て囃され、父として息子の将来を期待したに違いない…けれどいまはその息子を殺してくれと頼んでいる。
浅羽はとても見ていられずに目を逸らした。この場にいる誰もが長輝の気質を知り、誠実さを理解し、無実を信じているのに諦めなくてはならない。
長い沈黙があった。冷たい風すら気にならず二人は廊下で視線を落として項垂れている…哀しい光景に浅羽は目を閉じた。
そしてようやく、
「…わかった」
と会津公は重たく答えた。すると神保はそれまで強い語気で懇願していたのに、突然糸が切れたように掠れるような声で「ありがとうございます」と床に額がつくほどに頭を下げた。その姿は悲しさと無念さに溢れていた。
会津公はその老体の背中に手を伸ばし、優しく撫でた。
「…あとのことは私に任せて、下がられよ」
「はい…」
神保は急に重たくなった身体を引きずるように去っていったが、会津公は身を翻して自室に戻り文机に向かった。
「…浅羽、佐川を呼べ。修理の処遇を伝える」
「かしこまりました…」
会津公は唇を引き結び、筆を走らせる。浅羽はこれが小姓としての最後の仕事かと思うとどうしようもない虚しさが込み上げてきたが、会津公の無念さには及ばない。
流れるようにしたためていた筆先が止まり、墨が大きな染みを作る。そしてぽたぽたと小さな音が響いた。
「殿…」
「…なんと、不甲斐ない。お前ひとり守れず、修理の命も諦めねばならず…あんなことを父親に言わせてしまった。私には…やはり藩主になる資格などなかったのだ…」
会津公の声が震えていた。そしてこれまでどんな苦境であっても決して人前で流すことのなかった涙が堰を切ったかのように溢れ、落ちていく。長く近くで仕えて来た浅羽でさえ初めて見る姿であったが、おそらく会津公自身でも制御できないほどの哀しい感情だったのだろう。
浅羽は躊躇うことなく会津公の背中に周り、抱きしめた。それは他意はなく、ただ年長の家臣として若き君主を慰めるための抱擁だった。
「…浅羽…」
「殿…実は長輝から伝言を預かっていました。それが、まるで惜別を告げるような内容で殿にお伝えするべきか迷っていましたが…長輝は自分がこうなることがわかっていて私に託したのかもしれません」
「修理は…何と言っていた…?」
会津公が首を傾けて浅羽の顔を見て促した。
「殿のおかげでいっときの夢を見ることができた。それは誰もが見られるものではない…感謝しています、と」
「……感謝、か…」
「神保殿もおっしゃっていた通り…長輝は運に恵まれなかったのでしょう。それは誰のせいでもありませぬ。もし恨むとすれば…殿と長輝にこのような過酷な定めを背負わせた、天でしょうか…」
遡ればいくらでもこのような事態を避けることはできたのかもしれない。けれど長輝自身がこの人生を全うしたと考えているのなら、父親が言うように名誉ある切腹を命じることが彼のためになる―――そう信じるしかない。
「…殿の痛みは、藩主としての責任感故にお感じになられるのです。殿は会津の長としてやるべきことをなさいました」
「そうだろうか……」
「はい」
会津公がこの慰めを真正面から受け入れる日はまだ遠い先になるのだろう。この先にもまだ困難なことが続くはずだ。だが、浅羽にとっては紛れもない事実であり、白鷺が目の前に舞い降りたあの日の自分の予感は決して間違っていないかったのだ。
会津公は一息ついたあと、力を抜いて浅羽に身体を預けるようにして凭れ掛った。
「しばらくこのままでいてくれ」
「…はい」
こんなに間近で接するのは初めてのことだが、不思議と不本意な胸の高鳴りなどは感じず、ただひたすらに愛おしいような、慈しむような…そんな穏やかな気持ちで満たされていた。