山竝に風は鳴る
2
将軍が家臣を置き去りにして軍艦にて江戸へ向かう―――。
神保から聞かされたのは、まるでこの数日間の出来事をすべてひっくり返してしまうような現実味のない計画だった。三百年続いた主従の絆をあっさりと切り捨てるような仕打ちが臣下や兵に知れれば、どれほどの動揺を与えるか…しかし浅羽は信じられないとは思えず、(あの上様ならやりかねない)という妙な実感があった。
浅羽は動揺を堪えながら、絞り出すように漏らした。
「…それは、決して…決してなりません…」
「すでに決まったことだ。ご老中方も同意されて、もう覆せぬ…十名ほどの幕閣や旗本が同行することとなった」
「まさか殿が…そのようなことをご承服なさるとは思えません」
上様の考えを会津公が承知したのかと問い詰めると、神保は首を横に振った。
「…殿は最後まで拒まれたが、上様に説得され苦しまれた末にこうするしかなかったのだ。…殿が上様の命令を拒むことなどできぬ、よく知っているだろう?」
「…」
「殿は江戸への随行要員として我々三人と田中学太輔をお望みだ。一刻後には裏門から舟に乗り、城を出る手筈になっている。…わかっていると思うが決して他言はならぬ。殿から厳重に口留めされたのだ」
「私も…ですか…」
小姓頭として会津公の行くところならばどこまでも一緒に行く覚悟はあったし、これまでも極寒の地から厳しい海防まで常に随行した。しかし今回のことはとても簡単には承服できず、浅羽は返事をせず唇を噛んだ。見かねた神保は息子の長輝に「説得せよ」と言い残して部屋を去ってしまった。重鎮の神保も決して積極的に同意したというわけではなさそうだが、上様と会津公の決定に異を唱えるつもりはないようだった。
長輝は浅羽の前に重たい腰を下ろした。
「…僕は余計なことを口にしたのかもしれません。今後の徳川の身の振り方について上様に訊ねられ、この戦で追い詰められようとも江戸でなら再起できるはずだとお伝えしました。…まさか上様このような形で江戸へ向かうことをお決めになるなど、想像すらできず…」
長輝は後悔しているようだった。しかし彼は大坂城から逃げ出すべきだと進言したわけではなく、あくまで場所を変えて江戸で戦うべきだと伝えただけだ。大坂からの去り方がこんな形になるとは思いも寄らなかっただろう。
上様がそれをどれほど真に受けていたのかわからないが、結局『去る』という選択肢を選んだのは上様だ。
「…先ほど話をした通り、どんな合理的な理由があるにせよ義理を通さねば人心は動かぬ。このようなやり方は禍根を残すことになるだろう」
「僕もそう思います。父はあのように頑なですが…まだ間に合うのではないでしょうか」
「殿にお会いする」
浅羽の心は決まった。この悪夢のような計画は決して遂行されてはならない…少なくとも会津がその一端を担うべきではない。
(それこそ会津の家訓に叛く、恥ずべき行いだ)
「上様の余興に付き合うつもりはない。上様がこれを『会津と薩長の私戦』にしたいのならば一人で江戸へ戻れば良いだけだ。…我々会津はここで戦い、果てるべきなら果てる」
「…」
長輝は表情を歪めながら浅羽とともに暗い部屋を出て会津公の元へ向かう。
(殿はきっと苦しまれておいでだろう…)
誰よりも帝と徳川に忠誠を誓い、文字通り命を賭して尽くしてきた…それを踏み躙るような仕打ちに愕然としていることだろう。しかし主君である上様と、守るべき家臣の板挟みとなってしまいこの決断をせざるを得なかったはずだ。
道中、浅羽は堪えきれずに本音を漏らした。
「…やはり、私が手を下せばよかった」
「何のお話です?」
長輝が首を傾げたので、浅羽は懺悔するように答えた。
「私は…一度、上様を手に掛けようとしたことがある。殿や会津への仕打ちがどうしても我慢ならず、思い詰めていた。…上様が遊郭へお出ましになる機会を伺い、あと少しでこの刃を向けようとしたとき、殿に救われ自分が間違っていると思い直したのだ」
「…もしや昨年、一時期謹慎されていたのは…」
「殿に頭を冷やすようにといわれた。…だが、今となっては…」
浅羽はそれ以上は口を濁した。
あの時に終わらせていれば、会津公を苦しませず、こんな思いをせずに済んだのかもしれない。そう思うと少し無念ではあるが、しかしあの時に手を下せなかったこともまた定めだったのだろうと頭ではわかっていた。
長輝は浅羽の意外な一面に少し驚いた顔を浮かべたが、責めはしなかった。
「…僕も間違いを犯しました」
「間違い?江戸で再起をはかるべきだと進言したのは間違いではないだろう」
「いえ…この戦から大坂城へ戻った際、僕はまず上様へ恭順すべきだと進言しました」
「!」
浅羽は歩みを止めた。長輝はそのようなリアクションは想像していたようで、同じように足を止めて口を開いた。
「僕は長崎で色々なものを目にしました。西洋列強の圧倒的な軍事力、それを広い懐と潤沢な金で取り入れて国を動かそうとする薩摩と長州…とても真正面から敵う相手ではない。そしてこの戦で自らにその銃口が向けられた時に、僕は早々に『この戦は勝てるはずがない』と悟りました。…恐ろしくなったとも言えますが、悲観的になってこれ以上の犠牲を出すべきではないと焦り…上様に恭順すべきではないかと進言したのです」
浅羽にはあってはならない選択のように思えたが、会津だけでなく長崎で学び外の世界に接してきた長輝だからこそ浮かんできたのだろう。けれど簡単に周囲の理解が得られることではない。
「…長輝…戦とは勝てるはずがないとわかっていても立ち向かう…私はそういうものだと思う」
「ええ…父にも随分叱られました。よりによって会津の家老の息子が何を口走っているのか、と…。確かに恭順は言い過ぎかもしれない、だから今は慎重に方法を考えるべきだと思っていますが…しかし一度口にしたことは取り消せぬものです」
恭順…そのことすら頭にない会津藩士が多いだろう。長輝はその意図を後悔しているわけではなさそうだが、恭順という言葉を口にしたことを間違っていたと思っているようだ。
「…間違いは誰にでもある。殿にもお考えをお改めいただき、上様をお引止めしよう」
「はい」
二人は再び歩き出し、すっかり夜が更けた城内を進んだ。物見役の兵以外は寝静まっており二人分の足音だけがギィギィと鳴るが、それは本丸中枢に近づくにつれさらに響く。
(静かだ…)
冷たい夜に静寂が漂っている。嵐の前の静けさとは違う、何となく不気味な雰囲気を感じながら二人は黙って歩くと、ようやく明かりを手にした見張り役に行き合った。
「何者だ?」
ガタイの良い男は夜更けの非常識な訪問者を諫めるように睨みつけたので、長輝が前に出た。
「会津藩軍事奉行添役、神保修理と小姓頭の浅羽忠之助である。…我が殿にお会いしたい」
「…申し訳ありませんが、上様のご命令故この先は誰一人通せませぬ」
男は態度を改めたものの、先へ通そうとはしなかった。長輝は食い下がる。
「我が殿に密命を仰せつかっており、上申せねばならないことがあります。貴殿が咎められることがないように計らいます、どうか先へ」
「なりません。拙者も上様直々に誰一人、虫一匹にいたるまで通さぬようにと命じられています。例外を許せば拙者の首が飛ぶでしょう」
「上様直々に…ですか…」
長輝は眉を顰めて困るが、浅羽は不審に思った。
(殿は我々を含めた四人を随行させると命じられた。そうであるのに上様は例外なく虫一匹通さぬとは…矛盾しているのではないか)
長輝は男とあれこれと交渉するが、浅羽は耳を澄ませた。男の背中の向こうは寝息ひとつ聞こえない、あまりに静かなでまさに『もぬけの殻』にように思えてならない。
(もしや…!)
ひやりと背筋に悪い予感がして、浅羽は「御免!」と男を長輝の方へ押し付けて、先へ駆けだした。慌てる男と引き止めようとする長輝の諍いを聞き流しながら、決死の覚悟で上様の自室の前に立った。もし在室だった場合、命令を無視して踏み込んだ不届き者として処罰を受けてしかるべき行動だが、今の浅羽にはその可能性は考えられなかった。深夜のこの騒ぎだというのに部屋からは寝息や衣擦れひとつ聞こえて来ないのだ。
「御無礼致します…!」
浅羽は襖を開け放つ。そこには寝酒のグラスや読みかけの書物などが残されていたが、上様の姿だけは忽然と無く寝所は使用された形跡がないほど皺がピンと伸びて整っている。そして何よりも人がいたという温もりは消え失せて、この部屋は外気が流れているかのように冷たい空気が充満していた。
浅羽は続けて隣室、さらに隣室…と確認したが、この一帯の部屋には誰もいないようですべてが空室だ。そして最後に会津公の部屋の前に立った時、長輝がやって来た。
「浅羽さん…これは一体…」
「…まだ、わからぬ…」
浅羽はどうにか希望を見出そうとしたが、目の前の部屋からも同じように人気はない。意を決して開くとやはりそこに主人の姿はなかった。長輝は唖然とし、部屋に足を踏み入れたが結論は変わらない。
「…ああ…殿…まさか、もう出て行ってしまわれたのでしょうか…?我々が随行するというお話は一体…!」
「もしかしたら…上様に拒まれたのかもしれぬ。他言されたら困ると…」
「そんな…」
長輝が項垂れると、見張り役の男がやってきて「これは」と状況が飲み込めていないようだったが、彼に詳細を話して大騒ぎになっては困る。
「このことは他言無用に。…見張り役としてこのような状況が知れれば貴方も困るでしょう。ここは何も知らず、務めを最後まで全うされるのが賢明です」
男は怪訝そうな顔をしたが、浅羽の言う通りに口を噤んで何も訊ねずに去っていった。
浅羽は改めて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
(こうなってはもうお引止めすることはできない…)
どの部屋の空気も冷え切っており、少なくとも一刻前には脱出をしているはずだ。十名弱が城を出れば目立つはずだが、いまだに騒動になっていないようなので門番を騙して上手くやり過ごしたのだろう。
浅羽はふと会津公の部屋に残された美しい蒔絵の箱が目に入って思わず駆け寄った。それは会津公が肌身離さず傍に置き、常に恭しく扱った先帝の御宸翰だ。城を出るなら必ず持参するはずの宝物だがいまはこの部屋にポツンと残されている。会津公がこれを忘れるはずはない。
「…殿…」
(殿は敢えてここに残されたのだろう…)
賊軍と指さされた挙句不本意な脱出を強制された…先帝から忠義を称えられたこの御宸翰を裏切りの道中に携えるわけにはいかなかった。会津公の深い忠誠を思うと浅羽は胸が苦しくなり、御宸翰の前で膝を折り深く頭を下げた。
(殿の御苦しみが伝わってくるようだ)
これを置いて去ることにどれほど後ろ髪を引かれたことだろう。そして家臣へどれほど心中で詫びたことか。
本来なら会津の宝である御宸翰を小姓でしかない自分が触れることさえ憚られるが、誰が忍び入ってもおかしくない部屋に置いていくことなどできるはずはない。浅羽は責めを負う覚悟で持参していた風呂敷に包み持ち出すことにした。
「浅羽さん…おそらく殿はおひとりで城を出られたのです。…殿を追いましょう」
長輝の声は少し震えていた。
浅羽は静かに頷いた。