山竝に風は鳴る
3
ゆらゆらと揺れる船に乗り夜の海に飛び出た時、まるでこのまま闇に呑み込まれてしまうような恐怖を覚えた。ただただ流れに身を任せて海へと向かう…その頼りなさはより一層心を虚しくさせる。
「兄上…このままうまく行くのでしょうか…」
心配そうに身を顰めながら問いかけるのは弟であり、桑名藩主の松平定敬だ。十ほど歳の離れた腹違いの末弟は幼少の頃よりも、よほど都に来てからの方が過ごしてきた時間の方が長く感じられるほど激動の荒波に揉まれてきた。
若き桑名藩主である定敬は幕府の重責を担ってきた自覚と誇りがあり、今回の計画には勿論乗り気ではなかった。
「…上様にお任せする他ない」
実兄で、会津藩主ーーー容保は言葉少なく返答した。
大坂城を脱出し天保山沖へ乗り出した小舟は、客人の正体を知らない船頭によって近くの異国船に乗りつけられた。もちろん最初は幕府軍艦である開陽丸を目指していたのだが、暗い海で見つけられず、難破を避けるため結局は米国のイロクォイス号に保護されることとなったのだ。
拘束される恐れがあったが、顔見知りの外国奉行が同乗していたので交渉し、ひとまずは客人として迎え入れられて夜明けを待って開陽丸へ向かう予定だ。
上様は迎賓用の客室に移り、他に同道した幕閣たちは狭い客室に鮨詰めとなっていた。ひと一人眠ることさえ難がある狭さだったが、定敬は酷く疲れた表情で項垂れていたので
「少し眠ったら良い」
と声をかけて場所を譲った。
容保は頭が冴えて眠気がなかったので、毛布を借り極寒の甲板に出て冷たい風に身を捩りながら遠くに見えるはずの大坂城を探した。しかし夜の帷が降りて明日の戦に備える兵たちは今、まさか自分たちの主君が逃げ延びたなどと想いもよらないだろう。
「…皆に合わせる顔がない…」
門番の兵に『小姓だ』『交替の兵だ』と偽り脱出し、八軒家から小舟で川を下って目当ての開陽丸を見つけられずしばらく漂流した。波に揺られながら現実逃避のように同じことばかり考えていた。
『いっそこのまま海に溶けてしまえたら…』
逃げ出した挙句、無様な死に様になるに違いないが、このまま生き恥を晒すよりよほどマシではないか…。
しかしそれを選べなかったのはーーーやはり、会津の楔なのか。
自分に問いかけたところで、相応しい答えは浮かばなかった。
(…浅羽は私を探しているだろうか…)
脱出前、神保内蔵助に浅羽が無事に帰営していると聞き少しだけ安堵した。そして随行する者として容保が信頼を寄せる四人の名前を伝え、当然浅羽もそこに加えた。しかし彼がこのような計画を到底承服するはずがない…きっと引き止めにやってくるだろうと期待していた。
『浅羽なら私を止めてくれるだろう…』
けれど、計画が漏れることを恐れた上様が出立の時刻を早めたため、随行する予定だった四人を連れていくことはできなかったのだ。今頃、城に残してきた四人は右往左往して困惑していることだろう。
「謝っても謝り足りないな…」
(あの御宸翰には浅羽は気が付くだろうが…)
容保が何度目かわからない深いため息を漏らした時。
「こちらでしたか、肥後守殿」
「…高畠様」
やってきたのは外国奉行組頭の高畠五郎だった。上様に特に気に入られ同行し、彼が米国兵と顔見知りであったため話をつけることができた。
「ここは寒いです、お風邪を召されますよ。それに…ここは我が国とは言えども異国の船の上、お一人で行動されるのは危険です」
「…そうですね」
夜の海を眺めながら思い耽け、時折海を覗き込む容保を、米兵たちは不審な目で見ていたので高畠の言う通りに船内に戻った。
「私に何かご用ですか?」
「ええ、上様がお呼びです」
「……私を?」
高畠は頷いた。
大坂城脱出について最後の最後まで拒み、最も上様の手を焼いたのは容保だ。家臣を置いて逃げ出すことは末代までの恥だと拒否したが、弟の定敬が先に折れて「行くしかありません」と説得したので仕方なく従ったのだ。城を出る前から上様とは言葉を交わしていないため容保は気まずさを感じたが、呼ばれた以上出向かねばならない。
容保が少し考え込んでいると、高畠は足を止めて苦笑した。
「上様にはっきりとご意見できるのは肥後守殿だけです。あの御方は聡明すぎて理性的なご性分で周囲の理解が及ばぬところがありますが、肥後守殿だけには感情的でいらっしゃいます」
「…私のことは面倒だとお感じだと思いますが」
「けれど言葉を尽くそうともされます。本音では分かり合いたいとおもっていらっしゃるのかも…私見ですが」
「まさか」
高畠は微笑んだが、容保はぎこちなく首を横に振った。
そのまま高畠と別れて迎賓用の客室へ向かい、声を掛けると「入れ」と言われたので重い足を踏み入れる。すると上様は優雅に椅子に座り足を組み妾の芳を侍らせてグラスで酒を嗜んでいた。その光景に愕然とする気持ちはあったが、今更過ぎて責める言葉すら浮かばない。そもそもこの一大事に妾を連れて来たという事実だけでどれほど周囲を落胆させたか。
「…お呼びでしょうか?」
「ああ。…お芳、出て行け」
芳は少し口を窄ませて不満そうな顔をしたが「はぁい」と去っていく。上様は向かいの椅子に座るように促したが、容保は拒んでその場に立った。
「…まだ怒っているのか?」
「いえ…ここまで逃げ延びた以上、私も同罪です」
容保は淡々と返答した。
もう怒りはない。ただ込み上げるのは虚しさと忸怩たる思いだけだ。
すると上様はその返答が気に入らなかったのか鼻で笑った。
「ふん、これは罪か…」
「…少なくとも、私は自分の臣下を戦地に置き去りにしました。彼らに合わせる顔が在りません」
「では、私は家臣たちに罪人と指さされ、朝廷からも賊軍だと追い詰められることになるのだな」
「…」
上様が自嘲するように吐き捨てて、手慰みにグラスを手にする。ぐるぐると回して渦を巻く…上様はその渦に巻き込まれてあっという間に沈んだと思っているのだろう。
(確かに、この御方の置かれた状況には同情すべき点はある…)
昨年末、大政奉還を行い政を手放す決断をした。朝廷を中心とした新しい形を模索しそのなかに徳川が組み込まれようとするなか、江戸で薩摩藩邸焼き討ちが起こり、家臣たちの機運が高まり戦を起こさざるを得なくなった。しかし戦場に立った指揮官たちは薩長の最新武器の威力にただただ敗戦を繰り返し、目も当てられない惨敗となって大坂城まで追い詰められることとなってしまったのだ。
上様は自ら出陣し、勝つことはできたかもしれない。
けれど帝に弓引くつもりなど毛頭なかった。戦をせずに済む方法を考え続けあと少しまで来た…それなのにすべての責任を押し付けられる―――その理不尽さと無念から逃れるために城を出たのではないか。
扉の前にいた容保は歩み寄り、上様の前に立った。
「…上様、まだ間に合います。明日の朝、開陽丸に乗り込み大坂城へ戻りましょう。海軍を視察していたと話せば皆理解します」
「くだらないことを言うな。そのような生半可な覚悟で出てきたわけではない」
「でしたらこの先のことは具体的にお考えでしょうか?江戸へ無事に戻ることができたとして、多くの家臣を置き去りにしたことは当然非難されましょう。噂はすぐに広まり、人心は離れ民からの尊敬を失うことになる…上様はそれをわかった上でこのようなことをなさったのですか?どのような勝算がおありでしょうか?」
容保が問い詰めると、上様の表情はあからさまに苛立った。
「うるさい!お前の正論など聞きたくはない!」
「正論ではありません!これからの展望を…」
「黙れ!」
上様は立ち上がって、容保に目掛けてグラスに入った酒を投げ掛けた。二人の間にポタポタと雫が垂れる。
「お前は馬鹿馬鹿しいほどの真面目さと忠誠で家茂公に重用され、先帝の信頼を得た。正しさだけが正解だと思い込み、弱さを認めない。そんな自分と会津の魂とやらに酔っている姿を見ると、昔から虫唾が走る思いだった!」
「…上様…」
「確かに会津は徳川の盾だ。だが、お前たちは政権を返上したところでそれを認めず、戦ばかり望んで決着をつけようとする。それは一見頼もしくもあるが私にとっては重荷でしかない。柔軟に考えられぬような古狸ばかり…神保のような先進的な考えを持つ若者もお前たちの古く利己的な考えに潰されることだろう!」
「…」
容保は紡ぐ言葉が見つからなかった。将軍職に就く前から何かと対立はしていたが、これほどはっきりと嫌悪を示されることはなかったのだ。けれどかえって上様のこれ以上ない本音を耳にして落胆するというよりは、(やはり)という気持ちしかない。
上様は容保を見据え、改めて問いかけた。
「これほど侮辱されても…お前たちは私に忠義を尽くすか?」
その眼差しはかつてないほど真っ直ぐに容保に向けられている。
(私を試しておいでなのか?)
「…お尋ねになりたいのは、このような非情な仕打ちをして会津の生き方すら否定する貴方様が、まだ忠義を尽くすべき相手だと考えるかどうか、ということでしょうか?…でしたらお尋ねになる必要はありません。私が、会津藩士が忠誠を誓うのは徳川家です。貴方様が徳川家宗主である限り、我々はどこまでもお守りいたします。それが家訓で…生き方なのです」
「…馬鹿だな。お前は会津の者ではないだろう」
「申し上げたはずです。すでに同罪であると」
「…」
決して揺るがない容保の態度を見て、上様はなんとも言えない表情を浮かべた。羨むような、憐れむようなその眼差し上様自身にももちろん葛藤があることを伺わせた。
「上様…」
「もうよい。お前には何を話しても暖簾に腕押し…無意味だ。お前が忠誠を尽くしたいのなら勝手にすればいい」
「…私は徳川の勝利を諦めませんが」
「下がれ」
上様は話しを切り上げてそのまま寝台の方へ向かっていった。容保は言われたとおりに部屋を出て、暇そうに爪を弄っていた芳に声を掛け少し歩いた後に立ち止った。
(上様は…私に何をお求めだったのだろう…)
互いの主張が噛み合わず口論になるのはいつものことだ。反りが合わないと諦めてしまえば楽になるはずなのに、上様は容保を突き放さず遠くへ遣らず、傍に置き続けている。もちろん『会津が盾』だと考えているのだろうが、ただの盾ならば言葉を交わし理解を求める必要などないはずだ。
「…わからぬ」
呟いた言葉は、船内に沈んでいった。
そして髪を濡らした酒の雫がただただ涙のように落ちていく。