山竝に風は鳴る




浅羽は御宸翰を携えて長輝ととも厩へ向かった。その頃にはすでに小雨が降っていたが、上様と会津公たちを追いかける決意は少しも揺らがなかった。
「おい、浅羽!」
背後から呼び止められハッと振り返ると、そこにいたのは提灯を手にした佐川だった。彼はバタバタと慌てて城を出てくる二人を見て追いかけてきたのだろう。長輝は佐川に気が付くと、身を隠すように浅羽の背中に回った。
「佐川…」
「何事だ?そちらには厩しかないはずだが」
「…厩に用がある」
「こんな夜更けに一体何の用だ?…神保もいるようだが」
佐川は浅羽の背に隠れた長輝には当然気が付いていて、鋭い視線を向けた。犬猿の仲の二人は目を合わせれば口論になるような間柄であるが、今はそれどころではない。
浅羽は佐川に頭を下げた。
「申し訳ないが、いまは時がない。状況は戻ったらすぐに話すから皆を頼む」
「…冷静沈着なお前がそんなに焦っているのは初めて見た」
佐川は手にしていた提灯を浅羽の前に翳す。非常事態に顔を顰め、表情が強張っている自覚はあったが、長い付き合いである佐川に「初めて」だと言わせるほど追い詰めていたのだろう。
「…殿に何かあったのか?俺には話せないことなのか」
「……まだ、大事にしたくない」
「大事か…」
佐川は悪い予感を察して問い詰めようとしたが、浅羽はただただ時が惜しい。
「佐川、頼む…騒ぎにしないでくれ。日が昇ればすべて明るみになるかもしれないが、今は詳細を話している暇がない。…だが、誓って言う。何もかも会津のためだ」
「僕からも…頼む…」
それまで口を閉ざしていた長輝が、浅羽の隣に並んで頭を下げた。佐川は小さくため息を付いて「わかった」と答えると不満げであったがそのまま背を向けて戻っていった。長輝はほっと安堵したようだったが、浅羽は彼を急かして厩へ向かった。
厩番を叩き起こし「すぐに使える馬を」と頼むと御召馬しかいないと苦い顔をした。会津ではそれなりに地位ある二人でも当然御召馬に乗れるような身分ではないが、
「構わない。責められることになれば上様には私が申し開きをする」
と強引に説得して厩番から渋々借り受け、御召馬に乗って城を出た。
「浅羽さん、どこへ向かいますか?」
「…城を出て、八軒家浜で川舟に乗ったのではないだろうか。おそらくもう出立してしまっているだろうが…」
「途中薩摩藩邸の近くを通ることになって危険ですが…とにかく、行ってみましょう」
もともと当てもなく飛び出した二人はひとまず八軒家を目指して夜の大坂を駆けだした。御召馬は雨を諸共せず手綱を握る二人の言うことをよく聞き、流石の名馬だと讃えたいほどの賢い働きだった。
浅羽は口を閉じて一心不乱の気持ちで目的地を目指していたが、隣の長輝が
「…ふっ…ふふふ…」
と次第に笑い出した。
「どうした?」
「は、はは…すみません。ただ、なんていうか…今夜は、浅羽さんが実は無謀だってことを初めて知りました。鬼佐川を説き伏せてこんな強引に御召馬に乗って。それに上様を手に掛けようとしたことがあるなんて聞かされてしまい…浅羽さんはもっと冷静で物事に動じない方なのだと思っていました」
「…確かに。私らしくない…」
浅羽は小姓頭としてどんな時も落ち着いて物事に当たっていた。常に感情的にならず主君の補助役を務めることができることは名誉でもあり、天職でもあったのだ。しかしこの頃は心を乱されることが多かった。
「私は殿のことになると…箍が外れる」
それは浅羽が抱える秘した感情のせいなのだが、けれどそれを生涯口にするつもりはなく、誠実に仕えることで昇華していく決意だ。しかしこのような非常事態を目の前にして、どうしても理性よりも感情が勝ってしまうのかもしれない。
長輝は「わかります」と頷いた。
「殿は…実にご聡明でご誠実で、家臣にとって理想的な主君でいらっしゃいます。けれど、どこか…危うく感じられます。若輩者の僕が言うことではないですが…純真なお気持ちにいつか裏切られ、苦しまれるのではないかと不安に思うのです」
「…ああ。すでに苦しまられている」
浅羽は常に会津公の苦悩を間近に見て来た。治安が乱れる都で、厳しい役職に就き心身ともに犠牲を払いながら続けてきた。先帝と家茂公のに信頼され報われる機会もあったが、いまの上様の治世になってからは遠ざけられあしらわれ、会津へ戻ることすら許されない飼い殺しのような状態が続いていた。
(けれど殿は…上様を裏切らなかった)
最後に裏切ったのは、上様の方だ。
家臣を置いて城を抜け出すなど、会津公が考え付くはずがない。けれど従ったのはやはり裏切れない忠誠があったからだ。
「浅羽さん、殿にお会い出来たらどうするおつもりですか?城へ戻るように説得されるのですか?」
「やはり一言…申し上げるべきだと思う。可能なら大坂城へ引き返すように上様をもう一度お引止めしていただきたい」
「…そうですね、江戸へ向かうとしても臣下たちを説得して、義理を通すべきです」
八軒家浜はさほど遠くはないものの、次第に雨脚が強まり視界を遮った。二人とも大坂の町の地理には詳しくないが、ちょうど八軒家には新撰組が借り受けている屋敷があるので大体の場所は把握しており迷わずに到着することができた。
しかし予想通り、そこに上様や会津公たち一行の姿はなかった。浜辺にはより一層強い雨と風が吹き、ザバンザバンと黒い波が打ち寄せ極寒の海の厳しさが伝わってくるようだ。
「雨にも関わらず、まだ新しい足跡がいくつも残っている。おそらくここから向かわれたのだろう…」
「こんな悪天候の川を下るなど…殿はご無事なのでしょうか」
「…わからぬ」
二人は真っ暗闇のなかへ目を細めて主君の姿を探したが、全く見当たらない。闇雲に追いかけてこの浜辺で引き止められたら…という淡い希望はあっさりと切り捨てられ、それどころかこの荒れ模様を間近で見ると舟が無事に開陽丸へ向かうことができたのか怪しいくらいだ。
言葉なく、呆然と夜の海を眺めていると、
「何者だ!」
と背後から怒鳴られ、二人は咄嗟に刀の柄を握った。敵襲である可能性もあったが、近づいてくる数名の男たちの顔を見た途端、二人はその場に膝をついた。
「越中守様、伊豆守様…!」
一人は大坂城代牧野越中守(牧野貞利、笠間藩主)、もう一人は溜詰格の松平伊豆守(大河内信古、三河吉田藩主)だった。数名の部下を引き連れてやってきた二人は、浅羽と長輝が会津藩士であることを知ると態度を軟化させた。
「私は大坂城代として異変に気が付き、永井殿を問い詰めてこの顛末を知った。舟で下るなら八軒家かと思い駆けつけたが…どうやら遅かったようだな」
「はい。しかしこのように足跡も残っておりますので、少し前にここからご出立されたことは間違いないかと」
「伊豆守殿、どうする?」
「上様に一度真意を伺いたいが…」
四十手前の幕閣の二人は顔を見合わせて腕を組む。こうなっては浅羽と長輝はこのまま追いかけるのも、引き返すのも勝手はできず、彼らの決断に従うことになる。焦りはあったが、浅羽と長輝は待つしかなかった。
すると幸か不幸か、それまで強くなり続けていた雨が少し弱まり風も止んだ。伊豆守の部下がやってきて
「殿、舟の準備が整いました」
と報告する。船頭も連れてきたと聞き、越中守は大きく頷いた。
「…私は大坂城代だ、上様に事の真相を聞かねばこれからのことが立ち行かぬ。たとえ薩長へ城を明け渡すことになろうとも上様のお言葉を頂きたい。…伊豆守殿はどうする?」
「ここまで来たのだ、私も向かう。…お前たちも共に来るか?」
「…宜しいのですか?」
「肥後守殿の頑なさは我々の間でも有名だ。お前たちが来た方が話が早いだろう」
会津公の強情さは幕閣の間でも話題となっていたのだろう、浅羽と長輝は内心苦笑いしながら「ありがとうございます」と共に舟に乗った。船頭と四人が乗るだけで手一杯であったため、部下たちは浜辺で待つこととなった。
「本当に海に出るんで?」
いつ荒波に戻ってもおかしくはない天候で、雇われた船頭は気が進まない様子だった。しかし越中守と伊豆守は
「転覆する前に引き返せばよい」
「褒美は弾む」
と無理を通して出立させた。
浜辺から少し離れただけで視界はほぼ暗闇に閉ざされる。目印のような灯りが数か所に灯っていても、それは頼りない道しるべでしかない。波は時に大きく舟を持ち上げ、冷たい水が何度も降りかかり身体はすっかり冷え切った。
出立の際は威勢よく船頭の背を押した越中守と伊豆守だったが、あまりに過酷な船旅に早速口を閉ざして身を縮めた。浅羽は船尾を長輝に任せ、船頭の後ろで腰を屈めて行き先へ目を凝らす。
「開陽丸がどのあたりか、見当は付くか?」
「さあ、開陽丸…といわれても、俺たちには全部同じ軍艦に見えるもんで。最近は阿波の方で徳川と薩摩がやりおうたやろう?俺たちは巻き添えになれへんように海には出えへんかったし、異国船も多いんや」
「そのなかで一番大きい軍艦だ」
船頭は「ああ」と思い当たったようだが、
「…ほんまにあの軍艦へ向かうんで?」
と心底嫌そうな反応をした。
「遠いのか?」
「へえ…異国船も近こうて、こんな舟ではとてもとても…」
船頭が消極的な返答をした時、急に風が強く吹いて浅羽は身体を丸めた。舟は大きな波にさらわれて右左に傾き、皆が悲鳴を上げる。
「風が強なってきた…雨が降るで」
「…っ、ここまで来て諦めるわけにはいかぬ」
(危険であるのなら尚のこと、殿の御無事を確かめたい)
しかし船頭の言う通り突然嵐のような雨が打ち付け、風はより一層強くなった。舟は左右に揺れるどころか上下に浮き沈みしてそのまま転覆してしまいそうな勢いだ。船頭も舵取りできずにただ荒波をやり過ごすしかない。
ゴォーゴォーと抗いようのない自然の驚異が迫る。
「戻れ!」
出立前は威勢よく皆の背中を押していた越中守が声を上げた。続けて伊豆守も「これでは無理だ!」と悲鳴を上げて、降参する。しかし浅羽は諦めきれなかった。
「しかし、この機を逃せば上様にはお会いできませぬ!」
「ここで死んだら尚のこと目的を果たせぬであろう!このような場所で命を落とすべきではない!」
「ですが…!」
「我々を巻き添えにするつもりか!」
越中守に一喝され浅羽はぐっと唇を噛んだ。彼らの言う通り、これ以上先に進むのは難しい…わかっていても、浅羽はこの先にいるはずの主君の元へ向かわなくてはならないという使命感に囚われ、受け入れることはできなかった。
しかし
「浅羽さん、戻りましょう…!」
「…長輝…」
「別の方法で殿の元へ向かいましょう。今は出直すべきです!」
長輝にまで説得され、浅羽はどうにか自分の気持ちを飲み込んだ。船頭に浜辺に戻るように頼んだ後も雨脚は強くなり、波は激しくなっていく。浜へ戻ることすら危ういなかどうにか命からがら生き延びて、四人は寒さと恐怖でがくがくと震えながら舟を降りた。
越中守と伊豆守は部下に迎えられ、「城に戻る」と言葉少なく去っていった。
「浅羽さん…俺たちも行きましょう」
「…」
浅羽は豪雨のなかで沖を見つめた。そして海へ向かって歩き出し、浅瀬の場所で叫んだ。
「殿…っ!」
雨に流れていく声は、どこへも響かない。届かないとわかっていても、浅羽はこの場を去る気持ちにはなれなかった。












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