山竝に風は鳴る




翌日、七日。
容保は上様とともに米軍艦イロクォイス号から移り、開陽丸に乗船した。開陽丸の乗員たちは当然、前触れもなくやって来た上様と幕閣たちに驚き困惑していた。
(さすが、我が国一の軍艦だ…)
容保は周囲を見渡しながら感嘆する。昨年から幕府海軍の主力艦として活躍する『開陽丸』は、他の軍艦とは比べものにならないほど広く迫力がある。乗組員の数も桁違いで大砲を三十五門具えているといい、発注先のオランダでもこれほどまでに能力のある軍艦はないと言わしめたほどだ。
(これほどまでの迫力…薩長には決して負けぬはずだが…)
宝の持ち腐れだと嘆きながら、容保は上様とともに迎賓室へ通されると豪華な造りの応接間があってまるで違う国を訪れたかのようだった。
「沢太郎左衛門でございます。上様、開陽丸へようこそ」
出迎えたのは副艦長の沢だった。海軍は阿波沖海戦で連戦連勝を重ねており、上様が開陽丸へ激励に足を運んだと勘違いしているようだった。彼らからすれば上様の来訪の理由はそれ以外考えつかないはずだ。
上様は
「榎本は?」
と訊ねる。沢は深々と頭を下げた。
「はい、榎本艦長は作戦会議のため、大坂城へ向かっているはずで…」
「そうか。だったらいま開陽丸の艦長はお前ということになるな?」
「…代理という意味では、そうなります」
上様を歓迎していた沢の表情は次第に困惑していく。そもそも榎本は招聘されて軍議に向かったはずで、それを上様が承知していないはずがないことに気が付いたのだ。しかし上様は敢えて捲し立てるように命令した。
「沢、今すぐ出航せよ」
「は…どちらへ?」
「江戸だ」
「…江戸、でございますか…」
「何日で着く?」
「は…順調に行けば五日ほどでしょうか…」
「そうか。今すぐ出せ」
「…」
沢は驚き、上様の背後に控えていた老中や幕閣たちに視線を向けるが、上様の突拍子のない命令を肯定も否定せず…誰も一言も発せようとしない。容保もまた定敬とともに口を噤み状況を見守るしかなかった。
沢は状況を察したようだ。
「…恐れながら、私は副艦長です故、代理であろうとも出航することはできませぬ。せめて艦長の榎本が戻るまでお待ちいただけないでしょうか?」
「ならぬ。私は榎本が不在なのはわかってここに来たのだ」
「しかし、このまま出航すれば艦長を置いていくことに…」
「構わないだろう。他にも艦はある」
食い下がる沢に対し、上様は強引な物言いを繰り返し彼を困惑させた。ずっと海の上にいた彼らは鳥羽伏見の苦戦を耳にしているだろうが、それでも上様と上官たちが逃げ出すほどのことではないはずだと信じていたのだ。
沢は口をもごもごとさせながら、どうにか理由をつけて拒もうとした。
「…しかし風が強う吹いております。万が一開陽丸に何かあれば海軍に大打撃となりましょう、やはり榎本艦長に一度…」
煮え切らない返事をする沢へ対し、上様は苛立って痺れを切らしたように机をバンッと叩いた。
「そうであるなら、お前を艦長に任命する。…徳川宗主の私が命じるのだ、今すぐ出航せよ!」
上様が語気を孕むと、老中の板倉や酒井も「上意であるぞ!」と沢を責める。江戸行きを了承した老中たちは上様の側につき、いまだに後ろ髪を引かれる幕閣たちは自棄になって諦めてやり過ごしている。
(これは逃避行なのか…)
沈黙を続ける容保はだんだんと情けなくなっていた。幕閣たちに責められて沢は苦い表情を浮かべて迷っていたが、結局は
「承知いたしました…」
と不本意そうに頭を下げる姿は、容保から見ても不憫で仕方なかった。

「肥後守様」
迎賓室を出た容保は沢に引き止められた。沢は「お話が」と近くの客室に案内したが、徹底抗戦の構えを見せていた会津の藩主がここにいること自体に疑問を持っているようだった。
「…貴君の言いたいことはわかっている」
「こんなことは前代未聞です。戦の最中でありますのに、主君が秘密裏に逃げ延びるなど…肥後守様もご了承のことでしょうか?」
「いや…私は何としても上様をお引止めしたいとたびたび進言しているのだが…上様は聞く耳を持たれぬ」
「そうでしたか…」
沢はやはりと言わんばかりにため息を付いて眉を顰めた。
「勝先生や榎本艦長がいらっしゃれば烈火のごとく反対されることでしょう。…まさか上様が艦長を城へ呼び出されたのもこの件のためでしょうか?」
「…そこまではわからぬ。ただ榎本艦長が不在であったことをご存じであったのは間違いない」
「ああ…榎本艦長は何というか…時に感情的に行動される方ですから、上様も見抜いていらっしゃったのでしょうか。もしこの場にいれば上様を強引に下船させていたかもしれません」
沢は苦笑する。海軍を率いる榎本がこの場にいないことが何よりも悔やまれるが、呼び戻す暇はない。
「…どうにか出航を取りやめることはできないだろうか?今、雨が降っているのだろう?出航をやめる理由にはならないのか?」
「上様は博識でいらっしゃいます。この程度の雨でしたら航行に問題がないことはご存知のはずです。風は時折強く吹いていますがこの海域では珍しいことではありませんし、上様のあのご様子では出航させるしかありませんが…それよりも考えがございます。一度出航させた上でこの天保山沖を周回するのです。一日…いえ、一日半くらいでしたら誤魔化せるのではないでしょうか?」
「それは妙案だ…!」
大坂城を脱出したのは昨晩のこと、一日半もあれば上様の頭が冷えて城に戻ると言い出すかもしれない。容保はわずかな光明を見出し、頷いた。
「その案で頼む。全責任は私が取る」
「承知しました」
沢は早速艦長室に戻っていく。
容保は少しだけ安堵のため息を付いた。


同じ頃、浅羽は天保山沖が見渡せる場所にいた。文久四年に亡き将軍家茂公はここから十二隻の軍艦を従えて二度目の上洛を果たし、その幕府の威容に民を驚かせたものだ。
(今度は一橋公がここから逃げ延びることになるとは…)
浅羽は落胆する。
いまは兵庫開港を行い、米・英・仏の軍艦が自国船の護衛や情報収集のために停泊している光景が広がっている。このまま異国に支配されてしまうのではないか…そんな危惧すらいまは頭の片隅にしかない。
「あれが開陽丸です」
隣にいた長輝が指さす。幕府海軍の主力艦はさすがにこの天保山沖で存在感を放っていた。
「殿は無事に乗艦されたのだろうか…」
「船頭は、我々が波に煽られる前は穏やかだったと言っていましたからおそらく大丈夫でしょう。…これから我々はどうしましょうか?城に戻りますか?」
「…」
浅羽は迷った。会津公を追いかけたものの、荒波が遮って追いつけず何の成果も得られていない…ここを離れてうっかり開陽丸の出航を逃せばもう引き止めることはできないだろう。
「長輝はどうすべきだと思う?」
「…僕は開陽丸に乗り込むのは難しいのではないかと思います。上様は我々の随行を拒まれて出立されました…我々が会津藩士だと知れば乗船を許されないのかも、しれません」
「…長輝は上様とよくお話をされていたのだろう?」
「ハハ…よく招かれました。けれど今から思えば、上様はこの戦を避けるためにもっともな理由を探されていたのかもしれません。会津藩士なのに正面からの戦を避けようとする僕が珍しかったのでしょう」
長輝が苦笑する横で、浅羽は咳き込んだ。昨晩からの騒ぎで眠るどころか休息すらままならないままだ。
「浅羽さん、少し休みましょう。…開陽丸の監視は小者を雇いますから」
「…そうしよう」
長輝の言う通り小者には動きがあれば起こすように伝え、近くの宿を借りて二人は一旦休むことにした。海で濡れた着の身着のままの二人の身体は極寒の海風に冷やされていたが、それが気にならないほど気を張っていたのだ。
「…浅羽さん、これは…御宸翰ですか?」
長輝は浅羽が担いでいた風呂敷から覗いていた御宸翰を取り出した。それは会津公が残されたものだった。
「ああ…」
「…勝手に持ち出しては責めを負われるのではありませんか…?」
「しかしあの場所に置いておくわけにはいかなかった。上様の不在を皆が知れば騒ぎになるだろう…どさくさに紛れて紛失する方が問題になると思ったのだ」
「…殿は…何故これを置いて行かれたのでしょうか?」
長輝は雨露に塗れた御宸翰の入った蒔絵の箱を恭しく拭きながら枕元に置く。会津公は先帝からの信用を得て様々なものを下賜され、それらを決して肌身離さず持ち歩き会津の宝として丁重に扱った。城を出る前にこれを置いていったことには明確な意図があったはずだ。
「殿はおそらく…先帝のご遺志に背く行為を受け入れられず、とてもこの御宸翰とともにご一緒に同行できないと思われたのだろう。上様の気に障るであろうし船中で何があっても良いようにと…会津のために残されたのだと思う」
「でしたら、これは殿のご意思なのですね…決してこの脱出が本意ではないのだと僕たちに伝えたかったのでしょう。…僕は、殿が浅羽さんに追ってきて欲しかったのではないかと思います。もしかしたら殿の御様子に一番に気づかれるであろう浅羽さんに託したのかもしれません」
「…そうであったら、恐縮なことだ…」
浅羽は会津公のことを考えれば考えるほど、頭が沸騰するようだった。この一夜で身体の具合を悪くしたこともあるが、会津公の切ない苦しみを思うと胸が痛くなるからだ。
「浅羽さん、風邪をひかれましたか?」
「ああ…もう休むよ」
気が緩んだのか浅羽は悪寒がして布団を被り身を縮めて横になった。
長輝も横になって身体を癒すことに専念しすぐに寝息を立て始めたが、浅羽はなかなか眠ることができなかった。
浅羽は長輝を起こさないように枕元へ置いた朝顔の根付を手に取った。それは先帝から頂いた珊瑚を殿が朝顔に彫らせて贈ったもので、『固い絆』と『儚い恋』という意味がある。殿が一体どういう意図でそれを浅羽に渡したのかはわからなかったが、手にしているだけで今は遠く離れた殿の気配を感じるような気がしたのだ。











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