山竝に風は鳴る
6
一月八日、沢は乗組員や士官に意を含ませて開陽丸は天保山沖の周回を続けた。上様の心変わりを待ち、いつでも大坂城へ戻れるようにと細心の注意を払う。
「こんな時ばかり天候が良いのが恨めしいです。嵐にでもなれば陸に降りていただく理由となるのに…」
沢は容保以外の幕閣たちには危険であるため甲板には出ないようにと伝え、容保は共犯の沢とともに艦長室で同じ航路をぐるぐると辿るのを見つめていた。
「…阿波沖での戦はどうだった?」
容保は沢に訊ねたところ、彼は少し目を輝かせて答えた。
「我が国初の軍艦による海戦で、力が入りました。我々は三日の深夜、土佐堀の薩摩藩邸蔵屋敷から火の手が上がるのを確認し、戦が始まったのだと認識しました。海峡に薩摩の軍艦を三隻捕捉し、空砲を放ち計二十五発のクルップ砲撃を加えて薩摩の軍艦を圧倒した…あまりの迫力に乗組員たちは雄たけびを上げて喜びました。残念ながら速力のある三隻を逃しましたが、そのうちの一隻は阿波の由岐浦へ乗り上げ、自焼したそうです。我々の完全なる勝利でした」
沢は誇らしそうに饒舌に語ったものの、すぐに声のトーンを落とした。
「…けれどどれだけ素晴らしい軍艦が、どれほど威力のある砲撃ができようとも指揮官にその気がなければ海に沈むことになります。今回の件で、士官たちは甚だ失望しています。阿波沖では勝ちました…海からの補給も可能です。負けるはずがないのに…上様は何故、このような真似を…」
「私には…わからぬ。ただ…もしかしたら、嫌気が差されたのではないかと思うようになった」
「嫌気…?」
「上様はそもそも戦を望んではおられなかった。けれど幕府陸軍や会津、桑名…徳川を守るために戦をすべきだと声高に主張したことで、かえって追い詰められることとなってしまった…冷静に考えてみると、私に上様を責める資格はないのかもしれない。上様を苦しめているのは、融通の利かぬ我々のような生き方なのだろう」
「…」
沢は切ない表情を浮かべた後に再び航路を見つめた。海に道はない。目印を頼りに、当てのない果てを行く。
そして沢はゆっくりと口を開いた。
「…船は一致団結せねば前へ進みません。一里進むためだけに多くの乗組員と士官の協力が不可欠です。けれどそれは陸の上でも同じではないでしょうか。家臣がいて初めて上役が存在する…上様はご自分の為さりたいようにされたいならば家臣を説得せねばなりません。理解をしてもらおうと努力をせねばならない…それが僭越ながら上様に欠けている部分でしょう」
「はっきりと申すのだな…」
「はい。私は今回の件を決して納得はできません。ですから…上様が正気に戻られることを願います」
「…」
沢が口にすることは、おそらく開陽丸の乗組員たち全員の想いと同じなのだろう。最強の艦隊がまさか上様の逃亡という前代未聞の行動の道具に使われることに不本意な気持ちを抱えているに違いない。
「正気か…」
(私は正しいのだろうか…)
容保は呟いた。
上様を誤魔化すことができたのはその日の夜までだった。
老中の酒井が船酔い覚ましのために勝手に甲板に出たところ、煌々と光る大坂の町を遠目に見つけて開陽丸が江戸へ向かっていないことに気が付いてしまったのだ。酒井は若く経験の浅い自分を老中に登用した上様に心酔し、今回の江戸行きについて一番理解を示していた。
「これは一体どういうことだ!」
その酒井は艦長室に怒鳴り込んだ。いつまでも誤魔化せるものではないと覚悟していた沢は何も口にせずに黙りこみ、「上意に背くつもりか!」「打ち首だぞ!」と脅されても耐え続けた。そこへ騒ぎに気が付いた容保が駆けつけて、沢を背にして酒井と対峙する。
「酒井様、これは沢艦長の企みではありません。すべて私が彼らに頼んだことなのです」
「なに…?!肥後守殿、どういうつもりだ。上様のご命令に背くのか!」
「…謀るような真似をしたことは認めます。ただ、私は上様にはもう一度、今回の件を御深慮いただきたかったのです。城を離れられ、少しは落ち着かれたことでしょう…家臣を置いて江戸へ向かうことの是非を今一度見つめなおしていただきたい…!」
「何を勝手な…!」
上様の考えを尊重する酒井は、いまだに抵抗する容保を許せなかった。顔を真っ赤にして非難する。
「上様の御考えに同意したからこそ、ここまでやって来たのだろう!上様にはお考えがあるのだ、忠臣であるならばさっさと腹を決めて従うべきであろう!」
「…私は上様の臣下であり、同時に会津藩主です。私には守るべき家来がたくさんいる…その者たちの想いを無碍にはできませぬ!」
「すべての家臣は上様の御考えに従うべきだ!」
「間違っていることもありましょう!」
「なにぃ…っ!」
酒井が刀に手を掛けようとしたとき
「そこまでにせよ」
と涼しい声が艦長室に響いた。いつの間にか背後にいた上様が、腕を組んで気だるげにこのやり取りを眺めていたのだ。酒井はサッと表情を変えた。
「…っ、上様、この者たちは上様のご命令を無視し、謀り、いつまでも大坂を離れずに周回していたのです。これは許されぬ所業です!」
「わかっている。お前の声はそこら中に響いていたからな…少し頭を冷やせ」
「は…っ」
若き老中である酒井は忌々しく容保を睨みつけた後、上様の言いつけ通りに艦長室を出て行った。
一方で上様は特に表情は変わらず、自分の命令が無視されたことを憤っているわけではなさそうだった。むしろ口元を緩ませて
「一日半、私を謀ったな」
と可笑しそうに笑った。けれど上様以外の艦長室の雰囲気は緊迫したままで、沢の表情は固まっていた。
容保は上様へ頭を下げた。
「…上様、沢艦長に落ち度はございません。すべて私の責任でさせたことです」
「肥後守ならやりそうなことだ。…沢、企みが露見したからにはもう拒むことはできぬ、江戸へ向けて出航させよ」
「…はい」
沢はやはり不本意そうだったが、これ以上命令違反を冒せば彼の命に関わる。容保は「頼む」と頷いて上様とともに艦長室を出た。
上様が滞在する迎賓室に入ると大きく開陽丸が旋回する…ついに江戸へ向かって航路を進み始めたのだ。
「座れ」
上様は向かい合った椅子に座るように命じ、容保は従った。上様はワインを注いでグラスを容保の前に置いたが、とても手を付ける気分ではなかった。
「…どうか沢艦長と乗組員、士官たちへの処罰はご容赦ください。彼らは私の頼みを引き受けただけで…」
「そのつもりはない。一日半、船旅が延びただけだ」
「…ありがとうございます」
上様はワインを一気に飲み干したあと、「不味いな」と眉間に皺を寄せながら容保を見据えた。
「…お前は諦めが悪い。私は心変わりなどせぬ、そのような生半可な決意で大坂城を出たのではないと昨日言っただろう」
「それでも…時が過ぎれば御心が変わることもあるはずです」
「ないと言っているだろう。…まったく、肥後守は諦めが悪く話が通じず、馬鹿馬鹿しいほど真面目で面倒で厄介だ。だから昔からお前のことが嫌いだった」
「…それは昨日もお伺いしました。でしたら、何故私を同行させたのですか?上様に歯向かう私など邪魔でしたでしょう。何故、今この時のように言葉を尽くされるのですか」
「…」
上様は空になったワイングラスに視線をやりながら、椅子の背もたれに身体を預けた。
「肥後守を大坂城へ残せば、必ずや『徳川のため』の徹底抗戦となる。…私はこれ以上、朝廷に戦を仕掛け賊軍の汚名を被るのは御免だ。私がそう思っているのにお前たちの忠誠のために私が汚れ役を担うなんて、馬鹿げているだろう」
「そんな…上様は戦場で実際に戦う兵のことを蔑ろにされています。彼らの想い…徳川へ命を賭して戦うことは…」
「私はそんなことを頼んでいない」
「…!」
容保はカッと己の感情に火が付くのを感じた。上様にとってどれほど不本意な戦であったとしても、それを勝手な他人事として吐き捨てる態度は到底許されるものではない。しかし上様は
「もう血を見るのは御免だ」
とどこか虚しそうに呟いた。その様子に容保の憤りは一気に消え去った。
「…上様…」
「お前は例え負け戦でも最後まで戦うことが忠誠だと考えているようだが、私はお前たちに徳川のために死ねと言った覚えはない。それなのに私のために、兵が死ぬ。次々と、まるで虫けらのように。徳川への忠誠を叫びながら…?そんな光景を有難いなどと微塵も思わない。私は水戸の出だから余計そう思うのかもしれないが、自分のために目の前で兵が死ぬなど…まるで悪夢のようだ」
上様は嫌悪感を滲ませながら、また真っ赤の、血に似た不味いワインを注ぐ。
「一昨日の二の丸の火事で、負傷兵が自害しただろう。まだ始まってもいない戦で、足枷になるまいと先に死んだ…私がその知らせを聞いた時心底寒気がした。…肥後守、何故兵たちは死んだのだ?」
「…それは…徳川の勝利を願い…」
「最後の一矢となって死ぬ方がまだマシだろう。…死んだ者はもう生き返らぬ、徳川が勝とうが負けようがそれは冥土への土産にもならぬ。…人は、生きてこそ人である。肥後守は自分の意地を貫いて自分の家臣を殺したいのか?」
「…」
容保は言葉に詰まった。
会津藩主という立場では徳川に忠誠を尽くすことこそが何よりも肝要だと信じて家臣とともに尽力してきた。時には命を投げ出すことも尊ばれ、戦で死んだ者たちは「よくやった」と称えられた。
(けれど、それが人として正しいのかは…わからぬ)
家臣たちが死ぬことは決して歓迎させるべきことではない。彼らの命を守ることも藩主の役目ではないか…真っ当なことを上様に指摘され、容保は二の句が継げない。
上様は続けた。
「…おそらく私は江戸へ戻って、皆に糾弾されることであろう。何故家臣を置いて逃げ出したのか…私は戦で兵を殺したくはなかった、これが家臣のために起こした行動だと話してもそれは周囲には理解されない。いや、理解されようとは思わぬ。きっと私はこの先、皆の悪役として生きていくのだろう。それは構わぬ…これまで死んだ者の罪滅ぼしになるとも思えないが」
「上様…」
「けれど、一番嫌いなお前には伝えておきたかった。私とは正反対の道を行くお前の…足枷になるだろうから、これは呪いのような嫌がらせだ」
「…それはどういう…」
上様はふっと笑い、またその不味いワインを飲み干した。
「私は…江戸へ戻って恭順する。再起などせぬ、迎え討つつもりもない、ひたすらに朝廷に恭順するのだ」
「上様…!」
容保は思わず立ち上がった。その拍子に椅子が倒れて大きな音を立てたが全く気にならなかった。
「恭順など皆が納得するはずがありません!」
「納得などせずとも良い。徳川宗主の私がこれを最良だと思い、選んだのだ。…肥後守もそろそろ考えるべきだ。戦い続ける意義は、家臣の命よりも勝るのか…と。誇りよりも大切なものもあるのではないかと」
「…っ」
上様は感情的にならずに淡々と話す…容保はそれが紛れもなく上様の本音なのだと感じ取り、上様の元へ近づきその場で膝を折って頭を下げた。
「どうか…どうか、お考え直しください!私は江戸へ向かうのは戦い続けるためだと信じ、同行したのです!」
「…江戸へ向かうための方便だったのだ。許せ」
「上様…!」
「お前も考えを改めよ。船旅は長い…時間は十分にある」
「…!」
容保の懇願に対して上様は顔色を変えずに、「用は終わった」と強引に部屋から追い出してしまった。
容保は全身の血の気が引いていくような感覚を覚えた…きっとそれは気のせいではなく、実際に青ざめていただろう。
(私は上様に騙されていたのか…)
信頼できる臣下とともに江戸で再起を図る―――上様はいつから恭順を決めていたのか。江戸での再起に望みをかけていた幕閣たちはただ彼に踊らされていただけなのか。
足元からガラガラと何かが崩れていく。いつの間にか奈落に付き落されたような気持ちだ。
「…兄上?」
容保が立ち尽くしていると定敬がやってきた。
「酒井殿から話を聞いて…兄上?どうなさったのです?上様がなにか…」
「一緒に来てくれ」
容保は定敬の質問に答えず、歩き出した。真っすぐ足早に迷いなく進み、階段を上がって甲板に出ると冷たい夜風が身体中を撫でていく…遠くには大坂の町並みが見えた。そこには残してきた家臣たちがいる…胸を締め付けられるような苦しさを抱えながら容保は乗組員の制止を無視して、冷たい波飛沫を被る船尾へ向かった。
「あ、兄上!」
「定敬…上様は江戸へ戻り恭順なさるのだそうだ。決して再起などせぬと…私はいまから腹を切る。介錯を頼む」
「な…っ!」
容保はその場に膝を折り、脇差を手にして鞘を捨てた。刀身が月光に照らされて鈍く光る…昼間に見る姿とは違う姿にぞくりとしながら刃先を自身に向けた。
自分なりの忠誠を形にしてきたつもりだ。時代に逆行していたのかもしれないが、先帝や家茂公のためになりふり構わず戦ってきた。
(…もう疲れてしまった)
認めてもらいたいわけではない。一橋公がもともと尊王の志強く、徳川の宗主になることに躊躇いを持っていたことも知っている。彼に言わせれば被害者なのかもしれない。
けれどだからといって会津の生き方まで否定されるべきなのだろうか。
命を投げ出して死んだ者たちに報いずに、逃げ出すことができるだろうか。
(上様を信じた私が愚かだったのか…それとも会津の志を貫こうとする私が無謀なのか…)
だが、現実は容保は上様が大坂城を脱出し、江戸へ着いたとて恭順することに加担したということになる。そんなつもりではなかった…その言葉を誰が信じるというのか。
(浅羽は信じてくれるだろうか…)
もし彼が顔を顰め、失望して「騙された」と口にしたら―――胸が張り裂けてしまう。
「だったらここで終わりにした方が余程いい…!」
「兄上!なりません!」
刃先を突き立てようとしたとき…定敬が容保の手を掴んで強引に身体から離した。脇差は容保の手から離れ甲板のどこかへ投げ出されていく。カランカラン、と虚しい音を立てて。
「…死なせてくれ、私は愚かにも…上様を信じて、皆を裏切って…」
「それは私も同じです!兄上が腹を召されるならば、上様の言葉を信じ兄上を説得した私が先に腹を切るべきです!兄上は私の介錯を務めてくださいますか?!」
「…っ」
容保は言葉に詰まった。弟を道連れにするつもりなどない。
「私は…私の我儘で腹を切るのだ…」
「ここで腹を切って何の意味がありましょう!…大坂に残った家臣たちは必ず兄上の元に集まります。彼らは必ず兄上の言葉を信じるでしょう。兄上は彼らに伝えるべきことがあるはずです…!」
「定敬…」
「…私も共にこれからのことを考えます。ここは耐えて江戸へ向かいましょう…」
末弟は一会桑の一角としてともに戦い続けて来た。そしてともに開陽丸に乗り、同じ末路へ向かおうとしている。
(定敬を置いてはいけぬ…)
「わかった…」
容保はその一言だけを発してその場に項垂れた。
少し湿った冷たい夜風がどこかへ流れ続けていた。