山竝に風は鳴る




冬の海で無茶をした浅羽は案の定風邪を引き、長く寝込んだ。悪寒が止まらず宿に医者を呼びつけて薬をもらい、どうにか回復したのは九日の朝…開陽丸が江戸へ向けて出港した翌日のことだった。
「浅羽さん、開陽丸の姿が見えなくなりました」
「なに…!」
一体何があったのか、昨日の夜遅くまで天保山沖を周回していた開陽丸だがついにその姿が消えた。浅羽は飛び起きて長輝から話を聞いた。
「ま、まさか沈没したというようなことでは…」
「それはないと思います。昨日は波は穏やかで今朝よりは出航に適していました。けれど開陽丸は監視をしていた小者によると同じところを行ったり来たり…まるで時間を潰しているようだったと」
「…潰していたのではなく、何らかの理由で時間を稼いでいたのかもしれない…」
浅羽はなにか理由があったのではないかと考えるもののもう出航してしまったのだから答えを探しても意味はなく、今は一刻も早く開陽丸へ追いつきたい。浅羽は「出立しよう」とすぐに着替えて用意を進めた。長輝は浅羽が休んでいる間に簡易的なもの地図を手に入れたようでそれを広げた。
「今朝出航したのなら阿波海峡を越えている頃でしょうか。我々も南下しましょう」
長輝の提案で二人は馬で南下しながら情報収集することにした。開陽丸ほどの大きな軍艦なら港町の民は気が付くに違いない。
浅羽は御宸翰と根付を大切に風呂敷に包み、無くさないように胸元に抱えて馬に乗った。冷たい風が吹き、雪がちらついていたが馬たちはひたすらに足を動かした。
「浅羽さんが休んでいる間に会津から使者が来ました。陸路と海路に分かれて江戸へ向かうことに決したそうです」
「そうか…大坂城は混乱しているだろう」
「ええ、徳川が大坂城を放棄して降伏したと話が伝わり群衆が押し寄せたそうです。薩長に占拠されるのも時間の問題でしょう。…あの大坂城が、易々と陥落するなど戦の前には想像ができませんでしたが…」
長輝はため息を付く。その白い息は曇り空に舞い上がり、灰色の空に消えた。
「…江戸で再起を果たせばいい。会津兵も無事に江戸へ辿り着く…きっと佐川が上手くやるはずだろう」
「佐川さん…ですか」
何かと対立する佐川の名前を出すと、長輝は一層眉間に皺を寄せた。彼らは二人とも会津公に将来を期待されていたが、ずっと犬猿の仲だ。
「佐川は少し乱暴な所もあるが一本筋の通った男だ。戦の指揮にも長けているし、頼りになる」
「…わかっています。佐川さんは僕のことを何かと頭でっかちで口ばかりだとよく突っかかってきました。長崎かぶれの僕が藩兵改革に乗り出し、西洋化を進めようとしたことで、彼の領分を冒してしまったのが気に障ったのでしょう。…まぁ、気に入らないのは当然です、僕は彼らのやり方を否定する立場だったのですから」
「長輝…」
「でも、僕は僕なりに会津のために努めて来たんです。…長崎で実感しました、いつまでも火縄銃を担いで戦場を駆けまわっているようでは異国には勝てない…でも改革途中に大政奉還、王政復古と立て続けに起こり戦が起きてしまいどうしようもなくなりました。僕は薩長の強さを知っていました、とても勝てる状況ではないと主戦派を抑え込み、江戸へ戻って善後策を立てるべきだと主張した…それがさらに佐川さんの機嫌を損ねてしまいました」
パカパカと馬の蹄が軽快に響く。長輝は馬に揺られながら少し考えた後、
「…僕がどれほど正しいと思っていても、世の流れには逆らえないのでしょう。今はそれを実感しています」
と長輝は嘆いた。
浅羽は会津公から長輝が長崎で多くの志士たちと交流し、知識を得たのか話を聞いていた。長輝は会津藩家老の倅でありながら知性的で柔軟な考えを持ち、憎まれるべき会津藩士にも関わらず大物志士たちから一目置かれているそうだ。会津公は長輝に期待し、
『きっとこれからの会津を背負っていくのだろう』
と微笑みながら口にしていたのだ。
浅羽は会津公の思いをよく知っていた。
「確かに思い通りにならないことばかりだが…変えられることが全くない、というわけではないと思う」
「そうですか…?」
「佐川ともっと話をしてみたらいい。直情的で手に負えない時もあるが、優秀な男だ。会津の知性が長輝なら、武を担うのは佐川だと思う。…何だったら私が席を設けよう」
「…ありがとうございます。考えてみます」
長輝は照れ臭そうに鼻を掻く。
そうしていると曇り空がその色を濃くして、ぽつぽつと雨が降り始めた―――。

二人は雨に濡れながら泉州貝塚の旅籠に入った。
「浅羽さんの体調がまた悪くなったらいけませんから」
「すまない…」
強雨から逃れるために空いている安い旅籠へ入ると同じように雨宿りする旅人が多く、何とか狭い部屋を借りると中年の飯盛女がやって来た。
「こんな安宿にご立派なお侍さんが来るなんて珍しいわぁ!」
女は明らかに色目を使い、ふしだらなほど胸元を開けながら膳を運んでくる。不快感を示した長輝は「休みたいんだ」と女を追い払おうとしたが、浅羽は引き止めて
「この辺りで大きな軍艦を見なかったか?」
と訊ねた。人が集まる旅籠では情報が多く集まるはずだと踏んだのだが、予想通り女は「ああ!」とすぐ思い当たり饒舌に語った。
「昼頃やったかなあ、見たこともあれへんおっきな軍艦やてお客さんの間で騒ぎになっとったわ。異国の船ちゃうかって港のひとは逃げ出したって聞いたけど、行ってもうたって」
「昼頃か…」
「今頃はそうやなぁ、この雨やし由良辺りに碇泊してるんちゃうかなあ」
「…そうか、助かった」
浅羽は懐から小銭を取り出して女に与えてやった。女は喜び「別嬪さん連れて来よか?」と誘うが、ついに長輝が締め出してしまった。
「そんなに嫌がらなくてもいいだろう、女たちの仕事だ」
「それはそうでしょうが…僕はああいう女は好きません」
「…まあ、雪子殿とは正反対だ」
雪子とは長輝の妻だ。長輝は早いうちに会津藩軍学者の家柄から嫁を娶り、周囲が羨むほどのおしどり夫婦である。雪子は控えめだが凛とした眼差しで夫を支えるまさに武家の妻という雰囲気で、長輝にとって安宿の飯盛女とは全く比べるべくもないだろう。
浅羽は苦笑しながら箸を進めた。一汁三菜といえども汁物の具は少なく、漬物も塩辛いが今は腹に入れるだけで十分だろう。ふと長輝の手が止まっていることに気が付いた。
「…どうした?」
「浅羽さんは嫁を娶るつもりはないんですか?」
「何を突然…良い縁がないだけだ」
「じゃあ変なことを聞いても良いですか?」
「駄目だと言っても聞くのだろう?」
「はい。…浅羽さんはあまり女に興味がないですよね。さっきの女だって胸元を大きく開けていましたけど、浅羽さんちらりとも見ずに涼しい顔で話していたでしょう?僕みたいに拒むでもなく、全然視界に入っていないという感じでした」
「…」
浅羽は聞き流すつもりだったが、箸を置いた。長輝の言いたいことを察して表情を引き締めて問いかける。
「…私が男色家だと不都合があるか?」
「…ありませんが…」
浅羽の深刻な様子を見て長輝は少し喋りすぎた、と口を閉じて「すみません」と謝った。浅羽はふっと力を抜いて笑った。
「さすが、我が藩随一の秀才だけあってよく人を見ているようだ。しかし私は男色家ではない。妻を貰わずにいるのは単に忙しいからで、他意はない」
「…そうなんですか?」
「そうだよ」
浅羽は再び箸を手に取り、椀をぐいっと流し込む。具が少ないのを補うように濃い味つけだったが、まるで気にならなかった。
(私は男色家ではないが、殿のことは慕っている)
長輝に打ち明けたところで困らせて動揺させるだけだ。それにこの恋に続きなどはなく、ただ秘して固く守っていくことしかできないのだから余計人に漏らすつもりなどない。
長輝も再び箸を手にした。そのあとはなんとなく気まずくて短い会話を交わすだけですぐに休んだ。
浅羽は夢を見た。昔、養子となった会津公が初めて城にやってきた時のことだ。細い体躯と麗しい横顔に惹きつけられたーーー白鷺が舞い降りたような姿を見た途端、胸の奥から湧き上がるようにこの人をお守りしようと誓った。片時も離れず支えなければならない、それは大袈裟に自分の使命なのだと思い込むほどに。
けれど突然夢の中で、その白鷺が曇り空に向かって羽ばたいていく光景が映し出された。浅羽はただそれを見守るしかない無力な存在でしかなかったーーー。


翌日は雨は止んだものの曇り空に覆われて薄暗く風は強かった。
「由良へ向かったところで乗り込めません。大和路から松阪を目指しましょう」
長輝の判断で南下を取りやめて大和路を通り東へ向かい、松阪にて碇泊するであろう開陽丸に追いつく策へ切り替えた。
行き交う民に紛れて馬を引きながら古道を歩く。
「…浅羽さん、昨日は寝言を言ってきましたよ」
「寝言?」
「『殿、お待ちください』『殿ー!』…って、苦しそうに叫んでました。僕は何事かと飛び起きましたが」
「それは…すまない」
浅羽は気恥ずかしさを覚えながら謝った。夢のなかでで白鷺が飛んでいく姿を見て思わず叫んでしまった覚えがあるが、実際に口にしていたとは全く気が付かなかった。
長輝は笑いながら「急ぎましょうか」と馬に乗る。
あくまで江戸ではなく開陽丸乗船を目指す二人は、開陽丸が紀伊半島を周回する前に松阪へ向かい先回りしなければならない。ほとんど休みなく険しい山道や鬱蒼とした畦道を進んでいると次第に人気が減っていた。山道に入ると人ひとりすらいなくなり、不気味な雰囲気さえ感じる。
すると突然、木々の間から十名ほどの粗野な男たちが現れて立ち塞がった。手には刀や斧、弓矢を携え、浅羽たちを下卑た視線で舐め回すように眺めている。
「…野盗か…」
以前なら町奉行所などが取り締まっていた街道であっても、いまは治安が乱れ野盗や山賊、追剥ぎが頻発していると耳にしていた。それに加えて徳川の敗走兵が紀州へ向かって逃げ延びているため、あちこちで落ち武者狩りが横行しているはずだ。
「立派な身なりのお侍さんじゃねぇか。官軍か?それとも賊軍か?」
「どっちでもいいやろ。金、持ってそうだなァ」
「見ろよ、あの馬!毛並みも顔立ちもいい。高く売れそうだぜ」
野盗たちは浅羽たちの品定めを終えてほくそ笑む。すると首領格の長髪の男が槍を手に前に出て叫んだ。
「金目のものと馬を置いていけ!そしたら命だけは助けてやる!」
「…浅羽さん、どうしますか?」
長輝は恐れてはいない。長崎に留学していた彼はこういう場面に何度も遭遇しているだろう。だが今は一刻も早くこの場を去り、松阪に向かわねばならず彼らの要求にこたえている暇はない。だが多勢に無勢だ。
「馬を渡すわけにはいかない」
「僕もそう思います。…僕に任せてもらえますか?」
「勿論」
浅羽は頷き長輝に任せる。彼は乗馬したまま前に出ると懐から財布を取り出してありったけの金を放り投げた。野盗たちが目を輝かせ飛びつくなか、長輝は首領格の男へ向かって答えた。
「金ならくれてやろう!だが我々は先を急ぐ。馬を置いていくわけにはいかぬ!」
長輝は思いっきり馬を蹴り強行突破を試みる。浅羽も後に続き駆け出すと、長輝がそうしたように群がる野盗たちの正面へ突っ込んだ。大胆な行動は彼らを驚かせほとんどの野党は咄嗟に身を翻して道を開けた。数人は馬に蹴られたようで呻き声をあげている。
だが野盗たちも小銭だけで諦めるはずがない。
「追え!追えー!」
激怒した首領格の男が命令し、野盗たちは追いかける。けれど賢い御召馬たちは勇敢で長輝と浅羽の言うことをよく聞き一目散に駆けたため、人間の足では追いつかれることはないだろう。
(助かった…!)
一か八かの賭けだったが、このまま逃げ延びることができる。そう思った時、
「放てェ!」
という号令とともにヒュンと風を切る音が聞こえた―――矢だった。
野盗たちの仲間がこの辺りにまだ潜んでいるのだ。
「長輝…どうするっ?!」
「…もうこのまま切り抜けるしかありません!」
長輝の判断に浅羽は頷き、ただひたすらに先を行く彼を追った。矢は何度か掠めることはあったものの馬には当たらず、だんだんと敵の数は少なくなり始める。このまま振り切れそうだと思ったが、
「あっ!」
矢が浅羽の背中を掠めた。それは抱えていた風呂敷を破り、御宸翰の入った蒔絵の箱が地面へと零れ落ち派手な音を立てた。浅羽はすぐに手綱を強く引いて馬を止めた。
「浅羽さん!」
「長輝、先に行け!必ず松阪で合流する!」
長輝は迷っていたが頷いてそのままスピードを落とさずに駆けて行った。
「…っ、愚か者!どこに落とした…!」
浅羽は自分の失敗が許せなかった。会津の宝である御宸翰を道中に落とせば命でも償いきれず、何より会津公が落胆されるに違いないのだ。浅羽は馬を残して道を戻ることにした。抜刀し薄暗い山道を慎重に歩く…と野党の仲間と思われる無精ひげの男がにやにやと笑いながら御宸翰の入った蒔絵の箱を手にしていた。
「それに触れるな!!」
自分でも驚くくらいの大音声が出た。男は浅羽たち戻ってくるとは思わなかったのか「ヒェ!」と目を丸くして驚き、咄嗟に箱を持ったまま逃げ出していく。
「待て!待たぬか!」
浅羽は全力で走り背後から男の首根っこを摑まえて羽交い絞めにし、抜刀した刀を喉元に当てた。武の心得がないのか男は「ヒィ!」と悲鳴を上げるだけで抵抗はせず、
「どうか、どうかお助け下さいィィ!」
と情けない声を上げた。
「…命は取らぬ、その箱を返せ」
「へ、へぇ…!」
無精ひげの男は怯えながら抱えていた蒔絵の箱を浅羽に渡した。傍に落ちていた風呂敷は破れて使い物にならないが、中の御宸翰は幸いにも結び目は解けておらず中身も無事だ。
「…二度とこのような真似をするな」
「へぇ!」
浅羽が刀を遠ざけると男は飛び上がるようにして一目散に山中へ逃げていき、その姿はあっという間に見えなくなった。奉行所に突き出さない限りまた盗みを繰り返すだろうが、いまは男に構っている暇はない。
だが浅羽はハッと気が付いた。
「根付がない…!」
御宸翰とともに巾着に入れていた根付がない。蒔絵の箱と風呂敷はさほど散乱していないのに根付だけがないのは不自然だろう。
「あの男…!」
もう逃げてしまった男が抵抗なく蒔絵の箱を諦めて簡単に引き下がったのはあの珊瑚の根付を手に入れたからだ…そう気が付いたとき、浅羽は自分の浅はかさを呪った。珊瑚の根付は会津公が自分のために与えてくれた、この世に二つとない贈り物だというのに。追いかけようにももう男の姿はどこにも見えない。
(私の甘さだ…)
浅羽は愕然と立ち尽くす。
心に穴が開くというのはこういうことなのかと思い知り一気に疲労感を覚えたが、追ってきた野盗たちの声が近づいてくる。いつまでもこの場に留まるわけにはいかない。
「…行かなければ…」
浅羽は蒔絵の箱を抱えてもう一度馬に乗った。どうにか心を奮い立たせて長輝を追いかけなければならなかったのだ。











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