山竝に風は鳴る




一月十一日、松阪にて浅羽は長輝と合流したものの風が強く、雨は横なぐりに振り続けとても出航できるような状況ではなかった。二人は船を諦め津、四日市、桑名を経由し陸路にて江戸へ向かい、十五日昼頃、江戸会津藩上屋敷…和田倉屋敷に到着した。しかし会津公の姿はなく、留守居役によるとまだ屋敷には戻らず江戸城に留まっていると聞かされた。
上様が開陽丸で江戸に帰還したのは三日前。その時は大騒ぎだったそうだ。いまだにその混乱は尾を引き、和田倉屋敷でも連日連夜、諸藩との会談が行われているという。
留守居役たちは青ざめた顔で、いの一番に江戸へ帰還した二人を問い詰めた。
「一体なぜこのようなことになったのだ?!兵数では圧倒的に徳川が上回ったはず、負けるはずがないのに」
「上様だけでなくまさか殿までも共に戦場を放棄するなど、何かの間違いではないのか?」
「家臣たちはどうなっているのだ?兵はどのくらい死んだのだ??」
矢継ぎ早に問いかけられ、二人は困惑した。徳川の圧勝を確信し、江戸への敗走すら信じられないという彼らの考えは、一方的な敗北を喫したいまでは過去のものでしかない。兵数だけで勝った気持ちでいた…やはり徳川側に蔓延する慢心がこの敗戦を産んだのだと改めて実感させられた。
どこから話せば良いのか…浅羽は迷ったが、長輝は堂々としていた。
「伏見や鳥羽では圧倒的な武力の差によって大敗しました。いざ大坂城での決戦となり会津も覚悟を決めましたが…上様と殿の脱出については全く知らされず、我らは必死に殿を探して追って参ったのです。今頃兵たちは佐川とともに江戸へ向かっているはずです」
明瞭な言葉で放たれる『大敗』『脱出』という言葉に雰囲気は一気に変わった。敗戦を信じていなかったわけではないだろうが、それでも何かの間違いではないかという希望は持っていたのかもしれない。あっという間にその望みが絶たれ、家臣たちは青ざめて顔を見合わせた。
「修理殿…殿の御考えは?まさか上様に賛同されたわけではあるまい…」
「…僕が最後にお会いした時、殿は大坂城での戦に向けて策を練っておられました。とても家臣を裏切って脱出するような素振りはなく…おそらく上様の御誘いをお断りできなかったのだろうと思います」
「浅羽も同じ考えか?」
留守居役に問いかけられ、浅羽は「はい」と即答した。戦を放棄し、家臣を置き去りにしたのは決して会津公の本意ではないと信じていたからだ。
次第に屋敷中の者たちに二人の帰還が伝わり、あちこちから人が群がってくる。彼らから質問攻めにあうのはわかっていたため、長輝は
「ここでは埒があきません。我々は江戸城へ向かいます。殿に直接お目通りし、事情を聞いてまいります」
と彼らをあっさりと袖にしてしまった。会津藩家老の嫡男であり、会津公に気に入られ西国の志士ともつながりがある長輝は日ごろから何かと注目されていた。それは決して好意的なものだけではない。
「埒が明かぬとは、なんという言い草!」
「殿の側近だからと勝手をしおって…」
「兵を置いてきたのはお前たちも同じではないか!」
あっという間に場の空気が悪くなり、この数日のうっ憤を晴らすように留守居役たちは苛立ちを長輝へとぶつけた。江戸にいる彼らは事情が分からず気を揉み、会津公からの説明もないため右往左往しているのだ。浅羽は同情を禁じ得なかった。
しかし当の長輝は涼しい顔をして「行きましょう」と浅羽の背中を押す。長輝としては和田倉屋敷に足を運んだのは会津公を探すためであり、彼らに事情を説明することは自分の役割ではないと考えていたのだ。
(確かに余計な説明や言葉は誤解を生む…しかし、ここで仲間割れをしては…)
浅羽は危惧するが、会津公の姿だけを探し求めてやってきた長輝にとっては彼らの愚痴を受け止めるのは時間の無駄だと考えたのだろうか。
しかし
「貴殿の望む『恭順』へ傾いているぞ!」
という野次は聞き流せなかった。長輝は表情を変えると噛みつくように言い返す。
「僕は恭順など望んではおりません!」
「何をとぼけているのだ!鳥羽伏見の戦の前に上様に何度も進言なさったそうではないか!」
「上様が大坂城を出たのは会津のせいだと我らは諸藩から責められているのだぞ!」
「それは誤解です!」
浅羽も声を上げたが、留守居役たちの罵声にかき消されていく。
「上様は修理殿が江戸へ戻るのが得策だと聞かされたとご老中へ漏らしたそうだ!」
「それが本当なら何という裏切り!」
「本来であればお引止めし、大坂で討ち死にする覚悟をすべきところを、なんと情けない!」
「殿の顔に泥を塗ったのだ!」
留守居役たちの憤りと嘆きは止まらない。会津公が上様とともに大坂から逃げ帰ったことで他藩との関係も悪くなっているのだろう。その発端が長輝であるような噂になっているのは本人にとって不本意であっただろうが、しかし彼が戦前に『恭順を』と口走ったことは事実だ。長輝はもう何も言い返さなかった。
「…浅羽さん、行きましょう」
「長輝、誤解を解いた方が良い。噂はあっという間に広まってしまう…大坂から兵が帰ってきたらますます…」
「もし僕に釈明の必要があるならば、まずは上様と殿に申し上げます。…行きましょう」
「…」
長輝は野次を背中に受けながら浅羽の腕を引きそのまま和田倉屋敷を出て行った。
江戸城は目と鼻の先にあるが、浅羽は「少し落ち着こう」と誘い、一旦和田倉門から出て河岸に移動した。浅羽は罵声を浴びて長輝の感情が昂っているに違いない、と思ったのだが彼は案外淡々としていた。
「…どうやら会津の立場は相当悪くなっているようですね。それだけ忠臣である会津が上様のご意思とは言え共に江戸へ戻ったことは他藩にとっても信じがたい出来事なのでしょう。特に戦さを望んでいた藩にとっては…。江戸に戻ることを進言した僕は敵も同然です」
「何もかも自分のせいにする必要はない。江戸へ戻られたのは上様が決められたこと」
「大丈夫です、僕はあのような言葉を真に受けているわけではありません。それに彼らが殿ではなく僕へ苛立ちの矛先を向けているのなら、それはそれで殿をお守りすることになりましょう」
「長輝…」
長輝は敢えて冷たく振舞ったのだろうか…浅羽はそんなことを思ったが、長輝に尋ねたところで否定するだろう。彼はそういう男だ。
「それよりも、僕は早く殿にお会いして真相を知りたいのです。そしてこの先をどうお考えなのか…会津が為すべきことを考えねばなりません。できれば会津の兵が江戸へ引き上げてくるよりも前に」
「…」
「どうしました?」
浅羽は言葉なく長輝の顔を見ていた。若々しさに溢れながらも凛々しく聡明であり、知見を基に物事を俯瞰して考えられる…そのような人材は会津にはそういない。先進的だからこそ、古き掟に縛られる会津侍には眩しく、疎ましく、妬ましく映るのかもしれないが、彼は懸命さを忘れない。家老の嫡男として生まれた自分の役目をただただ果たそうとしている。
「…いや、長輝のような者がこれからの会津を背負うのかと思っただけだ」
「何をおっしゃっているんですか、これからが大変なのに隠居でもなさるつもりですか?」
「殿がそうせよと言われない限りはそのつもりはないが…」
「でしたらそのような日和見なことはおっしゃらないでください。…さあ、参りましょう。殿はきっと僕たちを待っていらっしゃいます」
「ああ…」
長輝は和田倉門を引き返し、江戸城へ向けて揚々と歩き始めた。浅羽はその二、三歩後ろを歩いたが、何故だか足取りは重い。
(殿にお会いしたい…その一心でここまで来たというのに…)
けれど実際にお会いできるとなれば何を口にしていいのかわからない。
長輝は真相を知りたいと言っていたが、浅羽は会津公がどれほどの喪失感と悲愴感で経緯を話すのかと思うととても直視できそうにない。それに自分は殿から贈られた大切な根付を盗まれてしまったという負い目を抱えている。御宸翰が無事だったことだけは救いだが、会津公を前にした時…どうすべきなのか。
(私は私の思いを…伝えねばならぬ…)
そうしなければ真心を持ってお支えできない。そう思うものの、どんな言葉が相応しいのか…浅羽は結論が出ないまま、江戸城の門をくぐった。



三日前、容保が上様とともに品川から登城した際には多くの家臣から驚きと困惑と失望の眼差しで迎えられた。大坂で奮戦しているはずの上様が予告もなく船に乗って戻って来たのだから当然だろう。主戦派たちは上様に詰め寄り「江戸での再起」を求め、城内の雰囲気に押され上様は一旦はそれを了承するような態度を見せたが、
「すべてが愚策であります。…上様、これ以上偽りのご意思で、家臣を振り回すのはおやめいただきたい」
と勝に一喝され、上様の本意である恭順へと一気に風向きが変わっていった。
勝海舟は一介の旗本であるが、物怖じしない姿勢と研鑽の上に成り立つ先見の明があり上様の信頼を得て陸軍総裁へ任じられ、代わりに鳥羽伏見の戦を戦った老中や陸軍奉行らは責任者として罷免、主戦派は一掃されることとなった。もちろん容保も主戦派の一人としてみなされていたため、これ以上江戸城に居場所はなく一旦本丸から西の丸に移ることにした。
その廊下で勝と顔を合わせた。
「どうしてお引止め下さらなかった?」
勝は足を止めてはっきりと容保を責めた。
引き止めなかったわけではない…大坂城でも開陽丸でも散々、踏みとどまるように請うても頑なに受け入れられなかったのだ。けれど今更説明したところで言い訳だと受け取られるのだろう。
「…申し訳ない」
「…会津にはこれから責めを負うて頂かねばなりますまい。明日からは会津屋敷で謹慎され、御処分をお待ちくだされ」
「はい」
容保は軽く頭を下げ、そのまま去ろうと足を踏み出した。けれど勝は「肥後守様」と引き止めた。
「上様のご勝手で江戸へ戻る羽目となった…何故そのようにおっしゃらぬのです。理不尽に思っていらっしゃるのでしょう」
勝はすでに上様から大坂城脱出の経緯を詳しく耳にしていて、敢えて嗾けて容保の口から『言い訳』が聞きたかったのだろう。
容保は口を閉じ、目を伏せた。そしてこれまでのことを振り返り、これからの舵取りをする勝に対してどんな言葉を告げることが相応しいのかと考えたが、
「…私が上様のお気持ちに気が付かず、戦へと突き進ませました。その結果、上様は朝敵となってしまい、多くの兵が死んだ…決して理不尽などではございません。むしろ上様にとって帝の血を引くご自分が朝敵のように扱われ不本意なことでしょう。…きっと私のような者たちが上様を追い詰めてしまったのです」
「……」
「勝殿、これから上様のお望みが叶いますように…お計らいください。私にできることがあるとは思えませぬが…もしあれば、尽力いたします」
それは本心だった。江戸での再起だけを信じて船に乗り、それが嘘だと知った時はこの命すら投げ出してしまいたくなるほどの絶望感に苛まれたが、こうして江戸城に戻ってからは上様を責める気持ちにはならず、むしろそれほどまでに上様を追い込んでいたのだと自省した。
「なるほど…会津らしいご立派なお言葉です」
勝は皮肉るような憐れむような言い方をした。
容保はそれから先は振り返らず、西の丸へ移動した。西の丸から会津藩上屋敷の和田倉屋敷は目と鼻の先であったが、まだ足を向けるには覚悟が決まらなかった。
(皆は憤るであろう…京都守護職を引き受けねばこのようなことにはならなかった…家臣たちは私に失望するはずだ)
容保は人払いをして、膝を折りひたすらに虚空を見つめた。
徳川の要職から退き、この先どうなるのかはわからない。上様に続き第二等の罪として朝命が出ていることは知っている―――このまま無罪放免とはいかないだろう。ただ会津の家臣や領地、民へ累が及ばないことを祈るしかない。
そうしていると静かだった廊下に足音が響いて、容保の部屋の前で止まった。
「殿」
「!」
その声を聴いた途端、容保は声の主が誰だか理解した。冷めきった身体に熱が灯るように鼓動が早くなり、震える声で「入れ」と応えると障子が開いて二人の男が片膝を折っていた。
「修理…浅羽…」













次へ