夢とさめてあとはなし 

プロローグ -欲求-


淀藩の裏切りに遭い、新撰組は淀城下から逃れ木津川を渡って八幡に向かった。男山を背にした八幡の本陣に合流できたのは夜更けで連戦の疲労はピークに
達しようとしていた。
焚き火の仄かな明かりのなか、野村がうとうと微睡んでいると
「野村、飯だ」
相馬が二人分の握り飯が入った竹皮をもってやってきた。疲れ果て食事をすることすら億劫だったが、極寒の冬の夜に空腹のまま眠るわけにはいかない。野村は眼をこすって握り飯を受け取った。
「おう…悪いな」
「さすがに、疲れたな」
生真面目な相馬もため息を漏らし、野村の横に腰掛ける。しかしあまり食は進まない様子だった。
石清水八幡宮近くの高良神社付近で隊士たちはあちこち自分のスペースを確保して身体の疲れをとっている。普段は喧嘩ばかりで仲が悪い二人だが、何故だか自然と木の幹に背を預けて二人並んで腰を下ろしていた。
「…相馬、これって負けてるよな?」
「今更…これ以上ないほど負けているだろう。何人も死んだ…目の前で次々に」
「まさか淀に裏切られるなんてなぁ…」
野村は硬い米粒を何度も何度も咀嚼して飲み込んだ。けれどいま目の前で起こっていることすべてがまだうまく理解できなくて、いっそ悪夢のなかに取り残されているのではないかと疑いたくなるくらいだ。
伏見では火事のなかをがむしゃらに戦い、鳥羽では息が詰まるような一進一退の攻防の末、淀に逃げ込んだ。そして譜代の淀にさえ裏切られ負け続けて南下している。
戦を勝ち抜いて不動堂村の屯所に戻るつもりが、見知らぬ土地で野営をしているなんて現実味がない。
「…実は俺たちももう死んでたりして…」
「何を馬鹿なことを…」
「いやいや、あんな一方的に攻撃を受けて、生き残っているなんておかしいと思うだろう?実は全滅してて魂だけうろうろしてるとか、未練たらたらで成仏してないのかも…」
「…」
「あれ?怒らねぇの?」
野村は半ば冗談のつもりだったのだが、相馬は叱るどころか深刻な顔で、まだ一口も口にしていない握り飯を見つめて考え込んでしまった。
「相馬?」
「…確かに。腹は減っているのに、美味そうだと思えない。疲れているのに、眠りたいとは思わない…生きていると言えないかもな」
「…」
焚き火の灯りが揺れ、相馬の横顔を照らす。少し痩せた輪郭に哀愁と寂寞がまとわりつき、何とも言えず儚く見えた。
(いやいや、相手は相馬だぞ…)
ほとんど同時期に入隊し、一番隊で切磋琢磨してきた。周りを茶化してばかりいる野村と違って堅苦しく真面目な相馬は何かとぶつかって、仲が良いとは言えない間柄だ。相馬も気が合わないと思いながら、同じ同僚として付き合ってくれて
いるだけだ。
友人ですらないのに…。
野村は握り飯を竹皮に戻して「よっと」と腰を浮かせて相馬との距離を肩が触れるほど近くに縮めた。相馬は怪訝な顔をしていたがその頸に手を這わせ、強く引き寄せた。こんな間近に互いの顔を見つめ合ったことなどなく、相馬は戸惑っていた。
「な…っ?」
相馬が察する前に野村はその唇を自分のそれで塞いだ。声を出せないように深く重ね、歯列を撫でてから舌先を絡ませて吸った。相馬は顔を逸らせようとしたが握り飯を持ったままだったので上手く動けなかった。
(真面目な奴…)
本当に嫌なら握り飯など放り投げて拒めば良いのに、律儀な性格のせいで身動きが取れずにいる相馬を野村は(可愛いな)と思ってしまった。次第に相馬の力が抜けて、抵抗しなくなった頃、野村はようやく口づけをやめた。
「…っ、お前…どういうつもりだ…」
小声で怒る相馬は、焚き火の灯りしかない外だというのに耳まで真っ赤になってしまっている。
「どういうって…あ、物足りなかったか?それとも坊やには刺激が強かったとか?」
「坊やじゃない!どういうつもりかって聞いてるんだ…!」
相馬は袖で唇を拭いながら抗議する。野村が予想した通りに文句をいう相馬に笑ってしまった。それがますます相馬を怒らせる。
「何を笑って…!」
「悪い、お前はその方がいいと思って」
「はぁ?」
「ほら。怒ると腹が減るだろ?食おうぜ」
「……」
相馬は理解できず絶句するが、野村は竹皮から食べかけの握り飯を再び手に取って頬張った。
(あー…マズイ)
野村は自分の咀嚼音に耳を傾ける。しかし相馬とは違う意味で、握り飯の味が
よくわからなかった。






-1-


江戸での隊士募集に応じ、俺――野村利三郎は入隊した。
新撰組の不動堂村屯所は大名屋敷のように立派で広く、彼らの地位と威厳を見せつけるようなものだったが、そうは言っても男ばかりのむさ苦しい雰囲気だ。
(当たり前だが、どこを見ても男ばかり…)
想像していないわけではなかったが、男ばかりの縦社会で一番下っ端として入隊するのは誰でも気が重いだろう。だがこの頃は特に幕臣へ昇進したため入隊希望者が集まっていて自分だけが下っ端というわけではないのは有難い。
(ひよっこの少年が三人もいるしな)
俺は少し前に入隊した仮同志たちと合流したのだが、一人だけ背筋をぴんと伸ばして前を見据える男に目が留まった。彼の周りだけ清涼な空気が流れているような雰囲気でやたらと目立っていて俺は最初は(お高く留まってるな)と思った。野望を持って入隊した男たちのなかで、まるで自分は違うとでも言いたげにかまととぶっているような気がして、俺は生来の好奇心から彼の本性を暴いてやりたいと思ったのだ。
男の名前は相馬肇。
まさかこの時はこんなに長い付き合いになるなんて思わなかったのだ。


「この戦が終わったらどうする?」
俺の何気ない問いかけに相馬は絶句して、まるで聞き間違いかといわんばかりの表情で俺の方に顔を向けた。
いま、俺たちは石清水八幡宮の麓である八幡から逃げ延びて楠葉へ向かっていた。土方副長と原田組長たちに合流するため、遠回りの道を選び、時々敵に出くわしながらどうにか逃げ延びるために駆け抜けている最中だ。
俺は途中銃弾を左腕を掠めて、いまは相馬に手当てを任せているところだ。敵襲は止み小休憩となったがそれでも緊迫感は途切れることはない。
「…どうする、とは…」
「ああ、悪い。そんな気難しい話じゃなくてさ。その美味いものを食いたいとか、酒を飲みたいとか、そういう話だ」
「ああ…なるほど」
相馬は手先を動かしながら傷口に布切れを巻いて応急処置を続ける。そしてしばらく「美味いものか…」とぶつぶつ考えていた。
(別に何気なく聞いただけなんだけどな…)
真面目過ぎる相馬は、簡単な雑談でさえ手を抜かずに答えようとする。その生真面目さが時折面倒ではあるが、俺にはない相馬の誠実な性格を顕している。そして処置を終えた後ようやく
「広谷屋の蕎麦が食いたい」
と、都の名店の名前を口にした。
「ああ、蕎麦ね。悪くないな」
「とはいえ、都へ戻れるかどうか…わからないが」
相馬は昏い表情を見せた。
戦は見事に負け続けている。最初は盛り返す場面もあったが、あの錦の御旗という武器が現れてからはすっかり腰が引けて、賊軍の汚名から逃れるように脱走している兵が増えてしまっていた。真面目過ぎる相馬が落胆するのは当然のことだろう。
「俺は女を抱きたいな。祇園あたりで豪遊してさぁ」
すっかり黙り込んでいた相馬は、俺の言葉に唖然とした。
「は…はぁ?」
「え?お前は溜まってないのか?もう何日も戦ばっかりでよ。やっぱり坊やは…」
「だから坊やじゃないと何度も言っているだろう!」
「へぇ、どうだか。昨日の接吻で固まってたくせに」
「あれは…!」
相馬はみるみる赤面し、口を陸に上がった魚のようにパクパクさせた。
八幡で過ごした夜、俺は疲れ切って食欲のない相馬を慰めようと…いや、奮起させようと悪戯を仕掛けた。落ち込むくらいなら怒っていた方が良い…とそんな軽い気持ちだったのだが、相馬の初心な反応が俺の目に焼き付いていた。
「おーい、出発だぞ!」
先輩隊士の声がかかり、相馬は我に返る。
「馬鹿なことを言うな!」
怒鳴った後、相馬は腹いせのように俺の傷跡を叩き「いてぇ!」と悶える俺を置いてさっさと行ってしまった。真面目だが、喜怒哀楽に正直でわかりやすい男だ。俺の言葉や行動によって相馬のあの澄ました表情が崩れてしまうのを見ているのが楽しい。
「…俺、そんな趣味ないんだけどなぁ…」
俺はそんなことを呟きながら左腕を庇いながら立ち上がり、相馬を追った。


その後も新撰組は戦場で殿を務め続け、多くの犠牲を出しながら文字通り、地面を這いつくばるように逃げ延びた。淀に続いて津藩からも裏切りに遭い側面から砲撃を受け、敵は伏見・鳥羽両街道から次々に増えていく…普段から楽観的な俺でさえ「よく生き延びたものだ」と自分を褒めてやりたいほどその道は過酷で、ようやく船に乗り込んだときには皆げっそりと疲れ果てていた。
「み…水…」
喉がカラカラに乾いていた俺は川に顔面を近づけたが、「やめておけ」と永倉先生に首根っこを掴まれて止められた。
「川には多くの死人が流れていった。…とても飲めた水じゃない」
「…そうっすか…」
薄暗闇ではわからないが、この川の水は昏く淀んでいるのだろう。
「夜までには八軒家に着く。京屋さんに屋敷を借りているそうだから今夜はゆっくり休めるはずだ。…もう少しの我慢だ」
「…へーい…」
永倉先生は励ましてくれたが、今この時の喉の渇きをいち早く潤したくて仕方ない。
隊士たちは積み荷に隠れて川を下っていて、狭い場所で身を縮めざるを得ず窮屈な思いはまだ一刻は続くだろう。
俺はうんざりしながらため息を漏らす。すると傍らにいた相馬が「これを飲め」と竹筒を差し出した。けれど中身はほんのひと口ほどしか入っていない。
「…お前が飲めよ」
「いい。俺は、喉が渇いていない」
相馬はそう答えたが、彼の声は掠れている。しかし俺はあまり喉が渇いていて拒むことができず、その水を飲み干した。まるで天の恵みのように染みわたった。
「…助かった、恩に着る。この恩は一生忘れない」
「大袈裟だ」
相馬は苦笑して受け取った。
「お礼に大坂に着いたらいい女を紹介してやる」
「…またそれか。くだらないことを言っていないで、休めよ…」
相馬は呆れたように大きなため息を付いた後、他の隊士がそうするように狭い船で身体を丸めながら目を閉じてしまった。俺はそんな相馬の隣を陣取って同じように膝を抱えながらぼんやりと相馬を見ていた。
(いい奴だよなぁ…)
堅物で融通が利かないところはあるが、義理堅く頼りになる。何故か俺に対しては突っかかるが、先輩に可愛がられ後輩に慕われる人間性を持ち合わせている。
(前に長州での戦に負けたから入隊したと言っていたなぁ…)
敗戦を経験して新撰組の門を叩く…いかにも相馬らしい行動だ。…そんなことを考えていると相馬が目を開けた。
「…何の用だ?」
「用なんてない。お前のことを考えていただけだ」
「どういうつもりだ?頭がおかしくなってしまったのか?俺は女じゃない、口説くようなことを言うな」
「……口説く?」
俺には呆気にとられた。そんな意識は全くなく、ただ自分の興味が向くままに身体が動き、言葉が漏れた…ただそれだけのことなのに、それを相馬が別の意味でとらえているとは思いも寄らなかったのだ。俺の表情でそのことを察したのか、相馬はハッと顔を赤らめた。
「何でもない、もう見るな…!」
両手で顔を隠してそのまま俯いてしまった。
クソが付くほど真面目で優等生で、その本性を暴きたいと思っていただけのに…知れば知るほど相馬の存在が特別になっていく。
(俺は知らぬうちに口説いていたのか?)
俺はゆらゆらと揺れる船のなかでまた、相馬を見つめていた。








-2-


大坂城はもぬけの殻だった。
いや、正しくは将軍とその周りのお偉方の姿がなく、置いてけぼりを食らった兵たちが右往左往しているという何ともお粗末な光景だった。新撰組は激しい戦火を潜り抜け、最終決戦だと意気込んで大坂城にやって来たのに…俺たちは拍子抜けするしかない。
「なぁ、どうする?」
屯所代わりの八軒屋の屋敷で寛ぎながら、俺は相馬に訊ねていた。この状況ではさすがに優等生の相馬でも弱音が漏れるだろうと嗾けたのだが、
「近藤局長の判断に従う」
と相変わらずの様子だ。しかし、目を合わせようとはせず仏頂面のまますぐに顔を逸らしてしまった。
(この間からだな…)
八軒屋の屋敷へ向かって川を下って以来、相馬は俺を避けていた。無視をするわけではないが、話しかけてもすぐに切り上げてしまい何か用事を思い出したと言わんばかりに離れて行ってしまうのだ。相馬のあからさまな行動を見て同じ一番隊で伍長の島田さんには
「相馬を怒らせたのか?」
と心配されるが、相馬の性格なら、怒っていたとしたら徹底的に関わらずに俺の問いかけにも答えないはずだ。
「ん~…」
不動堂村の屯所も立派だったが、大坂の大商人の屋敷は趣がある。必要がないほど広い広間に高級そうな調度品が並べられており、庭は丁寧に手入れされていた。俺はこの屋敷の主人になったような気持ちで横になって片肘を付きながら考え事をしていた。
(たぶん負けた、んだよなぁ。敵前逃亡ってやつかな…上様の怯懦には言葉もねぇよなぁ…)
(そうだ。相馬に女を紹介してやる約束をしてたんだっけ。あいつ覚えてるかなぁ…ってか、そんなことやってる場合じゃねえか)
(…つうか、面白くねぇな。戦に負けたのも、どうしたらいいのかわからねぇのも、相馬に女を紹介しなきゃならねぇのも…全部、面倒…)
新撰組の今後を憂いながらも、相馬の顔がちらついてしまい俺は「ううん」と唸る。するとそこへ
「なぁにやってるんだよ」
と原田先生に軽く蹴られてしまった。
「いてぇ」
「一番隊の隊士がこんなところで猫みたいに寛いでんじゃねぇよ」
「一番隊じゃなかったら良いんですか?」
「おう、一番隊以外ならいいけどよ」
原田先生は冗談っぽくにやりと笑った。一番隊は新撰組の看板のような立場であるので先生の言う通りではあるのだが。
俺は仕方なく身体を起こして先生の隣に座った。
「これからどうなるんすか」
「いま土方さんに聞いてきたけど、どうも船に乗って江戸へ戻ることになるらしいぜ」
「ああ、榎本艦長の縁で…」
昨日、大坂城にある軍備や金の類を二隻の船に分けて積み込むのを手伝った。榎本艦長は血気盛んな新撰組のことを気に入ったようで、あの鬼副長とも意気投合していたのだ。
「でも軍艦に乗れるなんて悪くないっすね。今回の戦では新撰組も随分頑張ったし褒美みたいなもんですか?」
「ハハ、お前みたいにそんなに喜ぶ奴はいねぇだろうよ。まあ負傷者も多いし、気ぃ使ってくれたんだろうけどさぁ」
原田先生は寂し気に目を細めて遠くを見ていた。いつも明るい先生がそうしている姿を見たことがなかった。
「…何か?」
「…ん、いやぁ…都に残してきた妻子のことが心配でな。でも江戸に連れて行くわけにもいけねぇし、俺が戻っても迷惑だしな…」
都はすでに官軍に占拠されたと聞く。原田先生は自分が戻ったところで妻子に危険を及ぼすのがわかっていたようだが、愛妻家で子煩悩な原田先生は遠く離れてしまう前にもう一度会いたいと思っているのだろう。
「…原田先生はどこで奥方と知り合ったんですか?」
「ん?あぁ、茶屋の娘でさ、俺がおまさちゃんに一目ぼれさ。あっちは随分嫌がっていたんだけど、そこはまぁ口説きまくって…」
原田先生はふふんと胸を張って腕を組みながら饒舌に話した。お内儀には一度会ったことがあるが胆が据わった女子で軽口ばかり言っている先生の尻を叩いている印象しかない。そんな二人のなれそめに耳を傾けながら、俺は
「女房にしたいくらい惚れてるって、どう
やったらそんなことがわかるんすか?」
と訊ねていた。原田先生は俺の顔を見てニヤッと笑った。
「へぇ、お前にそんな女が?」
「女はいねぇっすけど…思えば今までもそこまで思ったことはないっていうか…どこかで俺は一生独り身だって思って生きてたんで、その方が身軽だし、楽だし」
「そうだよな、楽だよなぁ」
原田先生はハハッと笑って「若けぇな」と揶揄した。
「軽い関りっていうのもいいけどさ…出会った瞬間にこの女を俺のものにしてぇって思うもんだぜ」
「俺のものにしてぇって思ったことはないっすけど…不機嫌そうにしてたらちょっかい出したくなるし、嫌がられてるのわかってても近くにいてぇなって…」
「そりゃぁお前、恋だろ?」
「…恋ねぇ…」
原田先生は何やら嬉しそうに囃し立てるが、俺はいまいち腑に落ちない。相手が男だからとか女だからとか…そういう垣根はもともと俺のなかにはないが、
「…なんていうか、触っちゃいけねぇ気がして…」
しゃんと背筋を伸ばして生きている…優等生と揶揄しても動じずに他人を寄せ付けないほどに孤高で、凛と生きている。それがあまりに俺とは正反対で…まるでこの屋敷に並べられた調度品のように触れてはいけないような気がしてしまう。
(安易に手を出していい相手じゃねえし…拒まれたらいやだな…)
俺は再び唸りながら考え込む。原田先生はそんな俺を見て
「悩め悩め」
と肩を小突いて去って行ってしまった。


数日後、俺たちは海の上にいた。
新撰組隊士は会津藩士たちとともに順動丸に乗り込み、負傷者を乗せる順動丸よりも先に江戸へ向けて出航した。新撰組の組長は永倉先生と原田先生だけなので
「せっかくの機会だ、自由に過ごせよ」
とやや開放的な雰囲気だった。
物珍しい軍艦の船内や大砲、エンジン…などを一通り見廻ったあとはそれぞれ与えられた船室に戻ったのだが、それがとにかく狭かった。
「文句を言えねぇ立場だけどさぁ…」
一畳を二人で使うような狭さで寝るのもままならない。ひとまず組ごとで二つに分かれて交替しながら就寝することにしたが、それでも最初の数日は慣れない船旅と寝不足で疲れ果てていた。
俺は気分転換に甲板に出ることにした。陸路よりも快適な船旅だが、耐えなく揺れ続けることで時折吐き気を催してしまう…船酔いに苦しむのは俺だけでなく何人かいて、甲板では膝を抱えて項垂れる者が多かった。その中に相馬を見つけた。
「…お前も船酔い?」
「いや…そういうわけではないが」
相馬は夕日が落ちていくのをただ眺めていたようだ。相馬の反応は相変わらず固いが、今は俺もそれに構ってはいられない。
「ちょ、ちょっと肩を貸してくれ…」
青ざめた俺を見て相馬は拒むことなく、肩を貸してくれた。俺は相馬に凭れ掛りながら二人並んで座る…それだけのことなのに、何故だか緊張していてしばらくは無言だった。
「…船酔いは酷いのか?」
沈黙に耐えきれなかったのか、相馬が話しかけて来た。
「いや…気分が悪いだけで、実際に吐くことはねぇけど…」
「吐いた方が楽になるって船員が言っていたが」
「そうはいってもなぁ…」
そのような醜態を晒すには勇気がいる。俺のつまらない意地を知り、相馬は「馬鹿だなあ」と少し笑った。
俺は間近で相馬が笑うのを見た。横顔だったけれど、それがとても貴重で二度と見ることができないのではないかとすら思えて…思わず彼の両頬に手を伸ばしていた。
「な…っ?」
相馬は突然のことに驚いて腰を引いたけれど、俺は離さず真正面から鼻の先が触れそうな近さで彼の顔を見た。
「…一つ、頼みがあるんだけど」
「なんだ、離せ!」
「確かめたいことがあってさ」
「た、確かめたいこと…?」
「うん、俺、早く白黒つけてぇって思う性分で…曖昧なまま、わかんねぇわかんねぇって悩むのは嫌なんだ」
「何をべらべらと…!」
相馬は俺の独りよがりな言い分に困惑していたが、俺はどうしても
「お前の口を吸ってみたいんだ」
と、そう告げて強引に引き寄せてその形の良い口をまた吸ってみた。カサカサに乾いた唇がどちらのものともわからない唾液で湿り、仄かな熱を帯びていく。
相馬は最初目を見開いて驚き、硬直していた。
(そろそろ突き飛ばされそう…)
俺は身構えながら相馬の逃げ回る舌を追いかけて、絡ませて…けれど相馬は小さく声を漏らすだけで拒もうとしなかった。俺は薄目を開けて様子を伺うと、とろんとした相馬の眼差しと視線が重なった―――。
その瞬間、相馬は正気に戻って俺の胸板を押した。
そして
「…っ、ごめん!」
と謝って慌てて甲板を出ていく。
取り残された俺は唖然として尻餅をついていた。
(ごめんって…それ、俺の方だろ?)
「わっかんねぇー!」
俺は手足を投げ出して、天を仰いだ。






-3-


「行ってしまうんですか?ここで戦っても…きっと…」
きっと、負けてしまいます。
上様は…家茂公は亡くなりました。一橋様は喪中を理由に戦を止めるおつもりだという噂が聞こえてきます、だからこれ以上戦っても無駄死にです。
そんなことを背中を向けた彼には告げられず、俺は言葉を噤んだ。
勝てるはずの戦だった。いや、勝てるはずだと思い込んでいたのは徳川だけで、長州はこれまでの死に体から息を吹き返したように奮戦し、兵数で遠く及ばないはずの徳川軍を返り討ちにしていた。そんな現実が信じられず、戦火のなか次々と逃げていく兵たちを横目に彼だけは前に進み続けていた。俺は彼の背中を追いつつもすっかり腰が引けていた。
彼はそのことに気が付いていただろう。
「肇、もう共に来なくて良い」
「…そんな…でしたら一緒に退却しましょう!」
「駄目だ。これまで死んだ同志たちに顔向けできぬ…せめて私は彼らの義に殉じる」
彼がとても義理堅い人間だということは知っていた。小隊を率い、命令を忠実にこなし、退却が命じられるまで決して後退しない…そしてとうとう部下だけは逃げ延びさせ、自分だけはここに残ると言い出した。俺は何度も説得したが彼は振り向くことすらなく、進み続ける。
俺は意を決して彼の前に駆けだした。そして両肩を掴み、
「逃げましょう!」
と叫んだ。大きな声を出さなければ彼に届かないような気がしたのだ。
するとようやく彼の眼差しが俺のそれと重なってしばらく見つめ合った後、土埃や擦り傷だらけでガサガサになっていた彼の大きな手が俺の頬を撫でた。まるで実際を確かめるように輪郭を撫でていく。
「…逃げましょう…」
「お前だけ行け」
「できません!だったら俺も連れて行ってください…!」
俺はそんな覚悟もないくせに、彼を引き止めたくて、ここで別れたくなくて必死につなぎとめようとした。けれどそんな張りぼてのような覚悟は、死に向かう彼にはお見通しだったはずだ。俺の姿を見て滑稽だと思ったに違いないのに―――彼は穏やかに微笑んでそのまま俺を抱き寄せた。
「…私はお前を道連れにはしたくない」
「…!」
「私のことは忘れて、どこか遠くで幸せに暮らしてくれ。もうこんな場所に来てはならぬ」
「そ、そんなこと…」
できない、いやだ…と駄々をこねる俺を見かねて、彼は俺に口づけた。
俺は酷く驚いた。彼と出会ったのはこの戦が始まってからで、自分だけが一方的に彼を慕い好意を抱いていたと思っていたのに、知らぬ間に通じ合っていたのだ。
「…今生の良い思い出になった」
彼は戦場に似つかないように優しく微笑んだあと、俺をその場に置いて駆けだしていった―――。


「…相馬、相馬、交替だぞ」
俺がゆっくりと目を開くと、目の前には島田さんがいた。一番隊の伍長であり、古参隊士の先輩が視界に現れたのだから、当然一気に目が覚めた。
「はっ…!はい!」
「そんなに慌てなくていい。朝になれば品川につくそうだから、もう少しの我慢だな」
「そ、そうでしたか…」
順動丸は順調に航路を進み、無事に品川に到着するそうだ。隊士たちは狭い船室で睡眠をとるために二交代制で休んでいるが、それもようやく終わりになる。
「そうだ、野村が甲板にいるはずだから呼んできてくれないか。あいつはいつまで経っても船酔いが良くならないらしい、可哀想になぁ」
「…」
「どうした?」
「い、いえ…承知しました」
俺は島田先輩の頼みを請け負って気怠い身体を引きずって船室を出たものの、その場に立ち尽くしてなかなか踏み出すことはできなかった。
『お前の口を吸ってみたいんだ』
いつも冗談めかして俺を揶揄う野村が突然真摯な顔でそんなことを言い出して、俺の了承も得ずに口づけた。野村は女好きのはずだが男に対しても好奇心があるのか、何度か俺に対して同じような真似をしたが…今回は何かが違ったように思う。
まるで確かめるような…答えを探すような。
俺はあまりに突然のことに驚きながらも拒むことなく無意識に応えてしまい、慌てて彼から逃げた。そうしなければ俺にその素養があると知られてしまうと思ったからだ。
「…はぁ…」
女に持つべき欲望をどうしても男に向けてしまう…と気がついたのは二十歳頃のことだった。自覚すると途端に田舎が息苦しくなり、剣術に打ち込んで気を紛らせて、そのまま志願して徳川の兵となった。負けるはずがないとたかを括っていた戦で苦い経験をした。
(あれから…もう二年が経つのか…)
「相馬?」
「…あ」
立ち尽くしていた俺に声をかけてきたのは野村だった。俺は自然と身構えて目を逸らしながら
「こ、…交替だ」
と告げた。顔色の悪い野村は覇気なく頷く。
「ああ…うん、そろそろだと思って戻ってきたんだ…」
「…大丈夫か?」
あまりに具合が悪そうだったので俺は野村に近づいて様子を伺った。ふらふらと覚束ない野村は船の揺れでさらに姿勢を崩してしまい、俺は慌てて手を差し出して彼を抱えて支えた。
「わ…悪い。寝不足でさ…」
「…だったら、早く休めよ」
「うん…」
野村はまだ目を閉じたまま、俺の腕の中にいた。彼は助けを求めるようにそうしているだけなのに、俺は触れる場所や体温、息づかいを近くで感じるだけでドクドクと高鳴って落ち着かなくなってしまう。
(だめだ…意識するな…!)
幾度となく、色恋に疎いのだろうと野村に揶揄われていたが本当はそうではない。
この、どうしようもない衝動が俺を苦しめるから、堅物なふりをして誰も寄せ付けないようにした。
あの人以外は。
『私のことは忘れて、どこか遠くで幸せに暮らしてくれ』
脳裏にこだまする彼の声。
―――忘れられるはずがない。
だって、彼は野村にとても似ていたのだから。








 -4-


江戸に戻ってきたのは半年ぶりだったが、ここにいたのはつい先日のような気がした。密集した町並みに漂う空気の匂い。
(なぁんにも変わらねー)
俺は何だか気が抜けて空を仰いだ。
都から戻った船で新撰組は品川から上陸し、釜屋という立派な旅籠にしばらく滞在することとなった。豪勢な部屋で過ごすのは悪くはないが、それよりも新撰組の所在や行き先が決まらないままで何となく落ち着かない。それは俺だけでなく組長格の先生も同じだったようで、永倉先生や原田先生が連日憂さ晴らしのように品川の妓楼へ連れて行ってくれた。
俺は相馬も誘ったが、決まって嫌そうな顔をして「俺はいい」と拒んだ。堅物なのは相変わらずだが、それが『お前とはいたくない』と言われているような気がして胸が痛む。
(胸が痛むっていうことは、やっぱり俺…そうなのか?いや、友達としてってことか…?)
なんだかまだ輪郭がぼやけている気がするが、無視できないほど相馬の存在が大きくなっている。俺はもやもやしたまま品川楼で女郎に囲まれながら酒を煽っていた。
「お、いい飲みっぷりだなァ」
徳利を持ってやってきたのは顔を真っ赤にして出来上がった原田先生だった。俺の隣にドカッと腰を下ろすと空になっていた盃になみなみと酒を注ぐ。
「なぁにヤケになってるんだ?」
「…ヤケなんてなってねぇっすよ」
「ま、ヤケになっても仕方ねぇよなぁ。同じ組の奴がさぁ…」
「え?」
原田先生が一体何を知っているというのか。いや、むしろ俺の儘ならない気持ちがダダ漏れだというのか?俺はドキッとしたが、
「出世して局長附に異動だもんな」
「…異動?」
「あれ?聞いてねぇの?相馬だよ、相馬。賢くて剣も立って見目も良くて気が利くだろ?だから土方さんが特別に取り立てて局長附にしたんだよ」
「そうだったんすか…」
俺には寝耳に水だったが、別のことで頭がいっぱいで聞き流していただけかもしれない。原田先生が肩を揺らす。
「なぁなぁ、悔しいだろ?お前は何かと相馬と張り合ってたもんなあ」
「…いや、そういうのはないっすね…相馬ができるやつだってのは本当だし、見栄えするでしょ。…それにあいつも俺と離れられてせいせいしてますよ」
「お前たち犬猿の仲だもんなぁ?でも最近は仲良くやってたじゃねえか?」
「仲良く…ねぇ…」
入隊以来、顔を合わせるたびに歪み合い口論になっていたが、それは決して憎しみからではなく俺が優秀で堅物そうな相馬を面白がってちょっかいを出していただけなのだ。相馬の実力と勤勉さは誰もが知ることであり、一番隊の中から引き立てられて局長附となったのは当然のことだろう。
俺はため息とともに呟くと、原田先生は
「ちぇ、面白くねぇなぁ」
と笑った。俺の愚痴を肴にしようと期待していたのだろう。先生は俺の肩を掴んだ。
「じゃあお前の好みの子を教えろよ。ほら色とりどり揃ってるだろ?ほら、あっちの子はどうだ?おすすめは端っこの子だけどさ~」
呼ばれた女郎たちはあどけなさの残る芸妓から、厚化粧の年増までさまざまだ。吉原よりも安価で遊べるだけあってとびきりの美女はいないが、愛嬌のある女郎ばかりだ。
「あー…じゃああの子にしようかなぁ…」
俺はこの中では一番薄化粧の女郎を選んだところ、原田先生が手招きして女郎を俺の隣に座らせた。
「じゃあな、野村。しっかりやれよ」
「はあ…」
お膳立てしたつもりなのか意味深に親指を立てて笑った原田先生が去っていく。呼びつけた手前仕方なく俺はおしゃべりな女郎と適当な会話を交わしていたが、モヤモヤした気持ちは晴れそうにない。
そしてどういう話の流れか、
「お部屋、行きましょ?」
と誘われて宴を抜け出して別の部屋に移った。その意味はわかっていたしそれも悪くないと投げやりな気持ちで女郎の肌に触れた。薄暗闇のなかろくに顔を見ずに。
(女ってやわらけぇ…)
まるで真綿に触れるような久しぶりの感覚に戸惑った。押し潰していまいそうなほどか弱い存在が女というものだと知っていたはずなのに、なぜだか今はそれを『頼りない』と思ってしまう。
(…あいつが支えてくれた手はもっと…無骨で、堅かった)
酷い船酔いの時、身を預けられる安心感があって、それを温かく…いや、熱く感じた。こんなに幻のようなほのかな温もりではなく確かに感じることができたのだ。
「…お疲れでありんすか?」
「あ…」
はだけて乳房を露出した女郎が上目遣いで俺を見る。その場限りの鬱憤を発散したかったのに、身体は全く反応せずまるで望んでいないかのようだった。
「…悪ぃ、飲みすぎたかな」
「ふうん」
「すまねぇな…お前さんが良いならこのまま朝まで休もうぜ」
常に寝不足の女郎にとって行為なしの睡眠は有難いものらしい。女郎は喜んでまるで事後のように隣で眠りについた。
俺はひたすらに天井を眺めていた。
(俺のなかではとっくに…白黒はっきりしてたんだな…)


翌朝。
俺は朝靄のなか、ふらふらと帰路についた。首を左右に何度か倒しながら欠伸をする。
「くそ…寝違えたか…」
誰かと同衾するのが久しぶりで身体が強張っていたようだ。都にいた頃ほど規律が厳しくなくなったおかげで朝帰りをしても咎められることはないのだが
(相馬には叱られるかなァ…)
と思う。しかし相馬はすでに局長附きに異動したのだからもう文句を言われるような関係でもないことに気が付いた。
俺は何となくつまらなくなって足元に転がった小石を蹴飛ばした。小石は地面にぶつかって何度か跳ねて俺の歩く先へ転がっていく…たまに見失って、姿が見えなくなって。
「…あーあ…」
相馬の栄転を喜ぶ気持ちはあるが、もう何の繋がりも無くなってしまったと思うと俺はどうやって相馬に声を掛けたら良いのかどうかさえわからない。何もかもが今更で、ずっとそこにいたのに遠くへ行ってしまったような気がした。こうなると釜屋に戻るのも億劫で、相馬とどんな顔を合わせていいのか…。
(これが恋ってやつかぁ…)
俺はまた小石を蹴る。遠くに飛んでいったそれは予測不能な動きをして、「いてっ」と誰かに当たってしまったようだ。霧が濃かったので人がいたことすら気づかなかった俺は咄嗟に
「あ、悪ぃ…」
と駆け寄って謝ったところ、そこにいたのは相馬だった。
「…お前か」
「な…なんでここに?」
「早く目が覚めたから鍛錬に行くところだ。宿屋だと他の客に迷惑をかけてしまう」
「そ、そう…」
心の準備がなく相馬と顔を合わせたせいで、俺の目は泳いでしまう。相馬も気が付いただろうが、先日の船中のやり取りの後ずっと気まずいままだったため何も言わなかった。
「…品川へ行っていたのか?」
「あ、ああ…その、原田先生との付き合いって言うか、憂さ晴らしっていうか…」
「憂さ晴らしか…まあうっ憤は溜まるよな」
俺の言い訳じみた答えを聞いて相馬は少し目を伏せたので、誤解をさせてしまったと思った。
「いや!俺は抱いてない!」
「…はぁ?」
「指一本触れてねぇとは言わねぇけど、何もしてないから!」
女郎と同衾したことは間違いないが、相馬が誤解するような真似は一切していない…と俺は身を乗り出して潔白を主張したが、相馬は
「何を弁明しているんだよ」
とあきれ顔だ。
「…と、とにかく相馬に誤解されたくないだけだ」
「誤解も何も…好きにしたらいいだろう。俺とお前はもう所属が違う。一番隊の斉藤先生の許可が出ているなら、酒を飲もうが朝帰りしようが俺には関係な…」
「関係ある!」
俺は相馬の手首を取った。相馬の顔が一気に赤らんで逃れようとしたが、俺は渾身の力を込めて離さなかった。
「の、野村…?」
「相馬、俺の念者になってくれ!」
―――静かな朝、俺の懇願はよく響いた。









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