土方×沖田(蝉吟歌哭後編)
江戸の風は湿った京の風とは違い、爽やかに頬を撫でる。その涼しさを懐かしく感じながら、土方は江戸の千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅を目指していた。
戦が始まってもう半年近く。その時の流れの中で立場は全く変わってしまった。幕臣への取り立てがあったことなんてまるで夢のように、今は逆賊・朝敵と罵られる日々だ。徳川幕府のお膝元である江戸でさえ維新の風が吹き始めている。
しかし、こうして江戸の町を歩いているとそんな嘲笑も気にならないほど心が晴れやかになる。試衛館で過ごした日々を思い出すことができる。食客だった山南はいなくなった。藤堂を死に追いやり、永倉・原田とも袂を分かった。近藤さんの助命嘆願のため今は奔走している。そして総司は…。
「……」
戦の中でどうにか思い出さないようにしていたこと。それはもちろん総司のことだ。
病に伏せった総司は、その体も全く動かないのに「連れて行ってください」と聞かなかった。まるで泣きそうな顔で、俺に縋り付いてきた。それでも俺は総司を戦場に連れて行くことはせずに、療養をするように命令した。治る見込みもない病を治せと言った。その時の、総司が必死に泣くのをこらえて苦しそうに頷いた顔が目に焼き付いていた。
総司が療養を続けている住まいは、閑静な場所にあった。ここなら倒幕軍に気づかれることはないだろう、と土方は思った。
そして離れに通されると床に総司がいた。
「よう」
きっと土方が来ていることには気が付いていただろう。声をかける土方に総司はにこやかにほほ笑んだ。
「土方さん。やっと来てくれたんですね」
その表情は別れた時とは正反対に穏やかで、土方は安堵した。
しかし、その身体は以前に比べても痩せていてもともと色白の肌はさらに白くなっていた。だが、土方はその言葉を飲み込んで
「元気そうだな」
と声をかける。総司は頷いた。
「皆さんが良くしてくださるので、楽にさせてもらってます。まるで王様になったみたいに極楽です」
「そりゃいい。羨ましいくらいだ」
土方は総司の寝床の隣に腰かけた。
「噂には聞いていたんですが、その洋装似合ってますよ」
「嘘をつくな。皆には変だと笑われた」
「そんなことないと思いますけど…」
機嫌よくしていた総司だが、軽く咳き込んだ。昔のように風邪と間違うような軽いものではなく、まるで異物を絡めたかのように咳をする。土方は総司の背をさすってやりながら、やっぱり痩せてしまったのだと実感した。まるで別人のように体が薄くなってしまっている。
「…土方さん、もう大丈夫です」
咳が収まると、総司は安心させようと笑った。
「なあ、総司…」
だが、土方は切り出した言葉を刹那飲み込んだ。しかし、堪えていた気持ちは勝手に喉を通って言葉となる。
「お前…あの時、病だから俺と離れようとしたのか?」
「……」
あの時。
土方と総司の関係に終止符が打たれたあの夜。
あれ以来本当に二人の関係は白紙に戻った。副長と組長、兄弟子と弟弟子、まるで何もなかったかのように、まるで忘れてしまったかのように。
しかし土方には納得できなかった。気持ちがなくなってしまったわけではない、嫌いになってしまったはずもないのに、総司がもう終わりにしたいといった。その表情はまるで泣いているように見えてしまったから。
けれども、その強い覚悟に押されて土方は自分を納得させた。そうしなければ、総司はもっと我慢するだろうと思ったから。
「…もう、こんな時にまで隠し事をしなくてもいいですよね」
総司は苦笑した。
「そうです。土方さんには大丈夫だと言われましたが…病になってからも悩んでいました。このまま傍にいて、いつか土方さんの病を移して…殺してしまうんじゃないかって。…でも良かったです、土方さんに病を移すことにならなくて」
心の底から安堵した表情を見せた総司。しかし土方はギュッと唇をかみしめた。
距離を置いた後に、総司は寝込むことが多くなり病状は悪化した。土方しか知らなかった総司の病状は隊内に広まることになり、その病を恐れる隊士もいた。だからこそ総司は部屋に引きこもることも増えて行った。
そんなときに、傍にいてやることもできなかった。励ますこともできなかった。総司を一人きりにしてしまった。
そして戦が始まり、死期を悟ったであろう総司は戦に行きたいといった。まるでそこで死にたいというかのように…。
土方は頭を抱えた。過ぎ去ってしまった時間は戻らないとわかっているのに、わかっていても願ってしまう。
あの時に戻ることができたら。
あの時に言ってやればよかった。
「お前を…戦に連れて行ってやれば良かったな」
「…そうですね。立派に死んでいたでしょうね」
こんな風にたった一人で死を待たせるくらいなら、たとえ命が短くなってしまったとしても、戦場で死ぬことができれば本望だったに違いないのに。
「私も後悔してます。我儘言えばよかったって…」
「言えよ。何でも聞いてやるから」
「何でもなんて軽く言っちゃだめですよ」
総司は小さく笑って、しかしすぐに目をそらした。
昏い瞳。病に伏せるようになってから時折訪れるようになった、漆黒の闇。
「…我儘を言って、土方さんに病を移して…一緒に死にたかったな…」
呟くように吐かれた昏い言葉。
一人ぼっちのこの部屋で、ずっとそんなことを思っていたのか。
土方は総司の細い腕を取った。
「土方さん…?」
総司は不思議そうな顔をして、土方を見つめる。しかし、すぐに土方が強く押し、バランスを崩して布団に背中を預ける。
「ひじ…んぅ…ぅ…」
啄むような口付けを交わす。
それはもう一年ぶりくらいの温もり。しかしその体温を、熱を、柔らかさを総司の唇は覚えていて、まるで手懐けられたかのように応じてしまう。
しかし、総司は土方の胸を押した。
「土方さん!だ、…め」
「我儘、聞いてやるって言った…だろう」
息を荒げて囁く土方は総司の両手を容易く捉える。しかし、総司は力を振り絞り土方を拒否する。
「冗談…ですっ!土方さんへ病を…移したいなんて、そんなの…」
「お前はそんなことを冗談で言うような奴じゃないだろう。良いから身体を預けろ、全部…」
逃げようともがく総司だが、以前に比べてやせ細ってしまった身体は土方からは抗うことはできない。口付けから逃れようとしてもうまくいかず、せめて唾液を絡ませることがないようにするしかなかった。
「…っ、も…ひじ…さん、勘弁して…く…」
「いいから、黙れ」
言葉で抗うと、唇を塞がれる。両手の拘束から逃れようとすると、また捕まってしまう。
でも、胸の奥底から湧き上がってくるのは恐怖ではなく歓喜に違いなくて。
土方に結局は抗うことなどできない。求めていた、願い続けていた欲望が爆発する。
「…せっかく…」
首筋へと舌を這わす土方はふとその動きを止めた。総司の頬に流れる涙に気が付いたからだ。
「総司…?」
「せっかく…諦めたのに…っ!決めたのに…!」
土方へ別れを告げたあの夜に、覚悟した。
もうこの温もりに触れることはできないと。どんなに辛くても、血を吐いても、立ち上がれなくても、笑い続けると誓ったのに。どんなに幸せな夢を見ようとも、それは現実ではないと言い聞かせてきたのに。
崩れてしまう。
崩壊する。
壊れてしまう。
「総司…もういい」
頬に伝う涙を指に絡ませ、土方はゆったりと微笑んだ。
「我儘を言え。今生の別れになる」
「今生の…?」
聞き返して、総司ははっとなる。
「土方さん…死に行くんですか…?」
訊ねた相手は頷くことはしなかった。安心させようと微笑み続ける表情、しかしそれがどんな言葉の答えよりも肯定する。
「もうお前には会えないかもしれない。そう思って今日は来たんだ」
本当の本当に最後になる。もう会えない、こうして触れ合うこともない、言葉を交わすこともない、一緒にいることもできない…。
総司は全身の力を抜いた。
「…ごめんなさい、私も、我儘ですね…。これが最後かと思ったら…もう、何でも良くなりました…。土方さんに病が移ろうが、ここで力尽きようが…今、貴方に抱かれたいと思いました
でも本当は…さっき、土方さんがここに来た時からこうなることを、求めていたのかもしれません」
「総司…」
「労咳は…苦しいんですからね。咳をするたびに死にそうになるんですからね」
「ああ」
「血を吐くたびに死ぬのかって、思い知らされるんですからね」
「知ってる」
「それでも、いいんですか?」
「いい」
「…土方さん、私はちゃんと、本当に、一番、土方さんのことが好きでした」
あの日の問いに答えることはできなかったけれど。
あの日々は偽りなどなく、一途に思い続けていたんだ。
「…ああ、知ってる」
土方は満足そうな顔をして、総司の指に自分のそれを絡め合わせた。
「お前も行くか」
素肌を晒したまま、土方が訊ねる。
どこへとも言わず。
「…いえ…私は、待ってます」
「ここから去れば、今生の別れだと言っただろう」
「いつまでも、いつまでも無事を祈ってます。そうすれば、いつか叶うのかもしれないから」